第106話 「N/A」
「アレクセイ・ブルシーロフ」が安全な補給デポに到着したのは前回の戦闘から三日後のことだった。
三日――それは彼らにとって永遠にも思える時間だった。前回補給できなかった時点で、次に向かう地点がラストチャンスだったからだ。それから先は戦闘能力はほとんどなく、敵が待ち伏せていても為すがままになる。いや、それどころか――そもそも辿り着くことさえできるかどうか。酸素も食料も底をつく寸前だった。
だから補給デポと連絡がついたときには、艦内は残りの酸素の量も忘れて大騒ぎになった。普段仲が悪い中隊同士が手を取り合って踊り出した、なんて話もエーリッヒは聞いた。
だがエーリッヒはアレクサンドルと抱き合うようなことはしなかったし、誰ともその喜びを分かち合えなかった。先の口論による蟠りがまだ蔓延っていた。
「おい」その証拠に、彼をそのとき呼んだのはイコンダだった。「こんなところにいたのか。行くぞ」
「行くって、どこにです?」
「アレクサンドルに聞いてないのか?」
「彼とは今日一言も会話していません」
「全く、奴め……格納庫だ。機体が補充されたから、見に行くんだよ」
エーリッヒはそのとき手にしていた通信端末を置いて、立ち上がった。それを見て、イコンダは一歩先に行こうとしたが、エーリッヒはそれを呼び止めた。
「中尉――中尉は気にならないのですか」
「何がだ」
「自分の、その、この戦争に関する考え方が、です。自分はこの戦争は正しいことだと思っています」
「それがどうかしたのか」
「でもアレクサンドルはそうじゃない。それについてアナタの意見を聞きたいんです」
イコンダはため息を吐いた。ただでさえ薄い髪の生え残っている後頭部をがりがりと掻いて、無駄にした。
「あのな、そんなことを気にして何になる。敵兵が、問答している間に死ぬっていうのか。」
「それは、確かにそうではないでしょう。ですが……」
「それともアレか? お前は全部をはっきりさせないと気が済まないのか? それでお前を俺が意味不明な理由で何かする度に罰すれば満足か?」
「……そうではありません、そういうことではないんです」
「なら、黙っていた方が利口だ。行くぞ」
エーリッヒがそれ以上何か言う前に行ってしまおうという考えがありありと見える言い方だった。彼はだから動けなかった。
「待ってくださいよ」
「何だ、まだ何かあるのか」
「賛成でも反対でもないのなら、どういうことだというのですか」
「どうでもいいこと、だな。……いいから行くぞ、これ以上遅れるわけにはいかない」
「どうでもよくはないでしょう。」エーリッヒは追いつきながらもそう言った。「この戦争が間違っているというのなら、僕たちは何のために戦っているのですか」
「お前は正しいと思っているのだろう。それならそれで充分だ」
「誰にとってもそうであるべきだと自分は考えますが?」
「エーリッヒ……」かなり苛立った声で、イコンダは答えた。「いい加減にしろ、お前は政治家じゃあない。兵隊だ。敵と戦うことだけを考えろ」
「それを考えたから、こうして聞かなければならなくなっているんです」
「いい加減にしろと言った!」
今度はイコンダが足を止めた。立ち止まって、振り返る。
「それとこれがどう関係あるというのだ。一々気にしていたら、戦争などできるか」
「僕には、できないんです。戦争って、本当はいけないことでしょう。だから正しくなければ、意味がないんです。でなければ僕たちは人殺しになってしまう。違いますか」
「違う」
「違うならどう違うのですか。どう……」
「貴様は立派な人殺しだろうが、既に」
がんと頭を殴られたような衝撃だった。エーリッヒは思わずふらふらとしながらも聞き返した。
「どういう意味です」
「あのとき貴様は『白い十一番』を殺したいと言ったな。だが兵隊は敵が誰だろうが殺すだけだ。それを特定の敵に執着するなどというのは、間違っている。それは怨恨殺人の論理だ。違うか」
「……違います」
「ならどう違う」
「…………」
答えられなかった。仲間を殺されたから殺したいという部分だけ切り取れば、確かに殺人事件の動機にしか聞こえない。それが許される特殊状況にいるから、辛うじて容認されていただけだ。それだって、本来は許されていいものではない。戦場で身勝手な行動をするものは敵ではなく味方を殺す。
「だからやめておけと言ったのだ。」ふん、と鼻を鳴らしながらイコンダは言った。「貴様は上ばかりを見て足元を見ない気があるようだな。それではいずれ本当に命に関わるぞ」
そう言って、彼は後ろを見ずに歩き出した。静かにエーリッヒはそれについていくぐらいしかできそうもなかった。もう議論する気力も体力もない。
「……つまり、必死になって逃げてきた俺たちに回せるのはこんな旧式で、先にのうのうと下がってきた連中には新型をよこしたって、そういうことだよな!」
そうしてエアロックに差し掛かったところで聞こえてきたのはそんな声だった。言っているのはアレクサンドルで、側にはブリットがいる。相手は若い補給将校らしい。彼の方はと言えば、その大声に完全に負けていて、はあ、とか、そう言われましても、とか、そういうことを言っているようだった。
「何だ、何で揉めている。」
先行したイコンダは、その間に入った。補給将校はそれにホッとした様子を見せる。
「隊長!」アレクサンドルはそう言って指を差した。「……見てくださいよ、あれ!」
その先には、ズラリと並ぶエンハンサー。今までと違って欠損もないそれはどこか美しささえあるものだった。
しかし、新しそうに見えるのはそこだけだった。イコンダはすぐさまそれに気づいて、ぴょんと跳ねてある一機の前に行った。
「コイツ……A‐3型じゃないか。いくら何でも冗談だろこれは。」
A‐3型とは、A‐5型の二つ前の機種で、ジェネレーター出力が一割低いのだ。つまりそれだけ加速力をはじめとした性能にケチがつく。
「ですが」補給将校が言った。「本国から送られたのはそれしかないんです。本当です」
「嘘を吐いているんじゃないか、コイツ⁉」
「本当なんです! 本国も在庫を切り崩している有様で、生産が間に合っていないんです!」
「それを何とか工面するのがアンタの仕事じゃないのか⁉ 俺たちはこれから鉄火場に行くところなんだぞ⁉」
「何とかしたいのは山々ですが、戦前から用意してこなかった官僚連中に文句を言ってくださいよ!」
「その辺にしろ、アレクサンドル。」床に戻りながら、イコンダは言った。「それよりいいから書類をよこしてくれ、ほら」
そう言われて渋々という様子で、アレクサンドルは、自分の手に持っていたタブレット端末をイコンダに手渡した。イコンダはそれを上から下までスクロールして、四分の三ぐらいのところで動きが止まる。
「おい、何だこれは」
補給将校はびくりと跳ねた。
「まだ、何かございましたか」
「ございましたかじゃあない。何だこれは、不備があるじゃないか」
イコンダは苛立ち紛れに、タブレット端末を補給将校に向かってフリスビーのように投げた。補給将校はそれを何とか受け取ると、イコンダがそうしたように上から下までチェックして、
「……その、どこがでしょうか」
と言った。
「この『N/A』ってところだ。ここには機体の名前が入るわけだろ? それがすっぽり抜けているのはどういうわけなんだって、そう言っているんだ。」
「ああ、それのことでしたか……」将校はどう表現すべきか分かりかねるというような表情を見せてから、言った。「それが、その、ないんです」
「ない? 機材がか⁉」
「い、いえ、そうではなく……名前が、ついていないんです」
「馬鹿言え。」食らいついたのはアレクサンドルだった。「『ロジーナⅢ』なら『Ⅲ』で、『ロジーナⅣ』なら『Ⅳ』って、名前があんだろうが!」
「それはそうなんですが、でも目の前に四機あるでしょう? その一番端の機体のことですよ」
補給将校がそう言って指差した先には、ブリットが先回りしていた。既に吟味するようにじろじろとその銀色の未塗装の機体を見回していた。その表面にはごつごつとした突起がいくつも飛び出ていて、なるほど確かにシルエットこそ似ているが「ロジーナⅣ」とは別の機体であることを示している。
「これか……」イコンダは静かに言った。「名前がない、と言ったな。どういうことだ」
「は、どうにもこの機体は技術実証機らしく……全身のEFマストを利用したマリオネット機構を装備しているそうで……」
「EFマリオネットって、」思わず声が出たのはエーリッヒである。「第五世代機ってことですか」
「知っているのか、エーリッヒ?」
「はい、以前軍事雑誌で見た覚えがあります。四肢を中空構造にして外側からベクトルを加えるように設計することで機体を軽量化するって、そういう機構ですよね?」
「ええ、まあ、正解ではあるんですが……」と、補給将校は煮え切らなかった。「この機体の場合はそれが当てはまりません」
「当てはまらない?」
「この機体は、先ほど申しました通り技術実証機です。『ロジーナⅣ』をベースに改造した機体なので、アクチュエーターもそのままですし、エンジンも第五世代機に最適化されたものではありません――と、出発前に技術士官が申しておりました」
「要するに」当て擦るように、アレクサンドルが言った。「試作機の更に前段階ってことだろ? これで満足かな、エンハンサーオタク君は」
「何だと……!」
「おい、よせ二人とも。」
イコンダがそう制止すると、アレクサンドルはふんと鼻を鳴らしながら黙った。エーリッヒはその仕草に更に挑発されたように感じたが、イコンダに睨まれたのでは、どうすることもできなかった。
「取り敢えず、機体の件に関しては了解した。確かに受領する――色々すまなかったな」
「い、いえ、こちらこそ……」補給将校はイコンダにそう言われて、僅かに表情を綻ばせた。「不手際があり申し訳ございません」
「いいんだ……構わんよ」
そう言いながら、イコンダはタブレット端末を補給将校に返した。これで、確かに受領したということになる。彼はそれに満足して、別の仕事に戻っていった。
(しかし)だが、イコンダは内心穏やかではなかった。(まさか技術実証機まで実戦投入とはな。本当に本国は余裕がないらしい)
その考えが頭をもたげたとき、イコンダは頭を振った。
(いかんな、エーリッヒではないが、負けるかもと弱気になってはダメだ。戦争は勝たねば意味がないという点で、あの意見は正しいのだから。)
「隊長?」そこに話しかけたのは、アレクサンドルだった。「どうしたんです?」
「ああ、何でもない――エーリッヒ」
「は」
「あの、『N/A』とかいう機体な……お前に任せる。整備兵から癖についてよく聞いておけ」
「りょ、」え、と言いかかったのを飲み込んで、彼は答えた。「了解です」
「では、解散――各自機体のチェック急げ!」
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