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瓦版効果、おそるべし

 生暖かい風が徐々に強さを増し、立てつけの悪い戸板をガタガタと揺さぶる。

 

 大風――台風が来るのだ。数馬さんは、引き戸を開けておもてを覗き、風の強さに目を細める。


「だいぶ、風が強くなってきちまったな。こんな日柄だが、弥助さんは来るかな」


「たぶん、来るよ。昼過ぎまでは雨も降らないだろうし」


 風の運ぶ湿り気から、そう予想する。


 そして、黒田を斬りに行くのは、二、三日後の予定だ。さすがにそのころには雨も降り止んでいるだろう。もし長雨になるようなら、数馬さんはきっと討ち入りを日延べするはずだ。その理由は、数馬さんの遣う剣にある。


 数馬さんは剛剣の遣い手だ。大地を踏みしめ、足腰に満ちた力を斬撃の威力に変換する。強力無比の斬撃は、人間の骨など易々と両断する。だが、ぬかるんだ地面では十分に踏ん張れず、威力は激減してしまう。真っ向から打ち込む直線的な太刀筋なら、足もとの悪さはそれほど影響がないかもしれないが、数馬さんの剣は左右に薙ぐ回転の動きが主体だ。打ち込む瞬間、腰から下の筋肉をしっかりと締めこめば足もとの悪さを多少は補えるとはいえ、次の踏み込みまでの時間が遅れるし、何よりも疲労しやすい。一対一の立ち合いならともかく、多勢に無勢の状況では、数馬さんも自分に不利な条件は避けるだろう。


「ごめんくだせえ」


 お、弥助さんがやってきたぞ。昨日の弥助さんと数馬さんのやりとりを思い出し、自分の顔が火照るのがわかる。最初は数馬さんのことをからかっているだけかと思ったら、弥助さんては、いきなり啖呵切っちゃうし、釘投げちゃうし。弥助さんは手先が器用だから、ああいう(きょく)投げは得意中の得意なのだ。さすがの数馬さんも、呆気にとられていたよ。


 だけど、そのあと……数馬さんは怒るわけでもなく、気圧(けお)されるわけでもなく、穏やかな声で生き延びる決意を語った。あれは数馬さんの本心だ、と思っている。それが、私には何よりも嬉しかった。数馬さんが話している間、弥助さんは仕事の手を休めず、振り向きもしなかったけれど、私からは弥助さんが微かな笑みを浮かべたのが見えた。


「弥助さん、大風が来るというのに悪いな。雨が降り出す前に、遠慮せずに帰っておくれよ」


という数馬さんの言葉に、弥助さんは


「なあに、振り出すのは昼からでござんしょう。それまでに一仕事終えますんで、どうぞお気遣いなく」


と軽く頭を下げた。


「じゃあ、俺は自分の部屋に戻っているから、弥助さんとの話が終わったら、呼んでくれ」


 そう言い残して、数馬さんは養生所の建屋を出ていった。裏の長屋で、引き戸が開いて閉まる音を聞き届け、弥助さんは口を開いた。


「おゆき坊、首尾はどうでえ」


「うん、昨夜(ゆうべ)、黒田の屋敷に忍び込んで、住み込みと通いの家来の人数を確認したよ。剣を遣えるのは、五、六人くらいってところ。あと、浪人が十二人、屋敷に詰めている。この間、ここを襲ったあとに、新しく雇ったみたい」


 敵勢力の把握は、重要だ。数馬さんよりも私のほうが忍びの技に長けているから、そのへんは全部、任せて貰っている。私や私の腕を、信用してくれたようだ。ちょっと嬉しい……かな。


「そうかい。俺たちと同業のやつは出入りしてたかい」


「夜中に中間の一人が堂々と屋敷を抜け出してたよ。あいつは忍びだと思う。黒田の命令で、仲間につなぎをつけているのかもしれない。今夜は大風が来るから無理だけど、雨がやんだら黒田のところに忍び込むから、その中間に動きがあったら、後をつけてみるよ」


 弥助さんは満足そうに頷いた。


「さすが、小平太さんに仕込まれただけのことはあるな。抜け目がねえ。だが、十分に気をつけるんだぜ」


「うん、下手はうたないよ。弥助さん、ありがとう」


 小平太さんは、仕物――暗殺の達人だ。こうやって、相手を確実に仕留めるために必要な情報を得る手管は、小平太さんから手ほどきをうけた。ただ、気になるのは……


「弥助さん、数馬さんのことなんだけどね、黒田を斬るのに、どうしても自分で確かめたいことがあるんだって。だから、討ち入りのとき、黒田の屋敷に忍び込んでからのことは、俺に任せてほしい、って言ってる」


 弥助さんは首を捻る。


「数馬の野郎、いってえどうするつもりだ」


「私も、何をするのか聞いたんだけど――聞いたら絶対に私が反対するから、って、教えてくれないんだ」


 まったく、何をやらかすのか、気が気じゃないよ。


「まあ、死ぬつもりはねえってのは、野郎、昨日もきっぱりと言い切っていたからな。それほど心配はねえと思うが……」


 そう言いながら、弥助さんは仕事道具を広げ始めた。


「ねえ、弥助さん」


「ん? なんでえ」


「昨日は言いそびれちゃったけれど……ありがとう。数馬さんにああ言ったのも、私のことを心配してくれたからだよね」


 弥助さんは手を止め、ぶっきらぼうに言った。


「ああ、柄にもねえがな。冴木様や彦佐のとっつぁんがいねえなら、代わりに俺が言うしかねえだろうよ」


 うむ。これは、弥助さんが照れているときの反応なのである。父や彦佐爺が、ってのはただの方便で、弥助さんが心配してくれているのが、よくわかったよ。本当に、本当に、ありがとう。


「じゃあ、そろそろ数馬さんを呼んでくるね」


「ああ」


 それから、数馬さんと私は余計なものが風に飛ばされないように片づけたり、濡れたら困るものを油紙にくるんで密閉したり、といった大風対策におおわらわだ。薬草園も、大風で傷みそうなものは、少し早くても収穫しておかなくてはならない。思った以上に忙しいぞ。


 昼前には一通りの作業をやり終えた。ちょうど弥助さんも、今日の分の仕事が終わり、


「じゃあ、あっしはこれで。明日の朝、まだ雨が降っているようなら、明日の仕事は休ませてもらいますぜ」


と行って、帰っていった。 


 弥助さんが帰って四半刻ほどたつと、空が急に暗くなり、大粒の雨が落ち始める。あっという間に雨脚は強くなり、叩きつけるように屋根を鳴らす。


 私はほっと一息ついた。この荒天はむしろありがたい。養生所が襲撃を受けてから、気がかりなことがあった。


 戸板が飛ばされないように釘を打ちつけ終わった数馬さんに、声をかける。


「数馬さん、ちょっと話があるんだけど」


「なんだい、ゆきさん」


「数馬さんは――六年半前に、幕府のお偉方が続けて暗殺された事件のことを、知ってる?」


 数馬さんは(かぶり)を振った。


「いや、その頃の俺は、追手から逃れながら旅を続けていたからな。江戸での出来事には疎い。何があったんだい」


「老中の相馬様と、若年寄の佐久間様が、江戸城への登城途中に、暗殺された事件だよ。白昼堂々の殺しに使われたのは、とんでもない威力の焙烙玉だったらしい」


 数馬さんは目を丸くする。


「それはまた、物騒な話だな。だが、それがどうかしたのかい?」

 

 この様子からすると、数馬さんは、あの出鱈目な破壊力の焙烙玉のことも、知らなさそうだ。


「九年前、私が父に命を救われ、一緒に旅をしている途中、父を襲った名倉の忍びが、それと同じような焙烙玉を使ってたんだ。それと――六年前、塚田千之助殿が命を落とされたときも、おそらくは同じ焙烙玉が使われている」


 塚田殿の名前に、数馬さんの顔色が変わる。


「本当かい、ゆきさん」


「村上主膳の息のかかった忍びは、いざというときには、その焙烙玉を使うかもしれない。私は、名倉と戸張の忍びが使っているのしか見たことがないけれど。だから――この養生所が、いつか吹き飛ばされるんじゃないかって、冷や冷やしてる」


 腕を組み、口を引き結んで数馬さんは考え込み、ぽつりとつぶやく。


「その焙烙玉を使って、乱戦のさなか、味方ごと俺たちを吹っ飛ばす可能性もあるな」


 まあ、ぞっとしないけれど、外道ならそんな真似もやりかねない。


「でも――私が最後に敵がその焙烙玉を使ったのを見たのは、五年前だよ。それに、幕府要人がそれで暗殺されたという話も、六年前の事件きり聞かない。でも、いつまた敵が、焙烙玉を引っ張り出してくるかもわからない。数馬さんも、十分注意して」


 三年前に里が敵の襲撃を受けたときには、焙烙玉が使われていなかった。あのとき、長が言っていたっけ。あれだけの爆発力の代物は、名倉の忍びだけで作れるとは思えない。腕のいい職人を手にいれて、作り上げたのだろう、と。そして、敵が焙烙玉を使わなくなったということは、何らかの理由で、敵が焙烙玉を作れなくなった可能性がある、と。


 だが、あれから三年の月日が流れた。いつまた敵が、さらに強力な焙烙玉を使いださないとも限らない。注意するに越したことはあるまい。

 

「ああ、わかった。教えてもらって、腹づもりができたよ。この嵐だ、焙烙玉を使うのは無理だろう。俺たちにとっては僥倖さ。ゆるりと眠るとするか」


 そう言いながら数馬さんは大欠伸をした。どこか呑気なその様子に、おかしさがこみあげてくる。口に手をあてて笑いを堪えている私を見て、数馬さんが照れたように釈明する。


「いや、なんだか今日はやたらによく眠れてな。すっきりしたはずなんだが、安心して眠れると思うと、また眠くなってきた」


 そう言って、数馬さんは朗らかな笑みを浮かべた。


 雨は、翌日の昼下がりまで続いた。夕方には風もおさまった。その晩、私は再び、黒田の屋敷に忍び込んだ。予想通り、夜が更けてから、一人の中間が屋敷を抜け出していった。あとをつけると、その中間はまっすぐに飯屋が立ち並ぶ一角に向かい、一件の店に入っていく。うむむ。のれんがしまわれていると、店の名前もわからないや。とりあえず中間の後を追って、店に忍び込む。造りからすると、飯屋――たぶん、小料理屋ってところだろう。屋根裏に潜りこむと、鳴子をぶらさげた糸が、張り巡らされていた。侵入者避けの細工だ。間違いない、忍びの一味の、隠れ家だ。


 鳴子が音をたてないように、慎重に、だが素早く、糸を切断して罠を無効化する。天井裏を這いながら、人の気配がある部屋の上へと移動する。


 お、ここだな。声を潜めてはいるが、何人かの話し声がするぞ。


「黒田様が……明後日、養生所を……」

「女医者……乾……始末………たかが二人……」


と、断片的に漏れ聞こえる言葉から察するに、どうやら黒田から私たちを殺せ、という命令があったらしい。ううむ。聞き耳を立てている立場でいうのもなんだが、内密の話をしているわりには、天井裏まで声が聞こえるとは、いかがなものか。もしかすると、本職の忍びではないのかもしれん。あの中間も、自分が後をつけられているとは、これっぽっちも疑っていなさそうだしなあ。


 声音からすると、部屋にいるのは、しめて四人か。ちょっと年配の女も、ひとりいるな。この中に、大番屋で侍を殺した奴がいるのかどうかは、確認する(すべ)がないけれど。


 まあ、人数も確認したし、このへんが潮時だろう。敵に気づかれぬまま、そっとその場を離れた。


 養生所に戻ると、数馬さんは、自分の部屋で眠っていた。私が真っ暗な部屋に入ると、ぱっと目を開けて、寝床から身体を起こす。


「おかえり、ゆきさん。なにか、わかったかい?」


「うん、黒田に雇われた忍びの隠れ家を突き止めたよ。たぶん、小料理屋かなにかだと思うけれど……。その場にいたのは、四人。ちょっと歳のいった女もいたな。どうやら、ここを襲って、私たちを消すよう、黒田から依頼があったらしい。襲撃は、明後日だって」


 そう手短に説明し、懐から取り出した切絵図を広げて、先ほどの店の位置を指し示す。


「数馬さん、ここにある店だよ」


 数馬さんは、忍びなみに夜目が効く。私が指さした場所を見て、数馬さんは、あっと小さな声をあげた。


「これは……『にしの』じゃないか。その界隈でも、評判の店だ。四代目になる今の亭主も、おかみも、たしか俺が前に江戸にいたときから、変わってないぜ」


「ということは、代々、忍びの家柄ってとこだね」


 彦佐爺から聞いたことがある。江戸生まれ、江戸育ちの忍びってやつだ。普段は、商人や職人として暮らしているが、彼らの役目は、町人として暮らし、必要な情報を集めることだ。場合によっては、殺しなどの汚れ仕事も請け負う。そして、その子も、親から表の仕事と、裏の仕事の両方を受け継ぐ。今の亭主が四代目ということは、数十年に渡り、そういう務めを果たしてきたってところだろう。そうやって、江戸の市井に溶け込んでいる忍びは、元をたどれば名倉の一族が多い。彦佐爺の受け売りだけど。


 町育ちの忍びならば、技がどこか拙いのも合点が行く。大番屋の前で侍を吹き矢で仕留めたように、殺しの技術には長けていそうだから、注意は必要だ。


「連中は、明後日にここを襲うと話していたんだな。じゃあ、俺たちも明後日に黒田を斬りに行くとするか」


 敵が町人として暮らしている忍びならば、なるべく忍びらしい風体で死んでもらったほうが、騒ぎになりにくい。善良な町人が殺されたとなれば、町方も目の色を変えて下手人を探すが、忍び装束の死体ならば、忍び崩れの、盗っ人一味の仲間割れ、で片づけられることが多いからだ。連中が養生所を襲う日なら、いかにも忍び、といった風体でいてくれる筈だ。


 それから、数馬さんと私は、黒田の屋敷に討ち入る手筈について、一刻ほど話しあった。




 そして――江戸の町を、今年最初の大風が通り過ぎて、二日が経った。雨も風も、さほど強くはなかったため、見たところ、町の被害はわずかだ。そうはいっても、安普請の長屋では、戸や屋根が飛ばされたりもあったようで、職人は引く手数多だ。弥助さんも大忙しらしい。


 養生所の建屋の修理も、大風で日延べになったものの、昨日、ひととおり終わった。明日からは、通常営業の予定だ。今日、数馬さんが黒田を斬りに行くということは、昨日のうちに、弥助さんにも伝えてある。


 午後の往診が終わったあと、秋月先生宅に行き、三好先生を見舞う。最初は蒼白だった顔色も、少し血色がよくなってきた。だが、布団から身体を起こすにも息が荒い。数馬さんに支えられた肩が、一回り小さくなったような気がする。


「秋月殿が何もかも手配してくださる故、なに不自由のない暮らしだ。これでは、すっかり体がなまってしまうよ」


といい、三好先生は弱弱しく微笑んだ。


「なあに、三好先生がいてくださるお陰で、それがしの門弟たちも、気持ちに張りが出て、稽古に身が入るというもの。お気にめさるるな。

なにせ、血の気の多いやつは、今日こそ曲者が来ないか、と待ちわびているくらいでな」


 秋月先生は、豪快に笑い飛ばす。秋月先生と門弟たちが寝ずの番までして、三好先生を警護してくれている。特に心配はないだろう。ただ……出血による貧血にしては、三好先生の回復が遅い気がする。少し気になるな。


 秋月邸――坂之上の道場からの坂をくだる途中、三好先生の容態について数馬さんに訊ねようとしたが、先に数馬さんが口を開く。


「ゆきさん、このあたりの道は覚えたかい?」


「うん。大風のせいで、外に出れなかった間、ずっと切絵図を見ていたからね。大丈夫だよ」


 黒田の屋敷や養生所の周りはもちろん、切絵図に載っている範囲の道や目印となるものは、すべて頭に叩き込んだ。仕物――暗殺では、退路の確保が重要だ。それに、今回の件に限らず、いつ、村上主膳の手の者に襲われるかもわからない。土地勘をつけるのは、余所者の私にとっては死活問題だ。


 坂を下りきって、養生所に続く道を歩き始めた途端、ふと、誰かの視線を感じた。んんん? 敵意や殺気はまったくない。こりゃ、例の忍びじゃないな。はて……と怪訝に思い、そのまま歩き続ける。そのうちに、四方八方からの視線を感じ始めた。連れたって歩く数馬さんと私を見て、周りの江戸っ子たちが、ささやきを交わし始める。


「おい、あれは養生所の若先生じゃねえか」


「あら、若先生がいい男なのは今更だけど、隣の子も、いい男ねえ」


「隣の前髪も、若先生と同じような恰好をしてるじゃねえか。なんでえ、女みたいな顔だな。ありゃ、若衆かい」


「てえことは、若先生は衆道かい。道理で、(つら)のわりに女っけがないと思ったぜ」


「馬鹿いえ、あれがきっと、養生所を襲った侍を斬りまくったっていう、女武芸者だろうよ」


「腕自慢の挑戦をいつでも受けてたつってやつかい。あの細っちょろい腕じゃ、俺でも勝てそうだぜ」


 うぐぐ。単に、我々が好奇の目にさらされているだけであった。そういえば、数馬さんと並んで歩くのは、養生所が襲われてからは、これが初めてだったっけ。養生所の人間だって丸わかりだよね。女武芸者ってこと、ばれてるしなあ。瓦版効果、おそるべし。


 しかし、じろじろ眺められると居心地が悪いこと、このうえない。なにしろ山里育ちだもん。それに、いつなんどき、腕自慢の侍に立ち合いを申し込まれるか、わかったもんじゃない。討ち入りの当日だから、余計な揉め事は避けなきゃ。うわ、浪人者が何人もこっちを見てるよう。言わんこっちゃない。


「か、数馬さん? 養生所まで走って帰っていい?」


 思わず、声が裏返りそうになる。


「ああ、構わないぜ。ひとっ走りするか」


 即答する数馬さんも、周りの反応に気づいているんだろう。私の狼狽ぶりを、面白そうに見ている。


「あ、ありがとう。じゃあ、行くよ!」


 薬箱をかかえて、猛然と江戸の町を走り抜ける私たちは、余計に目立っていたような気がするが……まあ、どうにか養生所にたどり着いたぜ。


 診療室に薬箱を置いた途端、数馬さんが腹をかかえて笑い出す。


「すっかり噂の的じゃないか。ゆきさんの慌てっぷりは……いつもながら、本当に面白いな」


 もう……笑い事じゃないよ。


「まったく。誰かさんのおかげで、私が侍を九人とも斬ったことになってるんだからねっ」


「いや、すまん、すまん」


 冗談まじりに口を尖らせる私に、数馬さんは笑いながら謝り――そして真顔になった。


「俺も、こんな騒ぎになるとは思っていなかった。そもそも、養生所が襲われたのは、三好先生が襲われるまで手をこまねいていた俺の責任だ。ゆきさん、こんなことになってしまって、本当にごめん」


 しょんぼりした様子で頭を下げる数馬さんをみて、むしろ、こっちが申し訳ない気持ちになってしまう。


「ううん、全然平気だよ! まあ、ここを襲ったやつのうち、半分は私が倒したのは本当のことだし。それにね、名が売れたおかげで、腕自慢の剣術遣いと大っぴらに仕合できるんだもん。願ったりかなったりだよ!」


 そう言いながら、ばしっと数馬さんの背を叩く。


「数馬さん、討ち入りの前に、そんなにしょんぼりしてどうする!」


 いきなり背中をどつかれた数馬さんは、ちょっとびっくりしたように私の顔をみて――そして、笑顔で頷いた。


「そうか……そうだな。ありがとう、ゆきさん」


 そして、今夜の手筈を手短に確認しあい、早めの夕餉をすませてから、それぞれ自分の部屋に戻った。


 父から譲られた愛刀の手入れをしたあと、横になってひと眠りする。夜に備えて、力を蓄えておかなきゃ、ね。


 夜四つの鐘で目を覚ます。胸のさらしをきっちりまき直し、手早く柿渋色の忍び装束に身を包む。頭巾を巻き、忍び道具をいれた革袋を帯にしっかりと挟み込み、愛刀を背負う。よし、準備完了だ。


 数馬さんの部屋から。そっと戸を開ける音がした。数馬さんも支度ができたようだ。


 戸を開けると、藍色の忍び装束をまとった数馬さんが立っていた。両腕には細い鉄の板を縫いつけた手甲をつけ、定寸の大刀を背負っている。藍色の頭巾から覗く双眸は、迷いのない、澄んだ光を湛えている。


「行こうか」


「うん」


 短く言葉を交わし、数馬さんと私は薬草園の奥に向かって走る。薬草園を囲む塀の手前で、耳を澄ませ、あたりの様子をうかがう。よし、人の気配も、敵の忍びが潜んでいる気配もない。数馬さんに向かって頷く。


 頷き返した数馬さんは、塀から二間ほどの距離をとり、助走をつけて跳躍した。身体を捻りながら膝を抱え込み、六尺ほどの高さがある板塀を飛び越える。相変わらず、いい身のこなしだ。数馬さんに続き、私も軽く膝をたわませて、一気に塀を飛び越える。私が着地するのを見届けた数馬さんは、無言で走り出す。その後を追い、私も走る。途中、飲んだ帰りといった様子の町人や、夜回りの姿を見かけたので、身を隠してやりすごした。


 武家地に入ると、人とすれ違うこともない。まっすぐに黒田の屋敷へと向かう。特に警備が厳重なわけではなく、いつもどおりだ。それもそのはず、屋敷の外周りの警備を厳重にすると、何か理由があるのではと噂になるのは避けられない。権勢を欲しいままにしている村上主膳の子飼いとはいえ、狭い武家社会でいらぬ噂を立てられるのは、黒田としても避けたいところだろう。


 屋敷の中には、難なく忍び込めた。数馬さんが直接乗り込んでくるとは、思ってもいないのだろう。だが、夜も更けているというのに、屋敷の中はあかあかと灯りがともっている。漏れ聞こえるざわめきは、金で雇われた浪人達が控えている部屋からだろう。おそらく――養生所を忍びの連中が襲い、しくじったらこの浪人達が仕掛ける手筈か、あるいは浪人達が先攻で、忍びの連中が保険、ってところか。


 屋敷の間取りは、絵図面に描き起こして、数馬さんに渡した。後は、黒田がどこにいるかを確認しなきゃ、な。寝所にいれば話は早いんだが、養生所を襲うって日に、さすがにのんびり寝ちゃいないだろう。


 この前、天井裏に忍び込んだ部屋に行くと、苦無を突き立てた痕がまだ残っている。この前と同じように、天井裏に潜り込む。こんな日に、黒田がいそうな部屋は、きっとあそこだ。そろそろと天井を伝い、前に黒田が三好先生を襲った大原という侍と話していた小座敷に向かう。予想違わず、黒田はそこにいた。大原も一緒だ。顔を確認する必要はない。黒田の声も、大原の声も、しっかりと頭に刻み込んであるからね。


 素早くその場を離れ、数馬さんのところに戻る。数馬さんが持つ屋敷の絵図面を広げて、さきほどの小座敷の位置を指し示す。


「中には、三好先生を襲った侍もいた。部屋の前には、見張りの侍が二人」


 声を潜めて、数馬さんに伝えると、数馬さんは黙って頷き――私の肩をぽんと叩いて微笑んだ。


 ここからは別行動だ。数馬さんは部屋を出て、黒田のいる小座敷に向かう。私は、もう一度天井裏から小座敷に向かい、陰から数馬さんを援護することになっている。


 いや、だが、しかし。数馬さん、俺が何をしても黙って見ていてくれ、って言ってたんだよな。うーん、何をやらかすつもりなんだろう。不安しかないぞ……


 小座敷の上にたどり着き、聞き耳を立てる。


「して大原、上柴の犬と、女武芸者を始末する手筈、抜かりはあるまいな」


「それはもう。こたびの一件で新しく雇いいれた者どもは、それがしが直々に剣の腕を見定めたものばかりにござりまする。彼奴等(きゃつら)がしくじった暁には、『にしの』のおかみが手を下す手筈になっておりますゆえ、万にひとつも、失敗することはありますまい」


「ようやった。これで、儂も枕を高くして寝られるというものよ」


「それはようございましたな、ふふふ」


 そのとき――


「そう、うまくいくかな」


 黒田と大原の含み笑いを断ち切るかのような、鋭い声が響き渡り、小座敷の襖が勢いよく開く音がした。


「薬事奉行、黒田兵庫。要職にありながら、中井屋に薬種を独占させ、私服を肥やそうとした企み、こっちはとうにお見通しよ」


 高らかに黒田の罪状を述べる数馬さんの口上に、黒田も大原も――そして天井裏の私も、凍りついた。


 いやいや、もっと闇討ちらしくいこうよ……

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