第八話:影であれたなら。
暗い部屋の中で蝋燭の灯りがゆらゆらと揺れる。静かな部屋の中には時折蝋が泡立つジジジともジリジリともつかない音すらもこだまする。
千年、王であり続けたタナトスの国王。その右腕として長きに渡り彼を支え続けた第十八代副王ダモクレス。彼の自室には、夜の帳が深くまで入り込んでいる。彼の他には、それしかなかった。
目を閉じるけれど眠れず、彼は一人思い悩む。千年の王が退位することなど考えたこともなかった。タナトスはあまりにも長く一人の王に頼り過ぎたと実感する。ゼアルが次の王に指定したのは彼だった。千年の至高の王国を継ぐ王になることは彼にとって荷が重すぎだ。それどころか、かの王は自ら因果の奴隷、理の裁定者に成り下がろうとしている。
それは、絶対的永遠の存在に他ならない。神、と呼べば幾らかは聞こえがいいだろう。だが、永遠という時はあまりに長い。千年ですら長いというのに、偉大な王はとっくに人としてあれる限界を超えてしまったというのに。それでもなおも、その王はそれが夢であると語って喜んでいつか訪れる、だけどいつ訪れるともしれない世界の恒久平和のためにその身を捧げ続ける。
思えば王はいつも彼方を見つめていた。彼はいつも、いつかその手で作ると決めたものだけを見つめていた。ダモクレスはそれに憧れていた。憧れて追い続けていたつもりだった。なのに、その野望は果てしなく、遥か遠くまで続いていた。副王となって近付いたつもりだった。それでも、気がつく度に王は前に進んでいる。敵わないとすら思った、なのに、そんな男が自分を頼るのだ。ダモクレスの中にも歓喜はあった。それは、確かに巨大な歓喜だった。心を埋めるほどと言っても過言ではない。だが、彼は自身の心など小さなものだと思うほどの虚脱感や怒り、恐怖や喪失感を感じた。それは、心を埋めるほどの歓喜を押しつぶして余りあるものだった。
「わたくしは、あなたの陰でよかったのに。あなたになるには、あなたはあまりにも眩しすぎる」
ダモクレスは脳裏に浮かんだゼアルの幻影に愚痴を突き立てた。それは静かな慟哭だった。そして、ダモクレスの秘めた想いでもあった。ゼアルは誰にでも輝いて見える、太陽が輝いて見えるのと同じように。だが、それは直接見てしまえば眩し過ぎて瞳を灼かれてしまう。近くで見ればなおさらだ。ダモクレスは自らが灯す小さな、だけど、確かに強い光を見失うほどにゼアルの夢に瞳を灼かれていたのだ。
例えるのなら、ゼアルとは太陽である。闇夜の色をしている癖に、暖かい光を眩いばかりに燦々と放つ巨大な太陽である。いつもそこにあり続け、いつでもタナトスを照らす永遠の太陽である。千年あり続けたせいで、天体のようにそれがそこにあるのが当然と思っていた。だからこそ、恐ろしかったのだ。太陽の消えたこの国がどうなるのか想像もつかなかったから。
例えそうであろうと、そうあれかしと決めて生きているダモクレスの答えは決まっていた。ダモクレスは、ゼアルの夢に瞳を灼かれたその日から彼のための些細な願望幾であろうと決めて生きていた。最初からダモクレスはゼアルの頼みを断ろうと思っていなかったのだ。ならばなぜ、時間をくれと懇願したかというと、それはゼアルの気が変わることを期待していたからだ。この先も、もうあと、百年余りでもいい、国王として君臨し続けてはくれないかと思ったからだ。当然、そんなことはありえないとわかっていた。誰にも言わずことを進めるということは、誰にも知られずとも問題がないように進めてきたのだろう。そして、自分はそれを知ることができただけだと、ダモクレスは最初からそう思っていた。それでも、億に一つもないであろうその可能性を信じずにはいられなかったのだ。
やがてろうそくは燃え尽きて部屋の中は完全な闇に閉ざされる。暗い闇の中でもダモクレスには関係ないそもそも彼の種族は夜目がよく聞くのだ。だけど、生まれつきタナトスの民の中で様々な魔族とかかわっているとどうにも明かりがないことがさびしく思える。だから明かりをつけるだけなのだ。大した意味など無い。
「私はまだ、幸せ者なのか」
しかし、無いと寂しいからとこれまでずっと絶やさず灯していた明かりが消えると真っ暗な部屋の中にさまざまな星の明かりがさしこんでダモクレスを慰めた。陳腐な表現を使うなら宝石箱、私の言葉ならタナトスか、とダモクレスは夜空を例えてみる。思えばそうだ、みんながみんな、好き勝手に輝く。それがタナトスなのだ。
そうして気づく、自分はこれまで強い光にあこがれてほかのすべてをないがしろにしていたと。ゼアルに言わせると、ダモクレスとはそういう男ではない。だが、ダモクレスにとってそうなのである。民を愛したのはゼアルが愛するから、ダモクレスはただあこがれ模倣していただけなのだ。だから、今からでも本当に愛したい。でも、そうするにはダモクレスは自分を嫌いすぎていた。
模倣に甘んじた時間はあまりに長く、それゆえに自分がひどくくすんで見えた。きっと一等星の横でその光に隠れてしまった六等星なのかもしれない。
「影でもいい、ではなく影になってしまったのかもしれない」
ゼアルが前に進んでいるのではなく自分が後ろに進んでいるかのように思える。
だからなのかもしれない、ゼアルは自分が知る最初の記憶のままで、少年の様で、老人の様で、王のの様に悠然としているが臣の様に勤勉なのだ。今も昔もそのまま、そのまま変わらずいるからこそ前に進んでいるように見えたのだ。ゼアルは最初から最後まで、どこまでも偉大で、憎たらしく、だけど憎めず、気さくで、やさしい、夢想家のまま。
そこまで考えてダモクレスは、変わったのは自分自身だと気付かされた。夢の先を、偉大な王に押し付けて、自分で考えることをやめて、忠誠という言葉に逃げた。
ダモクレスは頭を抱え深いため息をついた。
「私はいったい何をやっていたのだろう……」
空虚という感情が彼の心の中を埋め尽くす。自分の中身はいつしか空っぽになってしまっていたのだと思い込む。いや、そうあれかしと彼自身が自分に言い聞かせているのだ。すでにそうであるのなら、そうであり続けるのは容易いから。彼はまたも逃げた、彼を導いたゼアルがその生き様で語り続ける『自分』を追い続け、人を愛し続け、覇王でありながら、賢王であり、そして慈愛に満ちたその『自分』の夢から。
だからこそ、彼は自信が空虚であるからこそ、決めた。模倣を続けようと。そして、空の玉座に座る写しの王になろうと。
「本当にできるでしょうか?」
返事は返ってこない、返ってくるはずもないのだ。そこに誰もいないのだから。だが、確かに返事はすでに得ているのだ。ゼアルが託した時点で、ゼアルは能う者と思っているのだ。神に等しき偉大な王は、身に余る試練を与えなどしない。
いつか訪れるその日まで、いつか来ると信じたその日まで。永劫の彼方に消える王が与える最後の命令。それを、以て彼は最後の忠誠の証としようと心に決めた。