事件その1
こちらまでいらしてくださりありがとうございます。
心とお目めを半開きでご覧ください。
額と頬は熱いのに、体の奥は氷に触れた皮膚みたいにひりつく。
アビゲイルは王宮の廊下を医局に向かって走っていた。婚約者と出会った、記念すべきこの廊下を。
まさかそんな、と疑いつつ焦りつつ。
アビゲイルを仰天させたのは親友からの知らせだった。
婚約者が記憶喪失に陥った、と。
途中で息が切れて、立ち止まる。アビゲイルは体力がないし、王宮は広すぎた。
事件が起こったのはちょうどこの角だった。もう半年も前になるか。あのときアビゲイルは廊下をしずしずと歩いていて、親友に呼び止められたのだ。
「アビゲイル!」
振り返れば、衝撃とともに、
「うお、」
という慌てた低音によってアビゲイルの重心が大きくずれた。
肩を抱き込まれて、むぎゅうと硬いのか柔らかいのかよくわからないものに押し付けられる。視界が白黒として、ああいま人にぶつかったのか、とやっと頭が動き出した。
「す、すみません」
「俺の方こそ、すま……」
不自然に言葉は切れた。ふらつくアビゲイルをしっかり立たせて、自身は地面に片膝をつく。がちゃり、と鳴ったために彼が腰から剣を下げていることに気づいた。この方は騎士だったのか。胸筋がすごいわけだ。繋がったままの両手をうやうやしく掲げ、下から目を向けられて硬直する。
あ…………。
目の前で動いている人物のことなのに、一幅の絵画を見てるようにどこか現実味もない。光の入る角度まで完璧。いやたぶんどの角度から光を当てられても美しいのだろう。
その豊麗の金糸はうなじで結われ、さきほど前屈みになったせいで前面に流れてきていた。アビゲイルに注がれる淡い青緑色をした爽やかな双眼は心にさざなみを起こさせる。
ところがなぜか、美人の彼は頬を赤くしてうっとりと、長いことアビゲイルと視線を絡ませていた。
「……あの……?」
異様に思える麗人の行動に困惑して立ち尽くす。
「すまない。俺の不注意でぶつかってしまった」
衝突してもちょっとよろけただけだ。謝罪にしてもこんな大げさに片膝をつくほどのことではない。
「いえ……私こそ前を見てなくて」
「俺はカイン・ルイーディ。お名前をお伺いしても?」
目を瞠る。
王宮メイドの端くれでも名前だけは毎日のように聞く著名人とはこの騎士のことだった。活躍はアビゲイルにしてみたら夢物語、縁のない人だと他のメイドたちのようにわざわざ見に行ったりもしたことがない。
そんな人から名前を訊かれても。
「アビゲイルどうなってるの?」
「あ、デボラ……」
答えあぐねていると、親友が近くまできて、なにごとかと問いただした。
「ご令嬢、どうか」
緊張感を持った声がアビゲイルの注意を引く。いや、ご令嬢なんて呼ばれるのも気恥ずかしい、と首を振る。
「ああ――」
と彼は長広舌を振るったのだった。
感傷に浸っている場合ではないのに、やけに過去を思い出す。あれが妄想でなく、ちゃんと自分で経験したことだと確かめたくて。酸素を補給したアビゲイルは先を急いだ。
一緒に来てくれたデボラと目を合わせて、医局の扉に手をかける。
中からは声を荒げる男と、それを宥めようとするもう一人が聞こえる。スツールを盾にして構えるアビゲイルの婚約者と、腰を落として猛獣を捕えようとしている体勢のジェームズがいた。
開いた入り口に男性たちが反応する。
スツールを床に転がした彼はふらふらといかにも病人のように歩き、アビゲイルの目の前までやってきた。
両膝をついて、熱のこもった目で見つめてくる。
「ああ、俺の喜びよ。
愛らしいひと、あなたを一目見て俺は愛というものを初めて信じようと思えた。俺の心は永遠にあなたのものだ。
――三千大千世界の女神、美しきアビゲイル、俺だけのアビー」
初対面の台詞をほぼほぼ完璧に再現って、そんなことある? 記憶喪失中よ?
あのときアビゲイルは自分で名乗らなかったから、最後の一文のように名前は呼ばれなかったけれど。
告白されたアビゲイルは「困ります。」とだけ告げて、デボラと連れ立ちその場を去り振り返りもしなかった。そこからよく婚約者となるまで這い上がったものだ。
アビゲイルの腰に両腕をまわして、懇願するように抱きしめてきた。
「カイン? 私、あなたが記憶喪失だと聞いてやってきたのだけれど……」
嘘だとしたら相当タチの悪い冗談だ。こんなに人をやきもきさせて。でも、駆け引きなんてできない男なのに。
「さっきまでは。アビーを見て、俺の脳内にある全シナプスが活性化して繋がった。愛の力で」
そんなことはありえないだろうに。
「いや本気で、さっきまで『俺は誰、お前は何者、近づくな。』って喚いてたところだよ」
突っ込んだのはカインの友人で仕事仲間のジェームズだ。顔からして疲れ切っている。
「それについては手間をかけた、すまん」
「まあな。一本で許してやる」
男同士では酒瓶の交渉で片がついたようではあるが。
「……ほんとうに記憶なかったの?」
アビゲイルへ知らせに来てくれたデボラにも確認すると、肯定された。彼女は王宮医局の医師のひとりで、誰からの信用も集める。
「5分でもアビーを忘れていた俺に失望してしまったか? 埋め合わせはする、挽回させてくれ」
「いえ、怒るより戸惑っているのよ。記憶喪失ってなんだったのかしら? そんな簡単に治るもの?」
「俺のアビーへの愛を前にして不可能などない」
片腕を解き、アビゲイルの手に指を這わせて、ふにふにと親指の根本を揉み、すりすりと指の股を滑らせている。恍惚として腹に頬を当てて微笑んだ。そこに赤子もいないのに――原因となる行為はしたことがない、幸いにもカインの貞操観念は固くまともであったので。親密な触れ合いといえばせいぜい手つなぎ、抱擁止まりだ。それもアビゲイルがひとたび「いや」と言えばすぐさま止める。
この奇行もアビゲイルにしてみれば、極めて普段通りのカインでしかない。残念な美形で大変惜しまれる。
「おおかたカインを妬んだ奴の仕業だとは思うけど、まさかこんな一瞬で記憶を取り戻すとは彼奴らも想定していないだろうよ。助かったよアビゲイル嬢、ありがとう」
「……私、なにもしてないのですけれど」
「いいから、オレが犯人特定して片をつけるまでカインを落ち着かせてやってくれ」
「それって、いつまでですか?」
「今日の終業時刻までには」
たった半日未満で、証拠を集めて犯人を追い詰めることができるのか。
「狙われたソイツが動くと余計に大惨事になっちまうから。」と立てた片手を顔の前にして――「すまん。」とか「失礼。」の意――片目をつむっている。
カインが歩き回っていると意味なく集まってくる女性の対応が面倒になって捜査の邪魔になるということだろう。
こうして婚約者から散々美人扱いをされ、吐いた息さえ惜しまず愛されるアビゲイルではあるが、世間一般としてはつまらない人間だ。まずい顔立ちとは言わないが、美人と名乗るにはよっぽど調子に乗るか酒に酔った冗談か、といったところ。
褒めるところのない堅果の殻色をした髪と瞳。目は大きすぎず小さすぎずなのはいい。鼻は低めで丸っこく、唇はぷっくりとしているが小さい。礼儀を損なわない程度にはいた白粉を落とせばそばかすだって散っている。カインと婚約してからは化粧も以前よりか手を加えるようにはしているものの、改善したのかしていないのか。隣に立つ化粧なしの婚約者の美貌が輝かしすぎるせいもあるけれど。
身分だけ言えば男爵令嬢と騎士、釣り合うけれど本当に同じ次元の人間かしら。
太すぎるわけではないが、アビゲイルはドレスが映えない体型とだけ言っておこう。唯一の特徴、胸ばかりが望まず大きくて均衡がとれていないのだ。決して自慢ではない。その巨として弾とするものを支えるための肩幅は広く、華奢という言葉からは遠ざかる。わざと胸が目立たないように細工しているから、余計に肩幅は目立つわけだが。それでもなお、平均……よりも上かなぁといった胸を持つ。そして大きな上半身を支える下半身も福として臀と安定感をとって然る。制服のスカートで隠れるのが幸いだ。心の底から自慢したくない。
とくに、カインの美点なんて持て余すものだから、やるせなくなる。
だから、初対面の彼を信じられるわけがなかった。
眼差しは真剣だったし、言葉に熱がこもっていて嘘のかけらも感じられなかったものの。たいていの人間がアビゲイルの胸に注目するところ、カインは目しか合わせず、これまで胸について感想も聞いたことがない。体目当てでもなさそうなのは感じている。
かといって、アビゲイルに一目惚れする意味がわからないのだった。
なんなら婚約している現在でも押し負けた結果でしかなく、うっすら裏があるのではと疑ってすらいる。
カインは他の女性を寄り付かせることもなく誠実であるにも関わらず、その分アビゲイルが後ろめたいほどだ。
その美貌を差し置いたとしても、二十四の若さでビヤコーナ国が誇る騎士団の副団長を勤め仲間からも一目置かれる有名人で、騎士となってから十年あらゆる女性を袖にして泣かせてきたカインがアビゲイルへひざまずいて一年が経つ。カインからの熱烈な主張、あふれんばかりの愛情の押し付け、持て余す褒め言葉の集中攻撃があってもはっきりした結婚の日付を選ばないのは、猜疑心によるものであった。
出会った翌日には退勤を待ち伏せされて花束を贈られたからとて(朝は花屋が開いていなかったし昼間は仕事だから)。
普通に考えて一目惚れはありえない。
こんな簡単に流されてもいいのか、と。
明日にでもカインにはもっとよい人が現れる。そうしたらアビゲイルに一目惚れしたときのように、瞬きの間に心変わりしてしまうのではないかしら。
カインがくれる時間は溶かしたチョコレートでグラハムクラッカーとマシュマロを絡めた乙女の夢みたいで、どれを思い出しても笑い泣きしたくなるくらい胸が苦しくなる。
他に向ける乾いた表情から一転、アビゲイルを視界に入れれば淡い青緑色の瞳は潤み、とろけだす。
アビゲイルの名前を呼ぶ声は芯があってやわらかく、身体の軸をくすぐって骨も溶け出させてしまうような深みがあって、くらくらしてしまう。
いつかあの声が聞けなくなると想像するたびに、窒息しそうになるのだ。
最初こそ親友のデボラに「瞳孔が開ききっていて怖かったわ……」と話していたものの、その内実、彼に陥落するのは早かった。
「カイン、もう離して。立って」
先ほどから膝立ちなのが気になって、病み上がり(?)なのだから座らせたかった。
促されてようやくカインが立ち上がる。
ガラッと勢いよく医局の扉が開くのと、アビゲイルが吹き飛ばされるのはほぼ同時だった。
「カインさまぁ!」
幸いにも床に滑り込んだものがあったので痛い思いはしなかったけれども、一体なんだったのか。
「どこか打ったところは?」
「……ないわ、ありがとう」
カインの腕に似た束縛を感じるな……と思っていたらやはり彼を下敷きにしていた。騎士の反射神経というものはとても素晴らしい。こんな無駄な機会に発揮させて申し訳ないが。
「カインさま、その女から離れてくださいまし! あなたの大事な恋人を差し置いて、他の女に触れるなんて」
ああ、この人から突き飛ばされたのか。
カインは盛大に顔をしかめている。
「……なにを言っているんだ?」
「ああ、記憶喪失ですものね! わたくしのこともお忘れになるなんてひどいですわ! でもいいのです、イチからわたくしたちのことを教えて差し上げますから」
ぽっ、と頬を染めているが――この派手な女性は誰だろう。流行りの形のドレスに目元ばっちりメイク、あの口紅、特別配合かしら――まあ自分に自信があるのがうなずける容姿。
しかし、誰。
首を傾げるタイミングがカインと合ってしまった。
横から伸びてきた腕に、ぐいっとカインの顔を取られた。むりやり目を合わせて、媚びた声で語りかける。
「ようくご覧になって? あなたのローネ・ロハンナですわ。カインさまは結婚の約束もしてくださいましたのよ」
「嘘を言うな。さっさと離せ」
アビゲイルが驚きの声を出す前に即座に否定された。
カインは白い手から抜け出し、アビゲイルを支えることを忘れずに立ち上がる。すかさずローネが腕を絡めようとしてきたが、それからも抜け出して拒絶した。
「……まあ。ここまで思い出さないなんて、あの人たちに酷く痛めつけられたのですわ。おかわいそうに」
「……あの人たち? なにを知ってるんだ」
「他の騎士たちと手合わせなさったのでしょう? それで、事故で頭を怪我して……」
えっ、と声を上げてしまった。記憶喪失になったとは教えてもらったが、その原因までは知らされていなかった。
ちらりと寄越された視線は「そのまま黙って聞いていてくれ」だったので、一歩下がる。ローネを下手に刺激しないためにも、だ。過去から学んだところ、ときたま現れる勘違い女性をアビゲイルが直接相手するのは危険なので、カインに任せて口を閉じる。
「どうやってそんな詳細を知った」
「あら。噂の回りは早いのですわ」
「噂、だと……」
「カインさまのことですもの、みんなが話すに決まっているではありませんか」
「手合わせのこともか?」
「ええ、三人同時に申し込まれたのでしょう? まったくなんて卑怯な方たち」
哀れみいっぱいに涙を浮かべて、ローネは縋りつこうとした。それを半身で逸らし、カインは出入り口――外? を見た。
「あん、避けないでくださいまし」
「どうやって噂が回ったんだかな。下手人の人数もよくわかったもんだ」
「奴らが自ら言いふらしていたからですわ。カイン様を昏倒させた、と」
カインの瞳に苛々が見え隠れする。
「騎士同士の勝負においてルールが存在するなんて予想もできないのか? 頭部や急所への直接攻撃は禁止されている。審判はジェームズが務めていた。三人は正々堂々の誓いを破ったため拘束されて地下へぶち込まれてるんだぞ。わざわざ懲罰房へ面会に行ったのか?」
「ま、まぁ……そんな。わたくし。その、隠れて見ておりました方から聞いたのですわ。恋人を心配して」
「盗み見をしていた奴はどこのどいつだ」
「どうだっていいじゃありませんか! 大切なのはカインさまだけですもの」
「俺を大切だと言うのなら、俺の言うことを聞いてくれないか」
とてもやんわりとしたお断りの文句だったけれど、ローネは受け取らない。
小芝居を見せつけられている感が強い。
むっとしてこの場の成り行きを見守っているが、正直いまにも逃げ出したかった。
風向きが変わったのは、ローネが焦り出してからだ。何度も同じことを繰り返し、カインの恋人だ婚約者だと主張を聞くにも飽きてくる。
「埒が明かないな。ジェームズ、そっちはどうなってる」
声かけしたところで、大きく扉が開いた。
「ああ、ちょうどデボラ先生と合流したところだ。ローネ・ロハンナ、動くなよ」
「な、なんですの?」
「騎士団内で女がいない状況だったから油断していたが、おそらく手合わせの前に出された茶に薬を盛られてた」
「ええ。カインさんが使った茶器を調査していたの。薬物が検出されたわ。体を鈍らせて意識を混濁させるものだった」
「試合を挑んだ騎士たちから供述は上がってる」
「その不埒な方たちとわたくしがどう関係しているというのです!」
ローネは果敢にも立ち向かうが、ジェームズはやれやれと縄を取り出した。
「なぁ、自供したほうが罪が軽くなるんだぜ。自分が手引きしてカインに薬を盛って、手下に襲わせたって認めろよ」
「そんなわけありませんわ!」
呆れたカインがジェームズに合図を送る。
「せいぜい足掻けばいいさ。生憎だが俺は記憶喪失になっていないんでな。悪意のある犯罪者になびくと思うか」
正確に言うなら最速で記憶を取り戻した。ローネが介入する前でよかった。アビゲイルが来ていなければどうなっていたかわからない。
「う、うそ……」
「じゃ、捕縛するわ」
飛んでくる爪攻撃をものともせず、ジェームズはローネに縄を巻きつけた。ジェームズは伯爵家の出なので、下級の彼女は下手に攻撃しないほうが得策なのだけれど。見るからに罪人として引きまわされるのでは、もうこの先王宮に立ち入りできないだろう。
遠ざかっていく喚き声。カインはやたら落ち着いているが、アビゲイルは確かめずにいられない。
「カイン、解毒とか……必要ないの? 薬を盛られて、失神するほど殴られるなんて」
実際意識が一時混濁していたようだった。
「もう薬の効能は抜けているし、頭もしっかりしている」
「でも」
「心配してくれるのか?」
「当たり前でしょ! 私、仕事をほっぽり出してきたのよ」
快く穴埋めを了解してくれた同僚に恵まれたから。そうでなくとも無理を押して来ただろうが。彼女らに申し訳ないから、解決したいま戻りたくはあるが、カインが突然体調に異変をきたしたらと怖くもある。
ジェームズが言っていた犯人特定まで四時間もかからなかったわけだが、カインはベッドで休んでいるべきだろう。
にこりとしたカインがアビゲイルを見つめる。
﨟長けた、とは本来女性に使うのものだけれど、うっかり似合ってしまいそう。
「アビー、さっきのかわいかった」
「……いつのお話?」
「唇とがらせて、じっと話を聞いているとき」
「カインはロハンナさまと向き合っていたのだから、私のことなんて見えてないでしょう」
「俺の視界にはいつもアビーがいる」
「なに言ってるんだか」
「そのくらい俺はアビーしか見えてないってことだ」
ほんとうに記憶喪失なんてなかったことになっていて、つい黙ってしまう。
「仕事を抜け出させてしまって悪かった。来てくれてありがとう。デボラ先生もいるし俺は大丈夫だから、仕事に戻ってくれ」
「……いいのね?」
「仕事が終わったらここに迎えに来てくれるか? 一緒に帰ろう」
その条件なら、と納得してアビゲイルは仕事に戻った。




