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第192話 「戦争が『来た』世界」へ

 何かくぐもった物音がしたので、カマラは思わず頭まで布団を被った。一瞬、両親が起きてきたのかと思ったのだ。たまに、彼らはカマラが本当に寝ているのかどうか確かめに来る。休み前に徹夜でゲームしていたことがあって、えらく叱られたのだ。この時間になってもまだ寝ていないなんて知られたら何を言われるか分からない――それだと思ったのだ。


 が、よくよく聞いていると、音源はどうにも隣の部屋ではなさそうだった。それよりもっと手前、カマラの部屋の中である。


 両親の寝室の手前――そこにはクローゼットがある。


「…………」


 カマラは匍匐前進の要領で、布団にくるまったままこっそりヘッドボードから顔を覗かせた。すると、小刻みにクローゼットの扉が動いているのが見えた。耳を澄ますと、その戸ががたがた接触する音とは別に、衣擦れの音がしている。中で着替えているのか? だとしたら、何に?


「兄さん……?」


 できる限り物音がしないように彼女はベッドから出ると、カマラはクローゼットに向かって静かにそう呼びかけた。しかし、返事はない。衣擦れの音が聞こえるばかりで、時々手足を扉にぶつけて大きな音を出すのでカマラはひやひやした。


「何してるの、兄さん……!」


 カマラは慌ててクローゼットの扉を抑えにいった。恐らく両親はもう寝入っているには違いないが、音が出続けていいわけはない。しかし、彼女が扉に触れようとした瞬間、それは向こうから開いた。ユーリの顔がぬっと突き出てきて、彼女の前に立ち塞がった。


「兄さん」その姿は、パジャマではない。カマラにはそのとき、嫌な予感がした。「その服は――何?」


「何って、」ユーリは、何のこともないかのように言った。「お前に買ってもらった服だ。着てほしかったんだろ、ほら」


 見ると、確かにそれはいつだったかに買ってきたワンピースだった。黒を基調とした配色に白いフリルがついていて、チョコレートパフェのようになっている。


「……そういうことじゃないでしょ」カマラは、しかし、誤魔化されなかった。「どうして、今、その服を着たの?」


「…………」


「外に出ようっていうんでしょ? どこに行こうっていうの? こんな時間に……父さんと母さんが起きたら、」


「どこに行くかなんて」ユーリはそのときカマラの言葉を遮った。「決まっているだろう――徴兵事務所だ」


「……え?」


「また、戦争になるんだろう? なら、僕の力が必要になるはずだ。まあ、逃亡兵扱いだろうが――行方不明だったエースパイロットが戻ってくるんだ。まず不問になるだろうな。そういうわけだから……」


「ちょ、ちょっと待ってよ兄さん」思わず、カマラの声は大きくなっていた。「どうして?」


「どうしてって、今言っただろう、停戦条約は破棄される。だから……」


「違うでしょ。兄さんは、もう、戦わなくていいって、戦わないって、そう決めたじゃない。どうして急にまた戦おうなんて――そんなことしなくていい。兄さんは、ここにいていいんだよ?」


「なら何で」ユーリは、凍り付くような視線をカマラに向けた。「エレーナさんは死んだんだ」


「……? 何が言いたいの?」


「だって、そうだろうが。」ユーリは、カマラが一度で彼の意図を理解しなかったことに苛立った。「僕は、この戦争が終われば世界はよりよくなると思っていたんだ。僕の人生を捧げたんだ。それだけの価値があるべきだと思った。でなきゃ、アンナさんもノーラさんも、一体何のために死んでいったっていうんだ⁉ ……それなのに、この国の人間ときたら、平然とエレーナさんを殺したんだ!」


 ユーリは、クローゼットの扉を殴った。有り余る怒りが、彼にそうさせた。


「何故だよ! あの人はただこの国のためだけに立ち上がったんじゃあない。あの人は僕に変わるなと言ってくれたんだ。それは、きっと僕に対してだけそう言ったんじゃあないはずだ、あの人が皆に優しいのはお前だって知っているだろう? ならつまり世界に、人類に、戦争なんて馬鹿げたことはやめろってことだろう? ……あの人は、誰より平和を愛した人間だったんだ。なのに、その張本人を殺すなんて――まるで、そんな国のために頑張った僕が馬鹿みたいじゃないか!」


「でも、それは、」カマラはユーリの肩を掴もうとした。が、彼は部屋の出入り口に向かうようにしてその手から逃れる。「その暗殺の犯人が悪いのではなくて? エレーナさんを誰かが殺したからといって、この国全てが悪いわけでも、この世界全てが腐っているわけでもないでしょう? それに、仮にそうだったとして、兄さんが戦いに行って、それがどうにかなるというの? ……なるわけがない。戦って死んだら、ただの無駄死にだわ。兄さん……!」


 そのとき、ユーリはぴたりと動きを止めた。それからゆっくりと振り返る。その表情は、表面上は笑っていた。もしこの場に画像認識AIがあってそれを分析させたなら、笑顔と回答を出すだろう。が、カマラにはその表情の見えない裏側まで見えるようだった。


 それは、嘲笑。


 自らの妹の不見識に対する――それ。


「お前は、本当に馬鹿だな」


「……兄さん?」


「誰が、世直しするなんて言ったんだ? 僕はこれから死にに行くんだ。この腐った世界なんか捨てて、何もない世界に消えて――」


「!」


 カマラは、咄嗟に拳を作ってユーリの頬を殴っていた。彼女の怪力のあまり、ユーリは即座に壁に叩きつけられた。しかし、ニヤニヤという視線が返ってくるばかり。更にその視線は、彼女に恥の感情を呼び起こさせた。殴ってしまったという感情の揺らぎと手の感触が、彼女を後ずさりさせた。


「今、お前は僕を殴ったよな。それがこれから訪れる世界の本質だ。言うことを聞かない奴は殴って従える。力の強い奴が偉くて、弱い奴には何の権利も与えられない。」


「兄さん、でも、だからって死ぬなんて……!」


「お前は」ユーリは、カマラの反論を遮って言った。「僕を英雄と呼んだよな!」


「……⁉」


「いい言葉だよな、戦争が()()世界じゃ、他人を効率よく殺せる人間が一番格好いいわけだ。チャップリンだったか、『百万人殺せば英雄だ』って。それに比べりゃ随分と値下がりしたもんだが、皆がそう言うなら、そうなんだろうさ!」


「違うよ、兄さん、それは違う!」


「何が違う⁉ 僕は『白い十一番』と呼ばれたんだぞ⁉」


「ッ⁉」


 カマラは言葉に詰まった。そうだ、その異名は彼が言い出したことではない。周りの誰かから、自然に生まれた言葉だ。


 だとすれば――英雄は生まれてしまっている、万雷の拍手の中で。


 ならば死ぬときも――その中に埋葬されるのだろう。


「お前らは僕を英雄にしちまった。腐った世界の腐った人間にどう思われようがどうだっていいが、お前らは僕がそう振舞えば満足なんだろ、えぇっ⁉ ――なら、お望み通り人を殺してやるよ。世界を敵と味方に切り分けて、その前者だけを言われた通りに皆殺しにしてやる。そうやって殺しまくって、それから死ねば後腐れはないものな!」


「兄さんッ!」


 カマラは、また拳を振り上げた。左手でユーリの胸倉を掴んで、右手で拳を作って――そして、振り下ろせない。


「どうした、殴れよ」ユーリは、それを見透かしたように笑っていた。「そうやって、お前のやりたいように僕を矯正してみせろよ! ……お前は、本当は僕じゃなくて自分の思い通りになるお人形が欲しいんだろッ⁉ いいぜ、やれよ、これからはそれが世界のルールなんだから!」


 振り下ろせるはずがない。何故ならそうしてしまえば、彼の言い分が正しいことを証明してしまうからだ。他のどの方法を用いたとしても、それが彼女のエゴであることには変わりない。そして、彼が自ずからそれを望まない限りは――ただの押し付けになってしまう。


 すると、彼女は全くの無力となった。今ユーリから手を離せば彼がどうなってしまうか分かったが、彼が彼女の手を振り解くのを止めることもできなければ、その繋がりをもう一度取り戻すこともできなかった。ただ二人の間には目に見えない断絶があった。その深い谷をユーリは一人で作り上げてしまった。


「待ってよ、兄さん……!」


「さようなら」


 ユーリはそう言って、ドアを開けると、玄関の方へ行った。途中、口論の音で目が覚めたのだろう、両親が寝室から顔を覗かせたが、それに一瞥もくれずに先へと彼は進む。靴を履き、まだ雪の残るノヴォ・ドニェルツポリの街へと身を投げ出す。


「待ってよ、どうして、どうして分かってくれないの、ねえッ……!」


 それを追いかけることなど、今のカマラにはできるはずもないことだった。両親も、座り込んで泣きじゃくる彼女と突然現れたユーリとのどちらに対応するべきかどっちつかずになって右往左往するばかりで――つまり、ユーリを引き留める者は誰もいなかった。

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