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第175話 一杯の粥

「…………」


 ユーリはその表紙を眺める。「時を継ぐもの」というタイトルのそれは、人類の起源とはいえ一惑星に過ぎない地球の暦がいかにして全宇宙の標準のものになっていったかという内容――だったか。学校の夏休みで帰ってきたときに買って軽く読み始めたのはいいものの、下宿の本棚が満杯だったのを思い出して、泣く泣く置いて行ったのだ。全体の三分の一ほどの位置に挟まれているスピンがその記憶を裏付ける――もちろん、ユーリはそのことを上手く思い出せないのだが。


 その不整合から逃れるように、ユーリはその本を開いてみた。昔の自分がどんな人間だったか思い出そうとすればするほど、今の状態との差異に混乱させられるから。もし自分が本当に本が好きだったならば本の内容に没頭して忘れることができるという目論見もあった。


「宇宙開拓時代において、暦は」すると、ズラリと細かい文字が満遍なく敷き詰められている。「各惑星それぞれに設定されていた。というのも、農業や開拓に伴う土木工事といった事業にはどうしても気候が重要になってくるし、そのためには実態にそぐわない別の惑星の――つまり地球本星の――暦を使ったのでは、公転軌道とその周期によって変化する日照時間を直感的に判断することが困難になるからである。例えば――」


 そこまで読んで、ユーリは固まった。


 何故なら読めなかったからだ。


 読んでいるはずなのに、読めなかった。


 なるほど、文章は再生できている。文字としては認識されていて、その連なりとしての単語やそのまた連なりとなる文も、認識されている。その意味も分かる。要するに、地球の暦では各惑星の開拓には不便だったということなのだ。


 しかし――ユーリは「文意を理解する」という読みの目的を果たしていながらも、どこか満たされない感覚に苛まれていた。


 何かが不十分だった。脳に知識が染みこんでいくあの感覚がない。食事に例えれば、口の中に味はするのに、飲み込むものがないような感覚だ。知識的な腹が満たされない。消化管の表面だけを滑り落ちていって、そのままの形で排出されている。そういうわけで一文前の描写を覚えていないので、次の文でそれを受けていても、理解できない。そのエラーが一文毎に蓄積されて、それに引っかかって指が止まったのである。


 何より、まるで興味が湧かない。


 地球の暦がどうであれ、それが一体何だというんだ?


 今どうなっているかを、当然ユーリは知っている。地球の暦が使われているのだ。全宇宙共通の暦なしには貿易や産業、それと軍事作戦が成り立たず、新しく制定するより古くから使われているものを使った方が安上がりだという判断の下、デファクトスタンダード的に広まったのである。無論各星系の公転周期とズレは生じているのだが、地球の南半球では北半球と季節が真逆であるように、それはそういうものとして受け入れられている。


 そんなことは常識であって、皆が知っているのだ。


 以前ならそれでも、そこに至るまでの人物の動きであったり、法の制定であったり、民間のそれの受容であったり抵抗であったり、解像度を上げることで見えてくる細かい事実を見るのが楽しみだったのだろう。


 だが今は、その「解像度を上げる」という行為に何ら価値を見出せなかった。どうしてそうなったかなどはどうでもいい。どのような事象であれ、結果どうなったか、今どうなっているかだけが必要だ。それさえ分かっていれば――


 分かっていれば、何だというのだろう。


(そうだ、敵を――)ユーリの思考は一瞬躓いたが、すぐに持ち直した。(敵を殺すことができる。それだけが重要なことだ)


 例えば、敵が突然側背に現れたとしよう。そのまま全く予期せぬ状態で襲撃を受けたとする。


 そのときに「どうやって敵がそこに移動したのか?」ということや「どうしてこちらはその移動を探知できなかったのか?」といったことは重要ではない。重要なのはこちらの弱点を狙える位置へ既に敵が遷移していて、今にも攻撃を仕掛けようとしているということなのである。すぐに反転するなり離脱を試みつつ救援を要請するなり、何らかの対応をしなければならないというときに、一々その現象の原因をあれこれ考えていては、あっという間に時間切れとなり撃墜される。重要なのは現実にどう対処するかだ。


 そう。現実――戦争が終わり、「サボテン野郎」を逃がし、何の価値もなくなった現実。


 それに「対処」しなければならない。


 ユーリはそのとき、徐にベッドから降り、立ち上がろうとした。上手く動いてくれない体は積みあがった本を引っかけて床に落としたが、だからといって体全体の動きを止められたわけではない。むしろ障害物が片付いて丁度よかった。そのまま床に足を突いて、直立――


 しようとしたところで、足の裏に硬く尖った感触。バランスが崩れる。何とか手を出して床に体全体で倒れることだけは避ける。何事かとその姿勢のまま足の間を覗けば、先ほど撒き散らした本があった。その角を踏んだのだ。何かそこに意志のようなものを感じて、ユーリは瞬間的に苛立った。それを足で蹴ってベッドの下に追いやると、四つん這いのまま振り返ってマットレスの上に手を置いて、今度こそ立ち上がろうとした。


「? どうしたの兄さん……?」


 しかしそうこうする内に、その物音を聞きつけてカマラが戻ってきてしまった。プレートで粥の入った皿を運んできている。彼女はユーリの様子に気づくと、それを近くの勉強机の上に置いて、彼を抱き起した。


「別にベッドでよかったんだよ? 私が食べさせてあげるのに……」


 ユーリは返事をしなかった。苛々した。どうしてこの女は何も知らない癖に自分のすることを邪魔しようとするのか。思えば、あの路地裏で死のうとしていたのに、その願いは成就しようとしていたのに、それを通りがかったカマラが止めたから、今みたいな惨めな目に遭っているのである。


「どうしても立ちたかったの? だったら言ってよ、こうやって転んじゃうでしょ? 危ないから……」


 その諭すような言い方も嫌だった。自分の方が馬鹿な癖に、ここぞとばかりに僕を馬鹿にしているのか? まるで子供みたいに扱って、満足か、今までのことの仕返しができて? 無力な僕を見て優越感に浸ってるんだろう? ――ユーリには瞬間的に全身の血が沸騰するように感じられた。ぶち、という音も聞こえたかもしれない。


「キャッ」


 次の瞬間には、ユーリはカマラの腕を振りほどいて、突き飛ばしていた。しかし、熱に浮かされ全身の筋肉が疲弊している今のユーリの力では、彼女の大きな肉体を倒すことはできず、反対にその反動で彼はまた床に向かって倒れた。受け身も取れず、頭を強く打って、内側からも外側からも痛みが乱反射する。


「ちょ、兄さん、大丈夫? どうしたの、急に?」


 全身にフラストレーションが溜まっていくが、同時にそこを走る痛みが彼の動きの一切を停止させる。酷い眩暈もした。体全体が遠心分離機にかけられているようだった。


 そうして無抵抗になったユーリを、カマラは急いで抱き起こした。そのまま布団の中に入れ、体を例のごとくヘッドボードに立てかけさせた。ユーリはそれを振り落としてまた立ち上がろうとしたが、今度こそ全身に力が入らない。体力を使い切ったのだ。するとそれに比例して、何もかもがどうでもよくなった。何故自分がああまで苛々していたのかが不意に分からなくなったのだ。


 その間にカマラは勉強机の上からプレートを取ってきた。見ると、どうやら米の粥らしい。こんな短時間で炊けるはずはないから、レトルトに違いない。しかしそのプレーンな味こそ、ユーリの最も嫌うものである。


「ほら、あーん」


 カマラはそれを知ってか知らずか、一匙掬って自分の息で冷ますと、ユーリの口元に持ってきた。香気が近づくが、それほど味があるものではない粥の匂いなどたかが知れている。大体想像がつくのである。普通に作っても旨くはないものが、レトルトで旨くなるはずがない。端的に言えば、不味い。そんなものを食べたくはない。それに、食べれば生きていなくてはならなくなる。そうだ、それが嫌だったから抵抗していたのだ。彼は思い出した。


 ()()()、ユーリは顔を背けた――本来「だから」と続くべきところに「しかし」を使ったのは、背けなければ、きっと彼はそれを口にしていただろうからだった。


 信じられないことだった。鼻から吸い込まれていくその匂いは、確かにただの粥のはずである。あの不味くて不味くて仕方ないただの粥であるはずである。しかしそれなのに彼の本能はそれを摂取せよとユーリに命じるのだった。理性はそれを禁じて、弾圧して、何とか逃れようとする――持久戦になればユーリが有利だ――が、いつまで持つだろうか?


「食べて、ほら」


 しかし、カマラにはそのような事情は分からない。関係ない。お構いなしにスプーンを近づけてくる。香りの波状攻撃。歯を噛みしめても口を必死に閉じても、それだけは防ぐことができない。呼吸の度に気道だけではなく胃の方にも空気が流れているような錯覚。そこから吸収された情報に触発された全身がその一口を欲している。そう、全身だ、強固な砦の扉にも似た口も、内側から閂を抜かれたのでは、堪えられるはずはない。


 そうしてふわと開いた口に、カマラは優しく粥を差し入れた。


「美味しい?」


 カマラはそう聞く。答える前に咀嚼してみるも、やはり何の味もしない。ただ米の素朴すぎる自己主張が小さくあって、後は人肌ほどの温度とねちょねちょという舌触りだけが残される。思った通りただの粥だ、安いレトルト。さしたる感動はない。


「……不味いよ」だからユーリは、そう答えたのだ。「不味くて、不味くて、仕方がない。クソ、本当に不味いな、粥ってやつは。誰が考えたんだよ、おい……?」


 いや、正確には――そうするのにも一苦労だった。


 一言呟こうとするだけで口元は震えたし、そうして口の端から粥が滑り落ちないか不安でならなかった。涙腺に詰まっていた目ヤニが食べた拍子に取れたのか涙は止まらなかったし、鼻は次第に詰まってきて彼の声を酷く曖昧なものにした。彼の顔は粥よりもぐちゃぐちゃになっていた。それを何とか元に戻そうとしても、言葉にならない絞りだすような呻き声が出るばかりで、果たせない。


「……そっか」


 するとカマラはどこか安心したような笑みを浮かべた。その顔のまま、もう一匙を差し出してくる。食べる。やはり不味い。もう一口。食べる。不味い。もう一口。


 ユーリはひたすらにそのサイクルを繰り返した。一心不乱に、差し出される粥を食べ続けた。食べ終わる頃には目は涙を出し切ってカピカピになっていたし、そんな状態で食べ続けたから口の周りも酷い有様だったが、結局一杯全部食べ切ってしまった。

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