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第九章 白き巫女 第四話

 アイリーン一行はメッツィーナの王都へと到着した。都はお祭り騒ぎで賑わい、メリル教の宗教色である鈍い朱色の垂れ幕が辻々にたなびき、大層な人出であった。

 馬車の窓から見える街並や人通りは、何もかもが白にとって初めて目にする物ばかりであり、ぽかんと口を開けて忙しく目をきょろきょろとさせている。二人の侍女達も珍しい異国の風情にはしゃぎたて、見る物ひとつひとつを目の見えぬアイリーンに事細かく説明するのであった。

 白は馬車に乗って都へ向かう事を告げられた時、幾分躊躇い不安とを見せていた。アイリーンは優しく少女を膝に抱き上げ、手紙の人物に会いに行くのだと白を説得する。少女自身にもこの先当てなどある訳が無く、生まれ育った村に戻った所で暮らしてなどいけない事は分かっていた。

 親身に接してくれるトランセリアの人々に懐き始めた白は、小さく頷いてアイリーンと共に馬車に乗り込んだ。その足には、シンの修理した草履が履かれていた。

 初めての馬車に揺られ、白は落ち着かなげに座席でもじもじとしていた。侍女達が窓の外の風景を説明してあげたり、アイリーンが唄を口ずさんだりと少女を気遣い、やがて楽しげな笑顔を浮かべるようになった。

 シュバルカの心配りの焼き菓子を与えると、少しづつ口にしてはおいしいおいしいと何度も礼を言った。だが、白は手渡された菓子を一度に食べてしまう事はせず、一つ二つ食べると残りを包みに入れたまま自分の荷物にしまい込んだ。その行為を不思議に思った侍女達の問い掛けに、白は小さく言った。

「……あまいもの、たいせつ…だから。……いっかいだけ…だから、です」

 白はそういった甘い菓子などをほとんど口にした事は無かったが、年に一度だけ、村で行われる収穫への感謝祭の時に振る舞われる菓子を手にする事が出来た。運ばれる荷物と共に添えられたわずかな量の菓子を、白はなるべく長持ちさせるよう、少しづつ食べては残りを取って置く癖が付いていたのである。

 訳を知ったアイリーンは不憫さに瞳を潤ませながらも、かといって無闇にたくさん与えるのが良い事だとも思えず、白の手を取って少女の行為を誉めた。

「そうね、いっぺんに食べたら無くなってしまうものね。…しろちゃんはえらいわね。本当にえらいわね。…そうやって工夫をして暮らして来たのね。……えらいわね」

 アイリーンに誉められ、優しく頭を撫でられて、白は満面の笑みを浮かべて何度も頷いた。


 見慣れぬ形の丸い屋根を持つ塔が幾つも立ち並ぶ王宮に馬車は到着する。一行がまず驚かされたのは、王宮に入ってすぐの広間で執り行われる浄めの儀式であった。先乗りしていたトランセリアの外交官達に会う暇も無く、交わされる挨拶もそこそこに、訪問団全員を集めて王宮に入る為に欠かせないと彼等が主張する儀式が始まる。

 香を焚きしめた広間に神官の祈りの声が朗々と響き渡り、一同は戸惑いを覚えながらも静かに頭を下げてそれに従った。中でも最も困惑したのは二人の侍女クララとフローネである。まずは控え室などに通されるであろうと考えていた彼女達はいきなりあてが外れ、白を見咎められぬよう大柄の騎士達の間に隠れるように潜り込み、しっかりと白の手を握って儀式が終るのをひたすらに待った。騎士達は目立たぬように巧みに動いて、一同の周囲を祈りながら歩き回る神官の目から少女を隠し、どうにか儀式を無事終える事が出来た。

 訪問団の代表として一同の先頭に並ぶアイリーンは、その間白の事が気になってたまらなかったようであったが、肝心の白はと言えば物珍しそうに辺りを見回して、目に入る物一つ一つにただ驚いているばかりだった。

 改めて歓迎の意を表するメッツィーナ閣僚とにこやかに言葉を交わしながら、アイリーンは表情にこそ出さなかったがかなり機嫌が悪くなっていた。焚きしめられた香の匂いがまず彼女の鋭敏な嗅覚を刺激し、あちこちから彼女の耳にだけ聞こえる、メリル教の高僧達の交わすひそひそ話の耐え難い悪口雑言に、相当向かっ腹を立てていた。

 トランセリアに用意された客室の各部屋にもその香は焚かれており、アイリーンは片手で白の手を引き片手で口と鼻を押さえ、たまらぬといった風に眉間に皺を寄せている。他の皆も鼻を刺すようなこの匂いには内心閉口していたらしく、一同総出で慌ただしく香の壺に蓋をし、窓を開け放って空気を入れ替えた。

 アイリーンの寝室のシーツや枕を、新しい匂いの付いていない物に取り替えてどうにかその香りを薄くする迄、彼女は人目もはばからずに夫シンの胸に顔をうずめて耐え忍んでいた。もちろんおしとやかなアイリーンが自分からそのような振る舞いに及んだのでは無く、辛そうな彼女の表情を見兼ねたクララが、半ば無理矢理にシンに抱きつかせたのである。

「そこがアイリーン様の一番居心地の良い場所でございましょう」と、メレディスに冷やかされた二人は、居間でくつろぐ一同の前に真っ赤な顔で姿を現わす事になる。確かにシンの匂いに包まれている間は、彼女は随分と楽に呼吸が出来たのであった。椅子にちょこんと腰掛けて、相変わらず周囲をきょろきょろと見回している白は、その匂いが気にならぬようであり、この国の民にとって普段から慣れ親しんだ物である事が伺えた。

 トランセリアの外交官達も合流し、ユーストの間諜とコンタクトを取りに出掛けていたヴィンセントも戻る。一同はようやく落ち着いて今後の方針を相談する時間を取る事が出来た。

 アイリーンは浄めの儀式を受けている間に耳に入った高僧の噂話を思い出し、顔を真っ赤にして憤慨している。口にするのも汚らわしいとばかりになかなかその内容を告げようとしない彼女を、ヴィンセントとメレディスは面白がって説き伏せる。アイリーンは渋々と重い口を開いた。

「……へ…陛下の事を『田舎者のちびの山猿』だの、シルヴァ様を『がさつな大女の鬼嫁』だのと言い合っては、くすくす笑っているんですのよっ。こちらに聞こえないと思って言いたい放題で…」

 その台詞にメレディスとヴィンセントは我慢出来ずにぷっと吹き出した。(当っていなくも無いなぁ…)などと思っていたのであろう。真面目なアイリーンは二人をきっ、と(本人はそのつもりであった)睨み付け、さらに怒りを募らせる。

「お二方っ!お笑いになるとは何事ですか。ヴィンセント様の悪口だってございましたのですよっ」

「いやいや申し訳無い。……私ですか?どんな事言ってましたか」

 笑いを押さえきれずに問い掛けるヴィンセント。普段はおしとやかなアイリーンも勢いが付いて止まらない。

「『女と見れば見境なく手を付ける色仕掛け外交の成り上がり者』とか言われておりますのですよ、まったくなんて無礼この上無い。……その上…」

 メレディスはとうとうヴィンセントを指差して笑い出す。アイリーンはぶるぶると拳を震わせて訴えた。

「あ…あまつさえわたくしを、……へ、陛下の……あああ愛人だとまでぬかすんですのよっ!…もぉ~、なんと口惜しい。なんと失礼極まりないっ。…わたくし何度『聞こえています』と言ってやろうかと思った事でしょう!きぃ~っ!」

 ここまで怒りの感情を露わにしたアイリーンを見たのは、シンですら初めてであったらしく、彼もただおろおろするばかりである。さすがに笑ってばかりいる訳にもいかないと思ったヴィンセントは、ようやく彼女をなだめ始めた。

「まぁまぁアイリーン様、どうか落ち着いて下さい。そのような木っ端役人の言う事など、気にする価値もございません。蛙か何かの鳴き声だと思って、聞き流しておしまいになる事ですよ」

 メレディスも頷き、同様にアイリーンに告げる。

「宮廷の噂話や陰口など、何の根拠も無い物ばかりでしょう。いちいち聞き咎めていてはこちらが疲れるばかりでございます。……まぁその、田舎者なのは確かではございますけれど…」

 シンはどうしてよいやら分からなかったらしく、何故か妻の横に膝を付いて彼女の頭を撫でてやっている。二人の侍女はただ呆然とアイリーンを見つめ、白は目を丸くしてぱちぱちとまばたきを繰り返す。我に返ったアイリーンは耳まで赤くなって両手で顔を覆い、蚊の鳴くような声で小さく言い訳をしていた。

「……も…申し訳ございません、…はしたなく興奮してしまって。…その…あまりにも酷い言い様でありましたので…つい。…申し訳なく…お恥ずかしい……」

 水を向けた自分に責任を感じたのか、ヴィンセントは真面目な顔でアイリーンに言った。

「…この国は閣僚のほとんどがメリル教の僧侶で占められております。様々な種類の役職や高官の位がございまして、正直肩書だけの閑職や実質何の仕事もしていない地位が多いのも事実でしょう。彼等が熱心にする事といえば、あれこれと他人をあげつらって人の足を引っ張る事ぐらいが関の山。…それなりに大きな宗教の総本山でありますから、お布施や寄進、各国に置かれた寺院などから寄せられる上納金などで、そこそこの収入は確保出来る訳です。働かずとも食っていけるとなれば、神に仕える僧侶や神官といえど、あのように堕落していく物なのかもしれませんね…」

 アイリーンはようやく顔を上げ、まだ薄紅に染まった頬のまま呟く。

「…我が国の教会や寺院では、皆真面目に祈りを捧げておりますし、貧しい中でも身寄りの無い子供や病人の世話など熱心に行っておりますのに……。国が栄えるという事が、良い事ばかりでは無いのかとすら思えてしまいます。ますますこの国にしろちゃんを渡してはならないという気がしてまいりました」

 自分の名を呼ばれたと思った白は、座っていたソファーから降りるとアイリーンに歩み寄る。足音に気付いたアイリーンは手を差し伸べて少女を抱き寄せ、髪を撫でて囁く。

「大きな声を出してしまってごめんなさいね、驚かせてしまったでしょう。…夕食までまだ時間があるから、少しお昼寝でもしましょうね」

 少女に聞かせたくない話をするかもしれないと考えたアイリーンは、侍女に白を預け、寝室へと送り出した。

 打ち合わせを終えた後は何事も無く過ぎた。白も聞き分け良く食事をし、アイリーンと共にベッドに入った。シンは二人が寝る前に自分の持って来た本を読み聞かせてやり、彼女達は楽しそうにそれに耳を傾け、やがて眠りに着いた。


 翌朝、朝食のテーブルを囲む一行の元に、メッツィーナの侍従が面会の申し入れを告げに訪れる。シャローンと名乗るメリル教の高僧に心当たりは無かったが、ヴィンセントは恐らく白の手紙の相手であろうと察しを付け、断わる理由も無い事から面談の時間が設けられた。

 白は手紙の主の名をやはり聞かされてはおらず、大事にしている返事の束にもそれは記されてはいないようだった。シャローンの名を告げてみても首を傾げるばかりであり、容姿を尋ねてみても、数年前に一度会ったきりの老僧の顔など、幼い少女は覚えてはおけなかった。念の為に白は侍女達と別室に隠され、アイリーンとヴィンセントが応対に当たる事となった。

 暗い藍色のフードを深々と被って現れた尼僧は、随分と齢を経た老婆であり、眉間に刻まれた深い皺が痛々しくすら見えた。典雅に挨拶を交わすアイリーンは、尼僧の暗鬱としたその気配に病の気をかすかに感じ取る。壮年の僧侶を一人従えただけの訪問は、格式や段取りを重んじるこの国に相応しく無いように思え、ヴィンセントはかなり内密な話であろうと直感する。

 椅子に腰を落ち着け、飲み物が配られた後も、シャローンはなかなか本題に入ろうとはせず、室内を見回して何か不都合は無いか尋ねたり、他愛の無い世間話をしたりするばかりであった。しびれを切らしたヴィンセントが用件を問いただそうかと考え始めた頃、同行した僧侶が口を開いた。

「そういえばなにやら小さなお子様をお連れになったと噂に聞き及びましたが…。どなたかの御子息でいらっしゃいますか?」

(そらきた)とヴィンセントは思い、ちらりとアイリーンに視線を向ける。どんなに隠した所で客人として招かれた他国の王宮では、目立つ子供が目に付かぬ訳が無い。騎士達は既に幾人かから白の事を尋ねられていたのである。

 彼等はさも何も知らぬ風を装い、如何にも噂らしく「メレディス将軍が出発直前に前妻との子を押し付けられ、やむなく連れて来た」とか、「ヴィンセント閣下がメッツィーナ入りした途端、現れた女性が子供を残して行方をくらました」とかの適当な話をでっち上げた。そして必ず話のお終いに「……という専らの噂で」と付け加え、「お偉方のやる事は良く分からんのですよ」などと愚痴までこぼす念の入り様であった。その話を耳にしたヴィンセントとメレディスは、互いに「そっちの方が真実味がある」とかなり真剣に言い合いを始める始末であった。

 予想通りの質問にアイリーンは滑らかに答える。

「まぁお耳の早い事でいらっしゃいますこと。そうなんですのよ、こちらに伺います旅の途中で拾った子供なのでございますけれど、話を聞けば何やら大変に不憫な境遇でございまして、わたくしすっかり同情してしまいましたのです。見目も可愛らしくて素直な良い子でございまして、なんですの、情が移る、と申すんでございましょうか、わたくしそれはそれは気に入ってしまいまして、国に連れ帰って養女に、なんて考えておりますの。夫も賛成してくれたものですから、…夫はわたくしのお願いは何でも聞いてくれるものでして、おほほほほ。…あら失礼。そういった訳でございますから、滞在中はなるべくご迷惑をお掛けせぬように致しますので。お二方にはお気を使わせてしまって申し分けなく存じますけれど、そうはいっても小さな子供一人程度の余裕は幾らでもございますでしょう…」

 立て板に水、といった調子で、如何にもわがままでおしゃべり好きな王族の振る舞いを演じるアイリーン。ヴィンセントは横目でそれを眺めながら、(うまいなぁ…)と感心することしきりである。シャローンは幾分気圧されながらも切り返す。

「…そ、そうなのでございましたか。そのように可愛らしいお子ならば、一度お目に掛かりたく思えますが。我が国の民ならばひょっとして面識があるやも知れませぬし」

「それがつい今し方お昼寝にと寝付かせたばかりでございまして。どうしてもとおっしゃるならば起こしてまいりますが。少々可哀相な気も致しますので。……それに身寄りの無い天涯孤独の身の上らしいんですのよ。生まれ育った村も先だっての嵐で地滑りに見舞われて、どうやら一人も生き残っておらぬとかで…。恐ろしい事でございますね。わたくしあの子が命を取り留めた事を、それから何度も神に感謝しておりますのよ。……あらごめんなさい、わたくしの信ずる宗教はこちらの物とは違うのでございますけれど、でも子供の無事を願う親の気持ちはきっと同じでございましょうから…。わたくしも男子を一人授かっておりますのですがもう可愛くて可愛くて…」

 アイリーンのマシンガントークは一向に止まる気配を見せず、二人に口を挟む隙を与えない。やがて呆れ果てたシャローンと僧侶は、逃げ帰るように部屋を後にした。

 アイリーンはほっと息をついてお茶を飲み干し、恥ずかしそうにヴィンセントに言った。

「………い…いかがでしたでしょうか。あのようなやり方で大丈夫でございましょうか」

「完璧です。私の出る幕の無い程お見事な対応で」

「……あんなはしたない口の利きようを、…ああ恥ずかしい。シンが買い物で出払っていて本当に良かった…」

 頬を染めてそう呟くアイリーンは、昨夜の怒りの姿に続いて今日の品の無い振る舞いを見られたら、夫に嫌われてしまうかもしれないと本気で心配していた。昨日の事はともかく、今日の接客は演技だと分かっているのであるし、そもそもシンがアイリーンに愛想をつかす訳など無かろうと、彼女以外の全ての人は思っていたのである。アイリーンはシンの前では今だに『恋する乙女』であるのかもしれない。

 ヴィンセントはさっそく現れたメッツィーナの高官が、意外な程あっさりと引き下がった事に拍子抜けしていた。贄の話など出さずとも、親戚だとか宗教上の繋がりだとか理由を付けて、白を自分達の元に引き取ると言い出すだろうと予想していたのである。それに対応する為に、彼は幾つかのパターンの対応策まで立てて待ち構えていたのであるが、あの尼僧らはあまりこういった交渉事に慣れていないのかも知れないと考えていた。


 王宮では様々な儀式が執り行われ、アイリーンはヴィンセントら外交官と忙しくそれらに出席していた。初日の浄めの儀式のような突発的な物はもう行われず、全て前もって知らされた予定通りの進行であり、主だった者だけでの行動であった為に、それ程神経を尖らせる必要も無かった。

 白は侍女達や女性騎士らに預けられ、おとなしくアイリーンの帰りを待っている。職務を終えて客室に戻ると嬉しそうに駆け寄って来る少女の存在に、アイリーンは我が子ウィルと離ればなれになった淋しさを随分と紛らわす事が出来た。

 儀式の合間に耳に入る高僧達の陰口は相変わらずであったが、アイリーンはそれらに意識を向けないように気を付け、また初日に比べれば儀式の格が違っているのだろう、大きな銅鑼の音や鈴の鳴り響く音がそうした噂話をかき消し、無駄口を叩く人数もかなり少なくなっていた。

 宮廷中何処に行っても焚きしめられている、例の香の匂いにも幾分慣れてきたようであり、アイリーンは楽にはなったが逆に自分の鼻が鈍感になってはしまわないかと、妙な心配もしていた。

 ヴィンセントは精力的に閣僚達と面談を重ね、国から持ち込んだ幾つかの議案を、少しずつではあるが実現へと向かわせていた。しかし、肝心な書面へのサインとなると、結局女王の許可を得ねばならず、未だ単独での謁見を行わせてもらえぬトランセリアは、いささか他国に遅れを取っていると言わざるを得なかった。


 儀式に現れるメッツィーナの最高位の巫女にして女王、ミレーヌは、常に透き通る紗の掛けられた壇上の向う側に立ち、直接言葉を交わす事もその姿を間近に見る事も許されなかった。ミレーヌというその名前すら、日常生活の為に付けられたいわば通称であり、彼女の真の名は本院の奥深く仕える高僧しか知り得ぬ物であるという。

 薄絹を幾重にも重ねた艶かしい装束に身を包み、結い上げずに肩から流れ落ちるその長い髪は、オレンジに似た明るい色合いに輝く。ちらちらと見え隠れするその肢体の妖艶さは、とても四十を迎える女性とは思えぬ程引き締まり、時折こちらに向けられるくっきりとした顔立ちの、紅を引いた艶やかな唇が鮮やかに男達の目を奪った。

 巫女王ミレーヌは三人の子を成していたが、上の二人は共に男子であり、女性が代々王の位に就くこの国においては跡継ぎにはならなかった。彼女は二人目の夫と婚姻を交わし、やっと待望の女児ミリアムを得る事が出来た。十一歳になる唯一の後継者に、正式に次代の女王として神言を賜るこの式典こそが、ミレーヌにとって人生を掛けた極めて重大な儀式だった。

 幼い王女を次期国王に任命する事を、各国の閣僚は王位争いに強力なライバルがいる為であり、それを出し抜く策であろうと予想した。公式には、宗教的な理由により十年に一度と言われる吉日を選んだ為であると発表されていたが、どの国も眉に唾して信じようとはしなかった。しかしこの国の王位継承の制度事態が秘密の内にあり、諸外国同様、トランセリアも真相を見つけられずにいた。


 式典もあと一日を残すのみとなった。明日の午後に行われる祭事を終えれば、全ての行事を済ませた事になり、トランセリア一行も明後日の朝には王都を後にする。そしてその最後の儀式こそが、新たな女王が神よりの御託宣を受ける最も重要な物であり、白の運命がその時決定するのであった。


 早朝、朝食を取る為集まって来たアイリーンらの元へ、女王ミレーヌの使者が訪れる。ヴィンセントが再三請願を出していた、トランセリア単独の謁見が許可されたのであった。その伝言には、同行した少女も同席させるようにとの要請が付け加えられており、謁見が白を目当てとした物である事がはっきりと伺えた。

 尼僧シャローンとの面談以来、白に関わると思われる動きをメッツィーナ側は見せておらず、肝心要の儀式当日まで接触を引き延ばした事から、ヴィンセントは女王自らが一気にこの問題にケリを付ける腹積もりであろうと予測する。こちら側にその場での判断を求め、時間稼ぎをさせない為の手だとも思われた。

 アルフリートより与えられたいくつかの外交カードの内、最大の効果を発揮するであろう手札は、トランセリア領内にメリル教の寺院を寄進するという物だった。外交折衝の基本は、相手の最も欲しい物をちらつかせながら、こちらの要求を飲ませて行く事である。メッツィーナにとってのそれは信者の獲得である事は間違い無かった。信者が増えれば布施に寄り収益が上がり、金が有れば大抵の事は片が付くからである。

 元々トランセリアにはどの宗教も大きな教会や寺院を持っておらず、国民自体もあまり熱心な教徒では無かった。国教はセリア地方に古くから伝わる土着の民間信仰を元にした物であり、生活の一部といった意味合いが強く、布施も貨幣よりは食料などの供え物が中心で、財産を差し出すような狂信的な人間は皆無と言って良かった。アルフリートとシルヴァの結婚式も、庶民と大差無い簡素な物であり、その後行われた戴冠式の方が格段に壮大で威厳のある儀式であった。

 貧乏な家庭ばかりの国からそれ程収益が見込める訳も無く、大きな寺院を建てなどすれば維持が出来ない事情もあり、布教を行う者達は普通の民家のようなこじんまりとした建物を基盤として、信者の勧誘を行っていた。もしそこにトランセリアが寺院を建立して寄進するという条件を提示すれば、メッツィーナに相当の要求まで通せるだろうと予測出来た。しかし、ヴィンセントはそのカードを出す事は自分の敗北だと考えていた。莫大な建設費は王宮の予算をかなり圧迫するだろうし、一宗教に肩入れした事実は他の国や宗派との軋轢を生むだろう。各国が次々と同様の交渉を持ち込んで来る可能性は十分にあり、むざむざと他国に新たな外交カードを与えてやる様な物であった。

 アルフリート個人は信仰には全く無関心であり、正直に言えば神様など存在しないと思っていた。宗教とは人々が暮らしていく上での心の平安や、様々な冠婚葬祭の儀式を円滑に進める為の物であり、それによって人の意識や行動が束縛されたり、ましてや国政に影響を与えるなど正気の沙汰では無いと考えていた。ただ、彼は自分のそのような意見を誰にも言った事は無かった。アイリーンなどは日々の祈りを欠かさなかったし、シルヴァら騎士も出陣の前には神の加護を祈祷してもらっている。信仰に熱心で無くとも神の存在を否定までする人間は極めて少数派であり、その考え方を表に出す事は国王として相当に危険だと思われた。アルフリートは唯一ユーストにはぽろりと告げてしまった事があり、彼も似たような考えを持ってはいたのだが、宰相が口にしたのは「在位中は決して口外しないように」と言う嗜めの言葉であった。

 国を治める公の立場としては、国内の様々な宗派を弾圧する事も無く、布教の自由を保証し、福祉活動を熱心に行っている教会などには補助金すら与えていたが、かといって王宮にその影響力を及ぼす事を代々の王は決して許さなかった。

 巫女の女王が神託を与えられて国政を行うと言うメッツィーナの特殊な政治手法にしても、あくまでそれは信者に向けた表向きの建て前で、悪く言えば神の威光を借りて王の神秘性を高めるイメージ戦略の一貫であり、実際には他の王国と同様に、王と閣僚による普通の政策決定が行われているとアルフリートは踏んでいた。


 いよいよ女王に相い対するアイリーンの緊張は高まり、彼女は白の手をしっかりと握り締め、気合いも十分に謁見の行われる広間へと向かった。途中、アイリーンは小さく白に囁いた。

「何も心配する事はありませんからね、決してしろちゃんを悲しい目に合わせたりはしませんから」

 その言葉に白は何度もこくこくと頷いた。

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