赤くなったり、青くなったり
俺が何をしても黙って見ていてくれ、って、こういうことかい!
いやね、数馬さんが何をやらかすんだろうって、私もいろいろ想像していたわけさ。数馬さんがああしたら、私はこう動く、って、あらかじめ考えていたわけよ。掩護要員としては、そういう気構えや下準備が必要なのだよ。黙って見ているというわけには、いかぬのだよ。
だが……これは、完全に想定外だ。
天井裏にいるせいで、下の小座敷の様子は、気配でしかわからないが――テレビ時代劇も真っ青の、あまりにも颯爽とした数馬さんの登場に、黒田達が呆気にとられているのが、手に取るようにわかるぞ。
そうか、意表をついた行動で敵の動きを封じて、そこで仕留めるん……だよね? ねっ、数馬さん?
だが、私の予想に反して、数馬さんの口上は続く。
「そればかりか、罪もない評判の名医を立て続けに殺め、挙句のはてに養生所を襲わせるとは、見下げた外道よ」
朗々と響く力強い声に、ついつい聞き惚れてしまうのは、私がテレビ時代劇マニアだからだ。いや、まさか、ナマでこんな場面に立ち会えるとは……形容しがたい感動におそわれ、身体の震えを抑えきれない。その一方で、私の身体は冷や汗でびっしょり濡れている。ううっ、風邪をひきそう。数馬さんてば、どうするつもりだよ、これ。
天井裏で、私が赤くなったり青くなったりしている間に、我にかえった大原が、数馬さんを一喝する。
「おのれ、なにやつ! 顔を見せい!」
まあ、顔を見せろって言われて、わざわざ見せるやつなんて、いないよね――訊くほうも訊くほうだぜ、と私が呆れていると、下でシュッと布の擦れる音がした。
「そんなに、この顔を見たいか」
――えっ?
「き、貴様は……あのときの!」
驚愕する大原の声に、私は思わず天を仰ぐ。おおいっ! 数馬さん、なにやってるの! 思わず、天井板を外して、下の様子を覗きたい衝動に駆られる。
「く、黒田様! こやつが……上柴の犬だった養生所の医者にござりまするっ」
「なにっ」
黒田が息をのむ音が、ここまで聞こえてくる。その黒田に、数馬さんはたたみかける。
「黒田兵庫、己の罪を悔いる気持ちがあるならば、いますぐ腹を切れ。さもなくば、俺が――貴様を斬る」
数馬さんがひとりで乗り込んできたらしい、と理解したのだろう。余裕を取り戻した黒田は、鼻で笑いながら答える。
「ふんっ、主もいない野良犬一匹、この儂に歯向かうか。犬なら犬らしく野垂れ死ぬがいい。」
そういうと、黒田は大音声を張り上げた。
「曲者じゃ! であえ! であえ!」
うわ、なに、この既視感満載の展開。なんだか、めまいが……うぐぐ。
黒田の声に、屋敷の中は騒然とする。
敵の手勢は、雇われた浪人が十二人と、剣を遣える家来が五、六人。それに、『にしの』にいた忍びが四人だ。忍びの連中は、もしかすると直接、養生所に向かっていて、ここにはいないかもしれないが。
この座敷は、中庭に面している。座敷の入口に立つ数馬さんを取り囲むように、廊下や中庭から、敵の手の者が駆け寄ってくる音が聞こえた。
「こやつは、殿のお命を狙う痴れ者じゃ。構わん、斬り捨てい!」
大原の言葉に、一斉に鯉口をきる音が、夜の闇に響く。
私も、そろそろ出るか。
背に背負った大刀を腰の帯に差しなおし、天井の梁から足を踏み出して、天井板を思いっきり踏み抜く。前回忍び込んだときに、錣で四角く溝を切りこんである天井板は、二尺四方が抜けて、床に落下する。念のため、黒田の寝所にも同じ細工をしたけど、読みが当たってよかった。天井に開いた大穴から素早く飛び降り、黒田と大原の脇をすり抜けて、数馬さんに駆け寄る。
数馬さんは、いつのまにか頭巾を巻きなおし、顔を隠していた。それを見て、ちょっとほっとする。よかった、黒田と大原以外の連中には、顔はばれていないだろう。
小座敷の入り口に立ち、鯉口を切りながら、座敷の黒田達と、庭や廊下から取り囲む黒田の手下たちを油断なく見回していた数馬さんは、私を一瞥して小さく頷いた。そして、黒田の手下たちに向かって、はっきりとした声で呼びかける。
「ここにいる黒田兵庫は、薬種を独占せんとし、名医と呼ばれた医者を立て続けに殺した黒幕よ。それでもなお、黒田をかばいだてするならば、そこもとらも斬る」
雇われた浪人達は、数馬さんの語る内容を聞いても、顔色ひとつ変えない。だが、抜き身を構えた黒田の家来のうち幾人かは、困惑した表情で互いに顔を見合わせる。
浪人達は、今夜、養生所を襲い、数馬さんと私を斬ることになっていた。黒田がほかに悪事を働いていることも、当然察しているだろう。だが、黒田の家来達には、主君の悪行を知らぬ者もいるようだ。とはいえ、主を持つ身のかなしさよ、彼らは主君を守るために剣を振るわざるをえない。そうでなければ、家族を連れて出奔し浪々の身となるか。いずれにせよ、武士の道とは不自由なものだ――困惑した彼らの姿を見て、胸がちくりと痛んだ。
「ええい、何をしている! こやつを早く斬れ! 斬り捨てい!」
黒田の声を皮切りに、浪人達が一斉に間合いを詰めてきた。黒田の家来のうち、私たちに向かってくるのは三人だけか。しめて十五人。あとは、まだ姿を見せていない忍びが四人。
「黒田よ、どうあっても腹を切らぬか」
数馬さんは抜刀し、座敷にいる黒田と大原に向かって構えた。
私は、数馬さんと背中合わせに立ち、廊下と庭からじりじりと迫ってくる敵を見据え――刀の柄に右手を添えながら、ゆっくりと鯉口を切る。
廊下の左右から、ほぼ同時に浪人が斬りかかってきた。そして、一拍子遅れて、正面の庭から二人。複数の敵を同時に相手にするときは、それぞれの動きと太刀筋を読み、ひとりひとり着実に倒さなくてはならない。左右の敵は、どちらも真っ向から打ち込んできて、斬撃が私に届くのもほぼ同時だ。こういうときは――
素早く右の敵に向かって二歩踏み込み、その腹に向かって思いっきり右脚で蹴りをいれる。肝臓あたりに蹴りが深くめり込む感触があったのと同時に、右脚をひいて背後を振り返り、身体を低く沈ませながら前に飛び込み、抜き打ちで敵の頸動脈を刎ねとばす。
そのまま、斬った敵の脇を駆け抜けて、庭から廊下に駆けあがってくる敵の、がら空きの頸部を斬りおろす。一太刀いれてすぐに飛び退り、いま斬った男の奥から廊下に上がってきた男の、右の膝の裏めがけて、床すれすれを薙ぎ払うような斬撃を放つ。腱と血管、それに神経を一気に断たれた男は、その場にもんどりうって倒れこんだ。素早くその頸動脈を切断する。一瞬のうちに、三人が斬られたのを見て、浪人達が色めきたつ。
最初に蹴りをいれた浪人を一瞥すると、まだ右のわき腹を押さえながら、口をぱくぱくと開け閉めをして、倒れたままだ。周りの敵の動きに目を配りながら、その男に近づき、落ち着いて頸動脈を断ち、とどめをさす。
その刹那――小座敷で断末魔の悲鳴があがった。
「なにをしておる、さっ、はよう、こやつを殺せ!」
黒田の、震える声が耳に入る。これは……きっと、例の忍びが来たな。
八相に構え、敵をねめつけながら、小座敷の入り口に戻る。廊下と庭の敵は、私の出方をうかがいながら、再びじりじりと間合いを詰めている。浪人のうち一人は、包囲の輪から一歩さがり、様子を見ているようだ。こいつは、要注意だな。こちらの手の内をうかがっているのかもしれん。
座敷の中では、首を断ち切られ絶命した大原と、肩口から袈裟掛けで斬りおろされた忍びの躯が横たわり、おびただしい量の血が畳を朱に染めていた。藍色の装束に身を包んだ二人の忍びが、黒田を守るように、刀と鎖鎌を構え、数馬さんと相対している。ここにいる忍びは、全員男だ。もう一人、どこかに潜んでいるはずだ。あの、『にしの』という店の、おかみが。身を潜めているということは、あの女が吹き矢の遣い手だろう。吹き矢の有効射程で、身を潜められる場所といえば……
さきほど、私が飛び降りた天井の大穴を見上げると、吹き矢筒の先が、まっすぐに数馬さんを狙っているのが見えた。咄嗟に、懐から棒手裏剣を取り出し、吹き矢筒の根元に向けて放つ。
「がっ」
悲鳴にならぬ声をあげ、天井の大穴から身を乗り出すようにして、忍び装束の女の上半身が垂れ下がる。私が放った手裏剣は、顎を砕き脳に抜けたのだろう。女はすでに絶命していた。
数馬さんが天井を見上げた瞬間、鎖鎌を持った忍びが数馬さんにむけて分銅を放つ。鎖鎌は、なかなか厄介な武器だ。刀を絡めとられると、刀身をへし折られる可能性もあるし、手や足を絡めとられたら動きを封じられてしまう。だが、数馬さんは相手が分銅を放った瞬間に、その軌道を紙一重でかわしながら相手の懐に飛び込み、鎖鎌を持つ腕を切り落とし、返す刀で胴を両断する。
残る忍びは、素早い動きで数馬さんの左に回り込み、わき腹に刀を突き立てようと飛び込んだ。だが、数馬さんは振り向きざまに左の手甲で突きを受け流し、右手一本で忍びのわき腹に深い一太刀を放つ。
その一部始終を見ていた黒田はへたりこみ、一歩も動けない。。数馬さんは、無言で両目を見開き戦慄く黒田に近づき、項の皮一枚残して、首を斬り落とした。
「行くぞ」
その言葉に、無言で頷く。私が天井裏の女に手裏剣を放ち、外に背を向けたその隙に、座敷の外には、敵が押し寄せていた。
数馬さんは抜き身を下げたまま、座敷の入り口に歩み寄る。二人の浪人が、同時に斬りかかってくるのを物ともせず、一人を下段から逆袈裟で跳ね上げ、もう一人はそのまま横に薙いで首を刎ねる。数馬さんの後ろにいても、剣圧を感じるほどの凄まじい斬撃だ。そのまま、敵を威圧しながら廊下に出て、数馬さんは左側の敵に、私は右側の敵に目を配る。
廊下から庭に降りようと足をついた瞬間、右から三人、左から二人の浪人が斬り掛かってきた。うかつに避けると、数馬さんの背を敵にさらすことになってしまう。それは、数馬さんにしても同じこと。目の前の敵を相棒が確実に屠ってくれるという信頼がないと、背中を預けての戦いはできない。
一人目の敵は、手の腱を断ち攻撃力を削いだあと、胸倉をつかんで引き寄せる。その身体を盾にして、二人目の敵が放つ斬撃を受け止める。そのまま、胸倉をつかんだ手を放し、三人目の頸動脈を断つ。多勢に無勢の戦いでは、じっくり考えている暇がない。状況を把握し、どういう順番で敵を屠るかを組み立て、そのとおりに身体を動かす。すべては、厳しい修練と実戦経験の賜物だ。二、三回瞬きする間に、私の前には三人の躯が積み重なった。背後では、数馬さんがやはり二人の敵を屠ったであろうことが、見なくてもわかる。黒田の家来は、剣を遣える者たちも、すっかり臆した様子だ。
残る敵は、後ろで私たちの太刀筋を見定めていた浪人が一人、か。
庭には躯が積み重なり、むせるような血の臭いが立ち込める。
そんな中、一人残された浪人は、抜き身を下げたまま、じっと私と数馬さんを見ていた。ただ――なにか変だ。この浪人達は、養生所を襲うために金で雇われた連中だ。だがこの男は、金のためなら何でもやる輩に特有の、淀んだ空気を帯びていない。歳は四十絡みだろう。くっきりとした濃い顔立ちで、眉根に皺を寄せている。一昔前の、ハードボイルドな顔ってやつだ。だが、眼の光は澄んでおり、表情に暗い影は一切ない。そして、私や数馬さんの大立ち回りを興味深そうな面持ちで、人ごとのように眺めていた。
「な、なにをしておる! おぬしも早く、行かんか!」
黒田の家来が、その男をけしかける。だが、その男はにやりと笑い、刀を鞘に納めた。
「やめたやめた! 俺の腕では、とうてい奴らにかなわぬ。俺はこの話、降ろさせてもらうぞ」
――えっ?
場に似合わぬ、呑気な口調に、私も拍子抜けする。そっと数馬さんの顔を見ると、数馬さんも不思議そうに眼を瞬かせている。
黒田の家来は背を向けてその場を離れようとする男に、剣を突きつけた。
「おのれっ、我らの企み、知ったからには生かして返すわけには……あっ」
黒田の家来の言葉は、途中で悲鳴にかき消された。男が振り向きざまに、抜き打ちで斬りつけたのだ。喉笛をかき切られた黒田の家来は、仰向けに倒れ、二、三回痙攣するとそのまま動かなくなった。
「なにをする!」
男の行く手を阻もうとした他の家来も、男に正面から逆袈裟で斬られて倒れ伏す。
男は血振りした刀身を懐紙でぬぐい、悠然と納刀した。黒田の家来達は、この男と数馬さん、私の三人を取り囲んでいたが、もはや刀を抜いている者は一人もいない。男が踵を返して、この場を立ち去ろうとすると、その人垣がさっと割れて、男に道を譲る。男は、ふいに振り返った。
「そこな二人、いやはや実に凄まじき太刀筋よ。今日はいいものを見せてもろうたぞ」
にやりと笑い、男は付け加えた。
「また、おぬしらと会うこともあろう。それまで達者でな。では、御免」
そう言い残し、男は脱兎のごとく駆け出した。男のあとを追うものは、一人もいない。
「俺たちも行くぞ」
数馬さんが囁く。黒田を斬り、養生所を襲おうとしていた浪人や忍びもすべて始末した――今しがた去っていった男は別にして。もう、ここに用はない。
私は懐から細い鉤縄を取り出し、中庭の隅に走りながら、屋敷の屋根に枝を伸ばす松の木の太い枝に、鉤を投げる。くるっと枝にまきついた鉤ががっちりと食い込んだのを確認して、縄を手繰り寄せながら一気に幹を駆けのぼり、枝に跳びのる。
秘術を使えば、これくらいの高さの枝なら、普通に跳躍しても余裕で届くんだけどね。人前で秘術を使う訳には行かないから、わざわざ忍び道具を使わなきゃいけないんだ。たとえ相手が数馬さんであっても、だ。
私に続き、数馬さんが助走をつけて跳躍する。数馬さんが跳びながら上に伸ばした右手を掴み、勢いをつけて枝の上にひっぱりあげる。よいしょ、っと。よし、うまくいったぜ。鉤縄を回収して、あとは屋敷の屋根伝いに外に出るだけだ。主を失った黒田の家来たちは、狐につままれた様子で、庭に立ちつくしている。
そのとき、どこからか見られている気配に気がついた。これは――弥助さんと、それに小平太さんだな。小平太さんの気配は、すっとその場から消えた。
「確かに見届けたぜ」
どこからともなく弥助さんの声が聞こえ、弥助さんの気配も消えた。まあ、私のほうは、弥助さんがどこらへんに身を潜めていたのか何となく見当がつくのだけれども、数馬さんはきょとんとしている。
「弥助さんか。まいったなあ……まったく気がつかなかったよ」
そう呟き、数馬さんは頭をかいた。小平太さんの気配には、たぶん気がついていないな。
「数馬さん、行くよ」
「ああ」
私たちの姿が屋根の向こうに消えてから、家来達がようやく我にかえり、騒ぎ始めるのが聞こえた。だが、時すでに遅し。黒田の家来たちが追手を差し向ける頃には、私と数馬さんは養生所に戻っていた。
自分の部屋で、忍び装束からいつもの小袖と小袴に着替え、手早く愛刀の手入れをする。人心地ついてから、数馬さんの部屋の前で声をかけた。今夜中に、どうしても問い詰めたいことがあるからだ。
「数馬さん、ちょっといいかな?」
「ああ、いいよ。入ってくれ」
戸を開けると、数馬さんも普段の服装に着替え、刀の手入れをしているところだった。あれだけ人を斬ったあとなのに、刃こぼれひとつない。父や私のように、人体の軟らかい部位のみを斬る剣ならともかく、数馬さんの剣は、衣服や骨ごとたたき斬る剛剣だ。よほど刃筋が冴えているのだろう。感心して見入ってしまう。
「ゆきさん、話があるんだろう?」
数馬さんに問われ、我にかえる。
「あ、うん。さっきはお疲れさま。首尾よくいったね」
数馬さんの前に座り、胡坐をかく。数馬さんは破顔した。
「ああ。ゆきさんがいてくれたおかげさ。吹き矢の女を倒してくれたし、屋敷を抜け出すのも、ずいぶんと楽にいったよ。本当に助かった」
飄々と答える数馬さんを前に、なんだかふつふつと怒りが……
「数馬さん……」
「ん?」
「なぜ、あんな真似を――黒田に時間を与えて、敵の手勢を呼び寄せるような真似をしたんだ。無茶し……すぎだよ……」
自分の声が震えるのがわかった。両目に涙が溢れ、畳のうえにぽたぽたと落ちる。
「すまない」
数馬さんは神妙な顔で、頭を下げた。無言で刀を鞘に納め、畳の上に置くと、数馬さんは顔を伏せ、畳を見つめながら語り始めた。
「ゆきさんが教えてくれた黒田と大原の会話や、中井屋の帳簿……それに、巳之吉親分の調べた内容を突き合せれば、ほぼ間違いなく、黒田が医者殺しの黒幕だろう。だが、それだけではまだ、黒田を斬るわけにはいかない。裏で糸を引いていたのが黒田だという証を、俺自身が得たかった」
数馬さんは、静かな声で続ける。
「黒田を斬るのは簡単だ。だが、それが万が一にでも間違いだとしたら、俺のせいで、黒田の家中のものが路頭に迷ってしまう。黒田と大原の前で、この顔を晒し、医者殺しのからくりを突きつければ、俺がひとりで乗り込んできたと思った黒田は、本音を出すだろう。俺はそれで、黒田が黒幕かどうかを見極めようとしたんだ」
話を聞きながら、手で涙をぬぐう。これが、数馬さんが言っていた、最後の一押し、ってやつか。おそらく、数馬さんたちは――江戸市中隠密廻りの者たちは、ずっとこうやってきたのだろう。
「はなから、自ら腹を切るような男ではないと思っていたが――奴が手先を呼び寄せれば、養生所を狙う浪人どもも、黒田の悪事を知りながらそれに加担していた家来たちも、一気に始末することができる。そうしなければ、三好先生や、ゆきさんが、また狙われてしまうからな」
数馬さんは、うつむいた私の顔を覗き込みながら、苦しげに話す。
「多勢に無勢だ。あらかじめ打ち明けていたら、ゆきさんは、きっと反対したろう。だから、言えずにいた。本当に……すまない」
腹の内を打ち明けてくれたおかげで、私の気持ちも落ち着いてきたぞ。
「もう……はらはらしすぎて、寿命が縮まったよ。今度こんなことするときは、先に言ってね。
もうやるな、って言っても、数馬さんには無理だろうから」
顔を上げ、そう言って笑いかけると、数馬さんもほっとした表情になる。
「ああ、約束する」
――ああ、約束する
数馬さんのその言葉を聞き、なぜか例えようもない懐かしさに襲われる。あれ? なぜ、こんな気持ちになるんだろう。訳もなく胸がいっぱいになり、気がつくと私はまた、落涙していた。
「あれ? 勝手に涙が……ごめん、気にしないで」
私があわてて、ごしごしと涙を拭うと、数馬さんは優しく微笑んだ。
「――今日は、さっそくゆきさんを泣かしちまったな。弥助さんに叱られちまう」
まあ、弥助さんは心配ないよ。彦佐爺だったら、仔細を確認せずに激怒しそうだけど。里を出る前日、源太にぃを問い詰めていた彦佐爺の姿を思い出し、心の中でくすりと笑った。
「内緒にしとくよ。でも、あの浪人、いったい何者なんだろう」
とりあえず気がかりなのは、私たちに刃を向けず、去っていたあの男のことだ。数馬さんも、首を捻る。
「さあな。今のところ、敵ではなさそうだが……それに、食い詰め浪人とも思えん。もしかすると、黒田の様子を探っていた、どこぞの手の者かもしれないな」
その可能性はあるだろう。必ずしも、村上主膳に仇なすものとは限らないが。
「村上の子飼い同士の足の引っ張り合い、ってこともあるから、油断はできないよね」
「ああ。あの男が言っていたとおり、また会うこともあるかもしれないが、注意は必要だな」
悪い人には見えなかったけど――如何せん、私は騙されやすいのだ。ちゃんと、自覚はあるぞ。うん。




