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女の嫉妬とはげに恐ろしきもの

 翌朝、志乃さんは養生所に現れなかった。


「俺たちが、あの女の正体を怪しんでいたことを、勘づいたんだろう。このまま引きさがる筈はない。近いうちにきっと敵は動くはずだ」


と、数馬さんはいう。


 剣をとっての一対一の戦いでは、数馬さんも私も、大抵の相手には引けを取らないはずだ。だが、敵は忍びだ。正攻法で襲ってくることはないだろう。用心に用心を重ねないと、な。


 私は忍びの里で育っているし、これまでにやり合った相手も、ほとんどが忍びだ。だから忍びの遣り口はある程度、想像がつく。数馬さんは村上主膳が差し向けた追手から逃れるなかで、忍びとも相当やりあっているらしい。でも、私からすると、忍びの手管に数馬さんがどれだけ慣れているかがわからないから、なんだか心配なんだよな。漠然とした不安に、どうにも落ち着かない。


 午後の往診に行く途中で、数馬さんと一緒に、巳之吉親分の店に寄ることにした。親分はいつも、昼どきに自分の店へ戻っているからね。大通りを進み、醤油屋の角を曲がると、巳之吉親分がおかみさんに任せている蕎麦屋がある。


 暖簾をくぐると、目論見どおり巳之吉親分がいた。


「おや、先生方。これはこれは、お揃いで」


 軽く頭を下げた親分は、私たちの顔を見渡す。


「なにか、厄介ごとでもあったんですかい?」


 さすが巳之吉親分、相変わらず鋭いな。


「親分さん、昨日、医者になりたいという武家の娘さんが養生所に来られたんですが、なんだか様子がおかしくて」


 そう切り出し、女が山野国の藩士、桂木与右衛門の子女と名乗ったこと、医術の道を志したいと言いつつ、数馬さんと私が患者を診察している間も、あまり興味なさそうだったことを手短に説明した。


「それに親分さん、その人、今朝も養生所に来るって言ったのに、姿を見せないんです。なんだか、私たちの様子を探っているみたいで。もしかすると、また養生所でひと騒動起きるかもしれませんが、そのときはよろしくお願いします」


 巳之吉親分は、このあたりの顔役だ。揉め事が起きそうなときは、先に知らせておくに限る。筋を通しとく、ってやつさ。


「なるほど、そいつぁ妙な話でござんすね。あっしのほうで何かわかれば、先生がたにもお知らせしますんで」


 うんうん、話が早くて助かる。


「まあ、また養生所の戸が壊れでもしたら、奉行所のほうから弥助さんに修繕を頼むってことですから、先生がたはどうぞ、ご心配なく。なにせ、鵜木の旦那からも、養生所のことはしっかりと手当てするようにと、言われてますんで」


 いやいや、養生所の戸ってば蹴破られすぎ。もうちょっと大事にしてあげたい。


「それはそうと、その女、本当に山野国の藩士の娘ですかい?」


 巳之吉親分の鋭い指摘に、数馬さんが答える。


「ところどころ山野の訛りがあったからな。生まれや育ちは山野だろう。だが、そういう娘がいるかどうかは、あとで坂之上の剣術道場の、秋月先生の伝手で当たってもらうつもりさ」


「なるほど、そういうことなら、秋月先生がうってつけでござんしょう。じゃあ先生がた、くれぐれも無茶だけはしなさんなよ」


 巳之吉親分とおかみさんに見送られて、私たちは店を後にした。患者の家から家へと移動する途中、幾度か視線を感じた。あからさまに殺気を放っているやつは二人、そうでもないのが一人か二人ってところか。


 秋月先生の道場に続く坂の下で、数馬さんと別れる。数馬さんはそのまま養生所に戻り、私は秋月先生のもとへ向かう。もともと、今日は秋月先生との約束があるんだ。数馬さんが敵に狙われている状況で、離れ離れになるのが少し心配だけど。そう思ったところで、自分自身に苦笑する。やれやれ、私もとんだ心配性だ。数馬さんは、並大抵の腕ではない。それに、私よりも場数を踏んでいる。大丈夫、なにかあっても数馬さんだけで何とかなるさ――そう自分に言い聞かせて、道場へと続く坂を上った。


「なに、山野国の藩士の子女と名乗る娘が来たと?」


 私からあらかたの説明を聞いた秋月先生は、迫力のある大きな顔に、満面の笑みを湛える。


「なるほど、それは実に妙な話だ。その娘、乾殿に懸想をしているのではないか? 乾殿は、見てのとおりの男振りよ。道行く姿を武家の娘が見かけて、一目ぼれしても不思議ではあるまい」


 いやいや、詳しいことは話せないけれど、そりゃないです。なぜ世の中のオヤジ殿は、発想が色恋沙汰に走るのか。だが、私が反論する間もなく、秋月先生の妄想はさらに先を行く。


「そこでその娘、思い余って養生所に飛び込んだものの、乾殿とゆき殿の夫婦(めおと)も同然の仲に、おのれの付け入る隙はないと悟り、潔く身を引いたのであろう」


「あ、秋月先生! 夫婦(めおと)だなんて、そ、そのようなことは」


 わわわ。思わず、声が裏返っちゃったよ。


「冗談ではないぞ、ゆき殿。俺が見ても、乾殿とは実に似合うておる。だが、女の嫉妬とはげに恐ろしきものよ。その、志乃という娘に後ろから刺されぬよう、十分に気をつけられよ」


 きっと、私は耳まで真っ赤になっている。がはは、と豪快に笑う秋月先生の前で、私はげんなり(・・・・)だ。いや、秋月先生と父が義兄弟の杯を交わしたってのも納得だよ。ほんと、こういうところが、父とそっくりだわ。


 まあ、ちょいと説明を付け加えて、痴情のもつれなんぞではないことを秋月先生に納得してもらった。桂木与右衛門という藩士の娘に、志乃という者がいるかどうか、門弟の伝手で調べてくれることになったよ。


「さて、ゆき殿。手合わせの件、大丈夫かな」


 私は姿勢を正し、あらためて秋月先生に一礼をする。


「はい、よろしくご教授ください」


 今日は秋月先生に手合わせをしていただく約束だ。江戸に来て四月(よつき)になるけれども、だいたい月に二度ほど、秋月先生と剣を交える。


 私たち以外に誰もいない道場で、袋竹刀を手に秋月先生と相対する。秋月先生の剣は、さすが江戸でも指折りの大道場の主らしく、普段はごく正統派の太刀筋だ。だが、拍子の外しかたや、相手の剣を誘う手管に、熟練の技が見え隠れする。剣速や足の運び自体は、むしろ遅いといってもいいだろう。だが、ふと油断すると、秋月先生の間合いに誘い込まれ、一本とられそうになる。さすが、父がなかなかの遣い手、と評しているだけのことはある。間違いなく、名人の粋だ。


 四半刻ほど立ち合うと、秋月先生も汗びっしょりだ。


「ゆき殿、本日はこれまで。いやはや、ゆき殿が江戸に来たばかりの頃は、俺も一本とれるかと思うたこともあったが、さすがに同じ手は通じぬな。今日もいろいろと仕掛けさせてもろうたが、悉く見切られ申したわ」


 どかっとその場に座り込み、額の汗を拭う秋月先生の前に座して、深く一礼をする。


「いえ、私はまだ未熟ゆえ、本日も秋月先生のお手並みに感服した次第です。ご教授のほど、ありがとうございました」


 心から、そう思う。剣士には相性というものがある。私にとって、秋月先生はやりにくい相手だ。相手の拍子を読んだつもりが、裏をかかれる。真剣の立合いならば、初見で秋月先生に斬られていたかもしれない。


 こうやって、秋月先生との手合わせを重ねて、秋月先生が磨き上げた技を目に焼き付け、その動きを体に覚えこませれば、似たような剣を遣う相手に引けをとることはあるまい。


 秋月先生の道場を出たのは、夕七つの少し前だ。外堀沿いの道は、普段は人通りが絶えないが、今は人っ子一人いない。そういう隙間の時間が、一日に何度かはある。秋の風が柳の葉を揺らす音だけが、さらさらと響くなか、ふと私に向けられた殺気を感じた。


 例の連中が、私を狙っている。何食わぬ顔をして歩きながら、あたりの様子をうかがう。敵は四人、いや五人か。道の両端に潜んでいるようだ。敵が隠れている位置をはかるため意識を集中した瞬間、弓を射るような音が聞こえ、私はとっさに地を蹴った。


 弓矢で射かけられたと認識するのと同時に、体が勝手に動く。両の足が地を蹴り、射線を外すように駆け出す。走りながら、敵の位置を見極める。一本目を外された敵は、二の矢、三の矢を放つ。だが、どれも私の背後を通り過ぎていく。


 ふと、違和感をおぼえた。


 いや、これはちょいと変だな。そもそも、まともに狙いをつけていない射かただ。これは、もしや私を誘いだそうとしているな――そう思ったところで、にわかに、眼前に黒い影が広がる。


――投網だ。


 膝をぐっと撓ませ、思いっきり左側に飛びのく。細引きを編み込んだ網は、獲物を捕らえることなく、地面にだらしなく広がった。


 右後ろの堀端から半弓を手にした男が三人、飛び出してきた。それに、左手にポツンと立つ桜の老木の陰からは得物を持たぬ二人――しめて、五人か。みな四十絡みで、旅装に身を包んだ町人のなり(・・)だ。身のこなしからして、間違いなく忍びだ。 


 素早く敵を値踏みし、まずは目の前にいる、無手の二人に狙いをつける。背後の三人に目を配りながら、網を投げたであろう二人に向けて全力で走る。ひとりの男が懐に手を入れようとしたので、その男に向けて一気に跳躍し、着地と同時に抜き打ちで頸動脈を刎ねる。続けて、その傍らにいる男に飛び掛かり、下段から横に薙いで足の腱を断ち、飛び退りながら切り上げて右手首の腱を切断する。


 最初に頸動脈を刎ねた相手が、首筋から血を噴き出しながら倒れるのを視界の端にとらえながら、背後を振り返る。半弓を手にした三人組は、すでに撤退を決め込み、背を向けて駆け出していた。今から追っても、距離はなかなか縮められまい。


 仲間を見捨てるのか。まあ、いま斬った一人は生け捕りだ。こいつに洗いざらい吐かせることにしよう。そう思って、手足の腱を切断され地面に倒れこんだ男を見ると、四肢がつっぱるように痙攣している。急いで駆け寄ると、男の呼吸は既に止まっており、心臓の鼓動も弱くなり始めていた。神経を麻痺させる毒をあおったか。


 この男たちは、志乃と名乗った女の仲間だろう。往診の帰りに私たちがここを通ることを知っていて、待ち伏せをかけていたに違いない。こいつらの狙いは私を生け捕りにすることだ。弓矢で私を追い立てて、桜の木の下を通るように仕向け、上から網で捕えるって算段か。確かに、剣術遣いを無傷で捕えるには、投網は有効な手立てだ。連中の誤算は、私が忍びの術や、その対処法を叩き込まれていたってことだ。


 だが、いったい何のために?


 数馬さんの読みでは、連中の狙いは数馬さん自身だ。数馬さんを直接仕留められないと踏んで、私を人質にとろうとしたんだろうか。それとも――


 胸騒ぎを抑えられず、思わず駆け出す。養生所へと急ぐ私の胸は、早鐘のように鳴る。


 養生所の近くまで戻り、走りながら周囲に敵の気配がないか探る。少なくとも、殺気は感じない。全速力のまま門をくぐり、診療室に飛び込んだ。


「おかえり、ゆきさん。どうしたんだい、血相を変えて」


 薬研で薬種をすりつぶしていた数馬さんが、にっこりと笑う。どこか長閑な数馬さんの声を耳にして、一気に安堵する。そのままへたりこむように座りこんだ私を、数馬さんが不思議そうに眺めている。よかった。私の杞憂だったか。


「数馬さん、よかった……よかったよ」


 へたりこんだままの私に、数馬さんが慌ててかけより、しゃがみこんで私の両肩に手を置いた。


「なにか、あったのか」


「うん、秋月先生のところから戻る途中、外堀沿いの道で、五人組の忍びに襲われたんだ。投網で、私を生け捕りにしようとした」


 忍び、の言葉を聞いたとたん、私の両肩に置かれた数馬さんの手に、ピクリと力が入る。


「一人は仕留めて、一人は、捕えて吐かせようと思ったんだけど、毒で自害したよ。あとの三人は逃がしちゃった。数馬さんのほうも何かあったんじゃないか、って思って、急いで戻ってきたんだ。よかった、何もなかったみたいだね」


 ふう。ほっとしたら、急に力が抜けてきたよ。


「昨日の女の、仲間か」


 数馬さんが掠れた声を漏らす。


「奴らの狙いは俺だ。俺の命だ。なぜ、ゆきさんを」


 怒りや、おそらくは私を巻き込んでしまったことの後悔が入り混じった表情に、胸がきゅっと痛んだ。大丈夫だよ、心配しなくていいよ。


「数馬さん、私は忍び相手の立ち回りに慣れているから、やられはしないよ。連中の腕も、大したことなかったもん。それよりも、自害するほどの覚悟だ。何をしでかすかわからないよ。数馬さん、十分に気を付けて」


 数馬さんの手の力がふと緩んだ。


「ああ、わかったよ」


 いつもどおりの朗らかな笑みを見ても、どうも胸騒ぎが落ち着かない。


「じゃあ、とりあえず私が襲われて二人斬ったことを、番屋に知らせて……」


 番屋に知らせてくるとするよ、という言葉は、最後まで言えなかった。養生所にあわただしく近づいて来る、何者かの足音が聞こえてきたからだ。咄嗟に数馬さんから離れて、愛刀の鯉口を切る。


「先生方っ、一大事ですぜ」


 そう言いながら飛び込んできたのは、巳之吉親分だ。親分は、荒い息を整える間もなく、私たちに告げる。


「さきほど、外堀で七蔵ってえ男の仏があがったんですがね。体中を刃物で切り刻まれたうえに、心の臓を一突きだ。その殺しを見ていたという女が、下手人は若先生だと、こともあろうに盗賊改にたれこみやがった」


 その男、おそらくは先ほど私が斬った相手だ。


「親分さん、今から番屋に知らせにいくつもりだったのですが、ちょうどいま秋月先生の道場から帰ってくる途中で、外堀沿いの道で五人組の賊に襲われたんです。みな町人のなり《・・》をしていましたが、連中の動きからすると、きっと忍びです。その外堀に浮かんでいた七蔵という男、おそらくは私が斬った男でしょう。ただ……」


 巳之吉親分が、渋い顔で私を見つめる。


「おゆき先生なら、滅多切りにして心の臓を一突きなんて野暮な真似はしねえ。若先生だってそうだ。一撃で急所をばっさり、でしょう。誰かが、死んじまったそいつを切り刻んで、ご丁寧に心の臓をぶっすりと刺したってぇことですかい」


「そう思います。だけど、いったい何のために……」


 巳之吉親分は右手に持った十手を肩に背負い、思案顔だ。


「こいつは、あっしの勘ですがね。若先生が凄腕の剣術遣いだってえことを知ってる奴は、あっしとおゆき先生くらいのもんだ。ほかの連中は、若先生が剣なんぞ遣えねえと思い込んでいる。そうでしょう」


 数馬さんが黙って頷く。


「おゆき先生が斬った相手の刀傷は、いくらなんでも見事すぎらあ。これじゃ若先生の仕業にできねえ、ってんで、どこかの誰かが仏を滅多切りにしたってところでしょうよ」


 なるほど、ありそうな話だ。だが、仲間の骸を無残に傷つけるほど、数馬さんへの恨みが強いということか。底知れぬ怨念に思わず身震いする。


 巳之吉親分は、心底心配そうな様子で数馬さんの顔を覗き込んだ。


「若先生、おゆき先生が言うには、斬られた仏は忍びってことだ。それに、こんな手の込んだ真似をしてお前さんを嵌めようとしている。とんだ厄介ごとに巻き込まれているじゃありやせんか。いったい、どういう事の次第ですかい」


 数馬さんは、しばし躊躇するように黙り込んだが、すぐに巳之吉親分をまっすぐ見つめかえす。


「親分、心配かけてすまない。だが、それは訊かずにおいてくれないか。話したら最後、親分まで巻き込んでしまう」


 親分は、寂しげに笑った。


「お前さんは昔からそうだ。なんでもかんでも、心のうちに抱え込んじまう。だがな、若先生。おゆき先生を泣かせるようなことだけは、しなさんなよ」


 数馬さんは、その言葉に答えず、頷きもせず、黙ったままだった。なぜだか胸がちくり、と痛む。数馬さんは落ち着いた口調で巳之吉親分に訊ねた。


「親分、俺が人を殺めるとことを見た、と盗賊改に申し出たのは、先刻俺たちが親分に話した、志乃という娘か」


 巳之吉親分は、私を一瞥した。んんん? なんだ、いまのちらり、ってのは。なんだか気になるなあ。親分は、言いにくそうに、数馬さんに告げる。


「いや、そいつじゃねえ。米問屋の――鶴見屋の妾で、おさよってえ女でさあ。元は立浪(たつなみ)の芸者で、名は梅千代。お前さんもよく知っている、染弥(そめや)の妹芸者だった女だ」


 数馬さんは口を引き結び、目を閉じた。

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