三十一
私はその日、記録を消さなかった。
「少し考えさせてください。」
そう言った。
先生は頷いた。
「分かりました。」
奈緒さんは何も言わなかった。
私は家を出た。
玄関を閉める前に、先生が奈緒さんへ何か言う声が聞こえた。
内容は分からなかった。
聞こうと思えば、聞けた。
私は扉を閉めた。
駅へ向かいながら、母へ電話をかけた。
呼出音が続いた。
母は出なかった。
病院へかけた。
病棟につながるまで、何度か待たされた。
看護師が出た。
父は眠っていると言った。
「状態は。」
「大きな変化はありません。」
「話せますか。」
「目が覚めれば。」
「いつ。」
「分かりません。」
分からない。
私は、それを無責任とは思わなかった。
「母は。」
「一度、ご自宅へ戻られました。」
「伝えてください。今から帰ります。」
電話を切った。
今から帰る。
父が音声で言った、帰ってきたら話そうに対する返事だった。
遅過ぎるかもしれない。
それでも、私は送った。
父の端末へ。
今から帰る。
既読は付かなかった。
新幹線の座席に座り、先生の記録を開いた。
消去を選べば、端末からは消える。
複製は、警察に残っている。
先生が削除を求めるだろう。
私が残しても、いつか流出するかもしれない。
私が消しても、別の場所から出るかもしれない。
なら、自分が消すかどうかに意味はない。
そう考えた。
しかし、意味がないことは、選ばなくてよい理由にはならなかった。




