第188話 「泥棒万歳」
ユーリの心には、さざ波が立った。突然後ろから心臓を冷たい手で掴まれたような気すらした。軍靴の足音が周りを取り囲んで、彼を縛り付けるようだった――否、現に縛り付けられていた。突然体を同体積の蝋に置き換えられてしまったみたいに、何もできなくなったのだから。
「……兄さん」見る見るうちにユーリの顔色は悪くなる。それを見てカマラはキッチンから戻ってきた。「チャンネル変えよっか。ほら……」
しかし、そのときユーリは、咄嗟に動くことができた。食卓の上に無造作に置かれているリモコンを取った彼女の手を上から抑えたのだ。
「いや」ぎょっとしてカマラが彼を見る――が、彼は彼女を見ない。テレビから視線を動かさない。「これでいい。大丈夫だ」
動かせないのではない。彼はそのとき、自分自身の体のコントロールを回復していた。戦禍の恐怖は未だ彼の体を蝕んでいたが、それを上回る怒りが彼の中にはあった。僕を甘言で騙して粉々に砕いておいて、今更戦争に関して何を言おうっていうのか?
そうして黙りこくったユーリたちの見る画面の中では、大統領府をバックに、分かりやすいお立ち台が設置され、その後ろに側近の政治家たちが並び、あとは大統領本人を待つばかりの状態になっていた。それに向かい合うのはずらりと並んだ報道陣。その隊伍めいた均等さの上をカメラの焦点は動いて、壇上へ上る大統領を捉える。
「…………ッ⁉」
しかしユーリが息を吞んだのはそのときだった。そのとき画面上に現れた彼女は、こう、異様だったのだ。
それを、ユーリは上手く言葉にできなかった。
そのような状態の彼女を――それどころか、人間を、見たことがなかったのだ、彼は。
なるほどやつれているわけではない。頬がこけているようにも見えなかったし、足取りはふらつくどころか確固たるものであった。むしろ力強さすら感じられる。彼女を救国の女神かドニェルツポリのジャンヌ・ダルクの類と見る人種にとっては、それは頼もしい要塞のようにも感じられるのだろう。
しかし、その力強さこそ――ユーリの感じた異常の正体だった。
そのオーラのようなもの。
それがあまりに強すぎるのだ。目が爛々と輝いて、じっと前を見据えている。否、前しか見ていない。その先にあるのが、何であるかは分からない。恐らくその不可視性は彼女にとっても程度の差こそあれ同じことには違いないのだが、それなのに彼女は何が起こるか分かっているかのようにずんずんと進む。まるでそれは、暗夜の中を不安に駆られて進んでいるのに、一人だけ全て見透かしているかのように先行していくようであった。
「……あれ、エレーナさん? 何だか、雰囲気変わった……?」
カマラすら、その不気味さを感じ取っていた。だとすれば、周りにいてそれなりの頻度で顔を合わせる記者たちはもっとその変化を見て取っただろう。しかしそれを誰も口にせず、あるいは誰かがそうする前に彼女は壇上に到着した。
「国民よ!」そして、口を開く。「艱難辛苦に耐え、かの大国の暴虐に耐え続けてきたドニェルツポリ国民よ! 私たちは今、危機に瀕している! 重大な岐路に立たされ、にっちもさっちもいかぬようにさせられているのである!」
その第一声が、ユーリを尚更不安にさせた。そしてそれは恐らく彼女の意図した通りの結果だろう。以前の彼女なら、こんな不安を煽るような語り出しは選ばなかったはずだ。
「私がこの場を借りて申し上げたいのは、無論、この停戦という状況についてである。我々は突如として訪れた侵略という暴虐に対して、全力を尽くして抵抗してきた。それはドニェルツポリ国民の持つ平和と自由を愛する心が、悪意ある侵入者たちに対して当然の免疫反応を起こしたものとして私は了解している。そしてその心は、確かに地球をはじめとした他国の国民の心とも共鳴し、数多の支援を彼らは与えてくれた。その両方に、私は敬意を表し、また感謝したい」
しかし、と彼女は続けた。瞳の妖しい光はそのとき増大し、ここにいない何者かに対する敵意すら帯びた。
「しかし私がここで明かしたいのは、この停戦が、地球から齎されたものだという事実である。彼らは我々に対し支援の打ち切りを通告し、この国防権という正当な権利の執行を停止するよう求め――否、仕向けてきた。なるほどそれは彼らにとっては、それはそれで正当な権利行使だったに違いない。彼らの首領が交代した以上、それに従ってその奉仕すべき支持者も変わり、政策も変化する。それに、彼らとて我々の滅亡を望んでそのようにするのではない。戦争当時国のどちらか一方だけに対してではなく、プディーツァにも交渉のテーブルに就くよう働きかけたのは、誠実であろうとしている証だ――しかし、誠実であろうとする態度であることと、それが実態を伴うかは話が別である」
ふと、ユーリはそのとき彼女の背後に目をやった。側近――確か、副大統領だったか――は、目を見開いた後、怪訝そうに細めていた。彼女が今日演説する内容が初耳であるかのようだった。その護衛たちも、身動き一つしないままではあったが、どこか不安そうにしている。
それら全てを置き去りにして、エレーナは語り続ける。
「現に、プディーツァはこの停戦条約をいいことに軍に休息を取らせている――これはいい。それは停戦条約において認められた正当な権利だ。これを糾弾することはできない。我々の軍隊もそうしているからだ。しかしその涙ぐましい努力にもかかわらず我々は支援を打ち切られ次第にその力を瘦せ細らせるほかないというのに、彼らは肥え太っていき力を蓄えることができるというのは、これを誠実と呼ぶのは難しい。何しろプディーツァは、交渉の席にこそつけ、それをいいことに我々の正当な要求を全て拒絶し、彼らの得た不当な利益を追認するよう我々に強いようとしている! 彼らにとっては我々の国土を踏み荒らすのは決定事項であって、既に問題は時期が整うだけなのである!」
カマラは静かにユーリの背後に近づいた。そうして、無言のままに彼の肩に手を置く。そうしなければ、カマラは目の前で繰り広げられる脅迫めいた言動に耐えられなかった、それを彼女の知人にして自国の大統領がしているという事実にも。
「彼らプディーツァ人の考えは、恐らくこうだ。彼らは隣家が庭先で細やかに開いているバーベキューパーティーが長らく気に入らなかった。五月蠅いというのではない。単に羨ましかったのか、あるいは空腹だった。そこでプディーツァ人たちはガレージからスコップを取り出し密かに塀に穴を開けて庭に忍び込むと、そのまま隣人に襲い掛かった。そうして彼らから肉を取り上げたプディーツァ人は、褒美と言わんばかりにそれを食べようとしたが、食器がなく手づかみで食べるには熱すぎる。そこで肉が冷めるまで待っているに過ぎないのだ。つまり時間は彼らの味方であって、今すぐ立ち上がりスコップを奪い、このはた迷惑な隣人を打ち倒さねば、我々は永遠に平和から遠ざかることになるのである!」
ユーリは、カマラの手に自分の手を乗せて、握った。バラバラになりそうな体と心を繋ぎ止めるには、彼女の体温を借りるしかないと思ったからだ。
「なるほど、これは戦争終結からは遠ざかる決定だろう。物事を表面的に見る人たちからしてみれば、私の下したこの決定は、数ある選択肢の中で最も愚かなものに感じられることだろう。ドニェルツポリは滅びゆく定めなのだろうか? 愚かしい私の愚かしいこの決定がこの国を滅ぼすのだろうか? ……しかし平和とは、単に戦争をしていない状態ではない。どの国からの干渉も受けつけず、どの国からの圧力も跳ね除け、どの国からの武力も弾き返す。それが許されることこそ、真の平和なのである!」
――そのとき、カメラには「それ」は映っていなかった。当たり前だ、記者会見の場でそれを開いた人物ではなく記者の方を映す人間がいるとしたら、「記者会見」という言葉の意味を「記者が会見する場」と勘違いしているのだろう。
「では真の自由とは何か? それは隣国の野放図な膨張主義を受け入れ、それに平伏しその野心を刺激せぬよう暮らすことではない。むしろその逆で、我々は対等な立場にある一国家であるという真実を突き付け、野望に立ち向かい、その達成を打ち砕く。そうして初めて、真の自由というのは勝ち取れる――そう、それは勝ち取るものなのである!」
最初の異変は壇上にいるボディーガードの動きだった。「それ」を見た彼は一瞬腰のホルスターに手をやったらしかった。らしかった、というのは、その動作を完結させることはなかったということである。何故なら、それを拳銃で撃てば、圧倒的大多数の記者たちに流れ弾が当たると考えたからだ。何より悪かったのは、他のボディーガードたちはまだ「それ」に気づいていなかったことである。彼らは、運悪く、他のところを警戒していた。
「私はこの国に、この世界に! ……この自由と平和をこそ残したい。今ここで立ち上がり、この二つを手に入れんとしなければ、世界は戦争という不正な手段を正当であると勘違いする。安易で安価だと判断する。その一方で自由と平和の両者の値段は跳ね上がり、滅多に手に入らない高級品となる――そんな悪夢のような連鎖反応を、私は望まない」
そして、そのよそ見をしていた彼らが事態に気づいたときこそ、ユーリたちもその事態に気づいたのだ。画面の真ん中に飛び込んでくる黒い物体。それが何であるかユーリにはすぐに分からなかった。エレーナの顔の前に割り込んできたそれが角張った何かであることは――そしてそれが恐らくカメラであることも――分かったが、それがどうしてそこに飛び出て来たのかが理解できなかった。
何故、カメラ?
「故に私は、ここに宣言する。たった今よりプディーツァ連邦との交渉の一切を破棄し、準備が整い次第、可及的速やかに戦闘を――」
その答えは、次の一瞬で分かった。
それが、炸裂したのである。
「――ッ⁉」
ばん、と音がしたかと思うと、その黒色が画面に占める面積は一瞬で膨張して、固体から気体にその位相を変化させた。それと同時に、画面に映らないほど細かい破片が飛び散ったらしかった。
そうでなければあり得ない。
エレーナ・エンラスクスの上半身が、ものの一瞬で血煙と化して、吹き飛んでしまうなんて。
彼女の顔が、一瞬にして蜂の巣になるなんて。
腕が千切れ、服が引き裂かれ、髪がハラハラと舞うなんて――あり得ない。
しかし彼は見た。三脚に固定されているであろうそのカメラは、驚くべき正確さでその惨劇とその続きを記録していた。同じく破片によって負傷したボディーガードたちが遅ればせながら、横たわっている大統領に近づき、安否を確かめる。カメラが引くと、真下にいた記者たちは我先にと逃げ出すところだった。そうしていない肉体には、漏れなく血の痕跡がある。その人流の中に外側から何人かのボディーガードが飛び込んで行って、逃げ出そうとする一人を取り押さえ――たところで、画面が切り替わり、「しばらくお待ちください」と湖を行く船の映像が流される。
――何だ、今のは?
ユーリには、それが何であるかを理解できなかった。理解したくなかった。確かに彼はエレーナを憎んでいた。彼を戦争に駆り立てた内の一人であったからである。その事実を忘れることはできない。彼女は彼を魔法にかけ、代償としてその人間性の一部を切り取ったのだから。
だが今のは何だ。
死ん……だ、のか? 彼女は?
殺されたというのか?
そう理解した瞬間、その衝撃だけがあって、恨みも辛みも憎しみも、全て忘却されてしまった。我先にと逃げ出したそれらと違って、一度は心が通じ合ったという事実は真っ先に戻ってきた。その仄暖かい感触は、きっと、永遠に失われたに違いなかった。
その事実に気づくと、理性がゆっくりと首を擡げてきた。それは駄目だろう、という意見には、倫理的側面以外も含まれる。仮に彼女が本当に死んだのだとするならば、これは暗殺ということになる。どうやっても、政治的な主張からは逃れられないはずだ。問題は、その主張とやらが、どういう内容であるか、ということである。
なるほどエレーナが最期に主張したのは、戦争の継続であった。だがそれを遮ろうとしたのならば、それはつまりその反対、戦争の終結を望んだということなのだろうかと言えば、それは違うように彼には思われた。平和を望む人間が、こんな反平和的選択をするだろうか? ということである。
しかし、だとすれば――誰が、何の目的でこれを行ったのか?
プディーツァか?
地球か?
それともドニェルツポリ内部の政治力学の引き起こした事故なのか?
(分からない――でも、)ユーリには、全身の力が吸い取られるようだった。(でも僕たちはこれから、どうなるんだ?)
ユーリは、ゆっくり立ち上がった。カマラが呼び止めるのも無視してそれから覚束ない足取りで自室に戻り、そのまま倒れこむように、ベッドに飛び込んだ。
そして動乱が始まる。
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