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第181話 甘えと信頼

 ユーリが目を覚ますと、まだ温もりの中に彼は横たわっていて、そこには今までなかった柔和さが追加されていた。言い換えると、彼はいつの間にか布団の中にいたのだ。きっとカマラが運んでくれたのだろう。


 取り敢えず身を起こそうとすると、彼の上体は何かに引っかかって――というよりも、引き留められて――止まった。その力のかかっている方向を見ると、隣にはカマラが間抜けた寝顔を晒している。彼女はユーリを抱き枕代わりにするような姿勢でいるので、彼の動きをその分厚い手足でがっちり防いでいた。


 おかげで首しか動かせない――その状態で見回すと、部屋の時計が何とか見える。両親が帰ってくる時間にはまだ遠かったが、油断は禁物だ。そろそろカマラを起こさないと、もしかすると彼らはこの部屋に入ってくるかもしれなかった。


「……おい、起きろ。」ユーリは、彼女の首筋に残る指の痕に苦い顔をしながら、体を揺すぶった。「いつまで寝ているんだ」


 が、体重と力の差は歴然だった。軽く身じろぎしただけでは彼女の瞼はぴくぴくするばかりで自分からは開こうとしない。何となくユーリは「アマノイワト」という地球のニホン地方に伝わる神話の一節を思い出した。


「キャンドルサワー君……そこは触っちゃらめぇ……」


 ……もしかして実在はするのか、キャンドルサワー。彼氏じゃないだけで。


「起きろ……!」


 ユーリは何となくぞっとして、彼女とは反対側に一度体重を預けると、それで反動をつけて思いっきり体当たりをした。どす、と重い音がすると彼女は


「ほげッ?」


 と間抜けな声を上げ、ゆっくり慣性モーメントのままに寝返りを打って――転げ落ちる。


「うぎゃッ」


 それはカマラの腕にがっちりと掴まれているユーリも同じだった。むしろ、ただ落ちただけの彼女に比して悲惨なことになった。カマラに振り回されるような格好になって、床に落ちた途端放り投げられたのである。その勢いで彼は勉強机の方に吹っ飛ばされて、わき腹を強かに打った。


「いたたたた……あれ、兄さん? 何で床で寝てるの? 確か、ベッドに寝かせたはずなのに……」


「…………」


 ユーリは痛みのあまり、声を上げることもできなかった。自分の招いた事態だという自覚もあって、彼はただ、歯を食いしばって睨むばかりだった。


「よいしょっと」


 対するカマラは、まるで何事もなかったかのように立ち上がると、部屋の明かりをつけた。どうやら彼女はユーリを寝かしつけてから着替えたようで、似たようなブラウスだったが胸元はちゃんと閉められていた。その上にある首には、しっかりと手の痕がついてしまっている。


「……ごめん」


 咄嗟に、そんな言葉が出た。


「ん?」


「服、台無しにしてしまった。お前の大切なものだろうに……それに、首も……本当にすまない。」


「いいっていいって。だってボタンが外れただけだったし、それぐらいなら直せる。首は……まあ誤魔化しようがないわけじゃないしね。それより……」


 そう言いながら、彼女は部屋の隅の方に目をやった。何かと思うと、その視線の先には紙袋がいくつも置いてあった。それを彼女は手に取って、ユーリの近くに置いた。


「何だよ、それ」


「何って……兄さんの服だけど?」


「この会話、前にもしたな……って、買ってきたのか、お前?」


「え、うん。兄さんが寝ている間にちゃちゃっと。だってサイズ中学時代から変わってないもんね?」


「いやそんなことはない。」ユーリは反射的に強がってしまった。「僕はこれでも年々成長していた方だ。同じサイズであるはずがない」


「? 今着ている服から逆算すると同じぐらいのはずなんだけど……」


 今着ている、というのは、例の「地雷系」である。彼女は服を買ってきたはいいものの、ユーリが寝ている間にそれを着替えさせようとか、そういうことは考えなかったらしい。


 いや、まあ、確かに、寝ている間に脱がされて着替えさせられても困ると言えば困るのだが……。


「まあいいや。取り敢えず着てくれる? ほら」


 ユーリの葛藤を余所に、彼女はずずっと紙袋を前に突き出した。ユーリは妙に量の多いそれを訝しげに見つつ、実際の重さに苦い顔をしつつ受け取って、中から取り敢えず一着取り出した。


 ふりふりのスカートだった。


「着れるかァッ!」


 ユーリは咄嗟に床に叩きつけた。


「あー! 何するの!」


「お前こそ何してんだ⁉ 何を平然と、俺をまた女装させようとしてるんだよ⁉ あ、もしかして前の服からの逆算ってそういうことか⁉」


「違うよ! これは私のやつ! ほら、サイズ違うじゃん⁉」


 そう言って彼女はそのスカートを拾い上げると、ユーリの腰に当てがった。なるほど確かに彼のウエストのサイズではブカブカだ。彼の早合点だったようである。


「ぐすん、まだ試着もしてないのに……あんまりだよ……」


「……いや、まあ……その、ごめんだけども……そもそも同じ袋に入れておくな。分けろ、渡す前に」


「まあ噓泣きなんだけど」


「お前……」ユーリは自分の頭に血が上るのを感じ取ったが、理性を以てそれを鎮めた。想像上の安全弁が軋む音がする。「まあいい。取り敢えず着替えるから」


「うん」


「? ……いや、だから着替えるから」


「? ……うん。そうだね?」


「着・替・え・る!」


「……いや、聞こえてるけど? 怒らないでよ急に。どうしたの? 更年期?」


 ぶち、という音が、今度こそ聞こえた。


「出て行け!」


 ユーリは――それができたことがほとんど信じられないことだったが――彼女を持ち上げると、そのまま彼女が引き戸のレールに頭をぶつけるのにも構わず外に追い出した。最後はほとんど蹴りだすようだった。そうして鍵をかけようとして――そんな上等なものは存在しないことを思い出して、溜息を吐いた。まあ、多分、入っては来ないだろう。実際すんすん泣いている声がするし。


 ユーリはそのすすり泣く声を――罪悪感が芽生えるので――無視して、服を脱ぎ始めた。着るときの反対をやればいいわけだから、まあ、それほど苦労はない。だが自分が女性ものの下着を着ている(結局着させられた)事実に再び出くわしたとき、ユーリは、その、少し、苦い顔をした。


 二度と着るか、こんなもの。


 吐き捨てるようにそれらを脱ぎ捨てて、紙袋の中を順番に漁ると、最初は何着かの女物に再び出くわした――しかも今度はサイズがどう見てもユーリ向け――が、眉を顰めながらそれを抜くと、流石に男物がちゃんと入っていた。どうせ服に好みなんてなかったので、目についた順で着ていく。


「…………」


 そうしながら、考える。


 自分が、どうすべきか、だ。


(確かにカマラは、僕が経験したことを聞きたいと言ってくれた。今、口ではふざけているが……それは話しやすいよう、そういうポーズを取ってくれているんだろう。だが――)


 だが、それに甘えてしまうのは、果たしてよいことなのだろうか?


 ユーリの心の奥底には、その観念があった。今はいい。話せば楽になることだってあるだろう。思い出すだけでも体中から濃厚な膿がじゅくじゅくと噴き出すような感覚に襲われるようなことばかりだが、誰かに打ち明ければ、その膿を少しは拭き取ってくれるかもしれない。


 しかし――それは、ユーリが楽になるだけなのではないか?


 なるほど、その体験を聞く相手がユーリのような人間だったら、まあ何とかなるだろう。もし彼が誰かの体験を聞く立場になったとしたら、そこにはある種の諦観がある。自分と他人とは全く生命個体であって、つまり共感や同情はできてもそれは完全理解の対義語であって、全く同じようには物事を理解することはできないのだ、というある種冷酷な思考がある。他人と自分とを切り離すことができるのだ。


 その点で、カマラは違う。


 彼女は、他人の痛みを理解しようと限界まで試みることだろう。それは不可能なのだと知ってか知らずか、何度も試してみて、その重荷を積極的に背負おうとするだろう。すると、一度手を出したならば、その重量が彼女の膝を折るものであったとしても、背骨を砕くものであったとしても、彼女は笑顔で相手を支えようとするだろう。それを、本当に破滅するまで続けるかもしれない。


 なるほど、彼女に寄りかかるユーリは、幾分か楽になるかもしれない。


 しかし、その負担は、果たして彼女に背負いきれるものであるのだろうか――ということなのである。


 そして既に、彼は彼女に大いに甘えてしまっているのだ。


 これ以上の負荷を、果たして与えてしまっていいものだろうか?


「……着替え終わったぞ」


 ユーリは、扉の向こうにそう言った。自分から開けないのは、本当は彼女に入ってきてほしくなかったからだ。今の扱いで彼女にやる気がなくなれば、それはそれで御の字だったのである。


「うん……」しかし、扉は開く。開いてしまう。「何だ、もう一個の方じゃないんだ。残念」


「お前な」


「まだストックあるからね。着たくなったら言って」


「そんな日は永遠に来ない」


 ユーリはそう言いながら、彼女に背を向けて部屋の中へ戻る。一瞬だけ湧き上がる、振り返りたくなる衝動を抑えて、そのまま押入れの扉を開ける。そこに入って静かに目を閉じていれば、朝になる。傷のことなど、忘れてしまおう。その方がお互いのためだ。そう考えたユーリは、衣装ケースの上に横たわろうとする――しかし。


「待って」しかし、その後ろ手を、カマラは捉えた。「兄さん」


「……じきに、二人が帰ってくる。そろそろ僕は隠れた方がいい」


「でも、まだ時間はある。それに――私にも、覚悟がある」


 ぎゅう、と痛いぐらいに彼女はユーリの手を強く握った。少し湿った掌の柔らかな感触。その微かな震えは、熱は、彼女の心に直結されているが故だろう。ユーリは、その一瞬で、妹に少しでも遠慮をしたことを恥じた。


「私は、兄さんの見た地獄が知りたい。知らなければならないと思う。一人の家族として――一人の人間として」


 カマラ・ルヴァンドフスキは、もう充分に強い。


 肉体だけでなく、精神的にも。


「……分かったよ」


 ユーリは、押入れを閉じた。それから振り返り、一秒だけ目を閉じてから、話し始めた。

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