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第168話 苦杯

「先日と言っていることがまるで違うではないですか!」


 停戦の二四時間前。


 ドニェルツポリ共和国大統領エレーナ・エンラスクスは怒りのままに立ち上がりながら机をバンと叩いて目の前にいる男を睨みつけた。


「ええ」その男――地球大使アイラン・マクドナルドは冷然と言った。「まあ、そうですね」


「『そうですね』?」エレーナの目はさらに鋭くなった。「よくも、こうまで我が国を侮辱してくれたものですね。アナタ方にとっては赴任先の不幸で、極言すれば対岸の火事かもしれないでしょうが、それでも火事には違いないのですよ? 消し止めなければ、いずれはアナタ方にも火の粉が降りかかる。それが分かっていたから、アナタ方はレンドリース艦隊をよこしたのでしょう⁉」


「それはそうでしょうね。ですから私としても遺憾でならないのですよ、この度の本国の命令には。ですが仕方ありません。こちらの大統領が変わってしまったのですから。大統領が変われば方針も変わる。それは貴国も同じことであるはずですが?」


「だからといって、これでは火事の現場に灯油をぶちまけるようなものでしょう、この決定は!」


 そう言って、エレーナはデスクの上に置いてあった分厚い書類を持ち上げ、床に叩きつけた。それはバンと音を立ててからふわりと舞い、それからひらひらとゆっくり床に落下する。それが外交文書であることを考えれば、本来許されざる蛮行であった。その証拠に、脇に立っていた外相イリヤ・ヘルムホルツはその行為に顔を真っ青にした。


 だが、エレーナにはそれをせずにはいられなかった。一国の大統領として、許してはならない扱いというものがあった。


 何故ならその文書は――レンドリース艦隊をはじめとした各種支援を、打ち切るという内容だったのだから。


「……これはまた、」しかし、アイランは眉一つ動かさなかった。「随分な扱いですな」


「地球という国がこの下らない文章で私たちにしたことに比べれば、まだ温情のある扱いだと思いますが? わざわざ一度差し伸べた手をこちらが取ってから引っ込めるなど! これが、自由と平等を標榜する国家が独立国にする行為ですか!」


「大統領閣下。独立国なのはアナタの国だけではない。我々も同じことだ。何か勘違いしておられるようだが、我々は正義のヒーローでもなければ慈善事業家でもない。我々には我々の利益というものがある。それを追求する一環として、貴国への支援を打ち切らざるを得ないということです」


「その利益は、今現在も変わるものではないはずです。今プディーツァを止めなければ、近い将来地球人の血によってその代償を支払うことになるのですよ⁉」


「理屈は結構。ですが現時点で既に流されている我々の出血量は多すぎる。そう我が国の有権者は考えたのです」


 かちん、という音がエレーナには聞こえた気がした。「我々の出血量」? この男は、一体何を言っている?


「アナタ方がいつ、どうやって血を流したというのですか⁉ 個人的な地球人義勇兵を除けば、一兵たりともアナタ方は軍隊を送っては下さらないではないですか! 今この瞬間にもジビャをはじめとした戦場ではドニェルツポリ人の若者のかけがえない血が流されているというのに、何をとぼけたことを仰るのか⁉」


「……失礼、失言でしたかな?」肩を竦めるように、アイランは言った。「私が言いたかったのは、そう、比喩です。実際の血液ではなく、負担の大きさの話をしている。血税、というでしょう? 我々の貴国への支援というのは、つまるところ地球連合に住む国民一人一人の税金によって成り立っている」


「……?」エレーナは不信感を少しも隠そうとはしなかった。「何が仰りたい?」


「つまり我が国民はこう考えている――『いい加減、俺たちが一生懸命働いて稼いだ金をよその国にバラまくのはやめろ』。前にも述べましたように、我々が民主主義国家であるからには、その意思の表明は選挙を以て行われることになる。そして結果は支援打ち切りに傾いた。戦争を続けるのではなく、終わらせる方向に動くようトップを挿げ替えた――そのプロセスに問題がない以上は、私は一官吏として従わなければならない。ええ、実に悲しいことですが……」


 そのときエレーナは、そう言うアイランの表情が少しも動かないのを見て取っていた。いかにも「一官吏」としての悲哀を掻き立ててこの場を収めたいのだろうが、芸能界出身の彼女からすれば、見え透いた芝居だった。


「半年!」だが、構わずにアイランは続けた。くるりと踵を返して執務室の中を行ったり来たりした。彼からすれば、それすらも交渉戦略の内だったのだ。「そう、戦争が始まってから、半年が経ちました。その間、一体何があったのか。最初こそ、衝撃と畏怖がありました。そして民衆の同情もアナタ方に味方した。それから、アナタの毅然とした態度と首都星系近郊での胸のすくような逆転劇。誰もが『プディーツァという大国を屠る小国ドニェルツポリ』という物語の虜だった。だから、財布のシクシクとした痛みのことなど、誰も一時は棚上げしたのです。そのスペクタクルの代金としてね」


 ――ですが、戦争は一度の戦闘で決したりはしない。


 ――続くのです。


 非日常は、日常へ。


 そして日常は――国民一人一人に重くのしかかる。


「戦争となれば、まず不足するのは重力燃料です。かつての石油のように、現代兵器は全てそれを血液として動いています。ですが、それは別に兵器だけの話ではない。今となっては全ての文明の利器が欲してやまないのです。とすれば――その値段の高騰は、即ち物価の高騰に直結する。物流から切り離して経済は存在し得ないからです。アナタは今地球で農業惑星産のオレンジがいくらするか知っていますか――今となっては、平時の二倍近くに膨れ上がっているのです、賃金はさほど変わらないのに! ……どれほど経済対策をしたとしても、とてもじゃないが追いつかないのが現状です。なら国民はどう考えるか――当然、支出を減らす方向に舵を切る。そこで目についたのは、高い金を払っているにもかかわらず戦争というショーにいつまで経っても動きがなくなったことです」


「……黙って聞いていれば身勝手なことを!」エレーナの怒りはそのとき頂点に達した。「我々は、アナタたちを楽しませるために戦争をしているのでは……!」


「おっと、これは私個人の考察であって、地球連合の公式見解というわけではないですよ? それに、どれほどその行為が倫理的でなくとも、どうしたってこういう見方をする民衆はいるものでしょう? いつの時代だってそうだ。民衆にとっては、少しでも非日常を感じさせてくれるものならそれは娯楽になる。それがどれほど物騒で血なまぐさくて、現実に人が死んでいたとしてもね」


 ――ですがその非日常も、いい加減飽きが来た。


 ――コンテンツとして、コストパフォーマンスが悪くなったのです。


「…………!」


 エレーナは、目の前の男を殴り飛ばしてしまいたい衝動を抑えるのに必死だった。この男は、今度はわざと露悪的・冷笑的に言っているのだ。そうすることで、エレーナに何か失態を演じさせて――先ほど書類を投げたときのような――それを代金に自らの要求を飲ませようというのである。演技のプロである彼女にはそれが見て取れた。だから、彼女は、奥歯を噛みしめて耐えることにした。


 耐えろ。


 交渉に来たということは、自分だけでは達成できない目標があるということ。


 だから今は我慢して、この男を反対に屈服させ、譲歩を引き出すのだ。


「もちろん、そういう民衆ばかりではない。大統領閣下も仰ったように、我が国は自由と平等の国。その理想を現実にするべく努力する者も多くいる。我々も貴国に大きく関わってきたスタッフとして、貴国の現状をできる限り伝えようと努力したつもりです。ですが、それでも即時撤廃を何とか期限付きなどに緩和するので精一杯といったところで……」


 床に落ちた書類を、アイランはゆっくりと拾い上げる。そうして埃を払うと、エレーナに手渡す。それをエレーナは読みもせずに脇に置いた。もう穴が開くほど読んだのだ。今更内容が変わることはない。


 与えられた期限は、二四時間。


 もし停戦に応じない場合には、三か月以内にレンドリース艦隊を地球に返還し、損失分を金銭によって補填すること――というようなことが書かれている。融資や戦時国債の受け入れといったその他の支援も、期限や過程は様々だが打ち切られる。


「つまり、これ以上戦争を続ける気なら、一人で勝手にやれ……そういうことね?」


「その通りです」


 表情を少しも変えないアイランの鉄面皮を反対に利用して、エレーナは自らを冷静な状態に戻した。相手の真似っこをしたのだ。そうして彼女の女優としての能力に支えられて、政治家としての肌感覚はようやく落ち着きを取り戻した。


 状況を整理しよう。


 現在ドニェルツポリはノヴォ・ドニェルツポリの戦いに続き、ジンスク方面の領域の奪還には成功したものの、ジビャ方面での戦闘は長く膠着状態。当然その後ろにはドニェルツポリであるべき広大な領域が存在しているわけだが、これを奪還する策は今のところ参謀本部から上がってきた試しはない。頼みの綱のレンドリース艦隊も、たった一個艦隊規模では多少戦線を押し上げる程度であって、軍事に疎いジャーナリストたちが言うようなゲームチェンジャーではない。


 そして、戦場以外ではどうか――こちらも、問題が山積している。戦争による物価の高騰は、別に周辺国だけの問題ではない。むしろ当事国の方が、民間船が通商破壊戦に巻き込まれることも考えれば、深刻になるに決まっている。まして社会インフラだ――国民の多くが自発的に戦地に赴いたのはいいが、それはつまり今まで生産活動や労働によって社会を維持してきた現役世代がごっそりいなくなるということだ。当然そこには空白が生まれ、その空白に足を取られて転んで命を落とす人もいる。


 それらを総合的に考えて――戦争は継続可能か? それも単独で、プディーツァを相手にして?


「――一時的な停戦ならば」それら諸々を計算したエレーナは、たっぷり三〇秒考えてから、言った。「できなくはないでしょう」


 同席しているイリヤが俄かには信じ難いという顔をしたのを、エレーナは背中に刺さる視線の感覚から感じ取っていた。彼のその感情というのはドニェルツポリ人の一般的な感覚に等しい。停戦を受け入れるということが、彼女の政治生命を終わらせ得るとすら彼は考えているだろうし、事実として停戦を選ぶということはそういうことだろう。


 彼女にとって、自分の政治生命などどうでもいい。どうせ戦争が終われば大統領など辞めるつもりだったのだ。ノヴォ・ドニェルツポリの実家でひっそりと暮らし、近所の商店で働いて生計を立てる。それで彼女自身の人生などは済んでしまうことなのだから。


 だが、ドニェルツポリ共和国という国は、そうはいかない――だから、このとき既に彼女は策を弄していた。


「それで、それについて一つ確認なのですが――」それをおくびにも出さずに、エレーナは言った。「貴国は、我々にだけ譲歩を求めるつもりではないですよね? 停戦というのはただ一方が行えば成立する国際関係ではないのですが?」


 停戦を成立させるならば、戦争当時国双方が同意しなければならない。でなければ戦場で繰り広げられるのは一方的な虐殺になる。そして違法化されて久しい軍事侵攻をあっさりやってのけたプディーツァ人は信用できないのだ。だとすれば、プディーツァにも停戦を強要できるだけの、強制力がその協定にはなければならない。


「私はドニェルツポリ人ではありません。」しかし、アイランのその返事は、要領を得なかった。「同様にプディーツァ人でもない」


「?」


「つまり――別に我々だって、アナタ方だけに苦杯を舐めさせるような真似はしない、ということです」

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