全部ウサギさんに見えるぞ
意識が戻って最初に食べた食事は、芋やら雑穀のはいった粥だった。身体の隅々まで滋味がひろがる感じがして、なんだか元気が出てきたよ。
彦佐さんが、私に粥を食べさせたり、傷を洗ってサラシを替えたり……と、甲斐甲斐しく面倒をみてくれる。
「それ、粥が旨いか。しっかり食べて、よーく養生するんだぜ」
私が美味しそうに粥を頬張ったたけで、彦佐さんは大喜びだ。
「そやつは、お前が気を失っている間、かたときもお前のそばを離れなかったのだぞ」
と、源次郎さんが言えば
「そ、そんなことありませんやぃ」
と、彦佐さんはぶっきらぼうに顔をそむける。
リアクションが、いちいち可愛いお爺ちゃんだなあ。それに、源次郎さんも彦佐さんもツーカーで、こりゃあ気持ちのいい主従関係だ。三日経つ頃には、すっかりこの二人のことが大好きになっていた。
それにしても……私を斬り殺そうとした男の頭部が一瞬で吹っ飛んだのは、ありゃなんだ? 事件のショックで口がきけなくなっている設定なので、私からは訊けないしなあ。ああ、気になる。
彦佐さんの看病のおかげで私の回復は著しく、目を覚ましてから五日後には、床を離れて、厠まで歩けるようになった。ずっと寝ていたから、ふらふらだけど。ちょっと歩いただけで目の前が暗くなるし疲れやすい。斬られたときに、結構出血したんだろう。貧血の症状である。
「先祖伝来の、滋養強壮の秘薬だ。ささっ、飲みねぇ」
と、彦佐さんが薬を煎じて飲ませてくれたけれど、これがまた飛び上がるほど苦かった。うぐぐっ……まずいならまずいと、あらかじめ教えてほしいよ。
目を白黒させて飲み込んだら、傍らで見守っていた源次郎さんが、笑いながら
「そのまずい薬湯をちゃんと飲みこむか。俺でも無理だぞ。ゆきは偉いな」
といって、頭を撫でてくれた。
「俺たちは旅の途中でな。この彦佐の故郷に向かっている途中なのだ。ゆき、お前の身体がすっかりよくなったら出立するぞ。ここから大人の足で十と一日、子供連れだと、半月以上はかかる道のりだ。そのつもりで、まずはしっかり身体を治せ」
源次郎さんの言葉に、頷く。私の頭を撫でる源次郎さんの、袖からのぞく右の肘に、古い刀傷があるのが見えた。神経が傷ついているから、右の薬指と小指の動きが少し悪い。右のACL(前十字靭帯)と、アキレス腱付着部にも痛みがあるな。
どうやら前世で私が持っていた能力は、そのまま使えるらしい。交通事故で死にかけた私が、先生の守護の力で生きながらえた際に、おまけでくっついてきた能力。相手の身体のどこが悪いのかなんとなくわかる、なんとも微妙な能力――骨と筋肉と神経限定、って但し書きがつくやつだ。
先生も、霊体や妖をみる前世での能力を、そのまま使えたと言っていたから、まあそういうものなのだろう。
私のは、微妙な能力ではあったけれど、整形外科医としての知識とスキルがあったから、結構お役立ち度が高かったんだよね。でも江戸時代だとすると、診断がついても治療手段が限られそうだし、この能力って役に立つかなあ。うーむ。
私の体力が回復するまでの間は、ひたすら暇だったので、源次郎さんが読み書きを教えてくれた。前世の記憶があるから、漢字の読み書きは問題ないはず、と思いきや、やたら達筆な源次郎さんの崩し字のお手本に、いきなり挫折する。よ、読めん……
「さすがに、おゆき坊にはまだ無理ですぜ」
と彦佐さんが、楷書で書かれた漢文の手習い帳をどこからか持ってきてくれた。
いや、これも、推定五、六歳の幼児にはハードルが高いと思うのだが。さすが、世界最高峰の識字率を誇る江戸時代である。現代人は前途多難だよ……
そうこうするうちに、ひと月が過ぎた。
季節はすでに晩秋である。
旅籠の窓辺で彦佐さんの肩を揉みながら、一緒に外を眺める。日中は旅人で賑わう宿場町も、日が暮れると人通りは稀だ。
街灯などはないが、満月の月明かりに照らされた町並みが、セピア色に浮かびあがる。古い写真を見ているかのような、ノスタルジックな色合いだ。
東の夜空には、ぽっかりと、大きな赤い月が輝いている。前世の私の基準からすると、普通の月よりも、直径で十倍くらい大きい。
――ここって、やっぱり、前世の先生がいた世界だよね。私が小学三年生のときに、先生が描いた絵。そこには、大きな赤い月が描かれていた。そして、私が『ゆき』という少女の骸とシンクロした夢の中でも、これと同じ月が見えた。
県警本部の武道場でビジョンを見たときには、『私』は、霜に埋もれて凍えていたっけ。そのときの、身体の奥底から凍りついてしまったような感覚を思い出して、背筋にぶるっと寒気が走り、思わず彦佐さんの背中に抱きつく。
「おゆき坊、そろそろ夜風が寒いか。おや、手がこんな冷えちまって、こりゃいけねえ」
彦佐さんに促されて窓から離れ、布団に潜り込んだ。
このひと月、源次郎さんと彦佐さんのやりとりを横で聞いていて、幾つかわかったことがある。
暦や方角、時刻の呼び方、度量衡などは、私の知っている江戸時代と変わらない。まあ、知っているといっても、ソースはテレビ時代劇だけど、ね。
江戸という都市があって、幕府もある。将軍が徳川家がどうかはわからない。まあ、一般庶民からすると、将軍の名前なんてどうでもよくて、全部ひっからげて「公方様」だしな。
上方、という言葉は出てきたけれど、それが京や大阪のことを指しているのかはわからなかった。帝、つまり天子様がいるかどうかも、まだわからない。
あと、藩政が敷かれていて、源次郎さんたちの会話にも、何々藩、っていろいろ出てくる。でも、聞き覚えがある藩の名前がひとつもないんだよなあ。まあ、私が知らないだけかもしれないが。
そうそう、この間、源次郎さんが彦佐さんに、
「寺社奉行の何某が……」
と、ごにょごにょ話しているのが聞こえてきたよ。お! 寺社奉行とな? 時代劇ワールドでは犯罪率ナンバーワンの役職じゃないか! と、胸躍らせて耳をそばだてたけれど、二人の声音が低すぎて、よく聞き取れなかった。
この二人、いったい何者なんだろうな。私の養生のためとはいえ、こんな宿場町に長逗留して大丈夫なんだろうか。
読み書きを習い始めたから、筆談で源次郎さんたちに訊こうと思えば訊けるけど、幼女が急に込み入った質問をする訳にもいかないしなあ。まあ、この二人のことは、彦佐さんの故郷に着けば、追々わかるだろう。あせることはないさ。
問題は、この大きな赤い月だな。これさえなければ、私の知っている江戸時代とさほど変わらないのだけれど――まあ、私の時代考証能力が薄ら寒いのは、おいといてだな――この月のせいで、謎の異世界感丸出しである。
夜空の星の配置に詳しかったら、つまり星座に詳しかったら、ここが地球かどうかの手がかりになるのだが、あいにく天文は興味の対象外だ。北斗七星どれよ、ってレベルだよ。ちなみにオリオン座ですら、自信がない。巷の小学生以下だぜ。
月に浮かび上がる模様が、前の世界の月と同じかどうかっていうと……私の目はひどい節穴なので、どんな模様がついていても全部ウサギさんに見えるぞ。だめだこりゃ。
まあ、この世界の人間の体格からすると、重力がことさら大きいってことはないと思うんだよね。だから、月が大きく見えるってことは、大きさのわりに月の質量がやたら軽いってことか。あるいは、ここの大気の屈折率がやたら大きくて、遠くの月が近くに見えているだけかもしれない。
色がやたら赤いのは、ここの大気の影響かなあ。いや、月の表面が本当に赤い可能性もあるな……そんなことをとりとめもなく考えながら、私は眠りについた。
それから十と二日が過ぎた。
初霜が降りた朝、私たちは宿場町を出立した。
彦佐さんが編んでくれた草鞋は、ここ三日間ほど宿場町の中で履き慣らしたので、よく足に馴染んでいる。体力はすっかり回復して、いくらでも歩けそうだ。
何よりも……両脚がこれだけ自由に動く感覚って、十年ぶりだ。前の人生でも、死んで霊体になってからは、両脚が事故に合う前の状態に戻っていたけれど、生身の感覚とはやっぱり何か違うな。
足の裏が地面を掴んで蹴りだす感覚すら、今の私には楽しくてしょうがない。土を踏み固めた路面だけでは飽き足らず、道端の小砂利を敷き詰めた部分や、そのまた向こうの、並木の陰の草むらに足を踏み入れては、足の裏で踏みしめる感触を楽しむ。
「おゆき坊ときたら、まるで独楽鼠みたいに目まぐるしいや」
と、彦佐さんが目を丸くすれば、源次郎さんは
「うむ。歳に似合わず大人びた子だが、こう見ると子供らしい無邪気なところもあるな」
と、目を細める。
……大人げなくて、すみません。でも、今日だけは大目に見てね
心の中で、そっと二人に謝る。ただでさえ、私の養生のために、彦佐さんの故郷に戻る日程が延ばし延ばしになっているんだよね。明日からは、道草を食わずにちゃんと歩こう。
初日は、見るものすべてがもの珍しく、ツアコンよろしく彦佐さんが解説してくれた。
行平街道の幅はおよそ三間で、二車線道路くらいの幅だ。山の中を緩やかに蛇行して進み、そこそこ高低差がある。商人の運ぶ積み荷などは、これよりも海側を走る大井街道を通るらしい。そちらのほうが、平坦で道幅も広く、宿場や茶屋などの設備も充実している。足腰に自信のある徒の旅人は、時間の短縮になる行平街道を行くことが多い。
街道の脇には、一里ごとにこんもりと盛り土がしてあって、大きな木が植わっていた。一里塚といって、道程の指標となるらしい。
途中、西の方角から猛烈な勢いでやってきた早駕篭とすれ違ったけれども、客が駕篭から半分はみ出てぐったりしている。身なりの整った侍だが、よくよく見ると、目は上転しているわ、泡を吹いているわでひどい有様だ。しかも、駕篭から落っこちないように、細い紐でぐるぐる巻きにされて、駕篭にくくりつけられている。早駕篭は乗り心地が最悪だと聞いていたけれど、もはや殺人的である。
えっほ、えっほ、と軽快な駕籠かきの掛け声が、ドップラー効果とともに遠ざかっていくのを呆気にとられて見送った。彦佐さんも
「ありゃひでぇや。江戸に着くころにはおっ死んでいるぜ」
と、呆れ顔だ。いやはや、旅は命がけだぜ。
初日は何事もなく七里の道のりを踏破し、まだ日が高いうちに次の宿場に到着した。
さすがに疲れたので、夕餉もそこそこに布団に潜り込む。
今日はいろいろなものを見たぞ。そういえば、前の人生では旅行らしい旅行なんて修学旅行くらいだったな。家族旅行なんてもちろんなかったし、大学のときは学費と生活費を稼ぐので精一杯だったし。社会人になってからも、仕事と剣術のことで頭がいっぱいで、のんびり旅行とか考えたことなかったよ。こんな暮らしもいいな。うん。
「明日からも長旅だ。しっかり身体を休めるんだぜ」
と、彦佐さんに足を揉んで貰っているうちに、気持ちよくなって寝てしまった。
寝入りばなに、
「彦佐よ、気がついたか?」
「ええ、奴ら……」
という、源次郎さんと彦佐さんの会話が聞こえた気がした。




