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「もう頑張れません」と告げて去った書簡官を、王太子は思い出せなかった

「短編」「もう頑張れません」と告げて去った書簡官を、王太子は思い出せなかった

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/27

※こちらは短編になります。長編は下記リンクか作者ページ、シリーズから。


https://ncode.syosetu.com/n1631lw/


 六年間の追伸がこの国を繋いでいたと、あなたはまだ知らない。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「——クレスト嬢。お前との婚約は、本日を以て解消する」


 王太子エドワルドの声が、謁見の間に響いた。

 まるで予算報告の一項目を読み上げるような、事務的な口調だった。

 フィリーネ・クレストは、膝の上で組んだ手をそっと握り直した。

 驚かなかった。

 六年間、この人の隣で書簡を書き続けてきたのだ。筆跡の乱れひとつで感情が読めるようになっていた。最近の殿下の署名は、右上がりで、ほんの少し踊っていた。

 恋をしている人間の字だった。

 そして、その相手が自分ではないことも。


「……承知いたしました」


 声が震えなかったのは、品格があったからではない。

 もう、震えるだけの力が残っていなかっただけだ。


「ルチア嬢は明るく華のある女性だ。彼女こそ次の王妃に相応しい」


 エドワルドの隣で、金髪の男爵令嬢が控えめに微笑んでいた。可愛らしい人だった。目がきらきらしていて、肌には張りがあって、笑い方が自然だった。

 (ああ、笑い方——)

 フィリーネは、自分がいつから笑い方を忘れたのか、思い出せなかった。


「引き継ぎの件ですが」


 フィリーネが口を開くと、エドワルドは面倒そうに手を振った。


「そんなものは不要だ。たかが書簡だろう。代わりならいくらでもいる」


 ——たかが書簡。

 六年間、毎日十二時間。

 五カ国語の翻訳。百三十七通の条約草案。九百を超える外交書簡。

 暗号通信の解読。儀典文書の校正。国書の清書。

 それが、たかが書簡。


「……かしこまりました」


 フィリーネは深く頭を下げた。

 もう一つだけ、訊きたいことがあった。

 (私の名前を、正しく呼んだことはありましたか)

 訊かなかった。答えを知る気力が、もうなかった。


 ルチア嬢がエドワルドの腕に手を添えた。エドワルドの表情がふっと和らぐのが見えた。

 六年間、一度も向けられなかった顔だった。

 (……ああ、そうか。この人は笑えるんだ)

 知らなかった。知る機会がなかった。

 自分が差し出していたのはいつも書簡と報告書で、この人が欲しかったのは微笑みと華やかさだった。

 噛み合うはずがなかったのだ。最初から。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 控え室に戻り、六年間使い続けた机の上を見渡した。

 積み上がった書類。書きかけの書簡。三本の万年筆。そのうち一本は軸にひびが入っていて、毎年買い替えを申請したが予算が下りなかった。使い込んで背表紙が割れた五カ国語辞典。辞書に載っていない方言や俗語は、余白に自分で書き足した。

 そして、鍵付きの小さな書簡箱。

 この箱の中に、六年分の外交書簡の写しが入っている。フィリーネが起草した全ての書簡の控えだ。


 引き継ぎは不要と言われた。ならば、これは私物だ。

 書簡箱だけを抱えて、フィリーネは立ち上がった。


 廊下に出ると、春の風が吹いていた。

 六年間この廊下を歩いたが、風を感じたのは久しぶりだった。いつもは書類を抱えて早足で通り過ぎるだけだったから。

 (ああ、もう走らなくていいんだ)

 その瞬間、体の奥から、ずっと蓋をしていたものが込み上げてきた。

 疲れていた。

 ずっと、ずっと、疲れていた。

 目が乾いていた。涙を流すことすら、六年間のどこかで忘れてしまったらしい。

 代わりに、深く息を吐いた。


「——お疲れ様でした」


 誰にでもなく、自分に向かって呟いた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 フィリーネが外交書簡官として王宮に上がったのは十七歳の時だった。

 クレスト伯爵家は代々語学に秀でた家系で、フィリーネは幼い頃から五カ国語を操った。十五歳で宮廷翻訳試験に首席合格し、十七歳で王太子付きの外交書簡官に任命された。同時に婚約が内定した。


 最初の一年は、やりがいがあった。

 自分の書いた書簡が、隣国との穀物協定をまとめた。

 自分の翻訳が、同盟国との相互不可侵条約を成立させた。

 自分の追伸が——


 追伸。

 フィリーネには、ひとつだけ譲れない習慣があった。

 外交書簡の末尾に、必ず短い追伸を添えること。


 『追伸——こちらでは白樺の花が咲き始めました』

 『追伸——本日は初雪でした。そちらはいかがでしょうか』

 『追伸——この季節の紅茶は、林檎を浮かべると香りが良くなります』


 外交文書に私的な文章を添えるのは、本来なら規則違反だ。

 けれどフィリーネは知っていた。外交とは国と国の交渉である前に、人と人の対話なのだと。冷たい公文書の末尾に、ほんの一行の温もりがあるだけで、返信の筆致が柔らかくなる。

 実際、フィリーネの追伸を受け取った外交官たちは、交渉で少しだけ寛容になった。穀物の関税が二パーセント下がった。国境の通行料が免除された。小さな積み重ねが、六年間で莫大な国益を生んでいた。


 けれど、誰もそれを知らなかった。

 書簡に署名するのは、常にエドワルドだった。

 フィリーネの名前は、どこにもなかった。


 二年目の冬。大陸北部の軍事同盟の条約草案を三日三晩かけて書き上げた。指が痙攣して、翌朝は万年筆が握れなかった。左手で書く練習をした。

 エドワルドは草案に目を通さず署名した。

 「ご苦労」

 それだけだった。それが、六年間で最も多い感謝の言葉だった。


 三年目の春。東方のザーレン王国との同盟交渉が決裂しかけた。

 原因は翻訳の誤りだった。前任の翻訳官が「永続的な友好」をザーレン語で「服従的な恭順」と訳してしまい、ザーレン王国が激怒したのだ。国交断絶の一歩手前だった。

 フィリーネは一晩で謝罪の書簡を三通書いた。ザーレン語の微妙なニュアンスを汲み取り、相手国の自尊心を傷つけず、かつこちらの誠意が伝わる表現を探した。

 朝の四時に書き上がった時、手は真っ黒にインクで汚れていて、背中が固まって椅子から立てなかった。

 翌日、ザーレン王国から返信が届いた。怒りの色は消えていた。

 「見事な書簡だった」と宰相が言ったが、エドワルドは宴席の準備に忙しく、聞いていなかった。

 フィリーネはその日も机で昼食を摂り、午後の書簡に取りかかった。

 (誰かに「よくやった」と、一言だけ言ってもらえたら)

 そんなことを思って、すぐに自分で打ち消した。甘えだと思ったから。


 三年目の夏。隣国ヴァイス侯国との書簡のやり取りが始まった。先方の外交特使は丁寧な人だった。フィリーネの追伸に対して、必ず返信の追伸が添えられていた。

 『追伸——白樺の件、ありがとうございます。こちらでは菩提樹が満開です。いつかそちらの白樺も見てみたいものです』

 (……読んでくれている)

 たったそれだけのことが、三年目のフィリーネには眩しかった。

 名前も顔も知らない相手だったが、その追伸の返事を書く時だけ、フィリーネの万年筆は少しだけ軽くなった。


 四年目の春。隣国ヴァイス侯国との通商協定で、翻訳の微妙なニュアンスが問題になった。フィリーネは七十二時間眠らず、三つの言語の法律用語を照合し、双方が納得する訳文を作り上げた。完成した時、手が震えていて、自分の名前すら書けなかった。

 エドワルドは宴席で「我が国の外交力は大陸随一」と胸を張った。

 フィリーネの名は出なかった。


 五年目の秋。

 朝の五時に目が覚め、机に向かい、夜の十一時に羽ペンを置く。

 休日はなかった。食事は机で摂った。

 窓の外を見る暇がなかった。だから追伸に季節のことを書く時は、厨房の使用人に「今日の空は何色ですか」と尋ねた。

 (私は何のために書いているんだろう)

 その問いが浮かぶたびに、フィリーネは笑顔を作った。

 作り笑いは得意だった。六年もやれば、誰でも上手くなる。

 ただ、鏡を見るのは怖くなった。映っている顔が、笑っているのか疲れているのか、自分でも分からなくなったから。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 王宮を出て三日後。

 クレスト伯爵家の屋敷で荷解きをしていると、執事が来客を告げた。


「隣国ヴァイス侯国の外交特使、レオン・ヴァイス様がお見えです」


 フィリーネは一瞬、自分の耳を疑った。

 ヴァイス侯国——三年間、最も頻繁に書簡を交わした相手国だ。

 あの、追伸に返事をくれた人の国。

 急いで身なりを整え応接間に降りると、黒髪の青年が立っていた。背が高く、纏っている外套は旅の土埃をかぶっていた。馬を飛ばして来たのだと一目で分かった。


「初めまして——と申し上げるのは正確ではありませんね」


 レオン・ヴァイスはそう言って、淡く笑った。穏やかで、どこか懐かしい笑い方だった。


「……存じ上げております。ヴァイス侯国外交特使、レオン様」


「三年間、あなたの書簡を読んでいました」


 フィリーネの心臓が、小さく跳ねた。


「正確に言えば、王太子殿下の署名がある書簡を読んでいました。けれど、本文を書いているのが王太子本人ではないことは、最初から気づいていました」


「——なぜ、でしょうか」


「筆致が違います。殿下に直接お会いした時の話し方と、書簡の文体がまるで別人でした。会話では大雑把な方が、書簡では驚くほど精緻で繊細だった。別の人間が書いている以外に説明がつきません」


 レオンは外套のポケットから、一通の書簡を取り出した。折り目がついて、何度も開き直した跡があった。


「決定的だったのは、追伸です」


 フィリーネは息を呑んだ。


「『追伸——こちらでは林檎の花が満開です。そちらの白樺も、もうすぐ咲く頃でしょうか』」


 レオンが読み上げたその一文を、フィリーネは覚えていた。二年前の春に書いたものだ。


「外交文書に追伸を添える書記官を、私は他に知りません。しかもその追伸は、毎回、受け取り手の国の季節や風土に合わせた話題が選ばれていた」


 レオンは書簡を胸元に戻した。


「赴任先は辺境で、周囲に同年代の者はおりませんでした。毎月届く書簡の追伸だけが、私を人間として扱ってくれる唯一の言葉だった。あの一行がどれほどの支えだったか、あなたには想像もつかないでしょう」


 フィリーネは何も言えなかった。

 追伸は、フィリーネにとって最後の矜持だった。

 名前を出せない。署名もできない。成果は全て他人のものになる。それでも、一行だけ——たった一行だけ、自分の言葉を添えることができた。

 それを誰かが待っていてくれたなど、考えたこともなかった。


「解任の報せを受けて、すぐに発ちました。侯国から三日の距離を、二日で参りました」


 レオンは居住まいを正した。


「本日は公式に、あなたをヴァイス侯国の外交顧問としてお迎えしたく参りました」


 一拍の間を置いて、レオンの声が少しだけ柔らかくなった。


「——非公式には、三年間の追伸の御礼を、直接申し上げたかった」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 フィリーネが王宮を去って七日目。

 エドワルドの執務室は、混乱の極みにあった。


 最初に破綻したのは、隣国への返信だった。

 ヴァイス侯国からの通商協定の改定案が届いたが、ヴァイス語を正確に訳せる者がいなかった。宮廷翻訳官は三名いたが、外交文書の専門用語——特にヴァイス語の法律用語——を正確に訳せるのはフィリーネだけだった。返信は二週間遅れ、先方から「遅延の理由を問う」正式抗議が届いた。


 次に崩壊したのは暗号通信だった。

 北方同盟との暗号体系はフィリーネが独自に構築したもので、解読鍵は彼女の頭の中にしか存在しなかった。作成を申請した暗号辞典の予算は、五年前に却下されたままだった。

 北方同盟からの緊急暗号書簡が届いたが、誰も読めなかった。


 三つ目は、外交儀礼の崩壊だった。

 代わりの書記官が書いた書簡は文法こそ正しかったが、追伸がなかった。

 十日後、同盟国の外交官から問い合わせが届いた。

 「貴国の書簡は近頃、随分と冷たくなられたようだが。何か不興を買っただろうか」

 追伸一行の有無が外交感情を揺るがすなど、誰も想像していなかった。


 エドワルドは苛立った。


「たかが書簡官一人いなくなっただけで、なぜこうなる」


 宰相が静かに答えた。


「殿下。フィリーネ嬢は書簡官ではございませんでした。あの方お一人が、この国の外交基盤そのものでした」


 エドワルドは初めて、フィリーネの机に行った。

 机の引き出しは空だった。書類も辞典も万年筆もなかった。

 ただ一枚だけ、書き置きが残されていた。


 『六年間、ありがとうございました。

  追伸——春の風が、殿下のもとにも届きますように。

                     クレスト』


 エドワルドはその一枚を、長い間見つめていた。

 「クレスト」——フィリーネの姓だ。下の名前ではなく、姓で署名している。

 自分がこの六年間、婚約者を「クレスト嬢」としか呼ばなかったことに、ようやく気がついた。

 名前で呼ぼうとして——思い出せなかった。

 三秒かかって、「フィリーネ」だったと思い至った。


 その翌日、ザーレン王国から暗号書簡が届いた。北方の国境で異変があったらしい。しかし暗号が解読できないため、内容は不明のままだった。エドワルドは三人の翻訳官を集めて解読を命じたが、二日経っても一文字も読めなかった。暗号体系を設計したフィリーネ以外に、解読の手順を知る者がいなかったのだ。

 さらに翌週、ヴァイス侯国から正式な外交文書が届いた。


 『貴国の外交書簡官フィリーネ・クレスト嬢について。同嬢が貴国を離れた旨、正式な通知をいただいておりません。外交慣例に基づき、担当者変更の経緯説明と後任の紹介を求めます。——ヴァイス侯国外交特使 レオン・ヴァイス』


 差出人の名に、エドワルドは見覚えがなかった。三年間、フィリーネがこの人物と書簡を交わしていたことすら知らなかったのだ。

 ルチア嬢が心配そうに声をかけた。


「殿下、お顔の色が悪いですわ。その書簡、そんなに大変なことなんですか?」


 エドワルドは答えなかった。答えられなかった。

 たかが書簡と言ったのは自分だ。代わりはいくらでもいると言ったのも自分だ。

 六年間、隣にいた女性の名前すら覚えていなかった自分が、今さら何を言えるだろう。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 ヴァイス侯国からの正式招聘を受けたフィリーネのもとに、王宮から使者が来たのは、更に三日後のことだった。


「王太子殿下より、帰還命令です。外交に支障が出ております。至急、王宮にお戻りいただきたい」


 応接間で使者と向き合ったフィリーネの隣に、レオンが立っていた。


「お断りいたします」


 フィリーネの声は静かだった。震えてはいなかった。

 ただ、以前と違って、作り笑いは浮かべなかった。


「殿下は仰いました。『引き継ぎは不要だ、たかが書簡だ、代わりならいくらでもいる』と。ならば、どなたかにお書きいただければよろしいかと存じます」


「し、しかし、暗号の解読が——」


「暗号辞典の作成予算を五年間申請しておりましたが、一度も承認されませんでした。翻訳帳の整備も同様です。口頭で三度、書面で二度、申請いたしました。全て却下されております」


 フィリーネは一つ一つ、淡々と事実を述べた。

 怒りではなかった。恨みでもなかった。

 六年間分の事実を並べているだけだった。


「私はもう、疲れました」


 使者が目を見開いた。


「六年間、一日も休まず書簡を書きました。感謝の言葉は一度もいただけませんでした。名前を呼んでいただいたことも、ございません」


 フィリーネは背筋を伸ばした。


「これ以上は、頑張れません。どうかお引き取りください」


 使者は何も言えなかった。


 使者が帰った後、フィリーネは応接間の椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。

 手が震えていた。怒りではない。六年間、一度も口にしなかった言葉をようやく言えた反動だった。


「……レオン様。笑われますか。こんなことも言えずに六年過ごしていたなんて」


 レオンは首を横に振った。


「笑いません。六年間一度も言えなかった言葉を、今日言えたことが——どれほどの勇気か、私には分かります」


 レオンは窓際に歩み寄り、外を見た。春の陽光が庭園に差し込んでいた。


「フィリーネ嬢。一つ、お伝えしたいことがあります」


「はい」


「三年間の書簡の中で、追伸の文体が変わった時期がありました。四年目の冬からです。それまで柔らかかった季節の描写が——少し、寂しくなった」


 フィリーネは目を伏せた。四年目の冬。通商協定の件で七十二時間眠れなかった時期だ。


「『追伸——こちらは雪です。窓を開ける暇がなかったので、使用人に聞きました』」


 レオンがその一文を暗唱した時、フィリーネの目の奥が初めて熱くなった。


「窓を開ける暇もない人が、それでも追伸を書くのを止めなかった。疲れ果てた筆致で、それでも相手の国の季節を気遣う一行を添え続けた」


 レオンはフィリーネに向き直った。


「その一行を読んだ時に決めたのです。この人を、自分の目で季節を見られる場所に連れて行きたい——と」


 フィリーネの視界が滲んだ。

 六年ぶりだった。

 涙の流し方を忘れていなかったことに、自分で驚いた。


「……泣いて、いいですか」


「ええ。もう、笑わなくていい」


 フィリーネは泣いた。声を上げず、ただ静かに。六年分の疲れが、涙と一緒に流れていくようだった。

 レオンは何も言わず、ただ傍にいた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 ヴァイス侯国に着任して、最初の朝。

 フィリーネは窓を開けた。

 冷たい春の空気が頬を撫でた。白樺の並木道に、小さな蕾がほころび始めていた。

 (ああ——これが、白樺の花)

 三年間、追伸に「そちらの白樺は」と書き続けた。けれど実物を見たのは初めてだった。

 清潔な白い幹と、風に揺れる若葉。書簡の文字だけでは分からなかった、甘い樹液の香りがした。


 執務室に出ると、机の上に花が一輪、小さな花瓶に活けてあった。白樺の枝だった。

 隣のレオンの机との間に仕切りはなく、窓は大きく、陽光がたっぷりと入った。

 書類はあったが、量が違った。フィリーネ一人に押し付けるのではなく、三人の書記官とチームで処理する体制になっていた。


「昼食は食堂で摂ってください。机の上で食べることは、この国では禁止です」


 レオンが真顔で言った。


「定時は五時です。それ以降の執務は、私の許可が要ります」


「……許可が出ることはあるのですか」


「ありません」


 フィリーネは思わず笑った。

 作り笑いではなかった。

 口の端が自然に上がる、あの感覚を、六年ぶりに思い出した。


「……笑えました」


「ええ」


 レオンは少しだけ耳を赤くして、書類に目を落とした。


「追伸より、ずっといい」


 昼休みに食堂に向かう途中、レオンが「少し寄りたいところがある」と言って、執務室の隣の小部屋に案内した。

 棚に並んだ文書の中から、レオンは一冊の薄い帳面を取り出した。


「三年分です」


 帳面を開くと、切り取られた紙片が丁寧に貼り付けてあった。

 フィリーネが書いた追伸だった。三年間、三十六通分。

 全ての追伸が、一枚も欠けることなく保存されていた。


 『追伸——こちらでは林檎の花が満開です』

 『追伸——今年の冬は例年より早く訪れそうです。暖かくしてお過ごしください』

 『追伸——窓を開ける暇がなかったので、使用人に聞きました』


 最後の一枚を見た時、フィリーネの手が止まった。

 そこにはレオンの字で、小さく書き添えられていた。


 『この人を、いつか窓のある場所に連れて行く』


 日付は、一年半前。


「……一年半も、前から」


「ええ。遅くなって申し訳ありません」


 フィリーネはしばらく帳面を抱きしめた。

 六年間、誰の目にも留まらなかった追伸が、こんな形で大切にされていた。

 名前のない仕事に、名前をつけてくれた人がいた。


「……ありがとう、ございます」


「こちらこそ。三年間、ありがとうございました」


 その日の昼、フィリーネは食堂で温かいスープを飲んだ。

 六年ぶりに、机の上ではない場所で食事をした。スープの湯気が顔にかかった。パンが焼きたてで、柔らかかった。

 (これを、先に確認しなくていいんだ。毒見も翻訳もなく、ただ自分のために食べていいんだ)

 たったそれだけのことが、目の奥を熱くさせた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 その夜、フィリーネは新しい書簡箱を開いた。

 レオンが用意してくれたもので、前のものより一回り大きく、鍵の代わりに白樺の紋章が刻まれていた。

 最初の一枚に、フィリーネは書いた。


 『ヴァイス侯国外交顧問、着任初日の記録。

  本日の業務:通商協定の翻訳校正、三カ国語。

  所要時間:五時間(六名の班体制。以前は一人で十二時間)。

  昼食:食堂にて、温かいスープとパン。

  退勤時刻:午後五時。

  窓から見た空:晴れ。白樺の蕾が、明日にも咲きそうです。


  追伸——明日もきっと、晴れる。

       これは予測ではなく、六年ぶりに書く、願いです』


 万年筆を置いた。

 手は震えなかった。指が痙攣することもなかった。

 窓の外では、春の月が静かに輝いていた。

 フィリーネは窓を開けたまま、しばらくその月を眺めた。


 もう、追伸に季節を書くために、誰かに空の色を尋ねなくていい。

 自分の目で見て、自分の言葉で書ける。

 そして、その追伸を読んでくれる人が、隣の机にいる。


 それがこんなにも幸せなことだとは、知らなかった。


読んでいただき、ありがとうございます。


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