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第176話 潜伏期間

 ふと目を覚ます、ことで自分が寝ていたのだと理解する。部屋は真っ暗になっていて、カマラはいない。粥も、まるでそれ自体が夢だったみたいに消えていた。


 が、だからといってあれが夢じゃなかったことは、そこが自分の部屋――正確には、今はカマラのものらしいが――であることから分かった。


(そういえば)ユーリは、ふと、あることに気づく。(夢を見ずに――それも悪夢を見ずに起きるのはいつぶりだろうか。随分ぐっすり寝ていたようだったが)


 そう考えながら、ゆっくり身を起こす。食べたからだろうか、それともぐっすり寝ていたからだろうか、まだ熱はありそうだが体の方は幾分か自由が利くようになっていた。何となく身を起こし、布団から出て立ち上がる。暖房が効いていて、寝間着姿でもそれほど寒くはない。取り敢えず、水でも飲みに行こうか。喉が渇いて仕方なかった。


 そう思って、ユーリが扉の前についた、そのときだった。


「ただいまー」


 その声に、ユーリは凍り付く。母親の声だ。仕事先から帰ってきたのだ。大体帰ってくる時間は被っているから、父親もほどなくして帰宅することだろう。それはマズい。彼らはユーリが従軍していることを誇りだと感じている。それが一転脱走兵になったと知れたら、彼らがどういう反応をするか分からなかった。そうでなくても今の彼には、あの両親たちと関わる心理的余裕がなかった。その証拠に、彼は声を聞いただけで眩暈に襲われた。一刻も早くここから逃げなければならない、しかしどうやって? 出入口は一つしかない――。


「おかえり、」しかし、その次に聞こえた声は彼に幾分かの救いを齎した。「早かったね」


 カマラの声だ。彼女はすぐそこにいたのだ。ユーリはほっとした。カマラがいることで、母親の注意はある程度カマラの方に向く。まして、母親はユーリがここにいることをまだ知らない。静かにしていれば、バレることはない……。


(……待てよ?)


 しかしすぐに彼は疑心暗鬼に襲われた。今、何となく彼女のことを信用してしまっているが、果たしてそれは正しい判断だろうか? 確かに、カマラはユーリに食事を食べさせた。結局自首を勧めることも通報することもなかったのだから恐らく、彼が脱走兵だとはまだ気づいていないだろう。しかしだとすると満期除隊――戦争は終わったという情報は民間にも当然流れているはずだ――だと考えているに違いない。もしそうならば、彼女はユーリが帰ってきていることを両親に伝えるかもしれなかった。そうでなくてもカマラよりは、両親の方が頭が回る。もし何か兆候を感づかれたら脱走の事実に彼らはすぐに気がつくだろう。


「あれ? お昼、」すると母の足音は台所に行ったようだった。「何食べた?」


「えっとね、お粥。レトルトのやつあったでしょ」


 その返答はマズい。ユーリは冷や汗を掻いた。確かにゴミ箱を調べたりストックを確認したりすればバレることではあるが、だからといって自分から明かすこともあるまい。適当に外食で済ませたとかそういうことにすればいいのに、何をしているのだ?


「そりゃ、あるでしょうけど……」案の定、母親は不思議そうな声をした。「どうしたの、熱でもあるの?」


「別に? でも何だか食欲湧かなくて」


「? いつもだったらそんなものじゃ済まないでしょう。この前だって、ハンバーガーにポテトがセットになってるやつ、二つも食べてたじゃない。コーラまで飲んで……どこかおかしいんじゃないの?」


「でも、今日は何となく食べる気がしなかったの。本当に、特に思い当たる節はないんだけど」


「そう、じゃあ夕飯はいらない?」


「いや、えっと……」カマラの逡巡が感じられる間。そこで腹の虫が鳴った。「あ」


 ユーリは頭を抱えたくなった。やっぱりカマラは何も考えていない。彼女が母を言い包めるよりもこの部屋から何とかバレずに脱出して外に出る方が幾分もマシな選択のように思われた。一応窓はある。高さが心配だが……いや、よくよく考えてみれば何も心配する必要はない。


 そのときは死ぬだけだし、死ねなくても夜は朝より寒いはずなのだから、それで死ぬことができるはずだ。


 ――忘れていた。僕は死にたいのだった。


「ふふふ、」しかし、意外にも、母はそこで笑ったようだった。「仕方のない子ね。今作ってあげるわ。ボルシチでいい?」


「ボルシチがいい!」


「分かったわ。じゃあ座って待ってなさい。アナタに包丁扱わせるとろくなことにならないから」


 そう言うと程なくして包丁がまな板を叩く音が聞こえ始めた。どうやら、やり過ごしたようである。だが、ユーリはそんなことはもう、どうでもよくなっていた。そうだ、何をしている? こんなところで右往左往している場合ではない。早く死ななければならない。死ななければ、えっと、どうなるのだったか?


 いや、理由などどうでもいい。


 必要なのは結果だ。死という結果が要求されているのだから、それを出力しなければならない。


 さて、どうするか――ユーリは辺りを見回す。目についたのは勉強机だ。真っ暗の中その引き出しをそっと開けて、中身を物色する――しかし、そこには鉛筆やシャープペンシルしか置いていなかった。カッターナイフやハサミなどの刃物の類はない。次に手を出したのは、カマラの学生カバンだ。その中から筆箱を探し当てる。しかし、ここにもない。どういうことか、とユーリは思ったが、カマラのことだから、必要になったらリビングの方にある引き出しから取るか、出先なら誰かに借りるかしているのだろう。自分で用意するという考えはないのだ。


(とすれば、やはり――)


 ユーリは、カーテンが閉められている窓に目をやった。時間がない。早く死ななければならない。音が出るのも構わずにカーテンを開ける。


「?」後ろから母の声がする。「何の音?」


「な、何だろうね? ……じゃない、何か聞こえた?」


「何か聞こえたも何も……カマラ、アナタの部屋から聞こえた気がするんだけど?」


 しかし、そこでユーリの動きは止まった。後ろの会話の風向きが悪くなったから、ではない。


 窓が開かなかったのだ。


 吹雪がペタペタと打ち付けるそれは、雪国らしく二重になっているのだが、その一枚目はともかく、二枚目が開かない。外から凍り付いてしまっているようで、鍵を外しても、びくともしない。


「か、風の音じゃないかな? ほら、外凄かったでしょう?」


「そんな感じの音じゃなかったんだけど……それに、何かガンガン、打ち付けるような……」


 ……マズい。


 カマラは宛てにならない。このままではあの無味乾燥とした病棟に戻される。ユーリは咄嗟に一枚目の窓を閉め、カーテンも閉めた。叩き割ることはどういうわけか思い浮かばなかった。


「ほら、やっぱり何か音がする。嫌だわ、泥棒じゃないかしら」


「こ、この雪で? あり得ないんじゃないかな。外をよじ登ってきたっていうの?」


「それぐらいしか考えられないでしょう。いくらでも方法はあるんだから、油断しちゃ駄目よ」


 ユーリは、辺りを見回した。しかし暗くて造りがよく分からない。自分の部屋のことではあったが、元々中学からは長期休み以外は留守にしていたし、前述の通り戦争以前・以後では記憶に断絶があるのだ。今この部屋は初めて来たホテルの一室並みに勝手が分からない。


 いっそドアから飛び出して、ユーリであると認識される前に逃げ出すか? ユーリはそう考えて、ドアの前まで行って、取っ手に手をかける。が、寸前でやめる。それは間違いなく警察官を呼び寄せるだろうし、そうなればここにユーリがいたことぐらいは簡単に見破られる。警察相手ではカマラの程度の低い嘘は通じないだろう。そもそも、今の状態で逃げ切れるものだろうか、母親相手であっても?


「カマラは下がっていなさい。一応、携帯は持っておいて。いつでも逃げれるようにね」


「待って、私の部屋だから私が見てくる。母さんは入らないで」


「それとも何? 何か隠していることでもあるの? やましいことがあるからこうして隠すんじゃないの? ――アナタはそこに座っていなさい」


 どすどすと足音がキッチンの方から近づいてくる。その度にユーリの心臓は跳ね上がるようだった。キョロキョロと辺りを見回す。何か、ないか。何か――


「どうせ、猫か何か拾ってきたんでしょう? それか家出した友達を匿ってるか……まさか、彼氏、とかじゃないわよね」


「そんなんじゃ……」


「『そんなんじゃ』ってことは何かはいるのね。悪いけど、そういうわけにはいかないから。開けさせてもらうわよ」


「待っ……」


 て、とカマラが立ち上がって言う前に、ドアは開かれた。暗かった部屋にリビングの明かりが差して、中を明るく見せる。


 そこには、誰もいない。


「……?」


 母親は不審に思って、中に入った。見ると、ベッドの脇に何冊か本が積んである。ユーリが買ってきていた、やたら分厚い本だ。


「そ、それ、」カマラが近づいてきて、言った。「兄さんのやつ……最近、何となく読んでみたら、意外と面白くて」


「……ふーん」


 カマラがユーリの読むような難しい本を読むなんて如何にも怪しいが、今はそれどころではない。カマラが何かを隠しているのは間違いないし――それが取り越し苦労であっても、泥棒という線がないではない。


 まずは後者を潰すべく、母親はカーテンを開けて、窓を調べた。パッと見た限りでは何の問題もないように思えるが――よく見ると一枚目の鍵が開いている。


「あ、鍵……」一瞬、カマラは何かに気がついたように見えた。「この間晴れてるときに、換気したときにかけ忘れたのかなー……なんて……」


 しかし母親が振り返る頃には、その兆候は消えていた。絶対何かを隠しているのだが、その確証はない。


「取り敢えず、泥棒って線は、これでなくなったわけだけれど……」母親は、ずかずかと歩いた。「とすれば、残るは、ここだけね」


 そう言って辿り着いたのは、クローゼットの前だった。部屋のドアのすぐ脇に、それはある。一見、何の兆候もない。が、可能性としてはここぐらいしか残されていなかった。


 母親は、無言で開けた。


「…………」


「…………」


 そして、固まった。


「…………カマラ」


「な、何かな、母さん?」


「片付けなさいって、私言わなかったっけ……?」


 彼女が見たのは、大量の服。服。服。全てハンガーにかかっているが、それらは所狭しと並んでいて、全く隙間がない。毎日違う服を着ていたとしても、もしかしたら着きれないかもしれない。その服たちが吊るされている下には衣装ケースが隙間なくずらりと並んでいて、下着やら靴下やらを仕舞っている。大して広くはないマンションの一室のクローゼットに入っていることは驚くべきことだった。


「えっと、片付けてあるじゃん……?」


「ごめん、言い方が悪かったかしら。私は整理しろって言いたかったのだけれど」


「……あのね、母さん。整理はちゃんとしてあるよ? ここまでが春服で、ここからが夏服で……」


 そう言いながら、カマラは母と服との間に割って入った。それでそれぞれに指さし――「何か」に気づく。が、口には出さない。


「ごめんごめん、」母は相対位置の関係でカマラの気づいた『それ』には気づかなかったようだった。「まだ伝わらないようだから言い直すけど、数を減らせってことだったのだけれど?」


「えーっと、それは……」


 カマラは冷や汗を掻いて「それ」の方向を思わず見た。それからそれではいけないと思い直して反射的に別の方角を見た。実際しどろもどろではあったわけだけれど、それは実情以上に彼女の表情を目まぐるしく変化させた。


「お母様……お慈悲を……?」


「慈悲……そう、慈悲ね?」カマラの顔を、母は覗き込むようにする。「じゃあ、今月末までに、数を三分の一にしてもらえる?」


「ええっ⁉」


「前からずっと言ってきたでしょ⁉ どうせ着れない服だって沢山あるんでしょうから、ちゃんと分別して、処分なさいな」


 隠していたのはこれだったのね、と母は言いながら、はあと溜息を吐いた。彼女の頭からは、先ほどの物音のことも泥棒疑惑のこともすっかり抜け落ちていたらしい。それより今日の夕飯の支度に戻らなければという意識の方が大きかった。彼女はそのままクローゼットに背を向け部屋から出た。カマラもそれに続いて、部屋から出る。


 そしてドアが閉じられ、部屋の中は再び真っ暗になる――それから、ユーリは音が出ないように静かにクローゼットから出て来た。


 そう。


 彼は大量にある服の隙間に隠れていたのだ。衣装ケースの上に座って、じっと――いや、クローゼットの中があのような壮絶な状態になっているとは想像もしていなかった、だから彼は当座姿を隠すぐらいしか期待していなかったのだが、実際のところ、一目見た限りでは見破れないほど巧妙に隠れることができた。


(しかし――)


 しかし、ユーリには引っかかるところがあった。


 それは、隠れるために飛び込んだところの服が妙にガーリーというか、いかにも子供服らしいスパンコール塗れでまだ塞がり切っていない各所の傷口に引っかかっていること――ではない。


 カマラが、彼を売らなかったことである。


 彼女は間違いなく、彼がそこに隠れていることに気がついていた。実のところ、目が合ったのだ。売るつもりなら、とっくのとうに突き出されていたことだろう。


 だが実際には、それどころか立ちはだかるようになることで、母親の視線を逸らさせた。


(……だとすれば、これはおかしい)


 そうユーリは判断した。売るつもりがないとすれば、彼女のその行動は矛盾する。もしユーリが逃亡兵だと気づいていないなら――つまり売るという発想そのものがないのなら、母から積極的に庇いに行くというのは変だ。自分の服可愛さに結果的に庇う格好になったというのなら分かるが、彼女のその動きは彼と目線が合った直後に行われたのである。そこには何か関連性があるはずだし、そうだとすれば、彼女は彼がどうしてここにいるのか気づいていて、母に発覚することが問題だと思っているということになる。


(一体、カマラはどこまで感づいているんだ? 彼女は何故僕を庇っている?)


 ユーリにはそれが分からなくなった。ただの素朴な感情では説明できない論理。ユーリは混乱しながらも、眠気からそれ以上の思考はできなくなって、衣装ケースの上に横たわった。プラスチックの撓む感触。それを背中の上に感じながら、最後の力を振り絞って、クローゼットを閉めた。

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