第173話 汚染
「主文――当法廷は被告人を無罪とする」
え、という声が出かかったのを、エーリッヒは寸でのところで食い止めた。目の前の裁判長――といっても、艦内のブリーフィングルームを貸し切った簡易法廷のそれであって、実際には憲兵隊長――は、今、何と言ったのだ?
「被告人は確かに停戦命令に違反し、出撃を試みようとした。更にその過程で整備兵と自らの部下を恫喝し、支援が得られないと分かるや単独で攻撃を試みようとした。これは重大な違反行為である。しかし――」
溜息を一つ吐いてから、手元の原稿に憲兵隊長は目を落とす。老眼鏡を掛け直し、いかにも面倒くさそうな素振りを隠そうともせずに。
「しかし、当事案はそもそも未遂でしかない。彼が乗機を乗り換えて実際に出撃したわけではないし、積極的なサボタージュというわけでもない。それに加え当時の状況を鑑みれば、戦闘直後で敵艦隊はまだ近傍にあり、ノヴォ・ドニェルツポリを占拠する傀儡政権が停戦条約を本当に順守するかは不透明であったこと、また、停戦が成立した結果を重視したとしても出撃可能状態を基準とした整備を放棄することは不適切であることから、被告の行動の全てを不当であると否定することはできない。よって本法廷は被告人を無罪とするものであり、人事査定への反映は行わないこととする。以上」
憲兵隊長はそれから立ち上がった。それから壇上から降り、原稿を部下の保安要員に手渡すと、不機嫌そうな顔のままブリーフィングルームを出ていった。
「…………」
エーリッヒには、それを目で追うことしかできなかった。彼の常識からすれば、あり得ない判決が下されたのだ。プディーツァという国は、究極のトップダウン構造文化を持っているから、概してどのような組織であっても上の命令に従わない下というのは厳しい罰が下される。まして命のかかっている軍隊組織のこと、その上意下達の構造は他よりはるかに厳しい。無論、それをどうにかする手段(例えば賄賂であったりコネであったり)もなくはないのだが……それをエーリッヒは使わなかった。前者は使おうと思わなかったし、後者はそもそも頼るべきツテがない。一体どういう力学が働いたというのだ?
「不思議そうな顔をしているな、大尉?」そのとき後ろから声がした。「無罪判決だというのに、何か不満でもあるのかな?」
エーリッヒは咄嗟に立ち上がりながら振り返って敬礼をする、というのも、その声の主は宙母「アレクセイ・ブルシーロフ」の艦長ムェガミ・チリッツァ大佐だったからだ。やや禿げかかっている前髪がやたらと縮れているのが特徴の痩せた男だった。
「いえ……決してそのようなことは。」エーリッヒは答礼を受けてから、気を付けの姿勢に戻った。「ですが、不可解ではあります。変なことを言うようですが、自分のした行為の重さぐらいは理解しているつもりです。命令違反をしたのですから……」
「憲兵隊長は未遂だと言っていたがな? それが判決として出たのならば、私はそれに抗議しないつもりだ。第一、この簡易軍事法廷にしたって、形式上私が訴えを出したことになっているが、それは艦の責任者だからだ。一応規律違反だから、何も言わずに済ますわけにはいかないというだけのことだ」
「それでも、全くの無罪放免というのは、些か困惑すると申しますか、納得いきかねるところです。それでは艦の規律が……」
「何、規律なんぞは、一度軍法会議をちらつかせるだけで収まる。いくら清廉潔白な君にも心当たりがあるだろう。我が艦には、特別な補給物資があることが」
「…………」
違法薬物のことだ、とエーリッヒは直感した。アレクサンドルとブリットの使っていたような。艦内にどの程度蔓延しているのかは分からなかったが、当然違法であるからには、摘発しようと思えばいくらでも軍事法廷に引っ張り出すことはできるのである。その可能性をちらつかせればいいのである。
「……自分は、」エーリッヒは、言うまでもなくそれには批判的だった。その色を含んだ視線を隠すことはできなかった。「そもそもその件については反対の立場です。いくらストレスに晒される環境とはいえ、許されるべきでは……」
そうだ、よくよく考えればおかしいじゃないか、これは!
ブリットの存在でついつい見ないふりをしていたが、本来閉鎖された環境の宇宙艦に違法薬物が蔓延しているというのは異常事態に他ならないし、規制されるべきである。薬物は冷静な判断に基づかなければならない軍事行動を妨げるし、戦後の生活を危うくする。ブリットを殺したのは直接的には「白い十一番」であり、間接的にはエーリッヒ自身ではあったが、もしそれがなければ将来的には薬物であっただろう。
いやもしかすれば、薬物の禁断症状がなければ、彼女はもっと冴えた手段でエーリッヒのことを「白い十一番」の魔の手の中から救い出していたかもしれない。きっとそうだ、彼女とてこの戦争をここまで生き延びてきたのだから。
しかしその自らの内側にある衝動のままに言ってから、エーリッヒは自分がミスをしたということに気がついた。いくら何でも、直截的な物言いだった。
目の前にいるのがその組織的犯罪の一端を担っている可能性に、言ってから気づいたのだ。
よくよく考えてみれば――無から違法薬物が湧いて出るわけはない。閉鎖環境の艦内なのだから、どこかから持ち込まれなければならない。それも定期的に、かなりの量が必要なはずだ。そんなことが可能なのは――補給艦とランデブーしているときしかない。
そしてその補給艦に予め「それ」を積んでおくよう要請できる立場の人間が必要だ。そんなことができるのは艦長に他ならない。しかもそこで終わりではない。実際にはその要請に許可を出す何者かが兵站関連の部署にいるわけで、目の前にいるこの大佐すら、その巨大な構造の末端に過ぎない。
その事実に恐る恐る視線を上げると、ムェガミの冷ややかな視線。それに射竦められて、エーリッヒは唇を引き絞る。
「……君は、そろそろ政治というものを覚えた方がいいと思うがね」
「…………」
「その若さで大尉になったのだから、無理もないが――軍というのは、軍功だけでのし上がれるほど単純な構造をしていない。まして戦後はどうなる? 戦闘がなくなれば、ものを言うのはカネとコネだ。君も、万年大尉でキャリアを終えるつもりはないだろう?」
「……つまり大佐は、私に恩を売ったつもりでいらっしゃる?」
「否定はせんがね。しかしどちらかと言えば保身だな。自分の艦での不祥事はこっちの人事査定に引っかかる。いつまでもこんな艦長職なんぞにかまけているつもりはない……なあ、お互い上手くやろうじゃないか。君は出世払いでいい。士官学校次席だ。戦後は引く手数多だろう。何にしても、もう戦後を見据えて動くべき頃合いだと思うが?」
――どの口が……!
エーリッヒは咄嗟に掴みかかりそうになっていた。その戦後は、ブリットをはじめとした夥しい数の兵士の死体の先に成り立っている。彼らにはもう戦後はないのだ。ただ戦場で死んだという結果だけが残っていて、後世には、それが記録に残されるだけだろう。彼らの記憶も、今いる戦友たちが死ねば、残らない。
だが、彼の言う「戦後」という言葉には、それに見合うだけの輝きはないように思われた。兵士を薬物漬けにして戦わせ、死なせた。それを彼は自らの「功績」だとしているのである。自分は立派に戦い、戦果を挙げたということにしているのである。そしてその糞塗れの勲章を一緒に共有しようというのだ。
(ブリットは戦場で死んだんじゃない……! コイツに、この軍の腐敗に、絡め取られて死んだんだ! コイツらのような軍人がいるから……!)
なるほど彼女が最期に何を考えていたのかは分からない。
彼女が、何を思ってエーリッヒを庇って自らの命を捨てるなどというバカげた行為に出たのかは分からない。
しかし、これだけは言える――間違いなく、このような汚らわしい巨大構造のために命を投げ捨てたのではない。もっと崇高で、尊いもののために命を落とした。ブリットだけではない。この戦争で死んだ全ての兵士がそうであるはずだ。命とは、そういう輝きがあるものだからだ。
それが――その敗死の背景が、このような腐敗では、とてもじゃないがやりきれない。開戦劈頭の失敗も、この腐敗が原因に違いない。ちゃんとした諜報や偵察に頼らず慢心して攻撃を仕掛け、首都星系前面で挫かれたのだ。そうとしか考えられない。
ならば一体何のために戦死者たちは戦ってきたのか。何のために彼女たちは生きてきたのか。ただ利用されて薬漬けにされて死ぬために生まれてきたわけではないのだ、絶対にあり得ない!
今が戦後だというのなら――戦うべきは、まさに目の前にいるような男たちであった。新たな戦場はここにある。敵は内側にいて、それも強大だ。これを排除しなければ、プディーツァに明日はない。
「――了解しました。」そう考えたからこそエーリッヒは、選んだ。「このご恩は決して忘れません」
黙ることを、選んだ。
嘘を吐くことにした。
戦うことを諦めたのではない。今はまだ、ムェガミの方が上手だということを認めたのだ。艦の全てを司っているこの男に正面から挑んだところで、この件を蒸し返されるかあるいは罪をでっち上げられて謹慎か、本当に軍事法廷に引きずり出されるか、だ。
相手はただの腐った肉人形ではない。
それらが積みあがって生まれた組織である。
何も考えずにただ拳を振るえば、永遠に光のやってこない世界に放逐される。
ならば――今は、この糞の混じった泥水を啜る他ない。
それがどれほど苦く、苦しいことであっても。
いつかそれを綺麗な清水に変えるためには――今は耐えるしかないのだった。
(そして何より――)エーリッヒは、奥歯を噛みしめる。(戦争は終わらない。地球が背後にいる)
この停戦が内発的なものではなく外発的なものであるからには――軍事アセットを失ってどうしようもなくなってやむなく交渉のテーブルに就くのではないからには、常に軍事的選択肢は残されている。
ならば、「白い十一番」は必ず現れる。
運命だと冗談めかしてブリットに言ったことがあったが、あれは本心でもあった。
エーリッヒ・メインのあるところに、必ず奴はいた。
だから次もいる。
ヴァルデッラバノ少佐に始まり、リチャード、オリガ、アレクサンドルにイコンダ――そしてブリット。綿々と続く因縁が、そう簡単に消えるはずはないのである。
だから戦後は、まだ、先の話だ。
今じゃない。
「よい、実によい」その覚悟を知らずに、ムェガミはエーリッヒの肩をポンポンと叩く。「やはり、互いの信頼が第一だ。これからもよろしく頼むよ、メイン大尉」
それから、ポケットの中に何かを滑り入れた。それが何かはエーリッヒにはすぐに分かった。彼の優れた動体視力は、それが小さなジップロックだと見抜いていた。白い錠剤の入った。
口止め料――のつもりらしい。
「それじゃあ、よろしく頼むよ」
そう言って、ムェガミは笑顔で立ち去っていく。その背中がブリーフィングルームを出るまで視線で追って――そうしてそこに一人きりになってから、エーリッヒは、叫びながら近くの椅子を思いっきり蹴った。
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