六章ー20話
「……で、どうするの、これから」
話を逸らすように、ひっくり返って失神中の沼垂主を視線で指してみた。
失神の原因を作った惺壽も、無感動そうにそちらを見やって肩を竦める。
「お目覚めを待つしかあるまい」
「その後は? 中乃国への道なんて簡単に開けるものじゃないんでしょ?」
「さて。その辺りは番人どのの腕次第だが、道はここから開いていただくしかないな」
言い、彼は肩越しに背後を振り返っている。
宵闇の中、広がっているのは澄んだ湖だ。凪いだ水面に月が映っている。
「ここからって……それでいいの?」
中乃国までは歪んだ時空の合間を抜けていくというから、もっとこう、それなりに構えた手順があるのかと思っていた。
すこし拍子抜けした乙葉だが、続いた言葉に軽く眉を上げた。
「むしろ、これほど適した場所も他にあるまい。なにせ、本来ならば、こちらを訪れた際と同一の入口をくぐらなければならない」
「同じ入り口って……あの泉でしょ?」
天乃原で初めて顔を出した場所は、とある浮雲の泉だった。
そして、その泉はもう消えている。
雲ごと霧散する様子を確かにこの目で見たのだ。
(それじゃあ……)
帰る方法はとっくに失われたように思えるが、”本来なら”ということは、別の方法があるということだ。
思い当たり、はっと自分も視線を湖に移した。
答え合わせのように惺壽の横顔が頷く。
「中乃国への道自体が消えたわけではない。少々遠回りにはなるが、横穴から本道に行き当たればそれでいい。……が、極力似たような境遇が望ましいだろう。場が整いやすい」
「同じ境遇……水鏡ってことね」
泉の中から天乃原に現れた自分だ。
帰るにも水中を通るほうが都合がいいらしい。
あの時の泉と同様、今目の前に広がっている湖も鏡のように澄み渡った水盤だ。
不足はないように思える。
――が、あくまで代用品ということには変わりがない。
(……うまく、いくのかしら)
懸念が顔に出ていたらしい。さりげなく惺壽は付け足した。
「水鏡。そうして、鏡の加護だ」
「……加護?」
鏡の加護。
合わせ鏡の加護のことを言っているのだろう。
こちらへ来る際、乙葉が無事に時空の狭間を抜けてきたのも、ひとえにそのおかげだということだった。
たしかに前回同様、今回も合わせ鏡の加護があれば心強いが。
「じゃあ、鏡を準備しなきゃ。屋敷のどこかにあるの?」
鏡野神社には自動的に合わせ鏡が完成していた。
境内の池と、その畔の社に安置された神鏡だ。
二つの鏡面は人知れず神秘の力を生み出していた。
しかし、今、湖の周辺には鏡らしきものは見当たらない。
首を傾げて尋ねた乙葉に、彼はゆるく頭を振ったのだった。
「そもそも入口を異にする以上、並みの鏡ではその役を果たすことはできない」
「じゃあ……」
「お出まし願いたいね。――格別の鏡を」
謳うように静かに言う。
意味がよく分からず、乙葉はさらに首を傾げた。
その時だった。
「げ、げろ。ここは……」
背後にうめき声が上がる。
振り返れば、突っ伏していた沼垂主が、床に手をついて上体を起こしたところだった。ようやく気がついたらしい。
「ようこそ、我が拙宅へ。足を運ばれるのは初めてではないはずですが」
ゆったりと腕を組みつつ、惺壽が嫌味交じりに目覚めの声を掛ける。
瞬間、沼垂主は弾かれたようにがばっとこちらを振り向いた。
「お、お主の屋敷だとぅ!? そんなことは聞いとらんぞ!」
「存じておりますよ。なにしろお連れしたのはこちらなのでね。行き先が変わるわけでもないので無用な説明は省きましたが――なにか不都合でも?」
「あるに決まっとろう、お主のねぐらなんぞ! し、しかもあんな乱暴な真似をしおって! 心の臓が止まるかと思ったわい!」
「それは失敬。なにとぞ、事が終わるまではご健勝に願います」
惺壽の口ぶりは平坦だ。用事が済んだ後ならば、本当に沼垂主の心臓が止まっても気にしなさそうだった。
(沼垂主がまた面倒くさいこと言う出す前に無理やり連れてきたのね)
乙葉はそっと事情を察する。
行き先が惺壽の屋敷だと知れば、今のように沼垂主が難癖をつけるだろうと想定していたのだろう。
だから問答無用で首根っこを咥えてきたらしい。
いや、咥える必要は必ずしもないのだが。
(……惺壽は気安く人を乗せたりしないから)
彼の背を許されているのは、少なくとも今は、自分一人だ。
その事実を改めて認識すると、ふわふわと落ち着かない気持ちになった。
はっきりとなにかを言葉にしたわけじゃなくても、お互いの気持ちを察することができる。――それで、充分なのだ。
「……惺壽の言う通りよ。ここまで来てあれこれ言ったって仕方ないでしょ。酸素の無駄遣いせずにちょっとは黙ってたらどうなの」
気持を切り替えるように沼垂主に向き直った。
それでやっと乙葉に気づいたのか、目玉がぎょろっとこちらに動く。
「たかが人間の小娘が。お主なぞに生意気を言われる筋合いはないわ」
「じゃあ、今度からは生意気言われないように気を付けることね。だいたい、こうなったのも全部自分のせいじゃない。文句言う筋合いがないのはどっちかしら」
ふんと鼻を鳴らした。
我ながら理にかなった反撃だ。向こうも詰まった声を漏らしている。
内心でいい気味だと思っていたら。
不意にさっと周囲が暗くなった。
(え……)
小さく肩を揺らし、乙葉は上空を見上げる。
いつの間にか月が姿を消していた。
一瞬のことだ。闇がにわかに濃度を増している。
「折よくお出ましいただけるようだな」
聞えたのは相変わらず淡々とした声だった。ちっとも焦った様子はない。
(折よくって……)
どうやら惺壽には想定の範囲内の出来事らしい。
彼の落ち着きぶりにひきずられたように、乙葉もわりあい冷静に聞き返すことができた。
「もしかして、陽乃宮が出てくるの?」
だんだんと闇の色は深くなっていくが、視界が決定的に閉ざされることはない。 月光の残滓なのか、空全体がほんのりと光を帯びているせいだ。
欄干のそばに立つ惺壽の姿もかろうじて認められる。
声同様落ち着いた佇まいだった。
「さて。高貴な御方の御心など推し量るべくもないが……願わくば、このまま恙なくお出まし願いたいものだな。そうでなければ一向に鏡が揃わない」
乙葉は首を捻った。
この流れで鏡とくれば、当然、合わせ鏡のことを指しているのだろうが――
「……太陽が鏡ってこと?」
「物知らずめが。そもそも鏡とは陽乃宮を模したものだろうが」
先ほどやり込められた仕返しか、沼垂主のせせら笑いが聞こえた。
むっとそちらを睨んだものの、すぐに低い声が話の続きを引き取る。
「いかにも仰せの通りでね。陽乃宮の御威光の前には、いかなる魔性の影も姿を隠すことはできない。――それは鏡も然りだ。鏡面には聖も邪もありのままに世の様が映る」
「だから、鏡は太陽と一緒ってこと? あ、そういえば鏡って魔除けになるって聞いたことあるけど……」
そういう意味合いが込められていたらしい。
鏡の代替が太陽なのではなく、太陽の役割を担う道具が鏡なのだ。
呟きに惺壽は軽く頷いた。
「わざわざ模造品を備えるまでもあるまい」
「それつまり、そろそろ陽乃宮が岩戸から出てくるって知ってたってことよね」
鏡と太陽の理屈は分かった。それに続く合わせ鏡の作り方もだ。
しかしすべて、太陽が顔を出すことが大前提の計画になる。
そして惺壽は端から鏡を用意する気がなかった様子だ。
ならば考えられる可能性は二つ。
太陽――天照陽乃宮がが出現すると知っていたか、もしくは、出現するまで待つつもりだった。
もしも後者だとしたらずいぶん気長なことだ。
そっと眉根を寄せた時、背後でうぐっと呻き声が上がったのだった。
「先ほど鈿女が、海琉を連れて雲乃峰に戻ったが……」
「鈿女さんが?」
振り返った乙葉は目を丸くした。
舞の名手である鈿女君は、天照陽乃宮の大のお気に入りだという。
娘である海琉姫と供に陽乃宮に仕えていながら、今は、とある事情から一時雲乃峰を離れていたはずだ。
しかし、どうやら陽乃宮のそばに戻ったらしい。
(……もしかして、陽乃宮の機嫌が直ったのも鈿女さんのおかげ?)
そうだとしたら。
視線が自然に惺壽に向く。
同時に、沼垂主が再び歯ぎしりのような声で言った。
「お主、また儂の妻に色目を使って近づきおったな」
色目かはともかく、近づいたのは間違いないだろう。
鈿女君になんらかの協力を願ったに違いない。
惺壽はどこか投げやりそうに答えている。
「さて、いかにも身に覚えのないことですが」
「ならば、なぜこれほど都合よく事が運んどるんだ。お主が鈿女を唆し、陽乃のおそばに侍るように指図したとしか考えられんわい」
「私ごときの男があれこれ指図できるような方ではないかと。……陽乃宮の御許に戻られたのは鈿女君ご自身でしょう。私はただ、そろそろ陽の光にもお目通り願いたいと埒もなく呟いたにすぎません」
「ということは、やはりお主が鈿女を唆したのではないか! 儂の目が届かんと思って、いつもいつも人の妻を横から盗むのはたいがいに……!」
「失礼ね、惺壽はそんな卑怯な真似しないわよ!!」
乙葉はたまらず声を上げた。
二人分の視線がこちらに動き、はっと我に返った。
思ったよりも大きな声を出していたらしい。
怯みかけたが、身体の脇できゅっとこぶしを握って居直る。
(間違ったことは言ってないわ。惺壽が色目なんて使うわけない)
単なる自惚れだ。彼が自分以外の女性に気持ちを向けることはないと。
なんの根拠も確証もないが、心からそう思うことができる。
「ただ世間話をしただけでしょ。証拠もないのに浮気って決めつけるのはどうかと思うけど」
「天上一の節操なしの男に、今さら証拠などなんの意味もないわ」
「あ、そう。……じゃあ、惺壽と一緒に鈿女さんも疑ってるってことでいいのね。自分の奥さんなのに信じてないの?」
「ぬ……そ、それは……」
さすがに口ごもった沼垂主だ。
しかし表情に浮かぶのは明らかに疑念だった。
無理もない。
(前の二人の噂が気になるのよね)
以前にも惺壽と鈿女君の間に噂が立ったことがある。
噂の真相はまるで違うが、沼垂主はそんなこと知る由もない。
当の惺壽が疑いを晴らそうとしないからだ。
ことさらに恩を売るような真似が彼の流儀じゃないのかもしれないし、沈黙を貫くことで意趣返しをしているのかもしれない。
その辺の加減は分からないが、乙葉からすれば、誤解で逆恨みする沼垂主はひたすらもどかしかった。
(本当のことを話せたらいいんだけど)
横目でちらりと惺壽を見やる。
ちょうど彼もこちらに目だけを動かしたところだった。
薄闇にも視線がかち合う。しかし彼は唇の端に笑みを刻んだだけで、また視線を逸らしてしまった。
つまり、どうあっても打ち明ける気はないという意思表示らしい。
(……本当にへそ曲がりね。悔しくないの?)
見当違いな逆恨みをされている彼は、はたから見ればひどい貧乏くじを引いているように思える。
それでも惺壽は気にしないようだ。
たぶん、彼にとっては気にするまでもない些細なことなのだろう。
そうなると、必然、自分が出しゃばって訳知り顔に言葉を並べ立てるのも躊躇われる。
(でもこのままじゃ、一生誤解されて恨まれっぱなしよ)
乙葉が天乃原から姿を消した後も、ずっとだ。
本人が気にしないならそれでいいかもしれないが、自分は、そこまで大人になって割り切ることができない。
「――さて。天乃浮橋の番人どのにおかれましては、不毛な言い争いを重ねるより速やかに事を成されては? 憎い間男が奥方を惑わせることも二度とないかと思いますが」
乙葉と沼垂主、それぞれが沈黙した隙に、惺壽はしれっと話を進め始める。
沼垂主の目玉がじろりと彼を見る。ねめつけるような視線だ。
「……約束を違えることはないだろうな」
「ご心配には及びません」
惺壽は肩を竦めている。
話の見えない乙葉はわずかに眉根を寄せた。
(約束?)
なんのことだろう。
そう思うが、沼垂主は気を取り直したようだ。
「ふん。よかろう。人間の小娘など儂にとっては百害あって一利もなしだ。さっさと送り返すに限るわ」




