1話 悪妻、舞台を降りる
灰色の視界に粉雪がちらつく。曇天の寒空の下、薄いコートにフェルトのブーツ、くたびれたトランクを持った女が石畳の上を歩いていた。
トランクの中身は軽い。必要最低限の着替えと数枚の銀貨だけを握りしめていた。
「…さようなら」
黒髪の女、ヴァルブルガは後ろを振り返る。その視線の先には荘厳な屋敷、黒い鉄製のアーチが彩るように囲まれている。
敵には容赦なく、冷酷無慈悲、冷血漢、屠殺者などの数々の異名を持つ「氷の鷹」と呼ばれる将軍、アルベルト・フォン・ロズベルグの住まう場所である。帝族の血を引く辺境伯であり、最年少の准将だ。
ヴァルブルガは彼の死別するはずの妻だった。先程までは。ヴァルブルガはアルベルトが留守の時を見計らって執務室の机の上に離婚届を置いて飛び出してきた。
このままだと自分が死んでしまうことを知っていたから。
「あとはアルベルトがヒロインと幸せになってくれたら、ハッピーエンドね」
ある時、この世界が小説「救国の聖女と鷹将軍」の世界であることに気づき、そして自分がアルベルトの死んだ悪妻、ヴァルブルガになっていた。
ヴァルブルガはアルベルトとは愛はなく冷めた夫婦関係で、散財しまくった悪女。そして物語が始まる前に自殺として雑に処理される。ヒロインがようやくアルベルトと結ばれて、「彼には女性経験があるからいつも余裕そうで、私ばっかりがドキドキして恥ずかしい…」という、可愛い嫉妬をするエピソードに使われるためだけの、モブ妻だった。
このままだと私は「物語」という正史に押しつぶされ、謎の強制力により死んでしまう。そんなのは絶対に嫌だ。ヴァルブルガはあくまで、アルベルトが「女性にモテた」という象徴のためだけのキャラクター。
そしてヒロインと結ばれる際に邪魔にならないように存在は消えていた方が都合がいい。それって死ぬ必要ある? 離婚して遠くに行って物語に関わらなければ解決では?
「私は、死ぬ運命なんかに負けない。ここで退場よ」
少なくはない期間を過ごした屋敷を目に焼き付ける。そしてもう前だけを向いて振り返らなかった。
アルベルトは恐ろしい異名とは裏腹に、優しい人だったと思う。悪妻ヴァルブルガの所業を見逃してくれていたのだから。前世の記憶を思い出すまで、ヴァルブルガは小説に書かれていたことを無意識になぞっていた。
ロズベルグ家の膨大な資産を使って、ドレスにアクセサリー、美食など贅沢の限りを尽くした。それなのに夫には冷たい態度をとり、初夜を義務的に済ませただけだった。
「私って最低だった…」
完全に夫を金蔓扱いしているのである。それでもアルベルトは妻を養い続け、贅沢に目を瞑り続けた。それはロズベルグ家の莫大な資産の成せる技であり、アルベルトは家庭よりも部下や戦友を大事にする軍人で、仕事が忙しかったから妻にはあまり興味がなかっただけかもしれない。
誠心誠意の謝罪として、ヴァルブルガは今まで自分が浪費した額には全然足りないが、離婚する際に妻に返還される持参金は全て置いてきた。ただ、無一文で飛び出すわけにもいかなかったので、わずかな銀貨だけを持ち出した。
「さて、これから何しよう」
路銀は心許ないから、早めに仕事に就きたい。しかし、物語に巻き込まれないために遠くへ行く必要もあった。もう物語から退場した身、自由だ。
ずっと胸に引っ掻き傷のようなものが残っている。後ろを振り返りたくなる。傷口は膿んでじくじくと痛みを発し、無視しようとしてもずっと痛みがある。やがては慣れてくるのだろうか。この心残りを大丈夫だと思えるだろうか。
アルベルト。夫だった人。自分から捨てたのに、罪悪感ばかりが募っていく。本当は自分の推しに酷いことはしたくなかった。でも気づいたら時すでに遅し。ヴァルブルガは小説通りの悪役の所業をしていた。
これでいいはずだ。ヴァルブルガが悪女であればあるほど、アルベルトはこれから出会うヒロインの優しさが際立つ。アルベルトも、「あの女と結婚したのは失敗だったな」と思い、やがて忘れるだろう。
アルベルトの氷の心を溶かすのはヒロインだ。推しはヒロインと結ばれて欲しいのであって、自分が妻のままでいることは解釈違いである。
とりあえずヴァルブルガは帝国横断鉄道に乗り込み、最果ての駅まで行くことにした。乗り込んだ三等車はもともと貨物車であり、座席はなく家畜や荷物などが並んでいる。人間は立ちっぱなしだ。
座席のある列車に乗れない金のない者たちが乗る場所だ。ヴァルブルガは自分が悪妻として贅沢の限りを尽くしていた時を思い出す。ロズベルグ邸には自家用車があったから、出かける時はいつも車だった。
車窓からは険しい山岳地帯が見える。岩塩坑などがある地域に差し掛かっていた。降っていた雪はいつの間にか霧雨に変わって小さな窓に打ち付けている。
隙間風が車内に入り込む。薄いコートでは寒いのに、胸の辺りが首都を離れれば離れるほど焼けたような痛みを持ち始めた。
「ちゃんと謝りたかったけど。もう時間がない」
タイミングが悪かったとしか言いようがない。物語の中でヴァルブルガが死ぬタイミングまで時間が残っていなかった。前世を思い出した時、アルベルトは長期の仕事が入り、屋敷に戻ることはなく軍の宿舎に泊まることになっていた。
執務室の机には離婚届と謝罪を書いた手紙を置いてきている。予定通りなら、アルベルトが一時的に帰宅するのは五日後。物語のヴァルブルガが死ぬ日である。
列車は針葉樹の森の中を抜けて、国境付近の最果ての街へ辿り着いた。ここが最終駅だ。途中下車した者たちが多く、最終駅まで乗っている人の数は少なくなっていた。
ヴァルブルガはトランクを抱え直すと、プラットホームに降りた。列車からは煙が吐き出されており、雨がヴァルブルガの体に打ちつけた。
ヴァルブルガはしばらく雨に打たれたままでいた。胸の中の焼けるような痛みが体を冷やすことで静まってくれないかと思ったからだ。しかし、ずっと痛みは引かない。
強い意志さえあれば死ぬ運命を覆せるんじゃないか? 逃げるように離婚届だけを置いて出ていく必要なんてなかったんじゃないか。誠心誠意謝って改心すれば、やり直せるんじゃないか。
そんな甘い考えが頭の中を支配する。
(違う。推しとして、小説のキャラクターとしての好きと夫として、恋愛としての好きと混同しているだけよ)
アルベルトの外見はヴァルブルガの好みだった。黒髪にアイスブルーの瞳の端正な顔立ち。よく目尻を見れば垂れ目であり、甘い顔の優男である。そんな彼が、屠殺者と言われるほど冷酷でありながらヒロインには甘々と言うギャップが刺さった。
(でも…私は小説の中の甘い彼を知っているけど、この世界で甘い彼を見たことがない)
それはそうだろうと自分を納得させる。悪妻への態度とヒロインへの態度が同じなわけない。それこそが自分はただの悪役にも満たないモブであり、彼にとってはどうでもいい存在なのだと示しているようだった。
雨に打たれながら、ヴァルブルガは見知らぬ街を歩く。自分は物語から離れた場所で、ヴァルブルガとして新しい人生を歩んでいくんだと言い聞かせる。アルベルトのことを忘れようとしても、ずっと心に残ったままだった。
***
この時のヴァルブルガは知らなかった。離婚届を見つけた時のアルベルトの絶望を──。




