第九章 白き巫女 第六話
夜の街道をランプの灯りを頼りに七頭の馬が行く。幸い月が煌々と辺りを照らし、暗闇に慣れた目ならば随分と周囲を見分ける事が出来た。
グローリンドの王都を発ってから丸一日と少しが過ぎた。既に二度馬を替え、メッツィーナの領内に入っていた。騎士達は一人も欠けてはいなかったが疲労の色は濃く、夜の道を馬を革紐で繋ぎ、馬上で仮眠を取りながら慎重に進んで行った。
結局ヴァレルは夜明け迄彼等と同行し、東の空が白む頃ようやく馬首を取って返した。感謝の言葉を短く送り、シルヴァは馬の腹を蹴った。街道をひたすらに駆け続け、馬を替えるわずかな間に食事を済ませ、先を急いだ。
陽が落ち、近道をした森を抜ける旧街道の狭い道を進む彼等に、つきまとう怪しげな気配があった。シルヴァは恐らく山賊の類いであろうと察し、わざと大きな音を立てて剣を鳴らし、部下に注意を促した。緊張の張りつめた時間は長く感じられたが、気配はすぐに去って行った。
賊からしてみても、武装した騎士を襲撃すれば自分達の被害は避けられず、金目の物を持っている訳でも無い使者などを襲っても実入りは期待出来なかった。何よりもその獲物の放つ殺気は、場慣れした荒くれをしても背筋が寒くなる程剣呑な物であったし、月明かりの元、女であろう長い髪の一人の騎士が、腰に双刀を下げている事に彼等は気付いてしまった。トランセリア周辺の盗賊達を震え上がらせるあの女である可能性は低いにしても、万一を思い彼等は引上げを決めた。
シルヴァは安全と思える十分な時間を取った上で警戒を弛めた。山賊ごときが何人居ようと遅れを取る彼女では無かったが、時間を無駄に浪費する事は避けられないだろうし、部下が全くの無傷で済むとも思えなかった。
旧街道を抜ける迄は全員で周囲に気を配りながら進み、道はやがて本街道へと繋がった。夜明けが近付くと共に徐々に速度を上げていったが、王都の城壁が目に入ったのは陽も大分高くなる頃であった。
王宮の大門を守る衛兵は突如現れた七騎の騎馬に慌てふためき、及び腰で応対に当たった。どの騎士も埃まみれの甲冑を身に着け、薄汚れた顔は疲労に歪み、馬は今にも泡を吹いて倒れそうである。しかしぎらぎらと光る彼等のその両眼は誰一人強い意志を失ってはおらず、長い黒髪の女騎士が良く通る声で告げた。
「トランセリア国王陛下より緊急の使いで参った。開門をお願い致す!」
城下は祭事とあって大変なにぎわいであり、道行く人々が興味深げにこの様子を眺めている。賓客が多数訪れている王宮は警護の為に門を固く閉ざしており、別の騎士の差し出した通行手形を、衛兵が確認している間も待ちきれぬ様子のその女騎士は、一見して男物と分かる無骨な懐中時計を手にいらいらと大きな声で言い放った。
「何をのんびりやっておる!緊急と言っておるのが聞こえなかったか!」
辺り一体に響き渡るその声に、衛兵の一人がおっかなびっくり答える。
「お、お待ちを。いましばらくお待ちを。…王族の方々もいらっしゃっておりますので、警護が厳重になっておりますものですから……」
「私がその王族だ!トランセリア王妃シルヴァ・リーベンバーグである!今すぐ開門致せ!」
びりびりと周囲の空気が震える程の威圧感に、衛兵達は腰を抜かしそうになり、慌てて門に飛びつく。馬上の黒髪の騎士が腰に双刀を吊っており、そしてその顔に、眉間から鼻梁へと縦に走る刀傷がある事に彼等は気付いたのだ。
「ま…魔女だ。……トランセリアの魔女が来た」そう呟きながら門を開く衛兵を横目に、わずかに開いた隙き間からシルヴァは馬を踊り込ませた。間髪を置かず残りの六頭が続き、呆然と騎馬を見送った衛兵達が後に残された。彼等はやがて我に返ると、やっと伝令を宮廷に走らせるのであるが、もちろん間に合う筈も無かった。
この一幕でシルヴァは『トランセリアの鬼王妃』という有難くないあだ名を、メッツィーナに轟かせる事となる。国王アルフリートの姿形を知らぬ民衆は、あの豪傑女を嫁にもらうような男なのだから、きっと雲を突くような大男であるだとか、怪力無双の熊みたいな輩であるだとか、好き勝手に噂をまき散らすのであった。
宮廷の正面に馬を寄せたシルヴァは、馬上から飛び下りて足早に大階段を昇る。時刻は既に正午近くになろうとしていた。セリカは抜かり無く騎士達に指示を囁き、彼女の後を追った。
「イーガン、着いて来い。残りはこの場で退路を確保。可能なら第三軍と連絡を」
「はっ」
疲労の極にあるはずの騎士達であったが、馬を世話する振りをしながらその場に居座り、油断なく周囲の地理を把握する。
ずかずかと広間を抜けて行くシルヴァの後ろをセリカとイーガンが固める。王妃は歩きながら髪を縛っていた紐を解き、ばさばさと二、三度頭を左右に振った。黒髪から埃がもわりと舞い、彼女は一瞬振り向いて小さく言った。
「おっと、すまん」
その場に居たメッツィーナの侍従や女官達は彼等の気迫に声を駆ける事も出来ず、おどおどと遠巻きに見ているばかりであった。すっ飛んで来た一人の外交官が勇敢にもシルヴァを押し止める。王妃の凛とした声が響き渡る。
「トランセリア王妃シルヴァ・リーベンバーグである。アルフリート国王陛下より、女王陛下宛てに緊急の親書を手渡したく参った。案内を致せ」
「おおおお待ちを。どうかお待ち下さい。……巫女王陛下は只今謁見の最中であらせられまして、お取り次ぎを致します故…」
「事は一刻を争う。今すぐ案内を」
「お待ちを。陛下に諮りますのでどうか…」
「同じ事を二度言わせるな!」
凄まじい怒声を浴びせ、シルヴァが腰の剣に手を掛ける。顔面蒼白になったその外交官は、腰を直角に折り曲げて謝罪すると、そのままの姿勢で言った。
「こここ…こちらで……」
前を歩く彼の膝はがくがくと震え、ぎくしゃくとしたその後ろ姿に、セリカとイーガンはつい吹き出しそうになってしまった。彼にしてみれば(逆らったら斬られる)とでも思っているのであろうが、先程のシルヴァの怒りは半分以上演技であり、いくら王妃といえど他国の官僚を切り捨てたりするわけが無かった。
長く豪奢な廊下を抜け、広間の入口まで彼女を案内した外交官は、扉を守る衛兵の後ろに慌てて逃げ隠れ、そこにいた侍従達に何やら小声で告げている。歩みを止める事無く進むシルヴァの前に、槍を構える衛兵が立ち塞がるが、そこにトランセリア十万を率いる軍務長官の一喝が下された。
「気を付け!捧げ!」
条件反射で直立不動の姿勢を取り、槍を垂直に立てて敬礼をしてしまう衛兵。侍従達は口々に「お待ちを、お待ち下され。……先触れを」と、弱々しく制止を口にするのだが、誰一人シルヴァの傍にも寄れぬ有り様であり、トランセリアの三人は難無く扉の前に辿り着いた。躊躇せず、重厚なその扉を力任せに押し開くシルヴァ。触れ係の上ずった声が広間に響いた。
「と…トランセリア王国王妃殿下、…シルヴァ・リーベンバーグ様御入場でございます!」
広間に居た全員が唐突な闖入者に視線を注ぐ。靴音を響かせ、背筋を伸ばし、真直ぐに壇上の女王ミレーヌの元へ向かうシルヴァにセリカとイーガンが付き従う。彼等の甲冑はいずれもが埃にまみれ、顔にも髪にも汗と汚れがこびりついていた。今にも座り込みたくなる程の、重く全身にのし掛かる疲労を一欠片も表情に出さず、シルヴァは顔を上げて威風堂々と広間を縦断する。人々の様子から、何やら揉め事が起こっていた事を察した彼女は、自分の到着がぎりぎりのタイミングであったと知る。
衛兵達は止めるべきかどうか迷いながらも、彼女の腰に下がる二振りの長剣に恐怖心を抑えきれなかった。ぎらりと鋭く周囲を威圧するシルヴァの視線が、さながら抜き身の剣ででもあるかのように広間を薙ぎ払い、動こうとする者の足をすくませる。名にし負う『双刀の魔女』が、今まさに彼等の眼前を通り抜けて行く。
メレディスとシンが深々と頭を垂れて王妃を迎え入れ、ヴィンセントは満面の笑みで今にも踊り出しそうである。アイリーンは安堵と感激とで、身体からどっと力が抜け落ち、どうにか白の傍らへ歩み寄ると、少女にすがりつくようにへなへなと床に座り込んだ。
「あぁ…来て下さった。…シルヴァ様が、……シルヴァ様が来て下さった。…もう大丈夫。…これでもう…」
ほろほろと涙をこぼして呟くアイリーンと、長身の女騎士の姿とを交互に見つめながらも、白は王女ミリアムの言った言葉を繰り返し思い出していた。
玉座を前に膝を付く三人の騎士に、椅子に座り直したミレーヌが声を掛ける。
「……王妃殿下、なかなかに派手なご登場であるの。見れば大層急ぎのご様子、一体何事であろうか」
怒りを押し隠した女王の凄みのある問い掛けにも怯まず、シルヴァは悠然と答える。
「まずは御前をお騒がせ致した無礼をお詫び申し上げまする。我が君アルフリート陛下よりの親書を携えて参りました、お受け取りを願い奉ります」
鷹揚に頷くミレーヌに、立ち上がったシルヴァが腰の物入れから丁重に二通の書状を取り出す。ヴィンセントは横目でそれを確認し、最後の最後まで拭い切れなかったかすかな不安を打ち消した。
間諜を通じてアルフリートの働きを知っていた彼であったが、グローリンドが助命に同意してくれた事をなかなか信じられなかったのである。その為に、アイリーンにもメレディスにもシルヴァが向かっている事だけを伝えて、ルークの嘆願書を持って来るとまでは言い出せなかった。
ヴィンセントは心の中で『ブラボー!』を連発し、今夜のワインはさぞかし美味かろうなどと考えていた。シルヴァの声が響く。
「親書は二通預かっております。一通はトランセリア国王アルフリート・リーベンバーグ陛下よりの助命嘆願書でございます。……そしてもう一通は」
シルヴァの手が下にあった封筒を上側に持って来た瞬間、ミレーヌは自らの敗北を悟った。見紛う筈も無いその封筒には、くっきりとグローリンド王国の麦穂を意匠とした家紋が入っていたのである。
「グローリンド王国国王陛下、ルーク・アシュレイ・グローリス様よりの親書でございます」
高らかに告げられたその台詞に、皆小さく感嘆の声を漏らす。特定の一国に肩入れせず、慎重に等しく距離を置いた外交を続けて来たグローリンドを、トランセリアの国王が動かした紛れも無い証拠が、今ミレーヌの目の前に差し出されたのである。
かすかに震える手で侍従からそれを受け取った巫女王は、しばらくの間じっとその二通に視線を落としていた。中味を確かめる必要も無かった。王妃自らがこれを持ち込んだ事が、何よりも雄弁に事実を語っていた。ミレーヌのその姿に哀れみを覚えたのか、シルヴァは優しげとも感じられる声で言った。
「……私の仰せつかった役目はその二通を、直接女王陛下に手渡す事のみでございます。あくまでも両陛下よりの個人的な親書である事を付け加えさせていただきます。……触れも無く突然御前にまかり越した無礼を、重ねてお詫び申し上げます」
静かに頭を下げたシルヴァに、女王の声が小さく届いた。
「……いか程掛かり申した、王都より」
「…一昨日の夜半に発ちましてございます」
「丸一日半駆けて来られたのか。…お疲れであろう、すぐに部屋を用意させる故、ゆるりと休まれるがよい。…お使者の御用向き、大儀であった」
「陛下の御厚情、有難く頂戴致します」
やり取りを終えたミレーヌは顔を上げて立ち上がり、ゆっくりと一同を見渡した。白とミリアムに視線が移った時に、彼女はかすかに微笑んだように見えた。その笑顔は、哀しみを押し隠す悲痛な物のようにシルヴァは感じていた。
歩き出しながら女王は言った。もう祭事に間に合うぎりぎりの時間が迫っていた。
「ヴィンセント殿。夕刻に席を設ける故、ちと時間を作ってくれぬか」
「かしこまりましてございます。如何様にも都合をおつけ致しましょう」
「かたじけない。………アイリーン殿」
座り込んでいたアイリーンがシンと白の手を借りて立ち上がる。
「はい陛下」
かすかな躊躇いの後、ミレーヌが弱々しく言った。
「………おぬしの、…勝ちじゃ。その者、……白はそちに任せる。……よしなに」
「有難き……お言葉。……感謝の極みに…ござい……ます」
涙と共にそう答えたアイリーンに小さく頷き、巫女王は広間を後にした。立ち去り難い様子のミリアムが、尼僧らの手によって連れ出されて行く。何度も振り向く少女の後ろ姿を、白は瞬きもせずただじっと見つめていた。
シルヴァを先頭に、トランセリアの人々が意気揚々と引き上げて行く。シルヴァがイーガンに告げる。
「イーガン、表の連中に伝えてやれ。任務完了だ。…御苦労だった」
「了解ですっ」
嬉しそうに駆け出す彼を見送り、メレディスが言う。
「シルヴァ様、鎧や剣をお預かり致しましょうか?お疲れでございましょう」
今すぐにでも甲冑を脱ぎ捨てたいと思っていたシルヴァは一瞬迷いを見せた。しかし彼女は首を縦には振らなかった。
「いや、まだいかん。この国の者の目がある内は駄目だ」
その言葉にメレディスは圧倒される。シルヴァはメッツィーナに対して、ほんのわずかでも弱い部分を見せてはいけないと思っていた。自分がトランセリアを守護する象徴と見られている事を十二分に自覚する彼女は、自身を『決して折れない剣』であると彼等に思い込ませる必要を感じていたのだ。メレディスは一つ息をついて言った。
「……感服…つかまつりました」
力が抜けて足腰の立たぬアイリーンは、抱き締めた白ごとシンに抱え上げられている。彼女は何度もシルヴァに礼を告げる。
「シルヴァ様、本当に…本当にありがとうございました。…わたくしの我が儘からこのような大事になってしまい、王妃殿下に御使者をさせてしまうなど…、陛下にまでもご迷惑をお掛けしてしまって…。申し訳なく……」
「アイリーン、それは違う。私は陛下の命でここに来たのだ。これは間違い無く政治だ。アイリーンの都合とは関係の無い事だ。…ヴィンセントなら分かるだろう」
冷徹とも取れるシルヴァの台詞に、アイリーンは自分の責任を軽くしようとする彼女の意図を汲み取り、感動に再び瞳を潤ませる。ヴィンセントはにっこりと微笑んで言った。
「御意にございます。後始末は全て私にお任せを、陛下に素晴らしいお土産を用意してご覧にいれましょう」
頼もしい外務長官の言葉に、シルヴァは満足げに頷くと、アイリーンと白の頭を同時にぽんぽんと撫でた。怖そうな女騎士に突然そんな事をされた白は、涙ぐむアイリーンと瞳を和らげて笑うシルヴァの顔を、目を丸くして交互に見比べていた。
客室に入ったシルヴァはようやく気を弛め、一刻も早く王妃を休ませてあげたいと考えるアイリーンの奨めるまま、彼女の使っていたベッドにどかりと腰掛けた。まだシルヴァの為の寝室が用意されていなかったのだ。
侍女と女性騎士が総掛かりで甲冑を脱がせ手足を洗い清める。シンの使っていたベッドに腰を下ろしたセリカにも彼女達は同様にこまごまと世話を焼き、そのような待遇を受けた事の無いセリカは随分と戸惑っていた。不眠不休の強行軍に疲れ果てた二人は、もはや重い甲冑を持ち上げる事も出来なかったのである。冷たい飲み物で喉を潤し、顔も髪も綺麗に拭ったシルヴァは横になって眼を閉じると言った。
「今日は特別だ、あいつらに一杯飲ませてやってくれ。…泣き言も言わず良く着いて来てくれた。…セリカも飲むと…いい……ぞ……」
言い終わらぬ内に寝息を立て始めた王妃を、皆が優しい眼差しで見つめる。シーツを整え、そっと部屋を出て行く侍女達を見送って、セリカもやっと眼を閉じた。
第三軍の歓声に迎えられた宮廷騎士達を待っていたのは、タウンゼントが厨房係に金を握らせて手に入れた、良く冷えたビールだった。「シルヴァ様には内緒だぞ」と片目をつぶる副官に礼を言うと、彼等は喉を鳴らして一気にそれを飲み干した。「美味い」と「疲れた」を陽気に繰り返し、甲冑を脱ぎ捨てて簡素な寝台に横になった彼等にも、瞬く間に睡魔が訪れる。トランセリアの全ての人に、穏やかな午後のひと時が過ぎて行った。
忙しく次の式典に出席していたヴィンセントが客室に戻って来た。アイリーンは女王との対決で力を使い果たしてしまったのか、ぐったりとソファーに横たわって休んでいる。彼の口から、ミリアムが正式に次期女王として承認された事が伝えられた。
十一歳の少女がすぐに王位に就く事は余程の事が無い限り有り得なかったが、彼女はこれから成人と見なされる十六歳の誕生日を迎える迄、国王として必要な教育を受けながら、徐々に政治の世界に関わるようになっていくのであろう。
身体を起こしてヴィンセントをねぎらったアイリーンは、幾分言い淀みながらある事を外務長官に打ち明けた。
「……先程女王陛下の間近に立った時の事でございますが、かすかに病の気を感じ取りました。…ほんのわずかな物でございましたし、シャローン様と面談致しました時にも感じたものでございますから、ひょっとするとこの国で使われている香の匂いが、わたくしの感覚を鈍らせているのかもしれませんので、勘違いとも思えるのですが…。ヴィンセント様にはお伝えしておこうと思いましたので」
「…巫女王陛下がご病気だという噂は耳にした事はございませんし、職務を休まれているといった話も存じ上げませんが…。私も少し気にしてみる事に致します。…事が事です、くれぐれも他言無用に願います。国に戻ったら宰相閣下に伺ってみる事に致しましょう」
そう言いながら、ヴィンセントはしばらくじっと考え込んでいた。もしアイリーンの感が当たっているとするならば、ミレーヌがこれほど迄に一人娘の即位への段取りを早めた辻褄が合う。さらに、謁見中に彼女が本音と共に発した『最後の望み』という台詞の意味が変わってくる。ヴィンセントはそれを『国王としての』最後の望みであると受け取ったのだが、ミレーヌが自分の寿命はもう長く無いであろう事を知っているとも考えられた。
女王が他国の訪問団とどれ程の回数謁見を重ねたかを知る事は出来ないが、トランセリアに限って言えば、只の一度も直接彼女を目にする機会は無かったのである。顔色の悪さなど症状が出ているとすれば、病気の発覚を怖れているとも推測され、夕刻に予定されているミレーヌとヴィンセントの単独会見は、それを確認出来る貴重なチャンスになると考えられた。
新たに訪れた人物の声がヴィンセントの思考を中断させる。それは王女ミリアムの訪問を告げる侍従の物であった。
白は謁見から戻るとすぐに控えの間のテーブルに手紙を広げ、ばらばらになってしまった大切なそれを順番通りに並べ変え始めた。千切れた袋の紐をシンが直して手渡し、尋ねる。
「…全部あったか?無くなったりしてないか?」
「はい、…だいじょうぶ、です。…ありがとう、です」
嬉しそうに礼を言って丁寧に四隅を揃え、その中に手紙をしまい込む白。再び首からぶら下がったその袋を見下ろし、少女は小さく安堵のため息をつく。その様子を見ていたシンは、半ば独り言のように問い掛けた。
「……その手紙はおばあさんからもらったと言っていたが、ミリアム様は自分が出した物だとおっしゃっていた…。どう言う事だろう?ミリアム様が嘘を言っているようには見えなかったし…」
小さく首を傾げ、古びた袋を両手で持ち、白はたどたどしく答えた。
「……てがみ、…おばあさまから、です。……いっかい、うちに…きました。…それから、てがみ…かきました。……じを、れんしゅう…しました、です。………でも、……でも。……わからない…です」
白は彼女なりに文のやり取りを始めたいきさつを説明した。しかし、少女自身も悩んでいるようであり、それきり黙りこくってじっと袋を見つめている。シンが声を掛けようとした時、アイリーンが白を呼びに現れた。ミリアムの訪問の目的はもちろん白に会う為であった。
神前での儀式を終えたばかりとおぼしきミリアムは、お付きの尼僧達を別室に下がらせ、一人で椅子に腰を下ろしていた。幾分疲れを感じさせる表情の王女であったが、アイリーンに手を引かれた白が姿を見せ、おずおずと向いの椅子に腰掛けると、はっきりと明るい笑顔になった。しかしミリアムはすぐには白に話し掛けず、隣に座ったアイリーンに向かって言った。
「…突然の訪問に応じてもらい感謝しておる。まずはそなた達に謝らなければならぬじゃろう。妾の知らぬ事とはいえ、辛い思いをさせてしまった、申し訳なく思っている。勝手な言い草と思うじゃろうが、…母を……許してもらいたい」
十一歳とは思えぬ王女の大人びた発言は、おそらくミリアムが既に国王としての教育を受けている事を伺わせた。アイリーンは柔らかに微笑んで答えた。
「王女殿下がお気になさることではございません。女王陛下もミリアム様を思うあまりの事だったのでございましょう。…いずれにせよ、もう過ぎた事でございます」
「そう言ってもらえると助かる。……そなた、白…と申すのか」
「は、はい。……しろ…です」
おっかなびっくり答える白をしばらくじっと見つめていたミリアムは、膝に乗せていた小さな箱をテーブルの上に置いた。複雑な彫刻と金箔とで飾られた、おそらく宝飾品を入れる為のその小箱の蓋を開き、白の前に押し出して彼女は言った。
「……これ、…そなたからもらった手紙じゃ。……多分、全部あると思う……」
恥ずかしそうにミリアムが差し出す小箱の中には、きちんと折畳まれた手紙がぎっしりと仕舞われていた。見た事も無い綺麗な箱になかなか手を伸ばせないでいる白は、おどおどとアイリーンを見上げる。少女の戸惑いを察して優しく頷き掛けたアイリーンに促され、中からそっと一枚を取り出して広げた。
ペンに慣れていない者が書いたと分かるインクの染みがいくつか残るそれは、間違い無く白の書いた手紙だった。お世辞にも上手いとは言えぬその文字は、けれど紙を節約する為であったのだろうかなり小さく、一文字一文字が丁寧に時間を掛けて書かれた物である事が見て取れた。自分の手紙とミリアムの顔を交互に見比べ、白は訳が分からぬ様に呟く。
「…わたしの、てがみ。……でも、…でも。…わたし、おぼうさまと。……でも」
混乱する白を悲しそうに見つめ、ミリアムはいきさつを話し始めた。
「……この事についても謝らねばならぬ。妾はシャローンからそなたとのやり取りを引継いだのじゃ。もう三…四年近くなると思う。…最初は興味本位で始めたことじゃったのだが、……その、とても…楽しくて。手紙が来るのが待ち遠しくなってしまって…。名乗る事はけしてならぬと言われておったので、そのままになってしまった。すまないと思っている。……そなたに送った手紙に妾のサインが入っている。この間の…九歳の生まれ月に出した物を見せてくれぬか」
頷いた白は首の袋から手紙の束を取り出し、すぐにそれを見つけ出した。白は手紙をもらった順にきちんと並べてあり、どの辺りにどの手紙があるのかを覚えていた。広げられた手紙を見たミリアムはアイリーンにそれを差し出して言った。
「右下の隅に妾のサインがある。ひと目では分からぬように書いてあるのじゃが……。すまぬ、アイリーン殿では確かめられぬか。…気の利かぬ事を言ってしまった、申し訳なく…」
「大丈夫でございますミリアム様、お気遣い恐れ入ります」
目の見えぬ者にサインの確認を促した事をミリアムは恥じていた。だがアイリーンは指の先で紙をそっとなぞり、確かにそこにわずかな凹凸を感じていた。恐らくインクを付けないペンで引っ掻いて書かれたのであろうその見えないサインは、紙に斜めに光を当ててみるとかすかに見て取れる物であった。アイリーンは王女に尋ねる。
「念の為にヴィンセント様に確認をお願いしてもよろしゅうございますか」
「構わぬが……いや、出来れば他の者にしてはもらえぬか。実はそれは妾の真名の頭文字なのじゃ。古式文字で書いてある故普通の人間には読めぬと思うのじゃが…。あまりその、学の無い人物に頼めぬだろうか。…侍女とかでは駄目であろうか…」
アイリーンは小さく微笑んで答える。
「それでしたらわたくしの夫ではいかがでしょうか。文字を読めるようになったのはこの一年程の事ですので、御心配には及びません」
事も無げに告げるアイリーンの台詞に、ミリアムは少し驚いていた。元王女であるアイリーンの夫が、この間迄字も読めないような人物であった事が意外だったからだ。王女の戸惑いなど気にも止めずに、アイリーンは控えの間に声を掛けた。シンはすぐにやって来た。
「……確かに何か書いてございます。見た事も無い文字で自分には読めませんが、二文字あるようです」
ランプの光に紙の角度をあれこれと変えて見ていたシンがそう答えた。手紙を戻してシンが退くと、ミリアムは再び話し始めた。
「手紙の相手が何か困った時に、妾が手助け出来るよう証拠になる物をと思って書き記したのじゃ。全部に書いたのではなくて、年に一度だけ、生まれ月の手紙に書いておいた。…シャローンの話では、身寄りの無い幼い子供じゃと言っておったから、頼る者がおらぬのでは難儀する事もあるやもしれぬと思って。…都に来ればシャローンを訪ねるかもしれぬとも思ったし、…いつかきっと会えると…思っておったから……」
俯き加減で照れくさそうに語るミリアムを、白はじっと見つめていた。彼女にも思い当たる節が有るのだろうか、その表情は真剣に何かを考えているように見えた。視線の先の王女はさらに俯き、もじもじと手を擦り合わせながら独り言のように告白を続けた。
「…先程、そなたが手紙をばらまいてしまった時の事じゃ。…妾は、胸に下げた袋に何が入っているのだろうと気になっていたのじゃ。ずっと手で握り締めておったし、余程大切な物じゃろうと思っておった。それが、妾の出した手紙であると分かった時は、……すごく、…嬉しくて。……つい、…涙など流してしまって。……我慢…出来なくて。……妾も、同じように手紙を取っておいたから、…嬉しくて。……似たような歳の子供と話す事など、無かったものじゃから。……ずっと、……ずっと、………と…友達じゃと思って…おったから……」
「……とも…だち、…いない…て、……てがみに、かいてたから、…わたし…いっぱい、たのしいこと、…うれしいこと…、かい…て」
ふいに口を開いた白を驚いて見つめ、ミリアムは今にも泣き出しそうな笑顔を浮かべて何度も何度も頷く。王女には白の言った言葉の意味が分かったのだろう、身を乗り出して答えた。
「そうじゃ、そうなのじゃ。…そなたはいつも明るい手紙を書いて寄越してくれた。辛い事や悲しい事もあるじゃろうに、そなたの書く事は妾を楽しませるものばかりじゃった。…森の中の鳥や虫の話や、おいしい果物の話や、夜の月の話や……。いつも…、いつも……」
とうとう泣き出してしまったミリアムに白は慌て、思わずその手を取ってそっと撫でてやった。白自身は少女の住処を訪れた尼僧と文を交わしていると信じ込んでおり、大人の人でも友達がいないと言うのは淋しい事なのだと素直に思っていた。大事な文通相手を励まそうと、白は殊更に明るい話題を選んで手紙を綴ったのであった。
テーブル越しに手を握り合う二人の少女の間に、はっきりと友情を感じ取ったアイリーンは、複雑な思いにじっと黙り込んでいた。
ミリアムがシャローンに代わり、白宛の手紙を書くようになったのは、全くの偶然がきっかけとなった。数年前、巫女王の信も厚いシャローンは、幼い王女の教育係を任されていた。
将来の女王としての勉強から日常のこまごまとした躾まで、シャローンは眠る時以外ほとんどの時間をミリアムの傍で過ごした。多忙な彼女は始めたばかりの白との文のやり取りも、王女の昼寝の間など空いた時間を見つけてはしたためていた。白から届いた手紙を王女が見つけてしまったのは、まだ数度の往復をした頃の事であった。
一目で子供の書いた物と分かるその手紙に、ミリアムは大変に興味を示した。彼女は自分で拙い文を書き上げるとシャローンに手渡し、一緒に送ってくれるようにと懇願する。幼い王女が何故これ程までに白に固執するのか、シャローンはその理由に確かな心当たりがあった。
ミリアムの周囲にいる人間は皆大人ばかりであり、乳兄弟も居ない彼女は歳の近い子供と遊んだ事が無かった。国王の職務で忙しい母親とは、ごくたまにしか顔を会わせる機会も無く、二人の兄とは歳が離れ、父親が違う事もあってか肉親とはいえ母親以上に疎遠であった。最も神に近い身とされる王族の少女に、親しく話し掛けたりするような人物はおらず、ミリアムは豪華で広大な王宮に閉じ込められたまま、孤独にさいなまれる日々を送っていたのである。
シャローンは幾つかの条件と共にその手紙を白に送る事を許可した。決して王女の身分が知れてしまうような事は書かず、名前も教えてはならない事。手紙の内容をシャローンがチェックし、都合の悪い部分があれば書き直す事。そして自分以外の誰にも、たとえ母親にも手紙のやり取りを口にしない事。などを約束し、白の素性を、彼女の遠縁の少女であり、身寄りも無く遠い山間の村で暮らしていると説明した。
飛び上がって喜んだミリアムは、それ以来熱心に勉強に精を出し、手紙の文字や文章も見違える程上達していく。白の返事も回を追う毎に形を整え、ささやかな二人の文通はそれから数年に渡って続けられたのであった。
高価な宝石箱の一つを手紙の隠し場所にすると、届いた返事をひとつひとつ大切にしまった。白に送る手紙に記す事を書き留めるように、日記を付け始めた。
王宮の外の世界をほとんど知らぬミリアムは、白の書いて寄越す森の中での暮らしにすっかり魅了されていた。闇夜を照らす月の話を聞けば同じように窓から月を見上げ、鳥や虫の話を読めば、王宮の中庭で鳥の鳴き声に耳を澄ませ、虫を捕まえた。祭の日の菓子を白が少しづつ食べる事まで真似をし、おやつに出された菓子をこっそり隠しておいては、ベッドの中で齧ったりもした。
名前すら教えられず、互いの事などほとんど知らない二人であったが、遠い何処かから送られてくるその手紙を心の拠り所と思い、何よりも大切な宝物として保管し、飽きもせず幾度も読み返した。身分も生活も、何もかもが掛け離れた世界に暮らし、閉ざされた環境で虜囚のように生きねばならないたった一つの共通点を持つ二人の少女は、か細いその文のやり取りのみを繋がりに、小さな友情を育んでいった。
それ迄の癇癪やわがままがすっかり消え失せ、不機嫌な表情をしている事の多かったミリアムに、明るく笑顔を浮かべる日が増えていく。シャローンはミレーヌから感謝の言葉を送られるが、それとは裏腹に尼僧の心を暗い憂鬱が支配していった。
白はミリアムが即位する時に、神にその身を捧げる為に生かされている贄である。何も知らずに白からの返事を待ちわび、何度も手紙を読み返すミリアムの姿を目にする度に、シャローンは自らの罪深さに身を引き裂かれるような痛みを覚える。日毎に深まっていく二人の少女に対する情愛と、主君への忠誠や信仰心との、背反する思いに板挟みとなった彼女の精神は病み、やがてその肉体をも蝕んでいく。食事も喉を通らず、シャローンは床に伏せる日々が多くなった。
げっそりと痩せ、深い皺が刻まれた彼女の容貌は、高齢の老婆のようにしか見えなかったが、実際の年齢はまだ六十に届いていなかったのである。それはシャローンが巫女王の第一の側近という王宮での地位と引き換えに、多くの物を失った事を如実に表わしていた。
病に伏せるシャローンはミリアムの手紙のチェックも疎かになりがちであった。しかし少女の書くその内容は、彼女自身も王族としての立場を意識していた事実の表れであったのだろう、不都合な事は何処にも記されてはいなかった。結局、やり取りの後半の手紙のほとんどは、ミリアムが単独で出していた物であった。
控えの間から小さな声がミリアムを呼ぶ。彼女に付き従った尼僧が迫る時間を気にしていた。次期国王に決定したばかりの多忙な王女が、こうして白に会う時間を作れた事が奇跡と言えるだろう。それはミリアムが如何に白の事を気に掛けていたかを物語り、彼女自身も名残惜しげに立ち上がると言った。
「…もう、行かねばならん。…見苦しい所を見せてしまった。……アイリーン殿」
アイリーンは固い表情を隠し切れずに答える。
「はい、……なんでございましょう」
「どうか、この者……白の事をくれぐれもよろしくお願い致す。妾が…、我が国が頼むのも今さら何をと思うじゃろうが、……どうか、…どうか白を…」
「王女殿下のお心遣い確かに承りました。お約束致します、決してこの子を不幸な目に会わせたりなど致しません」
「かたじけない。……それと、…その、アイリーン殿宛に文を出す故、…その、白に渡しては…もらえないだろうか。……厚かましいお願いとは思うが、時々で構わぬ故……」
ミリアムのその様子に、アイリーンにかすかに笑顔が戻る。
「もちろんでございます、わたくしが責任を持って二人のお取り次ぎを致しましょう。トランセリアにも読み書きの本はたくさんございますので、きっとしろちゃんももっと字が上手になります。今迄通りに、お手紙をやり取り出来ますわ」
「…ありがとう。……本当にありがとう」
ミリアムははっきりと安心した気持ちを表情に出し、アイリーンに頭を下げた。そして白に向き直って言った。
「白……元気でやるのじゃぞ。…アイリーン殿の言う事を良く聞いて、しっかり勉強するのじゃぞ。…また、手紙を出す故。……明日は妾も見送るつもりじゃから、…気を付けて帰るのじゃぞ。……食べ過ぎて腹など壊してはならんぞ。…ちゃんと風呂に入るのじゃぞ。……いい子にして、トランセリアの人達に…可愛がってもらうのじゃぞ。…それから、……それから、……元気で、……げん…き……で…」
再び瞳を潤ませて言葉につまる王女を、深紅の瞳がじっと見つめる。ミリアムの言葉一つ一つを真剣に頷いて聞いていた白は、そっとその手を握って答えた。
「……みりあむ…さま、も、…げんきで。……ともだち…だから。……ずっと、ともだち…だから。……たからもの、だから。……げんきで、…です」
どっと溢れ出した涙を拭いながら、何か言おうとするミリアムだったが、言葉が出て来なかった。尼僧達が王女の肩を抱く様に促すと、後ろ髪を引かれる思いに何度も振り返りながら部屋を後にした。
残された白はアイリーンにすがりついて肩を震わせ、声を出さずに涙を堪えていた。次第に遠ざかるミリアムの押し殺した泣き声が、アイリーンの耳にいつまでも残っていた。