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子犬のワルツとトロイメライ

「あ、犬だ」

 そういった誰かの声と、昼休みの終わりを告げるチャイムの音が重なる。

 窓の外へ視線を動かすと、校庭に茶色い小さな犬がいた。

 マメ柴だろうか。もしかしたらミックス犬かもしれない。犬のことをよく知らない私に正確なことは分からないけれど、尻尾を振ってこちらを見上げているその子は、とてもかわいかった。


 ガタンッ、と勢いよく椅子が動いた音がした。思わず振り返ると、後ろの席の市村くんが立ちあがり、校庭を見つめている。よく見えないのか眉間にしわを寄せ、重たそうな黒縁メガネ越しに、犬を見ている。瞬きすらしていない。

 そう、瞬きをしていないせいか、みるみるうちに市村くんの目に透明なものがせり上がっていく。色のないそれは光を反射して銀色にひかった。


 ワン! と犬が吠えた。

 声は聞こえなかったけれど、口の動きで分かった。

 吠えた時にまるで合図するように顔を上にあげたので、首にしている赤い首輪が見えた。

 茶色い毛並みに似合う明るい赤色。この子に一番似合うのはきっとこの色、そんなふうに思う色。

 秋晴れの空、白い校庭、赤い首輪をつけた茶色の犬。ざわざわとうるさい教室から眺めるにしては完璧な世界。

 ワン! 犬はもう一度吠えると満足げに舌を出し、笑ってるみたいな顔でハァハァと息をした。そしてくるりと後ろを向くと校庭の外に走っていった。


 市村くんが教室を飛び出す。立っていた彼が去ったくらいのことに誰も注目していない。その後を私が追ったことも誰も気にしない。

 三階から一階へと市村くんは敏捷な動物みたいに駆け下りた。そんなに足が速いタイプじゃないはずなのにやっぱり男子だ。全然追いつけない。

 痛む横腹を押さえつつ、私が最後の階段を下りた時、市村くんは渡り廊下から校庭を眺めていた。

 乱れた呼吸を整えつつ市村くんに近づく。歩きながらそもそも何で追いかけてしまったんだろう、なんて今さらなことを思う。


「おーい、大丈夫?」


 我ながら気の抜けた呼びかけ。

 市村くんは驚いたように私を見て、「大丈夫」と擦れた声でいった。


「なんで亀田さんがここにいるの?」

「自分でも分かんない」


 へらへらと笑ってごまかした瞬間に、五時間目の始まるチャイムが鳴った。


「あの犬、かわいかったね」


 沈黙を避けるための世間話みたいな言葉だけど本心だ。本当にかわいい子だった。


「ありがとう」


 仏頂面で市村くんがいった。でも声がやわらかいから、何となく察することができた。市村くんの目は相変わらずきらきらしていて、たぶん彼は今、笑うことができない。


「なんで市村くんが自慢げなの?」

「あの犬はショパンだから」

「へ?」

「小五のとき小学校の体育館裏で拾って、誕生日プレゼントはいらないからショパンを飼わせて欲しいって頼んで、小さい犬だから子犬だと思ってたけど結構年取ってて、」


 市村くんの声が詰まった。


「ショパンはいいやつだった」


 あ、過去形。そう気づいたときに市村くんの目からぽたり、と雫が落ちた。


「一週間前、誕生日プレゼントなんて一生いらないから生きててくれっていった。ショパンは何日もがんばって、がんばって、ずっと動かなくて、でも生きてくれてて、もういいっていった。そしたら息が止まって。でも、今日来たんだ」


 ぽたり、ぽたり。声を出すたび落ちる。


「俺、今日誕生日なんだ」

「そうなんだ。おめでとう」

「ありがとう」


 ぽたぽたはぼたぼたになって、自分と同じ年の子が泣くのをひさしぶりに見たな、なんて思う。小学生の弟が泣くのとは圧倒的に涙の質量が違う。重たくて、冷たいのに、熱い。


「俺はもう犬を飼わない」

「なんで?」


 反射的に聞いてしまった。

 市村くんが瞬きをしている。そのたび涙が落ちる。レンズの内側についた水滴が、ガラスでできたビーズみたいだ。


「私は飼いたい。市村くんちのショパンみたいな優しくて賢い子と家族になりたい。でもうちマンションだから飼えないの。将来絶対ペット可のマンションか一戸建ての家に住む」


 ふわっと市村くんが笑った。


「ショパンみたいなやつはいないよ」

「そうかもね。でも、そうじゃなくても私だって出会いたいよ」


 肩を震わせ顔をべしゃべしゃにしてる市村くんの手を引っ張って、非常階段に連れて行く。二人でとぼとぼ階段を昇って、二階の踊り場に座る。中途半端な場所だけど、ここはどの教室からも見えないから。


「天気がいいから五時間目はサボろう」


 市村くんは頷き、体育座りになると膝に顔を埋めた。

 手持ちぶさたの私はあぐらをかいて、ぼんやりと空を見上げる。ぺったりとしたペールブルーな空。小さなため息みたいな白い雲がぽっかりとふたつ。ゆるゆると流れていく。


「いい天気だねぇ」


 それはひとりごとみたいなものだったけど、市村くんは律儀に「そうだな」と返してくれた。いいやつだなぁ、と思う。

 あの子が本当にショパンだったかどうか私には分からない。

 でも市村くんにとってはショパンだった。

 一瞬だけ再会できたショパン。たぶん市村くんにおめでとうとさようならをいって去っていった。

 彼はそれを噛みしめながら、そばにいるただのクラスメイトを邪険にしない。


「いい子だねぇ」


 気づいた時には頭を撫でていた。硬そうな真っ黒の髪の毛は案外柔らかかった。彼は何もいわなかったし、動かなかった。だからずっと撫でていた。そうしたかったし、気持ちがよかったから。


 それから市村くんと私はクラスメイトから友達になった。一年後別々の大学に進学したけれど、ゆるく交流が続いた。

 幼児教育を専攻していた私はピアノの実技が必須で、愛犬にショパンなんて名前をつけた市村くんは、妬ましいことに私よりずっと上手にピアノが弾けた。ピアノがある彼の家で練習させてもらったり、教えてもらったりもした。

 ゆっくりと雲が流れていくような日々。ドラマティックなことは何もなかった。

 だけど私たちはずっと離れずそばにいて、ずっとそばにいるための努力をした。そうしたい、と思ったから。


 就職した三年後、ペット可のマンションに引っ越した。

 明日、二人で赤茶色の犬を迎えに行く。ボランティアさんを通じて何度も会ったその子はとてもやんちゃで、ショパンとは全然違うみたいだ。でもそれは当たり前のことだし、私たちは出会うことができて、大切にしたいと思ったんだ。

 私たちは二人と一匹、それぞれぜんぜん違う生き物で、だけど家族になる。家族になれるように努力したいし、し続けたいと思う。ずっと。

 いつかショパンに会えるまで。



2020/10/19投稿

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【誕生日・犬・涙の眼鏡男子】の連想からできた話です。




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