第171話 大脱走(前編)
「いたぞ、あそこだ!」
廊下の後ろで声がする。それを振り切って、ユーリは「ルクセンブルク」の廊下を走る。破れた拘束服が隔壁の端に引っかかったが、力任せに千切ることで何とか前へ進む。格納庫まではあと道のりで五〇メートルもない。通りすがりの兵を引き倒すことで足止めに使う。
「クソッ」
派手に転ぶ音が連続する。狭い廊下で一度詰まれば、そう簡単には通り抜けられない。これで振り切ったも同然だった。エアロックを抜け、広い格納庫へ。「ミニットマン」がズラリと並ぶ横を奥へ奥へと走っていく。
「何だ?」
「おい、あれ……」
何人かの整備兵は何かが起きていることに気づいたようだったが、まだそれがどういう事態なのか分かっていない様子だった。視線で追うだけで、すぐに自分の作業に戻る。その無関心さに内心感謝しながら、ユーリは自分の機体の前に辿り着く。「バレット」は取り外されていたが、既に損傷している左腕は新しいものに交換されたようだった。
「どけ!」
そこに群がる整備兵たちを薙ぎ倒し、コックピットに座り、格納ペダルを踏む。ウォルルがその音でようやく事態に気づいて慌てたように振り返るが、その頃にはもう機体内部にユーリは入ってしまっていた。すぐさまサブモニターを操作して、外部からコックピットを排出できないように書き換える。
「ユーリ! アンタ何やってるんだい⁉」
そう言いながらウォルルが装甲板を両手で叩く音にも構わずに、エンジンをスタートさせる。メインモニターが点灯し、辺りがすっかり大騒ぎになっているのが分かる。ユーリを見かけたらしいクルップ隊の面々もそこにはいたし、追いかけてきた保安要員らしき人影が内線でブリッジを呼び出しているのが端の方に見えた。時間がない。艦長を経由して艦隊に伝わったら、追手を出される。それを相手にしている時間はない。
「――離れてください! じゃないと怪我しますよ!」
叫びながら、機体の拘束を無理やり引きちぎる。元より艦の揺れの対策でしかないそれはエンハンサーのアクチュエーターの最大出力に耐えられるような設計になっていないらしく、あっさり壊れてしまった。ユーリはそうやって機体を自由にしてやると、手近な機体に装備されていたビームライフルを奪い取った。それから補充されず空っぽのままのミサイルランチャーをパージ。それは人工重力に従って床に引き付けられガランと音を立てた。
「退避しろ、エアロックへ!」
それを見て、何をするのかウォルルには分かってしまったらしい。そう叫ぶや否や、減圧警報が鳴り響く。誰かがスイッチを押したらしい。そして宇宙軍の兵士は平時でも艦でそれを聞いたら本能的に近くの気密区画に走るよう訓練されている。全員が一直線に近くのエアロックへ逃げ出していく。
だがそれが完了するまで待ってやるつもりは、さらさらない。ユーリは機体を進ませ、エレベーターの下まで進む。それはトイレットペーパーの芯を縦に半分にしてその両端に円形の蓋をつけたような構造になっていて、それが互い違い――一方が開いている間はもう一方は動かない――に上下動することによって、気密を確保したまま機材のやり取りをすることができるのだ。
だが今はその格納庫側の扉は上に動いていて閉じられていて、そのチューブの中には入ることができない。外に出るには、この二重の隔壁を破らなければならない――だから、ユーリはビームサーベルを機体の左腕で抜いた。
ビィン!
そして突き立てる――機体が通る最低限の大きさにそれを切り取って、進む。それから、ビームライフルの三連射。正三角形の形に外壁側のハッチに穴を開けると、空気の流出が始まり、その圧力に耐えられなくなったハッチはあっさり吹き飛ぶ。
その瞬間に、ユーリは機体のスラスターを全開にした。狭い穴だが、それに引っかかるようではジビャを生き残れていない。高速ですり抜けると、そのまま艦の間をすり抜けて逃げる。まだ艦隊司令部には伝わっていないのか、警告の一つも飛んでこない。そのままユーリは悠々と外縁の駆逐艦の前を通って、球形陣の外に出た。目の前には大宇宙。そのどこかに奴はいる。
(どこだ――)
敵艦隊の宛てなどあるはずはない。それの離脱した方向さえ彼には分らなかったし、既に超光速航行に移っていたら――地球製とはいえども、ただのエンハンサーにどうこうできるはずはなかった。
第一、燃料が心許ない。いつも満タンにしているわけではないので、このまま全力で加速し続ければ三〇分持たないだろう。だが加速しなければ追手に捕まる。停戦条約などというまやかしが発効している今、彼のしていることは完全な命令違反だった。
(だから何だというのだ)しかし、ユーリにとってそんなことはどうでもよかった。(奴はきっと来る。絶対にそこにいる。それなのに何もしないなんてことは、僕にはできない)
アンナの仇。ノーラの仇――いや、そんなことは、もしかしたらどうでもいいのかもしれない。
今はただ、「サボテン野郎」を殺したい。戦って、相手の全ての手管を無力化した上で潰す。それができるなら、因縁も何もかもどうでもいい。ただ殺す。
すると、奇跡が起きた。
ヴィジュアル・センサーが、真っ暗な虚空の中に一つの反応を拾ったのである。画像解析――「ロジーナⅣ」? しかし、この荒いドットの感触は……!
(『サボテン野郎』ッ!)
ぎゅう、と操縦桿を握る。まだあの機体のデータが反映されていない画像解析ソフトは相変わらず「ロジーナⅣ」だと言っていたが、間違いない。ドットに粒が出るのだ、表面の棘を反映して。
(何が停戦だ! やっぱり敵がいるじゃないか! プディーツァ人が約束を守るはずがないんだから!)
ユーリは照準器を下して覗き込んだ。「バレット」の癖はとっくの昔に分かっている。「サボテン野郎」の避け方のそれもだ。磁場や宇宙線の影響をコンピューターが算出。そのデータを元に、照準位置を割り出す。手慣れた作業だ、一瞬で終わる。照準器のレティクルには敵は映っていないが、確実に当たると断言できた。
(終わりだ――死ねッ)
そのまま、トリガー。光弾が砲身を揺るがして飛び出し、僅かに歪んだ弾道の中を進みながら、そのまま敵を――貫かなかった。
「⁉」
ユーリが驚愕したのは、それが命中しなかったことに対してではない。読みを外せば、あっさり避けられるのである。だから彼が驚いたのは――次の瞬間、照準器一杯に「サボテン野郎」が迫っていたことだった。一瞬でサーベルの距離にまで近づかれていた。視界の下からぬっと飛び出すそれに、ユーリは悲鳴を上げた。
しかし何故?
一体どうやって?
そんな疑問は、ユーリの迎撃の手を僅かに鈍らせた。後退しつつサーベルを抜こうとする左手は、腕についている盾型スコープごと第一撃で真っ二つになった。バルカンを連射するが、当然そんなものでは装甲は抜けない。それどころか敵はそのエネルギーを吸収して大きくなっているようにすら見えた。あり得ない。どういうことだ?
「何だ⁉ 何だよ⁉ 何でだよ⁉」
苦し紛れに砲身を向ける。が、その範囲の内側に踏み込まれていては、ただ砲身をぶつけて曲げる結果に終わる。何より敵は今やこちらの何倍もの大きさになっているのだ。ともすれば「ルクセンブルク」より大きいかもしれない。そのサイズ差に呑まれて、ユーリは一目散に背を向けた。過熱気味のスラスターは悲鳴を上げていたが、そんなものはまるで聞き取れなかった。何故なら彼も泣き叫んでいたからだ。
「ウッ⁉」
しかし、その逃避行動はまるで効果がなかった。相手が速いというのではない。その程度の速度で稼げる距離などは手を伸ばせば届くほどに、「サボテン野郎」は成長していたということだった。あっさり捕まってしまい、機体は各所で金属音の断末魔を奏で始める。どういうわけか脱出装置も作動しない。コックピットがメキメキと音を立てユーリに迫ってくる。モニターは正面の一枚を残して全て割れてしまった。
「…………!」
その向こうに、彼は一つの宇宙服を見つけた。同じように――正確には大きさの違いから指先で摘まむようにして――それは「サボテン野郎」に捕まっている。それが誰なのかは、よく分からなかった。直感で言えばアンナだったのだが、一瞬目を離せばそれはノーラの狩る「ミニットマン」のようにも見えたし、ノーラ自身のようにも見えた。そもそも、宇宙服を着ていたのかも分からない。裸だったかもしれない。軍服を着ていたかもしれない。それら全ての可能性が量子的に重なり合っていた。
だが確実なのはその顔は苦しんでいることで――その原因は分かっていた。
「やめッ……」
ユーリが思わず手を伸ばした瞬間、「サボテン野郎」の指に軽く力が入る。たったそれだけで踏み潰されたバナナのようにそれは真っ二つに千切れてしまった。するとユーリはその肉体だったものを抱き締めていた。それは背中がなかったり、顔の部分に破片が突き刺さっていたりした。どちらにしても骨がないのでブヨブヨだった。だとするとここはコックピットではない。医務室か格納庫かのどちらかだ。いやコックピットでないはずはない。この狭さは「ロジーナⅢ」のそれにそっくりだったし、いつだってユーリはそこで誰かを見殺しにしてきたのだから。いつだってそこで何もできやしなかったのだから。彼が戦争に夢中になっている間に、いつも誰かが死んでいた。今誰かが死んだということは、ユーリはコックピットにいるはずである。ニコニコと楽しんで殺し合いをしていたはずなのである。思えばクルップ隊は楽しかった。「白い十一番」様とアンナが呼んでくれると心が躍った。国民英雄章だ! 最年少だ! エレーナがくれたんだ! スナイパーライフル! それに地球製の新型! ……これでもっと人を殺して、誰かを見殺しにできる。なあ、楽しかっただろ? 人が死ぬのは。俺も好きなんだよ。
「お前は」誰かの声がした。男の声。どこかで聞いたことがある。「誰一人救うことはできなかった。皆お前を愛していたのに」
ユーリは振り返った。何かを言おうとした。できなかった。まるで空気がないかのように言葉が音にならない。代わりに飛びかかろうと(何に?)しても、腕の動きに合わせて回転するばかりで少しも前に進まない。四方八方から「ロジーナⅣ」。ビームが迫る。
「死ね」
「死ね」「死ね」
「死ね」「死ね」「死ね」
「死ね」「死ね」「死ね」「死ね」
「死ね」「死ね」「死ね」「死ね」「死ね」
耳を塞ぐ、その掌が左右からユーリの頭を押し潰そうとした。キリキリと音がするのは対空砲。コロニーが弾けて空いた穴の中に吸い込まれると酸素がなくなった。咄嗟にユーリはM1911で手首を掻っ切ったが、シャーロットの部屋の中に虫がいる。ルヴァンドフスキ中尉。対艦ミサイルの直撃弾がハンバーガーの中に入っていたので、それを敵のスラスターに投げるとアンナは飛び散った。塹壕を掘れ。そうすればロンドンでノーラが愛してくれる。濃厚なキス。舌触りはザラザラとして縮れている。ルヴァンドフスキ中尉。ポケットの中にあるのだ。おかげで久々に演習だ。シェルターの目の前の階段が揺れた。ミサイル! ミサイル! ヘルメットのバイザーを開閉して避けなければ。やっぱり、本当は愛しているのね。ビームサーベルを抜き、減速して敵の胴を狙う。ハッチを撃ち抜くと大統領が暗殺されるところだった。車で両親に会って、カツカレーをぶちまける必要がある。軍人一家なのだ。ルヴァンドフスキ中尉。剃刀でカウンターメジャーを展開。その結果ホロデコイは着艦フックで旋回しシャワー室でえっちする。スポッターは撃墜したが、僕は死にません!
「……ルヴァンドフスキ中尉」
例えば、何も為せない人間に一体何の意味があるというのだろう。
あれだけチャンスがあって成し遂げられないなら死ぬべきなのだ。
でも死のうとしてすらいないのだから、甘えているのだ、人生に。
「ルヴァンドフスキ中尉……」
殺したんだから、殺すしかない。
死んだんだから、死ぬしかない。
それだけなのだ、だがもう嫌だ。
「ルヴァンドフスキ中尉!」
疲れた。
眠い。
無。
高評価、レビュー、お待ちしております。




