第174話 カマラ
「…………ッ」
第一にユーリが感じたのは、全身に走る激痛だった。第二に感じたのは、何故それを感じるのかということだった。
感じるはずはないのだ。彼はノヴォ・ドニェルツポリの片隅で凍死したはずなのだから。死人は何も感じない。それが彼の打ち立てた仮説だった。だとすれば、これは死後の世界だろうか? ――それはあり得ない。目の前の光景にはあまりに生活感があった。どこか、マンションの一室のような……?
マンションの一室、というところで、ユーリにはある直感が働いた。なるほどあり得ない話ではない。この天井の設えには見覚えがある。だとすれば……。
その仮説を確かめるべく、辺りを確かめようと起き上がろうとして、少し体に力を入れることも叶わない。意識が酷くピンボケして、それを直そうとする度に頭痛が襲う。とてつもなく暑いのに体が酷く凍えている。熱があるのは言うまでもない。体が強張ってしまって、布団一枚剝ぐことすらできない。額の上に何かが乗っているのは、これは濡らしたタオルだろうか?
しかし、一体誰が?
そうユーリが思った、そのときだった。
パタパタというよりはドタドタという重い足音。それが壁の向こうから聞こえるとすぐ近くで止まって、それからガラガラという音と共に、左の方から光が差し込む。その向こうにリビングがあることを彼は知っていた。その照明の光を人影が遮った。中に入ってくる……
「あだッ」
……寸前で、衝撃音。あまりの身長の高さ故に引き戸の天井に頭をぶつけたのだろう、その人影は一度しゃがむと、しばらくは唸っていたが、再び立ち上がる。今度は腰を曲げて頭を下げて、それで何とか潜ったようだった。そのまま一歩、また一歩と近づいてきて、終いにはぬっと彼の顔を覗き込んだ。
「……あれ、起きてる。おはよう」
長い茶色の髪がカーテンのように垂れ下がってきて、ユーリの鼻先をくすぐる。その根元にあるそれほど大きくない目と若干厚い唇と丸い鼻は、美しさというよりは素朴な印象を与えるものではあるが、さりとて不細工なほどではない。
しかし、この場合その人物の見てくれが問題なのではない。
その人物がユーリのよく知る人物であったこと――それが問題なのだった。彼は、思わず、その名前を言う。
「カマ……ラ。何で……」
カマラ。
カマラ・ルヴァンドフスキ。
ユーリの妹――である。
「うん?」すると彼女はその甘ったるい声で返事をしながら、ユーリの額の上に載っている濡れタオルをさっと取り上げた。「だってここは家だし兄さんの部屋だよ? ……まあ、今は私の部屋になってるけど」
そういう意味じゃない、とユーリは言おうと思ったが、やめた。頭痛の波が彼の思考から言葉を奪い去ってしまったのだ。それが引くより早く、カマラは乾いてぬるくなったタオルを部屋の外まで運んでいた。台所まで持っていってもう一度濡らすのだ。
「でも、」蛇口の音が止まったタイミングで、ユーリは何とか言葉を発した。「お前、学校は」
「冬休みだよ、兄さん。この雪じゃ登校できないでしょ」
そう言いながら、彼女はタオルをもう一度ユーリの額の上に乗せる。絞りが甘いので、つうっと端の方から水が垂れてこめかみの方へと垂れて枕に染みていくのが不快だったが、しかしほとんど体を動かせないユーリにはどうすることもできなかったし、その不快感に彼女が気づくこともない。何故なら彼女は昔から大雑把な性格だったからだ。
「驚いたよ、散歩してたら道に人が倒れてて、それがまさか兄さんだったんだもん。びっくりしちゃった」
とはいえその性格は、ユーリにとってはいくらか好都合であった。彼女はユーリの服装や発見の状況を不審に思わなかったようなのである。兄は軍にいるはずなのに何故ノヴォ・ドニェルツポリにいたのかとか、そして何故この寒空の中ぼろぼろの病衣を着ていたのかとか、そもそも雪の降りしきる中あんなところで何をしていたのかとか――そういうことは、彼女にとっては視界の外のことらしい。
大方、兄の顔を久々に見て、その危機的状況を認識した途端、その辺の背景情報がどこかへいってしまったのだろう。そうユーリは思った。
何にしても――ユーリの願いは、またも叶うことがなかった、ということらしい。あの世界から静かに排斥されるような感覚は、確かに死であったに違いない、少なくともユーリにはその確信があったのだが、それに満足して意識を手放した直後に彼女がやってきて台無しにしてしまったのだろう。確かに辺りに人影はないと思ったし、実際誰かが来るようにも思えなかったが、事実として彼女は来てしまったのだ。そうして適切な保温の結果、彼は、命を取り戻してしまった。
そう思うと、ユーリは途端に悲しくなった。それと同じぐらい腹立たしかった。カマラに対してもそうだが、自分に対してもだ。自分の命のあり方すら自分で決めることができなかったということに呆れてしまったのだ。死ぬつもりがあるのだったら、自分一人の力で実行するべきなのだ。重力だの気候だのに頼らず、どこかで刃物を手に入れて、それで首を掻っ切ればよかったのである。
どうしても自分自身でそれができないというのなら、その刃物を使ってどこかの商店に押し入って立てこもるか道行く人を一人ずつ切りつければいい。そうすればカマラの数倍も大雑把で乱暴な警察は、きっと彼を迷わず射殺するだろう。そのどちらも、彼はしなかった。寒さに凍えるだけで、満足してしまった。
ああ、この優柔不断さだ。
あるいは主体性のなさ。
当事者意識の欠如。
何かを自分で決定しようという気が根本的にないのだ。いつだって状況とか他人とかを頼ってばかりで、きっとどうにかなると楽観視している。では確認するが、今までそうすることでどうにかなったことなどあったか? ――なかった。それどころか常に最悪の結果を生んできた。そんなことだから、好きになった女一人守れないのだ。自分のことを形はどうあれ愛してくれた人を追い詰めて見殺しにしてしまうのだ。そんなことをする人間が、生きていていいはずはない――
しかし、ユーリの思考はそこで中断される。
何故なら――そこで、彼の前髪にカマラが手を伸ばして左右に撫でつけ始めたからだ。
「…………何をしているんだ?」
「うーんとね、よくなるおまじない。辛そうな顔してたから。やっぱり、暑い? 苦しい?」
「やめろ」咄嗟に頭を振ってその手から逃れようとする。激しい頭痛。「……ッ、もう子供じゃないんだぞ」
そうぶっきらぼうに言うと、カマラは不思議そうな顔をした。首を傾げ、口をぽかんと開けている。いや、彼女は前述した性格のせいか大体こういう顔をすることがしばしばなのだが、ユーリとしては何か言い返してくるものと期待していたので、その宛てが外れて宙ぶらりんになったのだ。
「……何だよ、急に黙るなよ」
「だって、兄さん、子供じゃない」
「は?」
「だって、まだ一六歳――だよね? あれ? それとも、もう一七? 誕生日いつだっけ?」
惚けた様子の彼女にユーリは苛立ちながら、自分の年齢を答えようとした。相変わらず馬鹿だなお前は。僕はまだ――
一六、だろうか?
それとも一七歳だろうか?
ユーリは、そこで固まってしまった。答えに窮した。今日の日付が分からなくなったのでは、当然ない。ずっとベッドにいていつ寝ていていつ起きているのか分からないような暮らしをしばらくしていたとはいえ、食事の回数とカーテンの向こうの明るさでそれぐらいのことは何となく分かる。そうでなくたって、何月かぐらいは見当がつくはずだ、戦線を離れてから何か月も経ったわけではないのだから。
しかし、現にユーリは、自分の年齢が分からなくなっていた。誕生日がいつだったのか、全く思い出せなくなっていたのだ。
否、記憶を辿ればそんなことはいくらでも分かるはずなのである。誕生日と言えば一大イベントだ。シャーロットがやたらと騒いで考えなしに大量に買い込んできたスナック菓子を何とか消費することに明け暮れたものである。その記憶からすれば、自ずと分かるはずであろう。実際、彼もそうした。そして突き止めた。一七歳だ、と思われる、計算上は。
しかし、だ。
今度は、それが自分であると断定することができなかった。シャーロットが片っ端から菓子の袋を開けていくのを窘めながらそれを次々に口へと運んでいっていた自分と、こうしてベッドに横たわっている自分とが、どうしても同じ人物だと思えなかった。言うなれば、他人の記憶を覗いているような感覚だったのである。ユーリ・ルヴァンドフスキという同じ名前をした同じ年齢の、しかし別の少年の見てきたことを、テレビの画面で見ているような。
記憶が薄れているのではない。
遠いのだ。だからぼやけて見える。自分とは無関係に感じられる。でもそれは間違いなく自分の記憶なのだと皆が言う。どう考えてもそうは思えないのだが、そうらしいのだ。
――あり得ない。
するとその不整合は、ユーリに混乱をもたらした。呼吸が浅くなっていき、口が操られたようにパクパクと動く。バリエーション豊かな負の感情が津波のように彼の精神を襲って、脳神経のスイッチを手当たり次第に点滅させていく。彼の表情はそれに応じて街頭の監視カメラの映像を早回しにしたように目まぐるしく変化していたことだろう。頭の中にミクロサイズの悪魔がいる。死ねという彼の囁きが頭蓋骨を反響して全身を支配していく。その微振動で溶けだした自分とベッドと世界との境界線が曖昧になっていく。しかし拒絶反応だけはしっかり受け取っていて、全身がみじん切りした生肉のようにぐちょぐちょで、ぐちょぐちょで、ぐちょぐちょで、ぐちょぐちょで、ぐちょぐちょで、ぐちょぐちょで、ぐちょぐちょで、ぐちょぐちょで、ぐちょぐちょで、ぐちょぐちょで、ぐちょぐちょで、丸っきりとろけてしまってもまだくっついている。ここにいてはいけない。いたくないのだがどこにもいきたくない。どこにもいたくない。深い水の底にいるように動けない。水圧の為すがまま体が絞られていく。ぷちぷちと指先から細胞単位で圧壊していく。沈んでいく。分散していく。べきなのにまだここにある。
「兄さん?」しかし、その幻覚的サイケデリック空間にカマラの声が割り込んできた。「どうしたの? 大丈夫?」
正確には、ユーリの肉体的な視界に割り込んだ彼女の顔という電気信号が、いくらかの警笛になって神経活動に秩序を回復させたのだ。バラバラになりそうな書類に穴を開けて紐でまとめたように、彼女は彼を世界の中に再定義した。そうだ、まだカマラがそこにいた。他人の目がある間は狂気の詰まった窯の蓋も少し重くなるらしい。
「あ、ああ……」
ユーリは若干の気まずさを感じながら、目線を逸らす。感づかれたら厄介だ。
「何でもない。気にするなよ」
「うん? 分かった……」しかし、カマラはやはり何も気づかなかったようだ。首を少し傾げただけで、すぐに忘れたようだった。「取り敢えず、どうしようか、これから」
「え?」ユーリは、しかし、その彼女の言葉にどきりとした。「……何をだ?」
実は病院から抜け出してきたことが、バレていたのか? 知ってて惚けていたのか?
実のところ、カマラにはそういうところがないではなかった。確かに単純で考えが足らないところはあるのだが、何かを一目見てその本質を見抜くときがないではなかった。その上で、まるでチェスで対戦相手を追い詰めるように逃げ道を潰して、物事を本来そうあるべき形に持っていくのである。
仮にそうだとすると、それはマズい。ユーリは一応、まだ軍に在籍していることになっているはずだから、これも脱走は脱走だ。とすれば軍に突き出せばそれなりの報酬は出るだろう。とはいえ、その先にあるのは何らかの処分だ。家族として情がないわけではないから、自首を勧めてようというのか、減刑の対象となる?
だがユーリはそのどちらもが嫌だった。どちらにしても、軍病院かそれより酷い環境に戻されることは間違いなかったからだ。あの上辺だけは優しい無機質な世界に戻されるのは到底受け入れられなかった。あそこでは、死ぬことも生きることも許されないのだから。
「いや、」しかし、結論から言えばそれはユーリの思い過ごしだった。「だからお昼ご飯……お腹空いたでしょ? 前線じゃ、ロクなもの食べてないって聞くよ?」
そう言うと、カマラのお腹から折よくぐうと音がした。カマラはそれを合図に立ち上がると、部屋を出て台所まで行った。
「何か食べたいものない?」そしてそこから大声でユーリに話す。「兄さん何が好きだっけ?」
「……別に、いらない。食欲ないから……」
「駄目だよ、食べないと治らないもん。熱って要するに筋肉が動いてる証拠なんだから、その分の栄養が必要でしょうが」
「じゃあ何でもいい。食べたいものを勝手に作って、その残りをよこせばいいだろう」
「ふーん? じゃあカツカレーにしちゃおうかな? 何でもいいなら」
「…………」
病人に食わせる飯か、カレーは!
ユーリは面倒になったので何も言わなかったが、カマラはそれとは対照的に頭にキンキン響く声で笑った。
「嘘嘘、流石に病人にそんなの食べさせるつもりはないってば。お粥でいいよね?」
だが、実のところよくはなかった。カツカレーほどじゃなかったが、粥もまたユーリは苦手だった。どろどろとして歯応えがないのに、さりとてこれといって味があるわけでもなく、とにかく食べた感じがしないからだ。麦粥だろうが米粥だろうと、出されたら隙を見て何かしらの調味料を入れるのが常だった。
「……勝手にしろ」
だが、ユーリはそのとき、そう返事をした。それが何故かと言えば、面倒になったのである。どうせ、食べる気はないのだ。病院でそうしていたように、じっと口を噤んでそっぽを向いていればいい。そうすれば、向こうはこちらと違ってやるべきことがいくらでもあるのだから、いずれ諦める。
しかも、そうすることは彼の目的に資することでもあった。何しろここは病院ではない――点滴はない。それはつまり食べなければ栄養が接種できず、次第に死に近づいていくということだ。待ち望んだことである。ユーリはやはりそのとき引きつった笑みを浮かべた。あのカマラのことだから、多分、しばらくはそのやり口に気づくまい。
「そうだ、」しかし、そのときカマラが扉の端から顔を出したので、咄嗟にユーリはそこから視線を逸らした。「できるまで時間かかるから、本でも読んでたら?」
「本?」
「そう、本。私の部屋になってからも本棚は弄ってないから、前読んでたやつもまだ残ってると思うんだけど……好きだったよね、本?」
そう言うと、返事も待たずに彼女はもう一度部屋の中に戻ってきて、本棚から数冊抜き取って、ユーリの枕元に置いた。厚さ数センチもあるハードカバーがドスンと。その重みでマットレスが凹んでユーリの頭も傾いて、ろくすっぽ張り付いていない濡れタオルがずり落ちる。
「ほら、起こしてあげるから……」
しかしそんなことはお構いなしとばかりにカマラは濡れタオルを回収すると、ユーリの背中とマットレスの間に腕を入れて、ヘッドボードにそれを立てかけるようにして彼の上体を起こした。その上でユーリの膝の上に適当に取った本を乗せ、それから風のように部屋を出ていった。
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