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虚富  作者:


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第六話

前回のあらすじ

岸本美代子は、山本洋治と川内真理子に対して強い殺意を持っていた。彼女の娘は、そう証言した。尾崎は岸本を重要参考人と定め、泉達に彼女の友人関係を調べるよう依頼する。

久しぶりに会った青柳に岸本のことを尋ねると、彼女は岸本美代子を「山本美代子」と呼んだ。……青柳は何を知っているのか。


誤字脱字等、ご容赦ください。

「岸本、美代子……。もしかして、以前は山本美代子という名前だったのでは?」


 その瞬間、カップを持ち上げていた私の腕は止まった。泉の動きも、写真を差し出すような形で止まっている。……それが彼女をおびえさせたのか、「聞いてはいけないことでしたか?」と不安げだ。


「……彼女を知っているのか」


「え、ええ……。前までは彼女とも付き合いがありましたから。……と言っても、もう一年近く会ってませんけど」


「付き合いというと、川内とも?」


「はい。……でも、あの二人はそれほど仲が良くなかったんですよね。性格が合わなかったんでしょうか」


 彼女は思い出を絞り出すように、人差し指を顎に添えながら言う。……彼女のおかげで、岸本と川内のつながりが見つかった。川内の事件と山本の事件はつながっていると泉は考えていたが、これは思わぬ収穫だった。


「……岸本は、川内が引っ越したことを知っているだろうか」


「いえ、知らないと思いますよ。結構前からもう会ってませんし、連絡も取れないんです。風の噂で離婚したんじゃないかという話は聞きましたけど……」


「川内が岸本と個人的に連絡を取っていた可能性は?」


 掴みかけた事件解決のための糸。泉はそれを必死に手繰り寄せている。……青柳はぶつけられた質問に対し、首を横に振った。


「それはないと思います。……あの二人はとことん仲が悪かったですから。顔を合わせる時は何ともないんですが、どちらかがいなかった場合、陰口が絶えなくて」


「……例えば、どのような」


「川内さんは、山本さんのことを『旦那に頼ってばかりで、人としての中身が何もない』と。山本さんは、『結婚相手も見つけられない人間の言葉に価値はない』と。……正直、耳をふさぎたくなるぐらいには苛烈でした」


「……もし。岸本美代子が、川内を殺せるチャンスを手に入れたとしたら。彼女はどうしていたと思う?」


 泉からの質問に、青柳は黙り込んでしまった。……カップに残っていた少し冷めた紅茶を流し込み、彼女はようやく口を開く。


「……そのチャンスを、ものにしていたかも知れません」


「そうか。わかった。……協力に感謝する。邪魔して悪かった」


 泉もまたカップに残っていた紅茶を口の中へと流し込み、勢いよく席を立つ。青柳は「もう行くんですか」と尋ねるが、彼は「これ以上は必要ない」と答える。


「それでは、失礼する。急な訪問になって申し訳ない」


「……いえ。こちらこそ、あまり捜査に協力できず……」


「そんなことはない。新たな情報は一体どれほど得られたか……。近いうち、真相を話せる時が来るだろう。……では」


 泉と私は深く頭を下げ、青柳家を後にした。近くの空き地に停めていた車に乗り込むと、泉が口を開く。


「……岸本周りを、尾崎に洗いなおしてもらわなければならないな」


「青柳さんの話が本当なら、犯人はやはり……」


「そうとも言えるが、これは罠の可能性もある。……青柳自身も、川内と岸本を繋ぐ存在だということだ」


 車はちょうど赤信号で停まった。泉は自分の前にいた、赤信号ギリギリで渡っていった車に「何考えてるんだ」とつぶやいている。……だが、私は彼の先ほどの言葉に意識を奪われていた。


「……泉先生は、青柳さんが犯人だと考えているんですか?」


「その可能性もある、というだけだ。……君が抱く疑問は分かっている。『彼女が犯人であるならば、自ら関係があることを明かすだろうか』という所だろう」


「は、はい。……他に川内さんと交友関係を持っていた人から聞き出せば遅かれ早かれ知ることにはなっていましたが、わざわざ自分から話す理由は……」


「忘れたか。彼女が岸本のことを思い出したのは、俺が尋ねたからだ。……そこで彼女は『知らない』と白を切ることもできたが、君の言うとおりに他の者から聞き出せば、それが嘘だと気づかれる。……知っていることを知らないという時、大抵は後ろめたい理由があるものだ。今回で言えば、犯人である場合だな」


 信号が青に変わった。泉はゆっくりと車を発進させる。


「……では、彼女は犯人と疑われることを恐れて、あえて関係性を暴露した、と……」


「そうとも考えられる、ということだ。……ただ、彼女は金銭的に困った様子はない。通帳を盗む動機があるかと言われると、おそらくないだろうな」


「もしかすると、彼女も誰かに借金をしているのかもしれませんよ」


「……まあ、それ込みで尾崎に調べてもらうとするか。次に向かうぞ」


 その後、生前の川内と友好関係を持っていた人物の自宅を数件回ったが、新たな情報を得ることはできなかった。……ただ、全員が「川内と岸本は仲が悪かった」と口を揃えて言った。




「結論から言うと、青柳に動機はねえ」


 二日後。泉からの報告を受け、改めて川内の交友関係とその人物の近況も調べた尾崎は、事務所に足を運んでいた。寝る時間を削って仕事をしていたのだろう、随分と疲れているように見える。そんな彼はあくびを噛み殺しながら、青柳について調べた結果を話し始めた。


「借金に関しては個人の領域だからな、まだ調査に時間がかかるが。知り合いの目線からしても、金に困ってる様子はないらしい。……そもそも、青柳の旦那は大企業の役職付きだ。生半可な出費じゃ借金しなきゃいけなくなるほど困窮はしないだろうよ。そしてそれは、青柳以外の者達も同様だ」


「……他の者達も、それほど金に困っている様子はない、ということか」


「ああ。……これは俺の持論だが。ああいう婦人同士の集まりっていうのは、互いが対等じゃないと成立しないだろ?どうせやることなんて旦那自慢か子供の学力自慢だろうからな。その中で特段劣っていれば、眼をつけられるのも必然。居心地も悪いだろうし、自分からかかわりを捨てるだろうな」


「……まあ、お前の持論は結構だが。結論として、川内を殺そうとしていたものは、岸本だけだったということか。……そして奴には、山本殺害の動機もある」


 ここまで情報がそろえば、結論はおのずと導き出せる。……岸本美代子こそが、川内と山本を殺害し、通帳を奪い去った犯人だ。


「……では、今すぐ岸本さんの所に向かいましょうよ。これ以上、ここで話をしていたら彼女に逃げられるかも……」


「そうだな。証拠は今の所ないが、あいつが犯人なら二人の通帳を隠し持っているはずだ。それが証拠になる」


 私の提案に尾崎は乗り気なようだ。飛び上がるようにソファから腰をあげ、上着のポケットから車の鍵を取り出した。泉は何も言わずに立ち上がった。……まだ何か納得していないことでもあるのだろうか。尋ねようとしたものの、尾崎の「早くしないと逃げられちまう」という声に遮られた。




「岸本さん、いないんですか?」


 豪勢な屋敷の端にあるせいで、あまりにもみすぼらしく見える小屋のドアを叩く尾崎。監視のため小屋に住まわされているという岸本は、いくらノックをしたところで反応しなかった。


「……いないわけあるか?もう誰とも関わってなさそうな生活を送ってるぞ」


「岸本さん!警察です!」


 尾崎はさらに強くドアを叩き、声を張り上げる。すると。


「うるさい!」


 小屋の中から声が聞こえて来た。どうやら居留守を使っていたらしい。壊れても構わないという勢いでドアを開け、「なんなのよ!」と尾崎以上の声を出す。


「山本洋治のことなら知らないって言ったでしょ⁉まだ何かあるの⁉」


「……それ、嘘なのでは?」


「は?何が」


「山本洋治のことを知らないということです。……あなたが彼を殺したのでは?」


 岸本は一瞬、自分が何を言われているか理解できなかったようだ。ぽかんと口を開けて呆けている。……そしてすぐに、だらんと下げていた右腕を振るった。


「馬鹿な事言わないで!」


 岸本は怒りのあまりビンタを放つ。だが、尾崎はそれを左腕で受け止め、その手をつかみ取った。


「こっちは真剣なんだ。二人も殺されてんだよ。……家の中を調べさせろ」


「いやよ。コレ、あれでしょ、『任意』ってやつでしょ?拒否します~。そんなに調べたかったら令状でも持ってきなさい。どうせ無理でしょうけど。こんな突拍子もない言い分を聞き入れるほど、警視庁の上の人たちは馬鹿じゃないでしょ」


 尾崎が強く出れないと高を括っているのか、挑発するような物言いをする岸本。尾崎はそれに対し、懐から出した一枚の紙を突きつけた。


「礼状ならもうある。……さあ、調べさせてもらうぞ。これは『任意』じゃない」


 岸本はもう何も言わなかった。彼女は一度慰謝料の問題で警察の世話になっているのだろう。これ以上自分が警察を挑発すればどうなるか、よく知っていた。尾崎に向けて舌打ちを一つすると、彼女は玄関から身を引く。尾崎は「失礼」と言って中へと入っていった。


「……俺たちは外で待つとしよう」


「通帳探し、手伝わなくていいんですか?」


「こんな狭い小屋、俺たち三人が入れば動き回ることすら面倒だ。それに、これだけ狭ければ物を隠す場所もそれほどない。尾崎が見逃すとも思えん。……あと、俺たちは一般人だ。俺たちの行動は尾崎の独断によって許されている。あれほど目くじらを立てた岸本なら、後に警視庁に苦情の電話を入れても不思議はあるまい」


「……だから、あまり関わらないように、ということですか」


「そうだ。……俺たちは娘の方をあたるとしよう。ここで待っていても暇だしな」


 泉はそう言うと小屋から離れ、岸本の娘夫婦が住んでいる大きな屋敷へと向かっていく。どうやら尾崎はじっくりと調べているらしく、まだまだ時間がかかりそうだ。……私は、泉に着いて行くことにした。




「……どうも、今日はどのようなご用事で?」


 屋敷から出て来た田辺千里は、引き戸の影から怪訝そうな表情を向けていた。泉は毅然とした態度で受け答える。


「あなたの母親である岸本美代子に、川内真理子と山本洋治を殺害した嫌疑がある。今は令状を用いて家宅捜索を行っている」


「……母が、人殺しを?それは無理だと思いますけど……」


「無理というと……。そうか、あの小屋は見張られているんだったな」


「ええ。警備会社との契約で監視カメラを。一定時間以上母が映らなかったりすれば、すぐに知らせが来るようになっているので」


「……その『一定時間』というのはどれほどなんだ?」


「十分です。それ以上経つと、私と夫のスマホに通知が来るんです」


 では、岸本は絶対に犯人ではない。ここから川内の自宅までは車で二十分はかかる。山本の家にはさらにそれ以上に時間がかかってしまう。


「……その、監視は警備会社の人が二十四時間ずっとなんですか?」


「いえ、今時流行りのAIで」


「では、それらしいものを代わりに立てておけば誤魔化せるのでは?」


「私も最初はそう思ったんです。ですけど、AIは体温なんかでも個人の特定が可能らしく、警備会社でも幾度もテストが行われたようで。信頼性は高いと。それに、AIが異変を感知したときは、警備会社の従業員によるダブルチェックも行われるらしいので」


 では、監視の目を欺いたり、監視AIの誤作動もあり得ないということだろう。……つまり、岸本美代子に犯行は不可能ということか。私はとっさに小屋の方を振り向く。そこには、意気消沈したように肩を落とす尾崎と、彼を口汚く罵り続ける岸本がいた。


「……捜索は終わったか。なら、俺たちもお暇するとしよう。騒がせて悪かった」


 泉はそう言って頭を下げる。私も続いて慌てて頭を下げ、田辺家を後にした。岸本には挨拶しなかったが、彼女はじっとこちらを睨みつけていた。




「クソッ、恥かいた」


 泉の事務所に戻るまでの車中、尾崎は後部座席でだらけながらそう言った。その右手にはぐしゃぐしゃに丸められた令状が握られている。


「……もっと早く止めるべきだった。俺がもっと早く、岸本美代子は監視されているということさえ思い出せていれば」


「過ぎたことはもうどうでもいい。……問題は、『犯人は誰だ』ってことだ。最有力候補だった岸本のアリバイは完璧、話にならない。……そもそもあいつ以外に容疑者候補が思い当たらないんだが」


 尾崎は握りしめていた令状をポケットに押し込みながら言った。確かに彼の言うとおりだ。もう一人怪しいと思われた青柳には、二人を殺害する動機などない。そして、それ以外に川内と山本を殺害する動機を持つ者など……。私と尾崎が考え込んで唸り声をあげた時、泉がこともなげに言った。


「東山がいるだろう。奴が犯人だ」


「え?」

「は?」


 私と尾崎の声がかぶった。泉はハンドルを握ったまま、表情を変えない。


「おい、どういうことだ。東山が犯人?確かにあいつは川内との接点はあるし、山本は岸本を通じてなら接点はあるといってもいい。……だが、動機が合わねえ。通帳が盗まれるってことは、金目当てってことだろう?あいつは今や何千人っていう生徒を抱える講師だ。金に困ってるようにはどうにも思えん」


 後部座席に座っていた尾崎は、身体を少し浮かせて運転席にしがみつく。私は何も言わなかったが、じっと泉の顔を見つめていた。彼はまっすぐ正面を見たまま、口を開く。


「事件の登場人物を考えろ。疑いのあった岸本は犯人ではなかった、そして青柳も動機がなく犯人でない。……残るは、東山のみだ」


「いや、そんなんで犯人の証明になんかならねえよ。消去法ですらねえ。……まだ顔も名前も知らねえ第三者が犯人だって言われた方が納得できるぜ」


「……奴にも動機はある。川内の殺害は、『借金の回収』。山本の殺害は『岸本という金づるを失ったことに対する逆恨み』。そのどちらもが金に関することだ」


「確かにそうかもしれねえが、そこまで気にすることなのか。……俺は東山じゃないからわからないが、奴は講演会の参加費だけでも相当稼いでいるはずだ。今さら一人に貸した金が返ってこないだけで、殺しまでするか?それは山本にだって言える。金づるを失ったって、たったの一人だろ?そんなことで人殺しを選ぶのは、あまりにも人としての器が小さすぎないか?」


 泉は「あいつはそんなものだろう」と表情を変えることなく言い捨てる。尾崎は彼の言葉に納得していない様子で、「そんなんじゃ捜査にならねえよ」と少し気が立っているようだった。……私たちが乗っていた車は、いつの間にか事務所前で止まっていた。私たちはすぐに降車し、事務所へと戻る。尾崎は泉の物言いが気になるのか、まだ帰るつもりはないようだった。


「……俺はお前と高校からの付き合いだ。お前の性格はよくわかってる。……『あてずっぽうな物言いはしない』。それがお前だ。……お前は何を考えてる?さっきの推理、はっきり言えば空想ばかりだった。お前らしくもない。……お前が東山みたいな人間のことを嫌いなのはよくわかるが、個人的な感想で人を犯罪者扱いするような人間じゃないだろう、お前は」


 ソファに腰を下ろして早々、尾崎は泉に詰め寄る。……確かに、彼の先ほどの推理では物的な証拠の存在すら提示していなかった。これは、普段の彼から考えれば違和感のあることだ。詰め寄られた泉は、ソファに深く腰掛け、足を組みなおす。


「……物的な証拠は今の所何もないが、一つだけ。証拠になりそうなものがある」


「それは?」


「……これこそ、俺のただの予想でしかないんだがな。……去年、東山が何者かに刺されたという事件があっただろう」


「……ああ。そういやそんな事件もあったな。で、それがどうした?」


「その犯人は山本洋治なのではないか?」


「何?」


 去年の五月、東山の脇腹を刃物で突き刺した犯人は、山本洋治ではないか。……泉のその言葉に、尾崎は困惑した様子だったが、泉は気にせず続ける。


「山本と岸本は今から大体九か月前に離婚している。……それは、東山が刺された月の翌月だ。山本は、怪しい講演会にのめりこむ妻の目を覚まさせるためか、それとも首謀者を仕留めるためだったかはわからないが、東山を害することを決意した。……だが、そこまでしてもなお、妻の目が覚めることはなかった。だから山本は諦めて離婚を選んだ」


「……筋が通っているような気がしなくもない。だが、その事件の概要は俺が前に少し話したはずだ。『目撃情報はなく、犯人の特定につながる情報は一つもなかった』と」


「わずかではあるが、情報は寄せられていたんだろう?……『中年の男性』という情報が。それは山本と一致する。それに、被害者である東山なら、犯人が誰なのかそれなりに目星がついていたんだろう。……警察にも、いくつか東山への被害相談が寄せられていたそうだしな。自分が恨まれていることをよく理解していたんだろう」


「……だが、当時の聴取じゃ、東山は犯人について『顔が見えなかった』と」


「顔が見えなくとも、大まかな体格程度は分かるだろう。それに、中年の男性という情報もある。そして、ナイフによる刺突という我慢の限界を迎えた行為。それらの情報を総合すれば、かなり狭い範囲で絞りこめるはずだ。……とどめに、岸本が離婚したことを東山に話したこと。彼女の性格を考えれば、夫が集まりに反対的だということも話しているはずだ。そんな夫婦が、自分が刺された翌月に離婚した。……襲われた東山からすれば、偶然で片づけたくはないだろう。結果、先に言ったように『妻のためか、それとも集まりの主を殺すために自分が刺された』と考えてもおかしくはない」


「……つまり、東山が山本を殺したのは……『復讐』ってわけか。じゃあ、通帳を盗んだのは?」


「川内との同一犯だと印象づかせるためだろう。……奴はあわよくば岸本に罪をかぶせようとしていたに違いない。……川内も東山との個人対談はしていた。岸本との不仲も相談していたのかもしれない。そして彼女は山本の妻でもある。東山以外に、川内と山本に強い接点を持つ者は、彼女しかいない」


「……だが、奴にはアリバイがあるんじゃないか。講演会という名のアリバイが」


「前半と後半の間に、休憩の時間があったな。あの時間ならば、裏口から外に出て川内と山本を殺しに行くこともできるはずだ」


 証拠の類は一つとしてないが、東山が犯人であるだろうという情報はとてつもない勢いで集まっていく。目の前にいる警察が愚かな人間ならば、この勢いで逮捕に踏み切ろうとするだろう。だが、尾崎は冷静であった。


「……要するに、状況証拠しかないってわけだ。しかも、それすら奴のアリバイに否定されかけている」


「尾崎。次の講演会はいつだ?」


「ちょっと待ってな。……明日だな。隣街の公民館だ。予定もあるぞ。ここらでやるのはあと三回らしい。その後、奴は海外に居を移すらしい」


「……高飛びするつもりか」


「高飛びするなら殺人を犯してからすぐにするのでは?なぜ今さら……」


「俺たちが岸本にかかずらっている間に高飛びすることを狙っていたんだろう。『いつの間にか姿を消していた』のなら、追いかけようもない」


 尾崎はわざとらしいため息をつくと、膝に手をつきながら勢いよく立ち上がった。


「……ひとまず、今日は帰る。明日、東山を詰めるぞ。……じゃな」


 尾崎はそれだけ言い残して事務所を出て行った。その背中をソファに座ったまま見届けた泉は、「アリバイか……」と悩み声をあげていた。




 翌日、午前十時。東山の講演会が行われるという公民館までやってきた。始まるまではあと二時間も待たなければならないというのに、すでに公民館前には大勢の受講者が詰め寄せている。私たちはその光景を駐車場から眺めながら、尾崎の到着を待っていた。……私たちが到着してから五分後、見慣れた車が隣に停まる。ちらりと中を覗くと、尾崎の顔があった。


「悪い、待たせたな。……ここまでの道が混んでやがった」


 駐車場はすでに受講者の車であふれかえっている。尾崎はかろうじて空きを見つけられたようだが、彼の後に続いていた車は駐車場の入り口で止まってしまっていた。公民館の中から慌てて従業員が飛び出し交通整理に向かおうとするが、公民館前に集まった人波に阻まれてしまっている。


「始まる前からこんなものか、面倒極まりないな」


「……入場まではまだ時間がある。どこかで時間を潰したほうがいいだろう」


 泉は車から鍵を引き抜き、降りてドアを閉める。私も続いて車から降りた。彼は駐車場に車を置いたまま、公民館の敷地の外へと向かっていく。


「いいんですか、車をそのままにして」


「……ここから出す方が面倒だ。……さあ、喫茶店にでも行くとするか」


 泉は呑気な様子であたりを見渡しながら、手ごろな喫茶店を探し始めた。車を置いていくのは悪い気がするが、ここから出した後にもう一度停めるのも面倒だ、仕方あるまい。尾崎も人ごみは嫌いなのか、黙って泉の後をついていく。そうして私たちは、公民館の近くで営業していた喫茶店に滑り込んだ。




「……混んでるな」


 店の中は人であふれかえっていた。従業員は今までにないというほど忙しく走り回っている。普段はこれほど客が入ってこないのだろう。飛び交う注文にうんざりしているようにも見えた。そしてその疲れは新たに店に立ち入った私たちにも向けられた。


「……いらっしゃいませ」


「三人だ」


「お好きな席にどうぞ」


 まるで「入ってくるな」とでも言いたげな視線ではあったが、それを言葉にすることはどうにかこらえたようだ。かろうじて開いていた窓際の席に腰を下ろす。店員は少々乱雑な手つきでお冷をテーブルの上に置き、「注文はベルでどうぞ」と言い残して去っていった。


「……歓迎されていないな」


「忙しくて疲れてるんでしょうね。……それにしても、混みすぎでは?」


 お冷を一口飲んだ尾崎は、店員の態度に苦言を呈する。私はそれを「仕方のないことだ」とたしなめるが、彼はあまり納得していないようだ。私の言葉を受けた彼は背筋を伸ばし、「確かにな」と言って周りを見渡している。泉は特に気にする様子もなく、半分ほど中身を減らしたコップをわきに置き、テーブルの上に置かれていたメニューを手に取っていた。


「大方、公民館に入りきれなかった受講者たちが、時間を潰すためにここを選んだのだろう。……テーブルに置かれている紙がいい証拠だ」


 彼の言葉が気になり、近くの席に座っている人の手荷物に目を凝らす。……そこには、見覚えのあるパンフレットがあった。あれは東山のものだ。それに、喧噪によく耳を凝らしてみれば、聞こえてくるのは金の話ばかりだ。いくら儲けた、あそこに投資するのはいい悪い……。憚ることもない。


「俺は決めた。二人はどうする?」


「どうするって、何が?」


「注文に決まっているだろう。まさかお冷一杯で席を占領するつもりだったのか?公権力の行使を担う者が、随分とケチくさいんだな」


「……コーヒーぐらいは頼むつもりだよ」


 泉から差し出されたメニュー表を尾崎が奪いとるように受け取る。彼は「あんまり腹減ってねえんだよな」とつぶやきながら、コーヒー以外に何を頼もうか悩んでいるようだった。その時、泉の背後にある窓際の席に座っていた三人の中年女性グループが気になることをしゃべりだした。


「今日の東山先生は体調がいいそうよ。さっきSNSでそう言ってる人がいたわ。ちらっと見た程度だけど、マスクはしてなかったみたい」


「よかったわねえ。ちょっと前までは結構体調を崩していたそうだけど、最近はそうでもなくて。ちゃんと寝られているのかしらね」


「マスクしてようがしてまいが東山先生だということに変わりはないけど、どうせならお顔を見たいもの」


 泉は彼女たちの話し声が少しでもよく聞こえるように、席に座ったまま少しのけぞる。彼女たちの話がおすすめの投資先に変わると、彼は姿勢を戻してお冷をすべて飲み干した。


「……よし、決めた。……羽田はまだだったな」


 尾崎はメニュー表とにらめっこをしていたせいで、彼女たちの会話を聞き逃したようだ。テーブルに置いたメニュー表をそのまま滑らせて私の方に向けてくれた。


「尾崎。今日の東山はどうやら、風邪をひいていないらしいぞ」


「へえ。……どこでそれを?」


 泉は右手の親指で背後を指し示す。尾崎は「ああ」と軽く頷いた。


「それならラッキーだな。前は『風邪を移したくないから』とか言って、事情聴取を断られたからな。今日は邪魔されずに済みそうだ」


「……そうだな。……羽田君は何を頼むか決めたか?」


「あ、はい。大丈夫です」


「よし、では注文しよう」


 ベルで店員を呼び出し、注文を済ませる。注文を受けた店員が去っていくと、尾崎は我慢の限界化のように大きくため息をついた。


「……何だ、もう疲れたか?」


「違う。……岸本が苦情の電話を入れやがってな。昨日、戻ったらすぐに説教が始まったんだよ。『勇み足はやめろ』ってな。……上の奴らも岸本が犯人だと思ってたくせに偉そうにしゃべりやがって」


「……なら、真犯人の逮捕で上の奴らを見返すと良い。それにはまず、腹ごしらえだ。……よく言うだろ、『腹が減っては戦は出来ぬ』とな」


 泉は注文した料理を運んでくる店員に目を向けながらそう言った。あまりにまっすぐすぎる彼の視線は、すでに犯人すら見抜いているのではと錯覚するほどだった。

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