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第184話 船出


 そしてすぐ閉じる。


 たったの三〇秒で、同じだけの時間を全力で走ってきたみたいに息が上がっていた。まるで走ってきたみたいなのはそれだけではない。全身に疲労が蔓延っていた、さっき起きたばかりだというのに。


 読んだのは、たったの数行。


 精々、「どうしてこの本を書こうとしたのか」「この本はどういう内容なのか」という説明の、ほんの書きだしに過ぎない。


 たったのそれだけで、ユーリは疲れ切ってしまった。椅子の背もたれにしな垂れかかり、天井を見上げる。軍事教練の座学の時間を思い出す。カッティングパイがどうとか、クリーピングバラージがどうとか、恐らく軍事用語ではなく睡魔を呼び出す魔法の呪文だったに違いないのだが、それを早口で耳から流し込まれているかのような感覚だった。


(間違いなく言えるのは)ユーリは、息を整えながら、体を起こす。現行のエンハンサーとは似ても似つかないブリキのおもちゃみたいなロボットの、アニメ調のイラストの表紙が目に入る。(以前これを読んだときはこんなことにはならなかった、ということだ――)


 何より、文章が頭に入ってこない。


 たった今読んだばかりの数行をユーリは全く頭の中で再現することができなかった。前回「時を継ぐもの」を読んだときと同じ症状だ。文章は目に入ってきてその意味も理解できるのだが、その理解した意味が脳に染みこんでいかない。そういうわけだから記憶に残らず、経験として吸収されていかないのである。


 それは、ユーリにとって残酷な現実であった。戦争以前・以後では、彼が完璧に違う人種になってしまったということの、他ならぬ証明のようであったからだ。お前はもう、二度と本を読むことはできない。お前にできることはエンハンサーの操縦桿を握り、敵機を撃墜し、そのパイロットを一人残らず殺すことだけだ――そんな声が、一瞬、耳元で囁かれた、気がした。


(…………違う!)ユーリは首を横に振る。(僕は、確かに人殺しだ。何十人と殺してきたし、死なせてきた。だけれど、僕は変わるんだ。いや、戻るんだ、元の自分に!)


 ユーリは再び「『宇宙戦争』史」を手に取って読み始めた。文字の羅列は、まるで対空砲の弾幕射撃のようだった。一文字一文字が浮き上がって、レーダー上のドットのように散らばる。その一つ一つはミサイル。もしも一発でも迎撃し損なえば成形炸薬弾頭がユーリの胴を真っ二つにしてくれることだろう。そうなれば――違う。


 ()()


(僕はノヴォ・ドニェルツポリにいる。目の前にあるのは勉強机と本で、エンハンサーのコックピットではない。そうだ、僕は今ここにいる。僕は――)


 ユーリ・ルヴァンドフスキ。


 少尉でもなければ中尉でもない、「白い十一番」でもなければ「クルップ3」でも「ヘンシェル11」でもない、ただのユーリだ。あの歴史好きで地球に行きたかった、馬鹿で間抜けでプライドばかりが高くてちょっとだけ成績がいい、平和ボケの少年と地続きの存在だ。


 ユーリはそのとき、分厚いガラスが消えていくのを感じた。なくなったのはガラスだけではない。自分自身を覆っていた雪雲のような重苦しい枷が外れていくのも分かった。ずっと降り続けていた吹雪から解放され、久々の晴れ間が世界を隅々まで照らしていくようだった。次第に白い雪は透明な水に姿を変えて、彼を本来の姿に戻していくだろう。


 気づけば、最後の章になっていた。あとがきだ。


『さて、この本も最後になるわけだが、ここまで戦争についてまとめておいて何だと言われるかもしれないが、念のためはっきりさせておきたいことがある。それは、私は戦争を望まないということだ。全く望まない。なるほど架空の世界の戦争は私たち読者・視聴者をワクワクさせてくれるものかもしれない。そこには日常にない刺激と敵を倒す快感があって、カッコいいメカニズムやマシン、美男のヒーローに美女のヒロインと相場が決まっている。一人の兵士の閃きが全軍を救い、一騎当千の英雄が雑魚のモブを一網打尽にする。戦争はそのワクワクドキドキハラハラする物語の始まりであって、終わるときにはそれが終わるものと決まっている。そこには正義と悪の対立があって、悪い方が必ず負けるよう作られているのだ。しかし――』


 ユーリはそこでページを捲る。


『――実際の戦争は違う。それは始まりでもなければ終わりでもない。それは人類史の何らかの過程に過ぎないし、仮にそれが始まりだったとして、そもそもその「終わり」まで生き残れると一体誰が保証してくれるのだろう? それに、現実には二元論的な善悪は存在しない(なるほど虐殺などの悪行は存在するがその反対が善であると消去法的に言えるというわけではない)。何なら時には勝者と敗者の区別もない。マシンは近くでよく見ると武骨で不格好な代物だし、ブ男もブスも戦っているし、大抵、現場の閃きは上層部の頭痛の種で、上層部の名案は現場の人員を殺す。全員が雑魚のモブだがそれぞれに来し方があって全員に暗い行く末が待っている。そこにはワクワクもハラハラもドキドキもなくて、ただ取り敢えず「今」――今日でもなければ一秒間でもない、もっと根源的で刹那的な概念――というものに対する執着と「将来」――こちらも、明日でもなければ一秒先ですらない、もっと短く定量化不可能な概念――への不安だけがある。これでは寝坊して朝飯なのか昼飯なのか分からない食事を摂って、一日中携帯端末を眺めつつテレビで芸能人の不倫問題にあーだこーだ偉そうに意見するような怠惰な幸せは得られそうにない。』


 ここまではミクロの視点、と著者は続ける。ミクロの反対と言えば――マクロだ。


 個人に対しての、国家。


『もし国家間の問題に対して戦争という強制手段が平然と使われるようになれば、それは感染症のように世界を覆うことだろう。これは、別に経済的な話だけをしているのではない。確かにそれもあるが、もっと問題なのは、それが安易で簡単と認識されてしまうことだ。全ての国家がそれを理解したとき生まれるのは、優勝劣敗・弱肉強食の世界である。負けた奴が勝った奴の言うことを聞く。何故なら勝った奴は強くて偉いからだ――なるほどそれは酷く単純な世界観だ。それが標準となるのである。その便利な理屈を適用するのに何ら倫理的コストがかからないとすれば、誰もそれを振るうことに躊躇をしないだろう――少なくとも、強者の側は。だが、その理屈というのは、現実だ。現実の戦争なのだ。あの、有形無形問わずあらゆる資産・資源をドブに捨てていく愚かな行為なのである。結果、経済の発展は遅れ、文化は衰退し、文明は頽廃する……こう書くと誰かが恐らくこう反論するだろう、「素人質問で恐縮ですが、経済や文化はともかく、文明は進化するのではないでしょうか? 電子レンジも元はマイクロウェーブ兵器の研究成果ですし、インターネットも冷戦時代のミサイルネットワークから発展したものです。それに、現代文明の多くを担っている宇宙開発だって、大きく進展したのは米ソ冷戦期じゃないですか」と。しかし、それは大いなる謬見であり、その誤りを理解してなおそう主張するのなら詭弁だ。確かに、必要は発明の母だ。そして戦争は必要の父である。しかし必要の母が誰かと言えば、日常である。換言すれば生活である。電子レンジなら食品を温め直すのに必要になるだろうし、インターネットも遠距離相互通信の必要から生じてくるだろう。宇宙開発にしても、その萌芽は第一次世界大戦以前に、軍隊とは関係ない場所で見つけることができるだろう。戦争は、発展を急かしはしてもそれ自体を生むことはほとんどない。とすれば、経済や文化を損ねる以上、差し引きはマイナスになる。そして何より、開発に必要な人的資源を無為に失う可能性も加味しなければならない、戦争が人命を半ば無差別的に奪っていくものである以上は。』


 文章は、そこである程度の冷静さを取り戻す。戦争がかくも無益で悲惨であるのなら、それをある種魅力的に描く「宇宙戦争」という舞台設定は、果たして倫理的と言えるのだろうか?


『私はその問いに、イエスと答えたい。それは、単に言論の自由だとか、あるいは「物語を本当のことだと思うのは馬鹿だ」という切り捨て論からではない。言論が自由であってもそれは批判からも自由になることはないし、物語には実際、真に迫る力がある。それを無視しては創作物を語る資格がない。ではどういうわけなのかと言えば、そこには、人の欲望が詰まっているからである。極言してしまえば、全ての著作物というのはポルノなのだ。自分のなりたいものやなりたいのになれないものに対する眼差しがそこにはある。「宇宙戦争」ものの場合それが喚起するのは、当然性欲ではなくて、征服欲だとか、奇妙な言葉だが「攻撃欲」や「戦闘欲」といったそれを現実世界で達成するのは危険すぎる何かだ。戦場の臭みを抜いて、英雄譚風味に仕立てる行為は、なるほど確かに暴力的だ。暗いところは捨象して元からなかったことにしてしまうのだから。しかし、人類が炎と石と棍棒を手にしてから持つ仄暗い欲望に対して部分的にせよ手当せずに放置することは、それこそ暴力的な行いである。つまり「宇宙戦争」ものの明るさというのは、これが現実に起きてはならないという戒めを、裏から見ているのである。』


 ユーリは、ページを捲る。そして最後のそれであることを見る。


『再度繰り返すが、私は戦争を望まない。いつか、こんな時代が来たらいいと思う。「戦争」という単語が古典の単語集の隅に追いやられて、物語の設定としてのみ機能し、どうやらそういう()()がかつてあったのだという伝承だけが残って、それを元にした祭りもあるがその様子からはかつての血生臭さは抜け落ちていて、楽しさだけが残っているような、そんな時代が……。』


 本を、閉じる。


 それから溜息を、宙に吐く。時間が経過するのも忘れて、文章の世界に食い入っていた。地球時代の人々の宇宙観や観測の限界から来る描写の特徴。宇宙開拓時代における宇宙に対するある種の諦観・忘れられた夢や希望の世界観。その挫折を乗り越えた現代の作品たち――それらがどこかユーモラスな書き口で語られ、微笑みかける。ユーリには、それはある種の誘惑に感じられた。


 曰く、戦争を描いてみないか、と。


 この時代を超えた名作たちの中に、自分の経験も入れてみないか、と。


 それが、あの戦争を乗り越えたということになるんじゃないか、と。


 そう囁かれてみると急に、自信が湧き上がってきた。ユーリは、部屋の中を探して通信端末の類を探した。そこにあるはずのワープロアプリを使おうとしたのだ。程なくして、それは見つかった。引き出しの中にノート型のそれは仕舞われていた。ピンク色でシールがあちこちに貼られたそれは、カマラの私物だろう。起動してみると、パスワードをかけていない。


「…………」


 しかしユーリは、そのセキュリティ意識の低さには何も言わずに、一直線にワープロアプリを開いた。真っ白なキャンバスが広がる。それはまるで大宇宙だった。彼はそこにぽつんと浮かぶ海賊船。それでは、どのような針路を取りますかな、船長?


「……そうだな」


 こうして、物語が始まる。最初はおっかなびっくりだった舵取りは次第に滑らかになっていき、小惑星帯も高速で迫るデブリも抜け出して、どこまでも全速力で進んでいく。

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