3 愛の試練は乙女の試練
美羽の苦難は、まだまだこれからが本番だった。
それを暗示するかのように、一本道の小道は、急こう配な坂道へと差し掛かった。
なかなかの傾斜だったけれど、美羽は意気揚々と足を踏み出していった。
坂道の終点は、大河に面した崖なのだろうと予想していた。
そこで、手に入れたばかりの木の実を使って、渡り守を呼び出すのだ。
やっぱり、渡り守は大きな鳥なのだと美羽は確信した。
背中に乗せてもらって、空経由で向こう岸へと渡るのだ。
鳥の背に乗って空を飛べるなんて、想像するだけで胸が躍る。
傾斜に息が弾んでくるけれど、この先のイベントを思えば足取りも弾んだ。
行く先から、シュワシュワ・ザワザワと音が聞こえてくる。
ペースを落とさずに坂を上ったせいで、そろそろ息が切れてきたけれど、美羽は目を輝かせてもうひと踏ん張りした。
小道の先には小道が続いていたのに、今は空が見える。
薄っすらと白が棚引く、澄んだ青い空。
予想通り、小道の終点は崖になっていた。
下には大きな川が流れている。
膝下サイズの人形目線でなくとも、十分に大河だった。川幅は、四車線道路くらいは余裕でありそうだ。
シュワシュワパチパチと泡立ちながら流れていく炭酸水の大河。
流れはかなり速そうで、泳いで渡るのは無理そうだった。
美羽は崖淵の数歩手前から、声もなくシュワシュワな流れを見下ろす。
際まで行く度胸はなかった。
三階建ての中学校の校舎よりも高さがあるのだ。
手すりもないのに際まで行くなんて、美羽には到底無理だった。
なのに、アリンは無情なことを軽く要求してきた。
「さ、美羽! 崖っぷちに立って、木の実を掲げるのよ!」
「え? ここからじゃ、ダメなの?」
美羽は顔を引きつらせながら、やんわりと反論を試みてみる。
確かにその方がイベント的には映えるとは思うが、鳥を呼び出すだけなら、ここからでも問題はないと思えた。たかが数歩の違いだ。それに、ここは小道の先に張り出したテラスのようになっていて、頭上を覆う枝葉は存在しない。空からの来訪者を邪魔する天井はないのだ。
覚悟を見せろ……という話ならば、やりたくなくともやるしかないのだが、そうでないのなら出来れば遠慮したい。というか、絶対にやりたくない。
その覚悟を求められたらどうしようと恐々と答えを待つ美羽だったが、アリンがしゃべる前にシュワシュワの水面から、大きな水音と共に何かが飛び出してきた。
小型バスくらいありそうな、大きな魚だった。
川魚としては、かなりの巨魚だ。
青銀のメタリックな鱗が陽光を跳ね返し、キラリと眩しい。
けれど、炭酸水をザパアと振り払いながら昇って来た顔にはめ込まれた目玉は曇りガラスで、死んだ魚の目のように白く濁っている。
パカーンと大きく開いた口の中は、ほど良い空洞になっていて、壁は濃いピンクのビニール製クッションだ。口を閉じればバッチリ防水仕様なのか、濡れている感じはなかった。
シュワシュワパチパチと水滴を弾けさせている白銀のお腹は、メタリックな輝きを放ちつつも柔らかそうな不思議素材だ。
濁った目玉に目を瞑れば、綺麗な魚だった。
羽が生えていそうな跳躍で美羽の頭上を昇っていく魚の白銀の腹をツルツルと眺めていた美羽の目は、とある一点に釘付けになった。
尾びれの少し上あたりに、オレンジを輪切りにしたような模様を発見してしまったのだ。
ただの模様ならば、いい。けれど、それはなんだか開閉しそうな雰囲気を醸し出していた。美羽一人くらい余裕でくぐり抜けられそうな、開閉式の扉。それは一体、何を模したものなのか……。美羽は考えるのを止めた。
尾びれが、光を反射しながら美羽の頭上を通り越して行く。水滴を弾き飛ばしながら、銀の巨体は空中で美しい曲線を描いた。
美羽の頬にシュワッとした余韻を残しながら、炭酸の流れの中に飛び込んでいく巨魚。
言われるまでもなく、分かった。
あれが、渡し守なのだと。
そして、向こう岸に渡る方法は、その背に乗せてもらって川を渡るわけではなく、おそらく――――。
「あれが渡し守よ。シュワシュワ大河のヌシでもあるわ」
「やっぱり! そうだと思った!」
「さ、美羽! 崖の淵に立って、木の実を掲げて、こう唱えるのよ! 木の実とこの身を御身に捧げます!…………と!」
「なんか、イケニエみたいなんだけど! 本当に向こう岸へ連れて行ってもらえるんだよね!? 消化されたりしないよね!?」
「大丈夫よ! 木の実は消化吸収されちゃうけど、この身は消化できないみたいなのよ!」
「でも、やっぱり、お口の中にお邪魔しなくちゃいけないんじゃん! 渡し賃として木の実を上げる代わりに、背中に乗せてもらうとかじゃダメなの!?」
そうだろうとは予想していたが、受け入れられるかどうかはまた別で、美羽は精一杯の悪あがきをしたが、アリンも現実も無情だった。
「ダメっていうか、無理ね! ヌシには話が通じないのよ! でも、木の実が近くにあるのは分かるらしくて、水中からバッシャンしてパックンしてくるから、その習性を利用して向こう岸へ渡るのよ!」
「ええ~~!? そ、それじゃ、あのイケニエ呪文は何のために唱えるの!? 通じてないなら、唱える意味、ないよね!?」
「ふっ。決まっているでしょう? 見せ場として、王子を救うためならば何でもするという覚悟を示しているのよ!」
「映えのためじゃん!」
覚悟を示さねば渡り守が現れないというのならばともかく、映えのためだけならやりたくない。
美羽は吠えたが、アリンは意を返さず美羽の顎先に木の実をグイグイと押し付けながら、さらに過酷なことを要求してきた。
「いいから! 木の実を掲げて、覚悟を唱えて、ヌシがザパアしたら、川に向かって飛び込むのよ!」
「は!?」
「そうしたら、ヌシが木の実ごとパクッとして、消化できないこの身だけを向こう岸にプリッとお尻から吹き飛ばしてくれるから!」
「んなっ!……んなっ!…………んなっっ!」
美羽は木の実を押し付けてくるアリンを見下ろしながら、魚のように口をパクパクさせた。
一番当たってほしくなかった予想が見事大当たりしてしまった絶望に言葉もない。
輪切りにされたオレンジの断面のように見えたアレは、やっぱりただの模様じゃなかったのだ。アレは、魚の……。
膝から崩れ落ちそうになのをギリギリで耐える。
涙が出そうだった。
本物の魚ではないとはいえ、お尻からプリッとされるためにこの高さから川に向かって飛び込めと言うのだ。
「さあ! 怯まないで! 行くのよ、美羽! 今! 王子への愛が試されるときよ!」
「……王子への………愛……………………」
カンフル剤となるはずのアリンの言葉が、まったく胸に響いてこない。
丸飲みにされるだけだったなら。
その後また、パクンと開いた口から岸辺に降ろしてもらえるのならば、まだ……。
この高さから飛び降りるのは怖いけれど、彼のためならば!……と勇気を振り絞って体を張れた……かもしれない。
でも、お尻からプリッとは、いただけない。
美羽の許容の範囲外だ。
乙女の尊厳が著しく傷つけられる事案だ。
たとえ彼を救うためとはいえ、魚のお尻からプリッとされた女の子だって彼に知られたら、美羽は……。
無事彼の救出に成功して、感謝の抱擁を受けている時に「何か匂わないか?」とか言われてしまったら、美羽は、美羽は――――。
愛のためとはいえ、愛のためとはいえ――――!
愛のためとはいえ、愛のためだからこそ譲れない乙女の一線というものがある。
なのに、アリンは木の実をグイグイ押し付けながら、「さあ! さあ! さあ!」と過酷を強いてくる。
美羽の瞳に虚ろが宿る。
その虚ろが虚ろを呼んだのだろうか?
ハートヲ……チョウダイ…………
虚ろな響きを乗せた風が、美羽の耳元をすり抜けていった。




