第148話 夜襲
その日の夜。
ユーリは無駄と知っていたから瞼を開けていた。どうせ、眠れはしないのだ。しかも瞼を閉じていると、瞼の裏を見ることになる。そこは黒という単一の情報しかないはずにもかかわらず、彼の頭の中にそれ以上の情報を書き込もうとしてくるのだ。その情報量に耐え切れず、彼は目を開かざるを得ないのだ。
だが、目を開けていても、状況は変わることはない。薄っすらと闇の中で家具や装備が見えると、それに対して脳が勝手に情報整理を始める。その書き込みがうざったくて目を反射的に閉じると、同じことの繰り返し。脳が乾いたスポンジのように際限なく片っ端から情報を取り入れる状態になっていた。
(頭が、)と、彼は思った。(疲れているんだ……情報の取捨選択もできないほどに……)
ユーリは寝返りを打って、天井、もとい二段ベッドの背面が見える。その無機質で、見られることを考慮していない構造物にも分析が勝手に進んでいき、彼はまた嫌になって、目線を逸らした。
(こんな風に動くから、いつまで経っても寝られやしないんだ。だけど寝たところで、一体何になるっていうんだ?)
寝ても、見るのは悪い夢ばかりだ。敵機に追い回される恐怖。誰も助けてくれず、終いにはアンナを失ってしまうのだ。そう、悪いのは全て自分だ。弱かった自分が、アンナを殺したのだ――もうアンナはいないが、そして帰ってくるわけでもないが、「サボテン野郎」とは、決着をつけたくてはならない。かつての弱い自分がもういないのだということを証明しなくてはならない。
(だから、僕は、もっと効率的にならなければならない――だから『バレット』もクルップ隊も使い潰してやる。全ては『サボテン野郎』を倒すために――)
しかし、そのときだった。部屋のドアが開いたのは。
咄嗟に、ユーリは背を向けるように寝返りを打って、寝ているふりをした。だがすぐに、その開閉音が聞こえたことはおかしいと気づく。何故なら、同室のマルコは既に部屋にいたからだ。自分の真上で寝息を立てている。
だとすれば、誰が開けたのだ?
「――ッ⁉」
その答えに気づいたとき、彼はベッドから転げ落ちていた。ドアを開けた何者かが、彼を押し倒したのだ。それと同時に、唇に何か柔らかいものを押しつけられる。それが同じく唇であることに気づくのに、そう時間はいらなかった。何故なら見慣れた瞳が目の前で閉じられていたから。
ノーラだ。
彼女が、一体何故――暫時は突き飛ばすだとか、そういう抵抗は思い浮かばないほど衝撃を受けた。だがその唇の向こう側から舌がねじ込まれてきた辺りで、ユーリは気色悪さを感じた。いつの間にか掴まれていた手首を振り払って、胸を突いて壁際に飛ばした。ノーラは予想以上の軽さでそれに叩きつけられた。
「何、」口を拭いながら、ユーリは立ち上がる。「しているんですか。頭でもおかしくなったんですか⁉ 寝込みを襲うなんて、正気じゃない!」
「ユーリさん……待ってください。私の話を聞いて……」
「話なんかせずに行動に移したのが、今の結果になっているんですよ⁉ 話なんか聞けますか⁉」
「だって、アナタが傷ついていると分かれば、私はそれを何とかしたいし、そのためには私の処女だってくれてやって構わないって、そう思ったんですよ!」
「処女……⁉」ユーリは面食らった。「そんなのくれてもらったって、迷惑ですよ、アナタは僕のことなんざ考えちゃいない!」
「いいえ、考えています。アナタはアンナさんが死んで、それでぽっかり空いた穴に戸惑っているだけなのです。それなら、私が埋めてあげられる。だって、同じ女ですよ? できないはずがない!」
「それはアナタのエゴでしょう⁉ アナタがどうしたいかなんて、僕にはどうだっていい、関係ないんだ!」
「エゴなんかじゃない、事実です! アナタは傷ついていて、私にはそれをどうにかする術がある! お願いです、私に身を任せてみてはくれませんか? 私も初めてですけど、頑張りますから……」
そう言ってノーラは、もう一度ユーリに組み付くと、軍服の胸元をはだけさせた。その下には下着がない。初めからそのつもりで彼女は来ていたらしい。更には彼の寝間着に手をかけて脱がそうとするではないか。
「だから、」それにユーリは蹴りを入れた。そうして無理やり引っぺがすと、自分の服の胸元とズボンに手をやって抑えた。「アナタは、ハナからそれが目的なんでしょうが!」
「ごほっ……何ッ⁉」
「そうやって、アンナさんがいなくなった隙間に入り込もうって、そういう魂胆なんでしょう⁉ 自分が出遅れたからって、今更来たって……気持ち悪いんですよ! 汚らわしいんですよ! そんなことをするぐらいなら、いっそ死んでくれればいい! そうしたら愛しても悲しんでもあげられる!」
「死ねと言ったの……⁉ この私に……⁉」
ユーリは、その目一杯傷ついたというノーラの表情が、何より気に食わなかった。
「そうですよ! アナタみたいに人のことを考えないでただ自分の好きを通す人間なんてのは、愛している内には入らないんですよ! そんなアナタなんかが、アンナさんの代わり⁉ 冗談じゃない! アナタは僕を好きなんじゃない、好きにしたいだけなんだ!」
「それでも、私はアナタのことが好き。愛しているんですよ⁉」
「その歳にもなって、恋と愛の違いも分からないんですか、アナタは!」
「じゃあ、この気持ちを私はどうしたらいいと言うの、アナタは?」
「そんなの、」この期に及んでまだ他人を頼るのか!「知りませんよ! そんなの、自分で解決する以外にないでしょう⁉」
ユーリは酷く疲れた。息も絶え絶えになって、辛うじて、ドアの方を指さすのが精々だった。
「出て行ってください。今日のことは、秘密にしておいてあげます。でもアナタを、僕は一生軽蔑するでしょうね」
「ユーリさん、私は……!」
「これ以上何か言うようだと、僕は憲兵に言いつけます。僕にそんなことさせないでください。面倒臭いので」
ユーリがギロリと視線を向けると、ノーラはそれに従うしかなかった。彼の決意の固さを悟ったのだ。最初はじりじりと間合いを計りながら、それから一瞬後には一目散に逃げ出した。そうしてドアが閉まると、ようやくユーリはへなへなと力が抜けて、座り込んだ。自分の貞操の危機を脱したのだと、ようやく実感が湧いたのだった。
「……災難だったな」
そこに上から、声は降ってくる。びく、として見上げると、やはりマルコがこともなげに見下ろしていた。
「……起きていたんなら、助けてくれたってよかったんじゃないですか?」
「その前にユーリが全て片づけてしまった。おかげで申し訳ない気持ちで一杯だよ」
本当にそうだろうか、とユーリは思ったが、訝しむだけ体力の無駄だとも思えた、何しろ確かめる手段がない。彼は布団に戻ろうとした。
「憲兵には言わないのか?」
そこに、マルコは声をかけた。
「何です?」
「明らかに言った方がいい事案だと思うが」
「そりゃそうでしょうが。でもこの件に関して一々根掘り葉掘り聞かれるのは御免です。ノーラさんは苦しめばいいですけど、そのために僕が骨を折ってやるつもりはない」
「だが、彼女は過ちを犯した。それを正さなければまた同じことが起きるぞ」
「いいって言ったでしょ。マルコさんも、他言無用でお願いします。それじゃあ」
そう言うと、ユーリは布団を頭まで被ってしまった。そのポーズは即ち会話する気はないという意味だった。
「…………」
それを覗き込むのに飽きたマルコは、自分もまた、マットレスの上に戻った。それが憮然とした表情だったのは、今起きたことに不満があったからだ。
(ユーリもノーラも甘すぎる。ノーラはユーリを更迭すべきだったし、ユーリはノーラを告発すべきだ。これは軍隊の小隊なのであって、仲良しグループでのいざこざとは訳が違うのだぞ?)
そう思いながら、布団を被る。眠りも布団もすっかり覚めて・冷めてしまって、暖め直すために時間がかかるのは明白だった。
(しかし)それが、どうしようもなく苦しいのは、マルコとて同じことだった。(それはつまり、彼らが彼ら自身の関係を諦めてはいない、ということではないのか? あれほどまでに破局的関係に陥っても、なお、以前の小隊が忘れられないということではないのか?)
だとするならば――と、マルコは布団を被り直す。ジワジワとそれは体温を増幅させて、暖かくなっていく。
(だとするならば――まだ希望がある。お互いを思い合う最低限の気持ちさえあれば、それをもう一度蘇らせることは、不可能ではないはずだ。そして、それはあるのだから)
そう思うと、マルコの瞼はゆっくりと重くなっていった。それは安心と決意なのだった。かつてを取り戻すために、彼は、今はただ眠るということだった。
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