第178話 女装、憲兵二人、尋問、何も起こらないはずがなく……
「じゃ、お願いね」
その声と共に、ユーリの後ろでドアが閉まる。一瞬ユーリは戻ろうとしたが、鍵をかけられてしまった。自宅の鍵を持っていない――そういえば「ルクセンブルク」に置いてきた荷物の類がどうなっているのか、彼はよく知らない。ルドルフからもらったM1911も今どうなっているだろうか――ので、完全に退路を断たれた格好になった。
「…………」
……しっかり化粧までされてしまった。
どこから持ってきたのか、黒髪ツインテールのウィッグまでつけられている――帽子で隠れているのによくもまあ。
おかげでどこからどう見ても、可愛い女の子だった。
「いいね! まさにちょっとノスタルジックな『地雷系』だよ! 流行は巡ってくるものだからね! 寒いから完全再現は無理だったけど……やっぱり兄さんは化粧すれば化けると思ってたんだよね!」
そうはしゃぐカマラの声が未だに耳にこびりついているような気がした。先ほどまでのどこか悲壮な表情から一変して、滅茶苦茶はしゃいでいた。これから兄は二時間も極寒の外に放置されるというのに、薄情なものである。よくこれに彼氏ができるものだ。
「…………」
ユーリはそのとき、彼氏、という言葉に引っかかるものを覚えた。これから、カマラはその男に抱かれることになるのだろう。別に、それは彼女の自由だ。ユーリはシスコンの類ではなかったし、そうでなくても自分より体格の大きな女はハナからお断りだった(ただし、時と場合による。シャーロットとか)。
しかし、ふと彼女が見せた性愛の片鱗。
それが彼を立ち止まらせた。
脳裏に過る、夜。
「ルクセンブルク」のベッドの上。半裸の何者か。舌が触手のように勝手に彼の中に入ってくる。上のベッドには誰かいたはずなのに、何故か助けてくれない。汚らわしい体温の感覚。全身が貪り食われていく錯覚。糞のついた土足が体の最も神聖なところを踏み荒らしていく。
「ウッ……⁉」
ユーリは、しゃがみ込むと同時に咄嗟に口元を押さえる。呼吸を何度か中断させるだけの内側からの力に抗しながら、全身を上下させて、何とかその衝動を抑え込む。流石に借りた服を汚すわけにはいかないという理性が、何とか本能に打ち勝って、破裂する寸でのところで押し返す。体調は最早最悪だった。第一、人が活動するには、晴れているとはいえ今日は寒すぎる。
(しかし、命令は命令だからな……命令は、守られねばならない)
彼は、何とか立ち上がる。吹き込んだ雪が目立つマンションの廊下を歩いて、エレベーターを呼ぶ。ほどなくしてきたそれに乗り込んで、一階にまで降りる。スーパーへの方角は分かっていたから、取り敢えずそれに向かって歩いた。
「⁉」
しかし、そうして何分か歩いて、あと少しで大通りに出るところで、ユーリはぎょっとした。曲がり角のところに止まっている黒塗りの高級車の傍に、軍服姿の男を二人見かけたのだ。宇宙軍の制服、それも憲兵のものだ。それが陸上軍――正確には、惑星軍という。しかしそれでは宇宙軍と見分けがつかないし、ほとんどは惑星駐留の陸軍(それと少しの海軍)であるから、専ら陸上軍と呼ばれている――のそれでないからには、何をしにきたのかは彼には一目瞭然だった。
探しに来たのだ、ユーリを。
捕らえて、病棟に連れ戻そうというのだ。
(いや)ユーリは咄嗟に、帽子を目深に被り、マフラーを一段上にして口元を隠した。(もしかすると、それどころでは済まないかもしれない――)
何しろ、旧革命評議会政府系国家では憲兵というのは、そういう生き物だった。
かつて、具体的にはまだ旧革命評議会政府が存在していたころ、軍内部では政治的統一が重要視されていた。軍というのが政治的目的を達成する手段たる戦争のための道具であるからには、当然その道具には政治家の意図を理解する能力が求められたし、違う思想を持っていてはならないとされていた。
その統一のために用意されていたのが、政治将校である。
古くは、地球時代のソビエト連邦に端を発するこの制度は、同じく社会主義・共産主義を掲げるこの国家においても同様に、非常に強権的な勢力を誇った。時に軍が傾くほどの大粛清を行い、その当時開催された演習を大失敗に終わらせるほどだった。
しかし、いつまでも党と国家の支配が続くわけではない。各地で独立運動が勃発し、革命評議会政府が倒されると、当然のことながら軍内部の政治的思想を統一するという政治将校の役割はなくなり、ただの内部監視機構としての能力だけが残された。
だが、いきなり任務が変わったからといって、長年積み上げられてきた組織文化がいきなり廃れるわけではない。その遂行の背景には冤罪すら厭わない強引な捜査や強制連行などがあって、時折それが外部に漏れて問題となるのだった。
(だとすれば)ユーリには、寒さ以外の理由で身震いがした。(捕まれば、刑事罰に問われるかもしれない。生かさず殺さず、気の遠くなるような長い間、ずっと牢屋の中で過ごすことになるかもしれない――)
それは、嫌だった。
そうなるぐらいなら、死んだ方がマシだった。
――死。
ふと、大通りの車が目に入る。昨日は失敗したが、それは運が悪かっただけだ。第一、あのときは当たろうと思って歩いていなかった、当たってもいい、とは思っていたが。だが今回は違う。ただ走るのではなく、タイミングを見計らって、自らあの鋼鉄の塊にぶつかりに行く。凍り付いた路面ではブレーキが間に合うまい。ユーリはできる限り大きな車を選ぶことにした。即死である方が望ましかったからだ。
しかし、ユーリの思考は、そこで強制停止させられる。
「そこのお嬢さん」と、声を掛けられたからだ。「止まれ!」
正気に戻った彼は、自分が迂闊だった、と気づく。彼は思考に没頭するあまり、憲兵の動きに全く注意を払っていなかった。見慣れない憲兵から視線を逸らしていて、なおかつ顔を隠している人物に彼らは逆に興味を惹かれたらしい。
「な……」ユーリは、前から向かってくる彼らに若干引け腰になりながら答えた。「何ですか」
「? お嬢さん……」すると、憲兵の一人は一瞬怪訝そうな目で見た。「じゃ、ないか?」
しまった、と思ったのは、自分がそのとき普段の声で話してしまったことだった。ユーリはとっくの昔に声変りをしているのだから、いくら小柄といっても声は女性のものにしては低い。女装していることがバレてしまうかもしれなかった。
「おい、失礼だろうが。」しかし、それをすぐさまもう一人が制して言った。「どっからどう見ても女の子だろう。だよな、嬢ちゃん?」
…………。
それはそれで複雑だった。いっそ女装していると言ってしまった方がマシな気すらした。
「え、ええ、まあ……」一瞬の葛藤。しかし彼は取り敢えず正体から遠ざかる方を選んだ。「そうです」
「だよなあ⁉ ほれ見ろ。俺のセンサーに間違いはないんだって。百発百中、百戦錬磨」
「そうかぁ? 何つーか、こう、妙にガタイがいいというか、違和感が……」
「ガタイがいい方が俺は好きだ。こう、抱いているって感じがする」
「お前の好みの話はどうでもいい」
――本当にな。
ユーリはそう言いたいのをグッと堪えた。憲兵の癖に、随分軽薄で不真面目な人間もいたものである。
「あの!」ユーリはその代わりに、訝しげな顔をしつつ言った。「何か用があるんじゃないですか」
「ああそうだったな……えっとな、お嬢さん。この辺で不審な男を見なかったか?」
「不審な――男?」
「そうだ。身長は、丁度お嬢さんぐらい。昨日の朝、吹雪の中、看護師を殴って軍病院を抜け出してから行方不明になっている。服装は病衣だが、凍死体は見つかっていないから、多分違う服を着ているだろうな。一応実家がこの辺にあるらしいから、いたら見つかると思うんだが……」
「――!」
間違いない、ユーリのことだ。同じ日にもう一人同じ体格の人間が脱走したというなら話は別だが、実家がこの辺となれば、全ての条件が綺麗に整うことは中々ないだろう。
「知らない、です」
「そうだよな……流石に、実家には行ってないか」
「あの、もう、行っていいですか。人を待たせているんです」
うん、まあ……そうだね。
と、後頭部を掻きながら、その憲兵は言った。それに安心して、ユーリは一礼すると背を向けて歩き出した。一刻も早く離れたかった。
「――待ってくれ」しかしそのときユーリは、その声で凍り付いた。「嬢ちゃん、帽子とマフラーを取ってくれるかな」
ゆっくりと振り返る。というより、そうせざるを得ない、少しでも時間を稼ぐには。
――何だ? 何か怪しいことをしたか? 何も心当たりはない。いつも通りに、やっただけ――。
「ど、どうして?」
「今、どうして敬礼した?」
敬礼?
と聞き返して、そのとき初めてユーリは自分がそうしたことに気がついた。一礼、したのだ。そのときお辞儀ではなく、いつも通り脇を締めた態勢で右手の指先をこめかみに擦り付けるような動作のアレをしてしまったのだ。
「おい、神経質になりすぎだぞ。俺たちが軍人と見て、咄嗟に真似しただけだろう」
先ほどユーリに尋問した憲兵――「お嬢さん」と呼ぶ方――はそう庇ったが、疑り深い方――彼はユーリを「嬢ちゃん」と呼ぶ――は首を横に振った。
「今のは宇宙軍式の敬礼だった。俺たちの軍服を見て、宇宙軍だと見抜いたんだ。角度も理想的――ただの素人の真似事なら、そんなことはできない」
宇宙軍式の敬礼は、狭い艦内ですることを前提としているから、脇を締めて行われる。素人がよくやる、肘を外側に突き出す地上軍式とは対照的だ。ユーリは咄嗟に、それを行ってしまったのだ。
――どうする。化粧しているとはいえ、骨格が変わっているわけではない。真正面から見せれば、ともすればバレるかもしれない。それに、要求がこれだけで済むはずはない。顔を見せた次はIDカードと言われるかもしれない――十中八九、言われる。しかしそれを彼は今持っていない。
逃げるか? ――いや、そんなことをこの慣れない靴でプロの軍人相手にできるとは思えない。仮にそれができたとしても近くに展開しているであろう仲間を動員されれば、あっという間に袋の鼠だ。何しろこの服装は目立つ。
「嬢ちゃん、」憲兵は、それでも笑みを崩しはしなかった。「どうしたんだ? 顔を見せてほしいだけだ。それとも――見せられない事情でも、あるのかな?」
しかしそれは、警戒心がないということを意味しない。その証拠に、彼はその両手を全くのフリーにして前に置いていた。咄嗟に掴みかかられたり、殴りかかられたりしても応戦できるような形。それでいてもう一人の方は、言葉こそ慎重だったが、その慎重さは行動にも表れていて、既に腰のホルスターの上に手を置いて、相棒の背から一枚横にズレた位置に立っている。もし相棒が倒されても即座に拳銃を抜いてその仇を討つことのできる態勢だ。
戦っても、勝ち目はない。
武器もなければ、それを補う技量もない。
彼はプロの兵士ではなく、ただのパイロットに過ぎないのだから。
ユーリは、そのとき内心に巨大な絶望を抱えた。脳裏には、あの奇妙なまでにシミ一つないカーテンに遮られた世界が過る。その中で彼はゆっくりベッドの上で腐っていく。もちろん、そのシーツにも布団にも、汚れはない。彼はその汚れなき純白の海の中で漂白されていくのだ。そうして何もかもが失われるだろう。彼は、コンクリート製の壁よりも無個性な何かに成り下がる。
その悲壮な覚悟を以て、ユーリはゆっくりと、マフラーと帽子をそれぞれ取った。できる限り時間をかけて、少しでも破滅が先延ばしになるように振舞った。毛糸の帽子を取ったとき、彼の手は自然と震えた。顔を上げることなどできはしない。そこまで堂々と胸を張れるほどの勇気を彼は持ち合わせていなかった。
そして、沈黙。
二人分の静かな視線が突き刺さる。それは永遠の拷問のように感じられた。どうせ結論が分かりきっているのに、彼らは暫時何も言わなかった。その奇妙な均衡状態は数秒か、あるいは数分、それとも数時間? ――恐らくそれほど長くはないに違いないが、少なくとも、ユーリの心臓を破裂寸前に追い込むのに充分ではあった。
「――なるほどな」そして、二人の内より軽薄な方が、沈黙を破る。「そういうことだったのか」
終わった、とユーリは思った。目の前の憲兵は、手を後ろに回すと、何かを取り出し始めたからだ。十中八九、手錠に決まっている。ユーリはそのとき失禁する寸前であった。破滅の予兆が体中を津波のように襲う。吐き気がする。あの真綿でできた地獄が、ゆっくりと彼の背後から忍び寄る。
そして、その憲兵は、さっと後ろから手を前に戻して、それを突き付けた。
それは、一つの高級そうなふわふわの布地で覆われた箱。
それがパカリと開いて――中から、煌びやかな反射光がユーリの網膜に突き刺さる。
「俺と、結婚してくれ」
…………。
は?
「は?」
「え、えっと?」
「俺、ようやく分かったよ。俺たちのこの出会いは、きっと神様がくれたプレゼントだったんだって。これって、運命ってやつだよな。君が赤い糸の先に結ばれた女性で、俺が君の薬指にこの指輪を嵌める男だってことだろ? 俺、色んな女と遊んできたつもりだけど、どれもしっくり来なかったんだ。今までその理由は分からなかったけれど、今やっと理解できた。君と出会うためだったんだよ。なあ、何も言わずこの指輪を受け取ってくれ。それから君の名前を教えてくれ。てかどこ住み? SNSやってる? 風呂入るときどこから洗――」
パこん。
という可愛い音は、そのとき鳴らなかった。
より正確に文字起こしするならば、がん、とか、ごいん、という音が、エクスクラメーションマーク一〇個分ぐらいの重さでその憲兵の後頭部を襲ったのである。
「…………気持ち悪い」
もう一人の憲兵が、右手に持った銃把の底でそこを殴ったのだ。全くの躊躇も、手加減もそこにはなかった。時間がかかったのは、単に、状況の理解に時間がかかったからだろう。
「……ん、え?」当のユーリはと言えば、軽薄な方の憲兵が倒れてようやく、自分の中を瞬く間に支配した白色の絶望から現実を取り戻したところだった。「な、何が……?」
「君は気にしなくていい。というか気にしないでくれ。忘れているのなら、その方がいい。思い出すな」
「えっと、何でこの人、倒れて……? というか、その銃は、一体……?」
「いいか、何も気にするな。この馬鹿のことは忘れろ。それより、待ち合わせはいいのかい? 誰か待っているんだろう?」
ユーリはそう言われて、とにかく自分が危機を脱したらしいということは理解した。それが貞操の危機だったのか生命の危機だったのかは分からないが……そうであるからには、もう無防備な状態を晒しておく必要はない。ユーリは今度こそお辞儀をすると、帽子とマフラーを元の位置に戻して歩き出す。あまりに早々と支度をしたので引き留められるか、と一瞬は危惧したものの、実際には何も起きなかった。
(気を張ったせいか、お腹空いたな)ユーリは、ふと、そんなことを思った。(確か、昼飯を食ってこいと言ったな、カマラは……)
記憶が正しければ、大通り沿いに何か食堂があったはずだ。今もまだあるのかは知らなかったが、取り敢えず、そこに向かってみることにした。
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