「もう頑張れません」と告げて去った書簡官を、王太子は思い出せなかった
「短編」「もう頑張れません」と告げて去った書簡官を、王太子は思い出せなかった
※こちらは短編になります。長編は下記リンクか作者ページ、シリーズから。
https://ncode.syosetu.com/n1631lw/
六年間の追伸がこの国を繋いでいたと、あなたはまだ知らない。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「——クレスト嬢。お前との婚約は、本日を以て解消する」
王太子エドワルドの声が、謁見の間に響いた。
まるで予算報告の一項目を読み上げるような、事務的な口調だった。
フィリーネ・クレストは、膝の上で組んだ手をそっと握り直した。
驚かなかった。
六年間、この人の隣で書簡を書き続けてきたのだ。筆跡の乱れひとつで感情が読めるようになっていた。最近の殿下の署名は、右上がりで、ほんの少し踊っていた。
恋をしている人間の字だった。
そして、その相手が自分ではないことも。
「……承知いたしました」
声が震えなかったのは、品格があったからではない。
もう、震えるだけの力が残っていなかっただけだ。
「ルチア嬢は明るく華のある女性だ。彼女こそ次の王妃に相応しい」
エドワルドの隣で、金髪の男爵令嬢が控えめに微笑んでいた。可愛らしい人だった。目がきらきらしていて、肌には張りがあって、笑い方が自然だった。
(ああ、笑い方——)
フィリーネは、自分がいつから笑い方を忘れたのか、思い出せなかった。
「引き継ぎの件ですが」
フィリーネが口を開くと、エドワルドは面倒そうに手を振った。
「そんなものは不要だ。たかが書簡だろう。代わりならいくらでもいる」
——たかが書簡。
六年間、毎日十二時間。
五カ国語の翻訳。百三十七通の条約草案。九百を超える外交書簡。
暗号通信の解読。儀典文書の校正。国書の清書。
それが、たかが書簡。
「……かしこまりました」
フィリーネは深く頭を下げた。
もう一つだけ、訊きたいことがあった。
(私の名前を、正しく呼んだことはありましたか)
訊かなかった。答えを知る気力が、もうなかった。
ルチア嬢がエドワルドの腕に手を添えた。エドワルドの表情がふっと和らぐのが見えた。
六年間、一度も向けられなかった顔だった。
(……ああ、そうか。この人は笑えるんだ)
知らなかった。知る機会がなかった。
自分が差し出していたのはいつも書簡と報告書で、この人が欲しかったのは微笑みと華やかさだった。
噛み合うはずがなかったのだ。最初から。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
控え室に戻り、六年間使い続けた机の上を見渡した。
積み上がった書類。書きかけの書簡。三本の万年筆。そのうち一本は軸にひびが入っていて、毎年買い替えを申請したが予算が下りなかった。使い込んで背表紙が割れた五カ国語辞典。辞書に載っていない方言や俗語は、余白に自分で書き足した。
そして、鍵付きの小さな書簡箱。
この箱の中に、六年分の外交書簡の写しが入っている。フィリーネが起草した全ての書簡の控えだ。
引き継ぎは不要と言われた。ならば、これは私物だ。
書簡箱だけを抱えて、フィリーネは立ち上がった。
廊下に出ると、春の風が吹いていた。
六年間この廊下を歩いたが、風を感じたのは久しぶりだった。いつもは書類を抱えて早足で通り過ぎるだけだったから。
(ああ、もう走らなくていいんだ)
その瞬間、体の奥から、ずっと蓋をしていたものが込み上げてきた。
疲れていた。
ずっと、ずっと、疲れていた。
目が乾いていた。涙を流すことすら、六年間のどこかで忘れてしまったらしい。
代わりに、深く息を吐いた。
「——お疲れ様でした」
誰にでもなく、自分に向かって呟いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
フィリーネが外交書簡官として王宮に上がったのは十七歳の時だった。
クレスト伯爵家は代々語学に秀でた家系で、フィリーネは幼い頃から五カ国語を操った。十五歳で宮廷翻訳試験に首席合格し、十七歳で王太子付きの外交書簡官に任命された。同時に婚約が内定した。
最初の一年は、やりがいがあった。
自分の書いた書簡が、隣国との穀物協定をまとめた。
自分の翻訳が、同盟国との相互不可侵条約を成立させた。
自分の追伸が——
追伸。
フィリーネには、ひとつだけ譲れない習慣があった。
外交書簡の末尾に、必ず短い追伸を添えること。
『追伸——こちらでは白樺の花が咲き始めました』
『追伸——本日は初雪でした。そちらはいかがでしょうか』
『追伸——この季節の紅茶は、林檎を浮かべると香りが良くなります』
外交文書に私的な文章を添えるのは、本来なら規則違反だ。
けれどフィリーネは知っていた。外交とは国と国の交渉である前に、人と人の対話なのだと。冷たい公文書の末尾に、ほんの一行の温もりがあるだけで、返信の筆致が柔らかくなる。
実際、フィリーネの追伸を受け取った外交官たちは、交渉で少しだけ寛容になった。穀物の関税が二パーセント下がった。国境の通行料が免除された。小さな積み重ねが、六年間で莫大な国益を生んでいた。
けれど、誰もそれを知らなかった。
書簡に署名するのは、常にエドワルドだった。
フィリーネの名前は、どこにもなかった。
二年目の冬。大陸北部の軍事同盟の条約草案を三日三晩かけて書き上げた。指が痙攣して、翌朝は万年筆が握れなかった。左手で書く練習をした。
エドワルドは草案に目を通さず署名した。
「ご苦労」
それだけだった。それが、六年間で最も多い感謝の言葉だった。
三年目の春。東方のザーレン王国との同盟交渉が決裂しかけた。
原因は翻訳の誤りだった。前任の翻訳官が「永続的な友好」をザーレン語で「服従的な恭順」と訳してしまい、ザーレン王国が激怒したのだ。国交断絶の一歩手前だった。
フィリーネは一晩で謝罪の書簡を三通書いた。ザーレン語の微妙なニュアンスを汲み取り、相手国の自尊心を傷つけず、かつこちらの誠意が伝わる表現を探した。
朝の四時に書き上がった時、手は真っ黒にインクで汚れていて、背中が固まって椅子から立てなかった。
翌日、ザーレン王国から返信が届いた。怒りの色は消えていた。
「見事な書簡だった」と宰相が言ったが、エドワルドは宴席の準備に忙しく、聞いていなかった。
フィリーネはその日も机で昼食を摂り、午後の書簡に取りかかった。
(誰かに「よくやった」と、一言だけ言ってもらえたら)
そんなことを思って、すぐに自分で打ち消した。甘えだと思ったから。
三年目の夏。隣国ヴァイス侯国との書簡のやり取りが始まった。先方の外交特使は丁寧な人だった。フィリーネの追伸に対して、必ず返信の追伸が添えられていた。
『追伸——白樺の件、ありがとうございます。こちらでは菩提樹が満開です。いつかそちらの白樺も見てみたいものです』
(……読んでくれている)
たったそれだけのことが、三年目のフィリーネには眩しかった。
名前も顔も知らない相手だったが、その追伸の返事を書く時だけ、フィリーネの万年筆は少しだけ軽くなった。
四年目の春。隣国ヴァイス侯国との通商協定で、翻訳の微妙なニュアンスが問題になった。フィリーネは七十二時間眠らず、三つの言語の法律用語を照合し、双方が納得する訳文を作り上げた。完成した時、手が震えていて、自分の名前すら書けなかった。
エドワルドは宴席で「我が国の外交力は大陸随一」と胸を張った。
フィリーネの名は出なかった。
五年目の秋。
朝の五時に目が覚め、机に向かい、夜の十一時に羽ペンを置く。
休日はなかった。食事は机で摂った。
窓の外を見る暇がなかった。だから追伸に季節のことを書く時は、厨房の使用人に「今日の空は何色ですか」と尋ねた。
(私は何のために書いているんだろう)
その問いが浮かぶたびに、フィリーネは笑顔を作った。
作り笑いは得意だった。六年もやれば、誰でも上手くなる。
ただ、鏡を見るのは怖くなった。映っている顔が、笑っているのか疲れているのか、自分でも分からなくなったから。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
王宮を出て三日後。
クレスト伯爵家の屋敷で荷解きをしていると、執事が来客を告げた。
「隣国ヴァイス侯国の外交特使、レオン・ヴァイス様がお見えです」
フィリーネは一瞬、自分の耳を疑った。
ヴァイス侯国——三年間、最も頻繁に書簡を交わした相手国だ。
あの、追伸に返事をくれた人の国。
急いで身なりを整え応接間に降りると、黒髪の青年が立っていた。背が高く、纏っている外套は旅の土埃をかぶっていた。馬を飛ばして来たのだと一目で分かった。
「初めまして——と申し上げるのは正確ではありませんね」
レオン・ヴァイスはそう言って、淡く笑った。穏やかで、どこか懐かしい笑い方だった。
「……存じ上げております。ヴァイス侯国外交特使、レオン様」
「三年間、あなたの書簡を読んでいました」
フィリーネの心臓が、小さく跳ねた。
「正確に言えば、王太子殿下の署名がある書簡を読んでいました。けれど、本文を書いているのが王太子本人ではないことは、最初から気づいていました」
「——なぜ、でしょうか」
「筆致が違います。殿下に直接お会いした時の話し方と、書簡の文体がまるで別人でした。会話では大雑把な方が、書簡では驚くほど精緻で繊細だった。別の人間が書いている以外に説明がつきません」
レオンは外套のポケットから、一通の書簡を取り出した。折り目がついて、何度も開き直した跡があった。
「決定的だったのは、追伸です」
フィリーネは息を呑んだ。
「『追伸——こちらでは林檎の花が満開です。そちらの白樺も、もうすぐ咲く頃でしょうか』」
レオンが読み上げたその一文を、フィリーネは覚えていた。二年前の春に書いたものだ。
「外交文書に追伸を添える書記官を、私は他に知りません。しかもその追伸は、毎回、受け取り手の国の季節や風土に合わせた話題が選ばれていた」
レオンは書簡を胸元に戻した。
「赴任先は辺境で、周囲に同年代の者はおりませんでした。毎月届く書簡の追伸だけが、私を人間として扱ってくれる唯一の言葉だった。あの一行がどれほどの支えだったか、あなたには想像もつかないでしょう」
フィリーネは何も言えなかった。
追伸は、フィリーネにとって最後の矜持だった。
名前を出せない。署名もできない。成果は全て他人のものになる。それでも、一行だけ——たった一行だけ、自分の言葉を添えることができた。
それを誰かが待っていてくれたなど、考えたこともなかった。
「解任の報せを受けて、すぐに発ちました。侯国から三日の距離を、二日で参りました」
レオンは居住まいを正した。
「本日は公式に、あなたをヴァイス侯国の外交顧問としてお迎えしたく参りました」
一拍の間を置いて、レオンの声が少しだけ柔らかくなった。
「——非公式には、三年間の追伸の御礼を、直接申し上げたかった」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
フィリーネが王宮を去って七日目。
エドワルドの執務室は、混乱の極みにあった。
最初に破綻したのは、隣国への返信だった。
ヴァイス侯国からの通商協定の改定案が届いたが、ヴァイス語を正確に訳せる者がいなかった。宮廷翻訳官は三名いたが、外交文書の専門用語——特にヴァイス語の法律用語——を正確に訳せるのはフィリーネだけだった。返信は二週間遅れ、先方から「遅延の理由を問う」正式抗議が届いた。
次に崩壊したのは暗号通信だった。
北方同盟との暗号体系はフィリーネが独自に構築したもので、解読鍵は彼女の頭の中にしか存在しなかった。作成を申請した暗号辞典の予算は、五年前に却下されたままだった。
北方同盟からの緊急暗号書簡が届いたが、誰も読めなかった。
三つ目は、外交儀礼の崩壊だった。
代わりの書記官が書いた書簡は文法こそ正しかったが、追伸がなかった。
十日後、同盟国の外交官から問い合わせが届いた。
「貴国の書簡は近頃、随分と冷たくなられたようだが。何か不興を買っただろうか」
追伸一行の有無が外交感情を揺るがすなど、誰も想像していなかった。
エドワルドは苛立った。
「たかが書簡官一人いなくなっただけで、なぜこうなる」
宰相が静かに答えた。
「殿下。フィリーネ嬢は書簡官ではございませんでした。あの方お一人が、この国の外交基盤そのものでした」
エドワルドは初めて、フィリーネの机に行った。
机の引き出しは空だった。書類も辞典も万年筆もなかった。
ただ一枚だけ、書き置きが残されていた。
『六年間、ありがとうございました。
追伸——春の風が、殿下のもとにも届きますように。
クレスト』
エドワルドはその一枚を、長い間見つめていた。
「クレスト」——フィリーネの姓だ。下の名前ではなく、姓で署名している。
自分がこの六年間、婚約者を「クレスト嬢」としか呼ばなかったことに、ようやく気がついた。
名前で呼ぼうとして——思い出せなかった。
三秒かかって、「フィリーネ」だったと思い至った。
その翌日、ザーレン王国から暗号書簡が届いた。北方の国境で異変があったらしい。しかし暗号が解読できないため、内容は不明のままだった。エドワルドは三人の翻訳官を集めて解読を命じたが、二日経っても一文字も読めなかった。暗号体系を設計したフィリーネ以外に、解読の手順を知る者がいなかったのだ。
さらに翌週、ヴァイス侯国から正式な外交文書が届いた。
『貴国の外交書簡官フィリーネ・クレスト嬢について。同嬢が貴国を離れた旨、正式な通知をいただいておりません。外交慣例に基づき、担当者変更の経緯説明と後任の紹介を求めます。——ヴァイス侯国外交特使 レオン・ヴァイス』
差出人の名に、エドワルドは見覚えがなかった。三年間、フィリーネがこの人物と書簡を交わしていたことすら知らなかったのだ。
ルチア嬢が心配そうに声をかけた。
「殿下、お顔の色が悪いですわ。その書簡、そんなに大変なことなんですか?」
エドワルドは答えなかった。答えられなかった。
たかが書簡と言ったのは自分だ。代わりはいくらでもいると言ったのも自分だ。
六年間、隣にいた女性の名前すら覚えていなかった自分が、今さら何を言えるだろう。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ヴァイス侯国からの正式招聘を受けたフィリーネのもとに、王宮から使者が来たのは、更に三日後のことだった。
「王太子殿下より、帰還命令です。外交に支障が出ております。至急、王宮にお戻りいただきたい」
応接間で使者と向き合ったフィリーネの隣に、レオンが立っていた。
「お断りいたします」
フィリーネの声は静かだった。震えてはいなかった。
ただ、以前と違って、作り笑いは浮かべなかった。
「殿下は仰いました。『引き継ぎは不要だ、たかが書簡だ、代わりならいくらでもいる』と。ならば、どなたかにお書きいただければよろしいかと存じます」
「し、しかし、暗号の解読が——」
「暗号辞典の作成予算を五年間申請しておりましたが、一度も承認されませんでした。翻訳帳の整備も同様です。口頭で三度、書面で二度、申請いたしました。全て却下されております」
フィリーネは一つ一つ、淡々と事実を述べた。
怒りではなかった。恨みでもなかった。
六年間分の事実を並べているだけだった。
「私はもう、疲れました」
使者が目を見開いた。
「六年間、一日も休まず書簡を書きました。感謝の言葉は一度もいただけませんでした。名前を呼んでいただいたことも、ございません」
フィリーネは背筋を伸ばした。
「これ以上は、頑張れません。どうかお引き取りください」
使者は何も言えなかった。
使者が帰った後、フィリーネは応接間の椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
手が震えていた。怒りではない。六年間、一度も口にしなかった言葉をようやく言えた反動だった。
「……レオン様。笑われますか。こんなことも言えずに六年過ごしていたなんて」
レオンは首を横に振った。
「笑いません。六年間一度も言えなかった言葉を、今日言えたことが——どれほどの勇気か、私には分かります」
レオンは窓際に歩み寄り、外を見た。春の陽光が庭園に差し込んでいた。
「フィリーネ嬢。一つ、お伝えしたいことがあります」
「はい」
「三年間の書簡の中で、追伸の文体が変わった時期がありました。四年目の冬からです。それまで柔らかかった季節の描写が——少し、寂しくなった」
フィリーネは目を伏せた。四年目の冬。通商協定の件で七十二時間眠れなかった時期だ。
「『追伸——こちらは雪です。窓を開ける暇がなかったので、使用人に聞きました』」
レオンがその一文を暗唱した時、フィリーネの目の奥が初めて熱くなった。
「窓を開ける暇もない人が、それでも追伸を書くのを止めなかった。疲れ果てた筆致で、それでも相手の国の季節を気遣う一行を添え続けた」
レオンはフィリーネに向き直った。
「その一行を読んだ時に決めたのです。この人を、自分の目で季節を見られる場所に連れて行きたい——と」
フィリーネの視界が滲んだ。
六年ぶりだった。
涙の流し方を忘れていなかったことに、自分で驚いた。
「……泣いて、いいですか」
「ええ。もう、笑わなくていい」
フィリーネは泣いた。声を上げず、ただ静かに。六年分の疲れが、涙と一緒に流れていくようだった。
レオンは何も言わず、ただ傍にいた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ヴァイス侯国に着任して、最初の朝。
フィリーネは窓を開けた。
冷たい春の空気が頬を撫でた。白樺の並木道に、小さな蕾がほころび始めていた。
(ああ——これが、白樺の花)
三年間、追伸に「そちらの白樺は」と書き続けた。けれど実物を見たのは初めてだった。
清潔な白い幹と、風に揺れる若葉。書簡の文字だけでは分からなかった、甘い樹液の香りがした。
執務室に出ると、机の上に花が一輪、小さな花瓶に活けてあった。白樺の枝だった。
隣のレオンの机との間に仕切りはなく、窓は大きく、陽光がたっぷりと入った。
書類はあったが、量が違った。フィリーネ一人に押し付けるのではなく、三人の書記官とチームで処理する体制になっていた。
「昼食は食堂で摂ってください。机の上で食べることは、この国では禁止です」
レオンが真顔で言った。
「定時は五時です。それ以降の執務は、私の許可が要ります」
「……許可が出ることはあるのですか」
「ありません」
フィリーネは思わず笑った。
作り笑いではなかった。
口の端が自然に上がる、あの感覚を、六年ぶりに思い出した。
「……笑えました」
「ええ」
レオンは少しだけ耳を赤くして、書類に目を落とした。
「追伸より、ずっといい」
昼休みに食堂に向かう途中、レオンが「少し寄りたいところがある」と言って、執務室の隣の小部屋に案内した。
棚に並んだ文書の中から、レオンは一冊の薄い帳面を取り出した。
「三年分です」
帳面を開くと、切り取られた紙片が丁寧に貼り付けてあった。
フィリーネが書いた追伸だった。三年間、三十六通分。
全ての追伸が、一枚も欠けることなく保存されていた。
『追伸——こちらでは林檎の花が満開です』
『追伸——今年の冬は例年より早く訪れそうです。暖かくしてお過ごしください』
『追伸——窓を開ける暇がなかったので、使用人に聞きました』
最後の一枚を見た時、フィリーネの手が止まった。
そこにはレオンの字で、小さく書き添えられていた。
『この人を、いつか窓のある場所に連れて行く』
日付は、一年半前。
「……一年半も、前から」
「ええ。遅くなって申し訳ありません」
フィリーネはしばらく帳面を抱きしめた。
六年間、誰の目にも留まらなかった追伸が、こんな形で大切にされていた。
名前のない仕事に、名前をつけてくれた人がいた。
「……ありがとう、ございます」
「こちらこそ。三年間、ありがとうございました」
その日の昼、フィリーネは食堂で温かいスープを飲んだ。
六年ぶりに、机の上ではない場所で食事をした。スープの湯気が顔にかかった。パンが焼きたてで、柔らかかった。
(これを、先に確認しなくていいんだ。毒見も翻訳もなく、ただ自分のために食べていいんだ)
たったそれだけのことが、目の奥を熱くさせた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その夜、フィリーネは新しい書簡箱を開いた。
レオンが用意してくれたもので、前のものより一回り大きく、鍵の代わりに白樺の紋章が刻まれていた。
最初の一枚に、フィリーネは書いた。
『ヴァイス侯国外交顧問、着任初日の記録。
本日の業務:通商協定の翻訳校正、三カ国語。
所要時間:五時間(六名の班体制。以前は一人で十二時間)。
昼食:食堂にて、温かいスープとパン。
退勤時刻:午後五時。
窓から見た空:晴れ。白樺の蕾が、明日にも咲きそうです。
追伸——明日もきっと、晴れる。
これは予測ではなく、六年ぶりに書く、願いです』
万年筆を置いた。
手は震えなかった。指が痙攣することもなかった。
窓の外では、春の月が静かに輝いていた。
フィリーネは窓を開けたまま、しばらくその月を眺めた。
もう、追伸に季節を書くために、誰かに空の色を尋ねなくていい。
自分の目で見て、自分の言葉で書ける。
そして、その追伸を読んでくれる人が、隣の机にいる。
それがこんなにも幸せなことだとは、知らなかった。
読んでいただき、ありがとうございます。
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