第133話 愛し愛
ユーリが格納庫に辿り着くと、自機の近くで揺れるポニーテールと赤い眼鏡の作業着姿を見つけた。そのとき思わず顔が綻んだことには、ユーリは驚いた。一度気づいた恋心の図々しさに、だ。
そしてその作業の邪魔にならない程度の長さの髪がクルリと振り返り、アンナが彼の方を見た。
「あ、ルヴァンドフスキ中尉ー!」
そう言って、彼女は彼に手を振って、作業を中断して近寄ってきた。その姿にユーリは手を振り返しながら、尻尾を振る子犬をやはり幻視した。
「何かありましたか? 用件があったら、何でも叶えますよ? ……あ、そうだ、お昼、もう食べましたか? もしよろしければご一緒しても?」
矢継ぎ早にそう言う様は尚更子犬だった。嬉しさのあまり飛びついて吠えているのだ。思わず一撫でしたい欲求を何とか抑えて、ユーリは答える。
「それが、お昼はもう食べてしまって……申し訳ないです」
「そうですか……じゃあ、訓練ですか? あれ、でも宇宙服じゃない……?」
「用件自体は、あるんです」
「ええッ? 機体に何か不具合ありましたか? 言ってくだされば何でも直します! 寧ろ気づかなくて申し訳ないです! 待ってください、今、メモを……」
「あの、」若干遮り気味になったのは、それを発音するのに気合が必要だったからだ。「そうじゃなくて――僕はアナタに用件があるんです。ジャクソン伍長」
「え? ……はい、何でしょう?」
キョトンとした顔で、しかしあんまりにも素直に彼女が答えるものだから、ユーリは面食らった。こっちの覚悟も知らないで、よくも簡単に言ってくれる、と思わないではいられなかった。
「えっと、」だから、彼は戸惑った。「ここじゃできない話で……そこの通路でもいいですか? できれば、周りに人がいない方がいい」
「……? いいですけど……」
釈然としないようだったが、彼女は承諾した。それからユーリは歩き始める。その様子がぎこちなくなったのは、心臓の動きが同じくぎこちなくなっていたからだ。たった一メートル歩くだけでも、百メートル走ったかのようにそれはバクバクと拍動する。そして心臓の距離にして十数キロを走ってようやく、彼らは二人きりになることができた。通路の端である。そこが薄暗いのは、照明が切れていたからだ。
「それで……何です? 話って?」
そうアンナが言ったとき、ユーリはその音がアンナに聞こえないことを願いながら唾を飲んだ。先ほどよりも距離が近く、場が暗い分彼女は幾分か色っぽく見えた。それが酷く胸を締め付けるのだ。
「アンナさん。ぼ、僕は」その痛みに押し出されるようにして言葉は出たので、その落着点を後から探さねばならなかった。「僕は、死にません」
だが、それは誤ったところに着地した。結論から離れすぎたのだ。その証拠に、アンナにはその正確なところが伝わらなかったようだ。はぁ、と分かりかねたように答え、首を傾げるばかりだった。
ユーリはこのとき酷く臆病だった。スナイパーとは概してそういう生き物ではあるのだが、だとしてもこれは行き過ぎというものだった。自分でもそれは分かっていた。しかし、どうしてもここから一歩先には踏み入りがたかった。それは自分から決定的に関係性を変えることに他ならない。そうなれば――失敗したならば、二度と元には戻らない。その恐ろしさが彼を苦しめた。
(シャーロットに対してすら、僕は踏み込むことを恐れた。だのにどうして出会って一ヶ月の彼女に対してこの心地よい関係を壊してまで近寄ろうとしているのだろう?)
ユーリは今更、心の中で足踏みをした。体には、汗が浮かんでいる。ここまで場を整えてなお、彼は撤退することを視野に入れていた。今からでも遅くはない、何でもないと言ってしまえばいい。それにも勇気はいるが、それだけなら大したものではない。
(だけれど)と、ユーリは思い直した。(今、僕はこの関係を心地よいと感じている……それは、彼女を悪しからず思っているということに他ならない。ならば、その先へ進まねばならないんだろうな)
「えっと、ルヴァンドフスキ中尉?」黙ったままのユーリを見て訝しげに、彼女はそのとき言った。「用がないなら、戻らせていただいてもいいですか? まだ、作業が途中でして……」
チャンスは今だ、今しかない。引き返すなど、ナンセンスだ。
「ジャクソン伍長――いえ、アンナさん」
「は、はい。何でしょう改まって?」
「僕は、死にません」
「えっと、それは聞きましたが」
「絶対に、」両手で、彼女の肩を掴んだ。整備兵らしい筋肉が感じられたが、まだ女子の細さがあって、折れそうだった。「死にません!」
「は、はい!」
「でも、と言うより、その……僕はまだ、死にたくないんです。死ぬのが恐ろしい。自分自身が消えてなくなってしまうのが、怖くて怖くて仕方ないんです。どうやって死ぬかだって、まだ分からないのに……」
「…………!」このアンナの沈黙は、唐突な述懐に面食らっているのではない。その証拠に、彼女の目は何かに気づいた驚きに見開かれていても、困惑に細められてはいなかった。「……それで?」
「それで僕は、死にたくない理由を探したんです。最初は、こんな戦争が嫌だって、こんなことで死ぬなんて馬鹿らしいって思って、その次はシャーロット……ああ、幼馴染の女の子ですよ。彼女を汚さないためにやってみせた。でもそれらは上手く行かなかった。戦争を嫌ったって戦争が終わるわけではないし、シャーロットとは……もうこじれてしまって会うこともできないでしょう。だから僕は今、理由が欲しいんです。死にたくないって思える理由が――分かりますか?」
「……はい。」アンナはこくりと頷いた。目を逸らして、赤くなった頬を隠そうともしない。「私も、ですから……」
「なら、」ぎゅう、とユーリの手に力が籠った。「アナタに僕の命を預けます。代わりに、アナタの命を、僕に預けてはくれませんか」
そのとき、二人は目が合った。それはブラックホールのように吸い込み合う。じわじわと近づいて行って、お互いの呼気が触れる距離にまで来ると、もうユーリには何をしたらいいか分かるような気がした。心臓が止まってしまいそうな緊張感。アンナが目を閉じる。逃げる選択肢は、もうなかった。その吸引力に従って、ユーリは唇を――
「な~にしてんのかな、お二人さん?」
近づけたとき、ニヤニヤとしたその声が飛んできて、二人は悲鳴を上げて即座に離れた。
「ぎゃああっ、」振り返ると、やはり宇宙服姿のその表情にはニヤケがあった。「何ですかサンテさん⁉」
「そうですよデ・ミリョン中尉! 心臓に悪いじゃないですか!」
「いやぁ? 何してんのかなーって、聞いただけだぜ? 何もそんな驚くこたあないんじゃないか? ……それとも、驚くようなことをしていて、見つかってバツが悪いとか?」
「後ろからいきなり声をかけられれば、驚きもしますし跳ねもしますよ! ただそれだけです!」
「本当かなァ? 実に怪しいもんだがなァ? 年頃の男女がこんなところで二人きり、何も起こらぬはずがなく……」
「そうやって何でもかんでも恋愛に結び付けるのは、アナタのよくない癖のようですねサンテさん⁉ 僕らはただ……ただ、この国の将来について話し合っていただけです!」
「え⁉」そんな誤魔化し方をするのか? という驚きが隠せないのがアンナの欠点だった。「え、ええ。そうです中尉。とてもとても真面目な話を私たちはしていたところだったんです。不埒なことなど一切なく非常に有意義でした!」
「ふーん? あっそ? まあ、どうだっていいけれど?」
いかにも嘘を見抜いたような表情で、サンテはニヤニヤと笑うばかりだった。だが追及するのも野暮だと思ったらしかった。
「何にしても、そろそろ訓練の時間だぜ? それで、呼びに来たんだが……こんなところで油を売ってたら、カニンガム中尉殿にどやされるぞ?」
え、と呟いて二人は時計を確認する。なるほど食事が済んだ時点で昼食時間の大半は使ってしまった上に、決まりきった結末に対してノロノロと蛇行運転を繰り返したせいで、時間を大幅にロスしてしまったらしかった。
「それは……その、ありがとう、ございます。」
「いいってことよ。その代わり、一つ貸しな? いずれ、その『有意義な話』ってのを聞かせてもらうぜ?」
そう言って、ニヤケ面を直そうともせず、先に格納庫の方へ歩き出した。終始からかわれた二人は顔を真っ赤にして追いかけようとするが、その足取りの速いこと速いこと。あっという間に機体に取りついてコックピットに乗り込んでしまうのが見えた。
「……サンテ・デ・ミリョン!」それに大声で叫ぶしか、ユーリにはできなかった。「アナタって人は、馬に蹴られて死んでしまえばいい!」
それに手を振って、彼は、コックピットの中に入っていく。ユーリも急がねばならなかった。宇宙服を取りに行こうとして、歩き出す――ところで、袖を引かれた。
「? 何です、アンナさ――」
ん、と言おうとした口を、何かが塞いだ。何か、などと勿体つけた言い方をしたところで、その正体は決まっている。アンナの唇だ、とその柔らかな、滑らかな感触で分かるのだから。予想よりそれが熱かったことには、彼も驚いたが。
「――ん、ぷはッ⁉ あ、アンナさん……? な、何を……」
「キスです。こう見えても大人ですからね。私の方からしてあげたかった。こう見えて、私、ワガママですから」
「は、はあ……えっと……?」
頭が回らない。今、自分はキスをしたのか? 初めてのキスは幼少期にシャーロットに奪われて久しいが、物心ついてからはこれが初めてだったし、前例など比較にならないほど濃厚だった。頭が空っぽになるほどに。
「だから」耳元に口を寄せて、彼女は言った。「今度は、ユーリさんの方からしてくださいね――待ってます」
そう言って、彼女は彼女で歩き出し、格納庫の中へ向かった。しばしユーリはその場に立ち尽くしていたが、すぐにハッとして、元の目的に戻った。
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