第196話 死神の大鎌
オイゲンの懸念は、果たして的中した。
といっても、それはプディーツァ軍が元々計画していたありようとはかなり違っていた。
というのも、プディーツァ軍にとってドニェルツポリ軍が本土侵攻を仕掛けてくるというのは予想外のことだったからだ。
彼らからしてみれば、ドニェルツポリ軍はお行儀のいい軍隊である。地球やその同盟国を味方につけるには、戦時国際法を遵守し、その上で悲劇性をアピールして、国民の同情を得る必要があるからだ。
その「礼儀正しい」連中が突然その前提を破ってきたのだ。予想だにしないそのアプローチに、あのヨシフ・スモレンスキーでさえ一時は慌てたという。何よりマズかったのは、彼が前参謀総長を罷免して間もなかったということだった。新参謀総長ベルンハルト・フォン・マイヤーはまだ幕僚(これもほとんど一新された)とのコミュニケーションが充分に取れておらず、彼らが考えていた再侵攻作戦の準備で手一杯になっていた。
そのため、「バイト・ザ・ダスト」作戦初頭の快進撃は、実のところ、罠でも何でもなかった。国境警備レベルの艦隊戦力しか配置されていなかったし、焦土作戦ですら、参謀本部の指示ではなく現地の連合艦隊司令官が教本通りに実施したに過ぎない。
つまり、実のところ、かなりいい線をいっていたのだ、ここまでは。
しかし、その政治的目的までは、達成されなかった。
そもそも、前提に無理がある。
交渉というのは、基本的に時間がかかるものだ。前提をすり合わせ、条件を持ち寄って、双方のそれを突き合わせ、その可否について分からないものがあれば本国に問い合わせ、会議を行い、それでまた条件が変われば本国に問い合わせ、再び会議を行い――というのを、合意が取れるまで繰り返す必要がある。とてもではないが、電撃的に行えるものではない。
まして、逆転のチャンスがある内は、どうしたって引き延ばそうとするものだ。
つまり、プディーツァ軍は、まだ目先の状況に騙されてはいなかった。
古今東西、強い軍隊というのは失敗をしない軍隊ではない。失敗したとしてもそれから学習して強くなって戻ってくる軍隊なのだ。
今まで立てていた計画は即時に破棄され、すぐに敵に対して反撃を行う計画に入れ替えられた。幸い、敵の布陣図は既に一人の情報参謀が複数の現地諜報員を介して入手していた。敵はミンスラウ州に全体重を預けるような格好でのしかかっている。これにより補給路は圧迫されているが――その結果閉塞されるほどではない。迂回路を用いれば充分補給はできる。
対して敵は、既にそのかき集めた戦力を使い切っている。作戦参加兵力三個連合艦隊の内、ミンスラウ州に二個連合艦隊が展開している以上、その背後はたった一個連合艦隊しかいない。しかもその支配領域は、喉から手が出るほど欲しかったジンスクも含まれているのである。
更にその先にはノヴォ・ドニェルツポリもある。これを狙わない手はない。
今度こそ、戦争に勝つ決定打を撃てるかもしれない。そう考えたヨシフは、案が提出されるや否や、概要を聞いただけですぐさま参謀本部にその作戦の許可を出した。
その名も、「死神」作戦。
ダカダンからジンスクにかけて、横合いから黒鉄の大鎌が振るわれる。
「…………」
その鎌の先端にいるエーリッヒは、しかし、どうしても決心がつかなかった。ヘルメットを被り、待機室を出て、機体まで歩く。その手慣れた職務が、どうしても罪深いことのように思えてならなかった。
何しろ、今や彼にとってプディーツァ軍とは、薄汚れた犯罪者の軍隊だ。恥知らずのならず者集団。薬物を平然と蔓延させ――自らの恋人を殺した組織。
(ブリット……)
そんな連中のために、命を張る必要があるということが、一体何を招くのか、彼には分かるようだった。ブリーフィングで聞いた限りでは、どうにもこちらが優勢になったらしい。ミンスラウ州は不幸だったが、敵はそれに夢中になるあまり隙を晒した。そこに一撃を加えれば――致命傷となろう。
戦争は終わる。
それもプディーツァの勝利に終わる。
その事実自体は、一武人としては、当然与えられるべき報酬だと思った。誰も、負けるために戦っているわけがない。それに、勝たなければ戦友たちに顔向けできない。腐敗した地球の仕掛けた代理戦争に勝利したという勲章なしには、彼らは安らかに眠れないはずだ。
だが、一軍人としては――果たしてそれでいいのだろうか、という疑問がある。
勝利とは麻薬だ。
優勝劣敗という四字熟語のように、勝った側が全ての領域で優っていて、敗けた側が劣っていたと錯覚させる作用がある。
そう、それは錯覚に過ぎない。実際にはそうではない。ノヴォ・ドニェルツポリの戦いを引くまでもなく、プディーツァ軍は多くの失敗をしてきた。ジビャの戦いにしたって、別に敵に付き合って砲撃戦をやる必要はなかったし、そもそも敵は過剰に戦力を集中させてきたのだから、その隙に、最悪ジビャを一時的に明け渡してでもその戦力が存在していた宙域に攻撃を仕掛けるべきであったのではないか? ……だが勝利はこれらの反省すべき点をうやむやにしてしまう。
そして何より――一人間として、これでいいはずがないという疑問がある。
腐った組織に腐った構成員。
薬物の蔓延とその隠蔽。
これらが単独の問題として存在しているわけはない。
家の中にゴキブリがいるからといってもそれはネズミがいない証明にはならない、それが被捕食=捕食の関係にある以上はむしろ存在の可能性を高める。汚職やそれに準ずる問題が、まだ見ていないだけで山ほどあるに違いない。
しかし誇り高き我が祖国の軍隊が汚らわしいものであっていいはずがないのだ。ましてやその汚らわしい軍が勝利することなどあってはならない。
(では、)しかし、エーリッヒの頭を支配して止まないのは、この問いだ。(そのヘドロ汚れの一部として戦争に赴き勝利に貢献することは、果たして正しいことなのだろうか?)
この問いが、彼をベンチに見えない糸で縫い付けてしまったようだった。
彼の認識からすれば、この戦争は地球の卑怯な計略によって引き起こされた代理戦争だ。一つ付け加えるならば、プディーツァ人に聞けば大半の人間が同じ答えを発するだろう。そう答えないのはかなりの恐れ知らずか失うもののない酔っ払いぐらいのものだ。
しかし代理戦争であるからには、彼らプディーツァ人は勝たなければならない。そうしなければ、抗うこともできずに地球という御伽噺の魔王のごとき邪悪な国家に食い尽くされてしまう。それに対する抵抗は、なるほど、どのようなものであれ正当防衛というわけだ。
だが、その結果として得られる勝利は、間違いなくプディーツァを駄目にする。甘やかされ、欲しいものを欲しいだけもらって生きてきた子供のようなものだ。そうしてぶくぶくと太っていった先に何があるかは医者でなくても想像がつく。生活習慣病になりじわじわ弱っていくか、何らかの急性の致命的疾患が命を奪うか。そのどちらにしても死は内側からやってくる。
だとすれば、今自分が戦場で撃つものは、結局のところ祖国そのものではないか。その未来を前借して栄光を手にしているに過ぎないのではないか。仮にそうだとするならば――自分は、何のために戦っているのだ?
エーリッヒには、その答えが分からない。ずっと考え続けているのだが、終着点は見えない。無線機が故障して誘導が受けられず電波だけを頼りに母艦の位置を探しているような気分だ。永遠に辿り着けないような錯覚が、そこにはあった。
「大尉殿ー?」そこに、呑気そうな声がドアの開く音と共に飛び込んできた。「……ああ、ここにいらしてたんですか?」
「……ジッツォ、」エーリッヒはそのとき、自分が彼らを睨みつけるような表情になっていることに自覚的だった。「アーサーもいるのか」
「ええ、まあ。コイツだけだと不安だったんで」
「どこが不安なんだ。こないだ撃墜されといてよく言うぜ」
「それは今関係ないだろ」
「……お前、助けてもらった恩を忘れて俺に盾突こうってか? よし表出ろ。男なら黙ってステゴロだ」
「上等だどっちがアレを伝えるか勝負だ」
「待て待て待て貴様ら」エーリッヒは収拾がつかなくなるのを感じて思わず止めた。「伝える? 何をだ。集合時間はもっと先だろう?」
「それはそうですが、」アーサーがそう返事したのを、ジッツォは抜け駆けされたような目で見た。「もっと個人的な用件です」
「個人的な用件なら後にしろ。一応もう作戦は開始されているんだぞ」
「あー、個人的でもありますが、それと同じぐらい作戦上の用件でもあります。というか、個人的な用件を作戦上に持ち出したのは、大尉殿、アナタが最初です」
「……何?」
エーリッヒが鋭い視線を向けるとアーサーは少したじろいだようだったが、それはジッツォへの圧力を弱めることになった。
「要するに、俺たちは大尉殿にはもうついていけないってことです」
衝撃の一言だった。すぐに考え付いたのは、艦長が手を回したということだった。口止め料はもらったが、それだけでは足らないとみて牽制攻撃を仕掛けてきたということか? 何かよからぬ噂を流して、隊での権威を失墜させようという試みなのか? それが功を奏した?
「馬鹿、お前……!」しかしそういうわけでもなさそうなのは、アーサーの慌て具合を見れば分かることだった。「言い方を考えろよ! 何でわざわざ、こう、否定的な言い方にするかなぁ⁉」
「いや、だって、その方がギャップがあっていいかなって……」
「ギャップなんか要るか! じゃあお前アレか、報告書とかに『敵には逃げられましたぴえん』とか『撃墜されてごめんちゃい』とか書くのか? そうすりゃきっと、堅苦しくあるべき報告書のフォーマットと実際に用いられたそれらの単語とのギャップにそれを読んだ上官全員が驚いて、お前を寄って集って降格しようとしてくれるだろうよ!」
「今は報告書書いてんじゃないんだからいいだろうが別に! 大尉だってそう思いますよね? 普段の会話ぐらい堅苦しいこた抜きでいいって」
「……いや別に……というか何の話かさっぱり分からん。取り敢えず分かってることだけ片方だけが喋れ。話が取っ散らかって敵わん」
取り敢えず、ジッツォの言い方には語弊があるということは分かった。つまりついていけない、というのは、指導力的にアナタは指揮官として相応しくない、という意味ではないらしい。
「えっとですね、」じゃんけんののち、勝ったアーサーが話し始めた。「今度の作戦、レンドリース艦隊も出撃しているんですよね? だとすれば自分たちは多分また『白い十一番』に出くわす可能性があると思うんですよ。そのときのことを決めておきたいというか、知っておきたいんです」
「そのことか……それなら今まで通りだ。あのパイロットは率先して潰さなければ危険だ。中隊全機を以て包囲して、撃墜する。何か他にいい方法が思い浮かんだのか?」
「ええ、まあ。というか、皆で話し合ってみたら『言われてみりゃそうだな』と思ったことがあるんですが」
「何だ」
「別に、自分たちは『白い十一番』が憎いわけではないんですよね」
「…………」エーリッヒは、一瞬、冷や汗を掻いた。「だからどうした。敵は敵、それも札付きのエースだ。脅威には他ならない」
「いやまあそうですし、アレを優先排除目標とするのには反対ではないんですけど、自分たち全員がアレに攻撃を仕掛けるのは、何というか、こう……」
「だから、何だ。お前の言い方はよく分からん」
「だから、」そのとき口を挟んだのはジッツォだった。「大尉殿としては、それでいいんですか、ってことですよ」
「…………」
「悔しいですが、ジッツォの言う通りです」アーサーもそれに同調した。「中隊全機が一斉に攻撃を仕掛ける以上、『白い十一番』を誰が撃墜するのかは分かりません。スコアとしては誰が落としても共同撃墜ということになるのでしょうが、それでアナタの気分が晴れるかどうかが問題なのです」
「気分が晴れる?」ふん、とエーリッヒは鼻を鳴らした。「気に入らない言い方だ。僕に復讐する気なんてない。国家同士の殺し合いたる戦争に復讐を持ち込むなど……」
「本当にそうですか?」アーサーの視線は鋭い。「アナタは停戦になったと聞いてからも『白い十一番』を倒すことに固執していた。今だってその辺りが変わったとは思えない。現に出会うかも分からない『白い十一番』のためだけに中隊を動かすことを決めている……そして、自分たちは、それが悪いことだとは思っていません」
「……何が言いたい」
「自分たちは『白い十一番』を囲みこそしますが、討ちはしません。決着はご自分の手でつけてください――それが、中隊の総意です」
エーリッヒは、そのとき、それでも一瞬たじろいだ。この提案に乗ってしまえば、そのとき自分は戦場だから敵を殺すのではなく、ただその存在だから殺すことになる。とどのつまりは、本当の意味で人殺しになってしまう。今までは「白い十一番」を「戦場における最大の脅威」として判定することで誤魔化されていた倫理的問題を、自らが背負うということになる。それだけではない。そうなってしまえば中隊にしたって共犯だ。全員殺人者ということになる――誰からも咎められないだけで。
だが、それからエーリッヒは、二人の目を見た。アーサーの糞真面目な目。ジッツォの軽薄そうな目。だがそこには揃って信念がある。促成訓練の粗雑な士官だった自分たちを最低限パイロットとして育て、何とか生き残らせてくれたエーリッヒに、少しでも何かを返したいという。それはきっと、中隊全体としても同じことを考えているのだろう。
すると、それに気づいた瞬間、エーリッヒは自分がもう立ち上がれることに気がついた。そうだ、仲間だ。どれだけ軍が腐っていようと、この国が腐っていようと、それは彼らを見捨てたり蔑ろにしたりする理由にはならない。何より、彼らは僕を信じてくれている。それなのにいつまでも座ったままでいていいはずはないのだ。
「……分かった」故に、エーリッヒは、立ち上がった。「必ず、『白い十一番』を殺す――手を貸してくれるな?」
了解、と二人は敬礼を返した。エーリッヒはヘルメットを被りながら、二人を連れて待機室を出る。作戦宙域まであと三時間。やるべきことはまだ沢山あるのだ。
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