第191話 カマラの想い
カマラは布団の中で目を閉じながらも、少しも睡魔が訪れないのに苛立っていた。
別に、疲れていないわけではない。学校が始まって、いつものように部活に遊びにと忙しくなっているわけで、その生活が彼女に疲労を齎さないはずはない。
それに、外的要因としても静かになっている――兄であるユーリは、あの日以来、パソコンに近づくことさえしなくなっていたのだから。
あの日。
大統領が殺された日。
あれ以来、世間は一つのスローガンの中で動いているようだった。政治的中立を是とすべきテレビや新聞などのメディアでさえ――実際彼らは開戦前夜でさえ敵愾心を煽るようなことはしなかった、ただ冷静に、政府の公式発表を報じただけである――「エレーナの仇討」を合言葉に動いているように感じられた。街は不健全に活気づき、買い物のときに見かけた近くの徴兵事務所には開戦のとき以来の長蛇の列ができていた。徴兵対象者も拡大になっていたから、恐らくそのせいだろう。カマラと大して変わらない年頃の男の子たちが多く並んでいた。
すると、それとは対照的に、ユーリの様子は全く暗くなっていた。せっかく癒えかかっていた彼の心の傷は再び切り開かれてしまったようだった。口を開くこともなければ、本を開くこともない。ただ起きて、用意された食事を食べて、それ以外の時間は寝ているようだった。試しに、寝ている間にパソコンの彼のフォルダを開いてみても、変化はない。あの日の前日を最後に更新は止まってしまっている。カマラが不在のときも何もしていないということらしい。
そして、起きているときといえば――虚ろな目でどこかを見つめながら、ぶつぶつと何かを呟いているばかりだった。その「何か」の正体までは、彼女には分からなかった。大抵生活音の中に紛れるような音量であるし、ユーリが起きていて、かつ彼女が家にいる時間というのもそう被っているものではない。
だがその呪詛のような言葉が、カマラの瞼からも睡魔を追い払ってしまったらしかった。なるほど彼女をして大統領の死を防ぐなんて大それたことはできないまでも、あのとき無理にでもリモコンのボタンを押してチャンネルを変えてしまえばよかったのかもしれない。あるいは、そのまま電源を切り、無理やり彼を外に連れ出してしまえばよかったかもしれない。そうすれば、彼が直接彼女の死を見ることはなかったのだ。彼の網膜に強い死のイメージを焼き付けることもなく、死んだという事実だけに触れることで、少しは――いや。
それも、多少症状を和らげるだけに過ぎないだろう。
と、カマラは寝返りを打ちながら思い直した。そもそも彼を蝕んでいる病の正体というのは、戦争の影なのだ。それが、今まではカマラに照らされ、距離も遠くなったために一時的にユーリの心はその下から抜け出したようになっていたのが、世間の戦争ムードに中てられてそれはまたぞろすうっと伸びてきて、またユーリを踏みつけて縛っているのであろう。だとすれば、エレーナが死んで、その復讐に国が燃えている中では、畢竟彼の心に戦争は染み込んでくるに違いない、まるで酸性雨のように。
(だとしたら、)カマラは、ぎゅう、と無を抱き締めた。本当は、そこにユーリがいるべきだった。(だとしたら、兄さんはいつ戦争から解放されるの? もう戦争をしたくないって、だからしないって決めたのに、これじゃあいつまで経っても戦争に支配されたままじゃない)
カマラには、その腕の中の虚しさがユーリの行きつく先であるかのように思われた。戦争に絞り尽くされた心と体が日常によって回復しきる前にまたその魔の手に攫われてしまえば、後には搾りカスしか残らないのではないか、という恐れがあった。この戦争がどちらの勝利に終わるとしても、それは敵味方平等に有形無形問わずあらゆる形で人の命を吸い取る巨大装置であることには変わりないのだ。彼がその餌食になるのを、彼女は恐れた。
ユーリには、もうどこにも行ってほしくない。
フロントライン・コロニーに行くときでさえ、どこか嫌だったのだ。それは、そのときは単なる予感に過ぎなかったし、無論、戦争などという事情は、入学当初はまだ分からないことだったが……だがそれは現実となった。
ほとんど壊れかけの心と体で雪の中に埋もれていた兄を見つけたときは、流石に肝が冷えた。
凍り付いた、というのは、些か不謹慎な表現か。
咄嗟に背負って、その上から自分のコートを被せて、来た道を戻った。ほとんど凍り付いたような状態の彼は、ほとんど息をしていないばかりか心臓の拍動すら感じさせなかった。あまりに弱くなっているそれが歩く振動に打ち消されているだけではあるのだが、彼女には既に自分の努力が無駄ではないのかという予感すらしていた。
だから、彼が目を覚ましたときは、本当は飛び上がりたいほど嬉しかった。でも、それをするにはまだ早いとも考えていた。だってそれは、壊れたパソコンが、辛うじて電源が入ることを確認したというだけのことに過ぎない。
そして実際には、中のプログラムは滅茶苦茶になっていた。戦争のために最適化された上、そこに多大な負荷をかけて破損させていた――世界を敵と味方に切り分け、命令なくしては何もできず、壊したり殺したりという動作に一切の倫理的リミッターがなくなった状態。そんなのは彼女の知るユーリではなかった。
ここにいながらにして、ここにいない。
ここにあるのは肉体であって、魂はどこかへ行ってしまったみたいに。
殺された、ようなものだった。
だが、死んではいないのだ――死亡通知書がポストに届いたのではない。それだけが、唯一の希望だった。だから彼女は全力で彼に向き合った。そして、ある程度まではこの世に戻ってきたのだ。
それを、この程度の困難を前にしただけで、むざむざまた死神の手に委ねるというのか?
――いや、そんなことをするわけにはいかない。
カマラは、手を握り締めて目を開けた。
ユーリは、あれだけの経験をしてなお、一度は生きることを選んだのだ。そうさせた一端は、確かにカマラの我儘もあるかもしれない。彼女のエゴが、彼の人生を歪めたのかもしれない。「生きていればいいことがある」なんて言葉は、人生が上向いている人間から発せられる言葉だ。生き続けるということはくじを引く回数を増やすというだけのこと。当たりだけ出るとは限らない――そして往々にして、外れの方が多いものである、くじというものは。
だが、どのくじを引くのか、ということが問題なのだ。
戦争という、どれを引いても外れしかないようなくじからは遠ざける。
ユーリ・ルヴァンドフスキは、もう二度と、戦争には関わらせない。
そう彼女が決意を固めた、そのとき、だった。
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