2話 元悪妻、就職する
前世はきっと不健康な生活がたたり死んでしまったのだろう。医療事務の仕事をしていた。本当は看護の専門学校に行きたかったけど、家庭の事情で断念せざるを得なかった。
それでも諦めきれなくて医療に関係する仕事を選んだ。だから、ずっとカルテを出して救う医者や、採血などができる看護師に憧れがあった。
それは天啓とも言えた。看護婦募集のポスターに吸い寄せられた。田舎町の病院が募集を出していた。ヴァルブルガはポスターを見たその足で病院に向かい面接を受けた。
まずは見習いとして雇ってくれることになった。きっと雨に濡れたヴァルブルガを訳ありと見抜いていたのかもしれない。
住まいは新聞に載っていたアパートの部屋貸しの広告を見て決めた。政府主導で古い別荘用の邸宅をアパートに改築したものだ。栄華は続かず長い時間の中で、フリードリヒ帝国も困窮した。
その間、別荘の価格は下がり続ける。家というのは、人が住まねば駄目になる。いくら手間をかけて昔の大金持ちが立てた家だと宣おうが関係ない。何十年、下手をすれば百年と放置された別荘はその不動産価値を無にした。
そこで、地元自治体はタダ同然の破格の安さでその建物と土地を処分することにした。地元のお偉い様からしてみれば古く、耐震基準も空襲に対する防火基準も満たさない屋敷を書類上誰かに押し付けたかった。
「ここにします」
そんなところに、たまたまヴァルブルガが転がり込んだのだ。最低限の家具は備え付けられている。それを聞いて、ヴァルブルガはこの物件に決めた。不動産屋はヴァルブルガの即決ぶりに少々驚いたようだった。
部屋の鍵は建て付けが悪いのかなかなか開かず、ドアも軋んでいたしドアベルは鳴らなかった。部屋は埃っぽくてベッドのマットレスは黴ていたので、ヴァルブルガは仕方なく毛布を床に敷いて寝ることにした。
カーテンはボロボロのレースのものだけで朝には容赦なく日光が突き刺さる。それでもここが死の運命から逃れた先、ヴァルブルガの安住の地だった。
ロズベルグの屋敷、特にヴァルブルガの部屋はマホガニーの家具で揃えられていた。マホガニーの家具は装飾性が高いものが多く、女性の部屋に置くにはぴったりのデザインをしている。
反対に、アルベルトの部屋はオークの家具で揃えられていた。オークはその木目の雄々しさから、訪問客を迎え入れる玄関ホールやボールルーム、男主人の書斎などに好まれた。
埃っぽい備え付けの家具を見て、ヴァルブルガはアルベルトの執務室の机を思い出した。部屋の中の他のマホガニーの家具と色味や風合いは酷く似た作りだったが、見比べてみると些か無骨な印象だった机を。
あの上に置いてきた離婚届。たった紙一枚で、ヴァルブルガは別れを告げた。早く忘れたいと思いながらも、あんな酷いことをしてしまった人をさっさと忘れようとするなんて…と自分を責めたくなる。
きっとこれから先の人生、ヴァルブルガはアルベルトを忘れることはないだろう。アルベルトはこの世界のヒーローであり、ヴァルブルガの罪の象徴であった。
もう会うことはないだろうけど、ヴァルブルガにできる贖罪は彼に対して罪悪感を抱えたまま忘れずに生きて、遠くから幸せを祈るだけだ。
***
ヴァルブルガは本来自分が死ぬはずだった日を、病院で迎えた。看護婦の講習会に参加して、見習いとしての業務をこなしていた。リネン類の洗濯、点滴や包帯の交換、採血の練習、ガーゼで止血栓を作ったりしていた。
夜勤の日だったため、業務はみっちり詰まっていた。考える暇もなく仕事が山積みだったのは逆に良かったかもしれない。これが休日だったら、ヴァルブルガは本来死んでしまう運命のことをずっと考えて不安になっていただろうから。
ヴァルブルガは時計の針が夜中の十二時を過ぎるのを見届けた。ゴーンゴーンと低い鐘の音が不気味に響き、その瞬間、ヴァルブルガはへなへなと床に座り込んだ。
「い…生き延びた…」
歓喜が体を震わせる。小刻みに痙攣しているかのように体が震えるので、ヴァルブルガは自分の体を強く抱きしめた。これは生き延びたという歓喜なのか。それとも、本来なら死んでしまったヴァルブルガが小説に書かれていない未来を生きるという恐怖からなのか。
わからないが、今は喜んでおこう。強く皮膚をつねって震えを弱らせた。死ぬのが怖かった。転生していたと知って、前世の記憶であろう死ぬ間際の記憶は蘇らなかったが何故か恐怖だけは体に染み付いている。
「今度こそ、長生きするから」
死ぬ運命に逆らった日から、初めて「ヴァルブルガ」という人生を生き始めたような気がした。病院では母方の旧姓ヴァルブルガ・リリエンタールを使用していた。
物語の中の悪妻、ヴァルブルガ・ロズベルグはもういない。これからは物語から解き放たれた場所で、ヴァルブルガ・リリエンタールとして生きていく。
しかし翌日、開戦を告げるラジオ放送にヴァルブルガは物語が開始したと理解した。
「我が国は勝利するであろう」
無機質に告げるノイズ混じりのラジオに、ヴァルブルガは胸が締め付けられた。ヴァルブルガが死んだ後に物語が開始されるのか。
小説「救国の聖女と鷹将軍」は突如、異世界に来てしまったヒロイン「ユウカ」が救国の聖女としてジャンヌ・ダルクの如く、戦場に赴きヒーローのアルベルトと結ばれる物語である。
(きっとアルベルトはもう離婚届を見たあとでしょうね。今頃、ユウカが聖域に現れて聖教会の関係者が混乱しているシーンのはず…)
この国には、黒髪の乙女が国の危機を救うという伝承がある。だからこのフリードリヒ帝国では金髪の少女より黒髪の少女が羨ましがられるという珍しい国だった。
「金髪の子は美しく、黒髪の子は賢く、茶髪の子は優しく、赤髪の子は勇ましい」という古い言い伝えもある。
仕事をしながらも、ヴァルブルガは今頃小説ではこのシーンのはず…と、ユウカとアルベルトの初対面シーンに想いを馳せていた。
言い伝えに縋りたい聖教会と帝室たちと、聖女など役に立たないと現実主義な軍部に対立があり、最終的にはあくまで「お飾り」として情報将校から成り上がった東部戦線司令官、アルベルトにユウカ帯同することになる。最初はアルベルトも「聖教会にいい顔するためだけに、押し付けられた」と思っていたが、ユウカの優しさや聡明さに触れて、互いに惹かれあっていくじれじれロマンスなのである。
「はぁ…。できれば好きなシーンは生で見たかった…」
退場しているはずの悪妻でさえなければ。例えばユウカの良き親友兼侍女ポジションになって、二人の恋愛を見守るとか。いや、そんな贅沢じゃなくてもただ二人の周りのモブになって遠目から眺めるだけでいい。
(元夫の恋路を応援するなんて…変な感じだけど)
こうしてヴァルブルガは「今頃ヒロインは…」「今頃アルベルトは…」と小説の内容を思い出しながら、日々を過ごしていた。しかし、現実は記憶と食い違い始める。
「ゲーベル先生も軍に徴用されたの?」
「若い子も医療大隊に取られちゃったし。この病院もずいぶん人が減ったのに患者は増えるばかりよ」
婦長と先輩看護婦が廊下の隅でヒソヒソと話していた。戦況は日に日に悪化し、医者は軍医として徴兵され、看護婦の中にも従軍看護婦として戦地に飛び込んでいった同僚が何人もいる。
戦況はヴァルブルガの知っているものではなくなっていた。
(おかしい。ユウカはフリードリヒの戦乙女と呼ばれるほど活躍して数々の奇策を成功させて、各地を撃破していくのに)
物語ではそういうはずだった。ヒロインのユウカは参謀として頭角を表し、アルベルトと協力して不利な戦況を打破していく。その過程で惹かれあっていくのが焦ったかった。
(もしかして、私が死んでないから物語が変わっちゃった?)
どうしよう。早く物語の軌道を修正しなくては。考え始めたらヴァルブルガはもう止まらなかった。街中に貼られている「少年少女よ、祖国のために君は何をした?」というポスターに書かれてある徴兵司令部に手紙を出した。
何度も突き返されたので、最後は直談判しに行った。そしてヴァルブルガは医療大隊の従軍看護婦として戦地に飛び込むことにした。
ヴァルブルガが生き残ることで変わってしまった物語を修正し、最後まで見届けたいのだ。




