第172話 大脱走(後編)
「ルヴァンドフスキ中尉――朝食の時間ですよ、起きてください」
その声と共に仕切りのカーテンが開かれて看護師が入ってくる音。それでユーリは目が覚めた。そうだ、ここはノヴォ・ドニェルツポリの軍病院。もうとっくの昔にそこに運び込まれてきたのだ。
「おはようございます。体、起こせますか?」
ユーリには看護師の近づいてくるその様子が馴れ馴れしいと彼は感じたが、視線で追うだけで何もしない。その内それすら面倒になって、やめた。天井を見ている方がマシだと思ったのだ。
「机の上に置いておきますからね」
そう言いながら、看護師はプレートに乗ったそれをテーブルの上に乗せた。それからベッドのリモコンを操作して、背中の部分を起こす。すると否が応でも食事の献立が見える――小さなパンと汁だけのスープにコップ一杯の水。病人に食わせるにしても質素に感じられるかもしれないが、何日も食べていない人間には大量の食事はかえって毒なのだ。
つまりこれは充分に考え抜かれた「処方」である。ユーリの現状を踏まえた上で、少しでもそれを改善しようという試みなのである。
である――のだが。
「…………」
だが、ユーリは指一本それに対して動こうとはしなかった。じっとスープから立ち上る湯気を見ても、すうとコンソメの香気が鼻をくすぐっても、少しも食べようという気にならなかった。布団の中に手を仕舞ったまま、ぼうっと見つめる。時折焦点が外れて、視界がぼやける。
「……やっぱり、難しいですか?」それを見て、看護師は少し悲しそうな顔をして言った。「何も食べずに薬を飲むと、胃が荒れちゃいますけど……いつも通り胃薬も出してもらってます。でも、できたら食べてほしいです。口を開けていただいても?」
ユーリはその言葉にすらどういうわけか少し腹が立った。それを示すように反射的にジロリと彼は看護師を睨みつけたが、すぐにどうでもよくなって視線をカーテンレールと天井の境目に移した。もちろん、口は一ミリたりとも開けない。
……酷く眠い。どうせ寝たところで大抵は悪夢しか見ないのに、起きているのが億劫で仕方ないのだ。起きてしまうと視覚情報も聴覚情報も自動で入ってくるので、それが嫌だった。何も感じず、何もせずにいたい――存在すら、したくない。肉体も精神も邪魔で邪魔で仕方ない。
「――ルヴァンドフスキ中尉。たまには、病院内を歩いてみませんか? ちょっと寒いですが、ほら、運動するのは体にいいですし、もしかしたらお友達ができるかも……」
しかし看護師は、めげずに話しかけてくる。にこやかな表情を崩そうともしない。それが無性にユーリをイライラさせた――前述したように、彼は何一つ受信したくないのだ――が、それもすぐに収まってしまった。
いつからだろうか。感情の起伏が失われたのは。
なるほど病院船に運び込まれたときには、まだそれらしいものはあった。彼の肉体は怒りで満たされていた。拘束から抜け出して、「ルクセンブルク」のどこかに潜んで隙を見て手近なプディーツァ艦隊に特攻してやろうという気持ちがあった。実際、何度か試みたので、今も彼の体のあちこちには擦り傷が残っている。拘束服はごわごわしていて硬かったのだ。
だが病院船が出発し、一週間ほど経つ頃にはもう彼には何も残されていなかった。なるほど予防措置として定期投与される鎮静剤が効果を発揮していたのかもしれない。何かをしようという意志が酷く低迷していた理由をそこに求めることも可能だろう。
しかし――実際のところ、彼は目覚めたのだ。
何に? ……現実に。
怒りの熱狂は麻薬だ。麻薬であるということは、禁断症状があるということだ。拘束され、母艦から、愛機から引き離された状態に晒され続けた結果、彼は自分が無力であると理解した。あるいは無価値であると理解した――為すべきだと考えることも実行できない人生など、彼にとっては何の価値もなかった。
現実に、戦争は終わったのだ。
戦争が終わってしまえば、「サボテン野郎」を殺すことなど不可能である。接触することすらできない。
そうして生まれた、やりたいこととできることの間にある深い相克。そこに今まで押し殺してきた戦場の恐怖や今まで感じてきて何とか忘れてきたストレスがのしかかれば――人は、簡単に壊れるのである。
「……取り敢えず、お薬は飲みましょうか。ね。そうしましょう……」
沈黙に耐えかねたのか、ようやく、看護師も諦めたようだった。こちらが飲みやすいよう、シートから薬を取り出してプレートの上に。それを見てからユーリは、視線で暗に、看護師に出ていくよう示した。彼はそれを察したのか、一礼だけして出ていく。他の仕事もあるのだろう。
「…………」
ユーリは、それから溜息を一つ吐いて、その錠剤をベッドのフレームとマットレスの間に放り込み、水だけを飲み干した。それからベッドを元のように水平に戻し、布団を頭まで被る。瞼は少しも重くならない。耳元で誰かがずっと囁いているからだ。その言葉は命令形で、たった二文字二音で構成されている。その命令に従えたらずっと楽なのだろうが、生憎とそのために必要な刃物は手元から全く取り払われていた。プレートの上にあるのもスプーンだけである。大した配慮だ。バターナイフすらないのだから。
だが、その程度では、彼の命令順守のための創意工夫を止めることはできない。
何故なら、まだ手が残されているからだ――それも二つも。
「グゲッ……」
その両手を首筋にそれぞれ這わせて、全力で内側に力を入れる。親指の付け根で喉仏を潰しつつ、指先同士で作ったクランプで頸動脈を封じていく。肉体は反射的に息を吸おうとするが、当然気道が塞がれているので奇妙な音しか出さない。が、それは命令を実行するよう促す声を遠ざけてくれる。それを聞きながら、血流が止まっているとき特有の、あの内側から膨れ上がるような感覚が訪れるのを待つ。血が往還しなくなっているだけなのに「膨れ上がる」というのは、よくよく考えれば矛盾するような話だが、細かいメカニズムなどはユーリにとってはどうでもよかった。代わりにただその先にあるのは破裂のイメージである。脳味噌に死のエネルギーが際限なくつぎ込まれ、終いには耐えきれなくなって頭蓋骨ごと外側に吹き飛ぶのだ。現実にはどうであれ――それが分かる頃には彼という意識はどこにもいなくなっているのだから、そこに興味などないのだ。
観測しようがない。
したいとも思わない。
ただ無になりたいのだ。目覚めの対義語としての眠りではなく、もっと根本的に、自らという存在そのものを消滅させたい。
時に自殺志願者に対して、やれ誰それが悲しむとか、死後の世界でどうとかとか、死ぬのは逃げだ負けだとか言う人がいるが、それはまるで見当違いである。当の本人は、そういう死生観にいない。誰か悲しむ人がいたとして死人はそれを観測することもないし後悔することもないし、だから同様に死後の世界もない。主観的にはただ意識がなくなり、何も認識しなくなるのだから。そして快であれ不快であれそもそも何かを感じるのが嫌になったから死を選ぶのであって、逃避や敗北だという価値観は何かを感じ取る余裕のある生者のものである。
言ってしまえば、肉体と精神とでは、後者が先に死を迎えるのである。まず精神が死んで、それでも肉体が生きているという矛盾がそこに生じて、それを解消しようと肉体が勝手に動くのである。そうして本当の死に、無に、向かう。ああ、何と素晴らしいメカニズムなのだろうか……!
「ガハッ……⁉」しかし、ユーリの手はその崇高な使命を放棄し、するりと首から離れ、苦しみに耐えるために布団とシーツを一緒くたに掴んだ。「げほっ、げほっ……」
それから布団からむくりと這い出し、やけに涼しい空気を浴びる。肺はそれを正面から吸い込んで、頼んでもいないのに勝手にその中の酸素と血中二酸化炭素を売買する。その荒々しい呼吸の中でユーリは両手をマットに突いて――それから耐えきれずに頭を手と手の間に突っ込む。
――何故死んでいない。死にたかったんじゃあないのか。他人を殺すのは上手な癖に、自分一人殺すことができないというのは、一体どういうことなんだ?
涙は出ない。頭蓋骨の中身を全て涙に変えてしまったのではないかと思えるほど頭が重いのに、それらは涙腺には繋がっていないらしい。吐き気がする。でも吐けない。何も食べていないから。眠りたい。でも眠れない。眠れば起きなければならないから。ああ矛盾だ。肉体が生にしがみついている。鬱陶しい。
ユーリはそのまま、マットに突いたままの頭を軸にごろりと横になった。そうして天井を見ると、ぐるぐる回る世界の中で模様の一つ一つが彼の何かを言っている。どうやら馬鹿にされているらしいのだが、怒る気力があるわけはない。ただ死ぬべきなのだという使命感だけが強まる。この方法では駄目だ。自分一人の肉体の力では、その内部に巣食う旧態依然を好む保守勢力に阻止されてしまう。何しろ肉体はまだ生きているわけだから、それをわざわざ変更したくはないのだろう。
(そうか)ユーリは、そのとき悟った。(自分で死ねないなら、何か別の存在に殺してもらえばいいんだ。もっと大きくて、逆らい難い何かに……)
ユーリは徐にベッドから起き上がり、スリッパを履いて、点滴を吊るしている棒を引きずりながら、カーテンの外に出た。目指すは窓だ。部屋の端に一個だけ取り付けてあるのを前に見た。
「…………」
その外は、雪景色だった。病棟の四階からでは大して見晴らしはよくなかったが、ノヴォ・ドニェルツポリ本星中心部の高層ビル群が雪で覆われていくのはよく分かった。何となしにガラス表面に触れてみると、そのまま体が凍り付くようであった。そうなってくれればよかったのだがそうはならなかったので、ユーリはその手を滑らせて、どこかにあるであろう開閉ハンドルを探した――が、その手はただ金属製のサッシとゴム製パッキンに触れるばかりで、何も見つけてはくれない。嵌め殺しの窓なのだ。
「ルヴァンドフスキ中尉……? どうしたんですか……? その首の痕は……?」
するとそのとき、後ろから声がした。例の看護師だ。食事を片付けに来たのだろう。しかしユーリはそれに返事もしない。代わりに迷いのない動作で点滴の棒を両手で掴み看護師の頭にそれを叩きつけると、そのまま振り返り様に窓に投げつけた。
ガシャン! ……あっさりそれは割れ、吹雪が窓から中に吹き込んでくる。落下した棒に引かれた点滴のチューブが乱暴に腕から抜け、皮膚が裂けて血が噴き出した。
だからといって足を止めるようなこともしない。
待ち望んだものはすぐそこにあるのだ。
彼は手にガラス片が刺さるのも気にせずに、窓枠によじ登ると、そのまま白い世界に身を投げ出した。一瞬の浮遊感の後、猛烈な風圧。文字通り加速度的にそれは増大し、地面に落下するまでの僅かな間に彼の肉体を錐もみさせた。当然彼は空挺降下の訓練を受けたわけではなかったから、その猛威にされるがまま――街路樹に突っ込む。
それから、鈍痛。それが頭の中から響き渡って全身を痺れさせる。まるでビームライフルの直撃弾を正面装甲で受け止めたときの衝撃を数倍にして受けたようだった。うつ伏せの視界が白黒とした。全身にびりっとした痛みがある。小さな枝が運動エネルギーを受け止めた代償に病衣を貫いて各所に突き刺さっているのだ。
だがまだ生きている。死ぬには至らなかった。
溜息混じりにユーリは立ち上がる。周りにいた通行人――見舞客だろうか――が何事かという目でこちらを見る。内一人は上着を脱いで貸すような素振りをした。そうやって捕まえるつもりなのだろう――生憎と彼にはそんなつもりはなかった。そのダウンジャケットが間合いに入るより早くユーリは走り出していた。雪が傷だらけの病衣をしとしとと濡らしていく。スリッパは落下中にどこかへ行ってしまったので足の指先が文字通り凍るように冷たかった。全身が見る見るうちに冷えていく。
だがそれでいい。
どれほど頑張ったところで、人間は大自然には勝てない。
たとえ、肉体がどれほど頑丈であったとしても――氷点下の中ほとんど下着で走れば、あっという間に凍死できる。
だからユーリは誰にも捕まるわけにはいかなかった。捕まればまたあの丁寧に毒抜きされた地獄に戻される。どこか路地裏に行ってそこでじっと隠れていれば、走ることで掻いた汗が凍り付くので一時間とかからないはずだ。
ユーリは、走った。笑いながら走った。と言っても、屈託のないそれではない。声を出すような明るいそれではない。どこか筋肉の緊張した、それこそ凍り付いたような笑みである。「笑う」という動作プリセットが忘却されて久しいのだ。
そうして、正門を潜る――今まさに入ってきた車の運転手は何か信じられないものを見たような目で追い、寒いので詰所でサボっていた警備員は同じような目をした後すぐさまそこから飛び出した。
「おい待て!」
目の前には幹線道路。そこを歩道に向かって直角に曲が――らない。そんなことをすれば確実に転ぶし、速度も落ちる。第一、別に逃げ切るのは目的ではない。車に轢かれるのだって立派に死因になる。
だから一切の手加減なしにユーリは走り続けた。左から自動車のクラクション。しかしそれらは後ろか前を寸でのところで通り過ぎていく。中央分離帯を乗り越えてその音の来る方向が逆になっても、同じだ。磁石の同じ極がついているかのように当たらない。あっという間に道路の対岸についてしまった。走りながら振り返ると、警備員が慌てふためいている。流石に同じような危険を冒す勇気は彼にはないらしい。ならば好都合だった。そのまま歩道を走り、適当なところで路地に入る。
「はあっ、はあっ……」
その頃には、ユーリの衰え切った体は限界だった。全身の筋肉が摩耗し、悲鳴を上げている。まだ病院からそれほど離れていなかったが、もう一歩も動けそうになかった。手近なところにゴミ集積用の大きな箱を見つけた。それを開けて中に入――ろうとして、思いの外重量のあるそのドアが開けられず、ユーリはその脇の雪が堆く積まれているところに頭から倒れこむ。接触面にあるべきひんやりとした感覚すら、ない。ブヨブヨとしたゴムの向こう側にあるものを触診しているかのようだった。その上に、雪が降り積もっていく。喧騒は遠くなり、目の前の世界が狭く暗くなっていく。ゴミ箱のすぐ傍のはずなのに、何も匂いがしない。
(ああ……)ユーリは、満足した。(いい。何も感じないでいい。何も思わないでいい。これをずっと待っていたんだ、僕は……)
暗闇の中にぽつんと「自分」が置かれている。それはゆっくりと遠ざかるか、萎むかしていく。一秒ごとに認識が難しくなっていくのだ。手放す、という言葉が一番近いかもしれない。ドットが潰れ、次第に抽象的になり、最後の一粒が今、消えた。
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