(7)
日向がすでに駅の前まで自転車で迎えに来ているらしい。
私と稲倉くんは電車を降り、蓮野駅のホームをゆっくりと並んで歩いていた。駅まででいいって言ったのに、稲倉くんは頑として受け入れず、結局ここまで送ってもらってしまった。
エスカレーターに乗る。私が前で、稲倉くんが後ろだ。振り返ると、私のほうが稲倉くんより少し背が高くなっていた。手すりにもたれて余裕たっぷりに「チビ」と言ってみたら怒られた。平均身長より低いことを少し気にしているらしく、稲倉くんが若干背伸びをする。身長が同じになる。
「俺、これ、全部ふさぎます。舌も、へそも、耳も全部」
背伸びをしながら、稲倉くんがそう言った。
これ、というのは、きっとピアスのことだろう。舌と、へそと、耳、全部で六つ。
「もうあけないから、俺が悲しいとき、雛子さんが拾ってくださいね」
そんなの当然だ。今日私がピアスをあけずにすんだのも、知代と沙也加とちゃんと話し合おうって決めたのも、全部稲倉くんのおかげだから。
でもきっと、そんな恩がなくたって、私は稲倉くんのことを拾ってあげるだろう。あの夜のように。
素直にそう答えればいいのだけれど、ふいに意地悪をしたくなって、
「やだって言ったら?」
笑いながらそう問いかけた。
「……乳首」
「え?」
「乳首にピアスあけます!」
「ちょ、なにそれ」
たまらず吹き出した。乳首って。バカ。
そんなの、拾ってあげなきゃいけないじゃないか。
「じゃあ私のことも拾ってくれる?」
「もちろん。まっすぐ俺んとこ来てください!」
それから改札を抜けて(切符は稲倉くんにお金を借りて買ったのだ)、階段を降りて駅を出るだけになった。なぜだか少し名残惜しかった。
「今日はありがとう。お金、あとで返すね。LINEするから」
「わかりました」
「電車大丈夫?」
「十五分後にきます」
「それじゃあ」
手を振って、階段を降りようとしたら、その手首を掴まれた。
「あの、」
思わずどきりとした。稲倉くんの眼差しが、あまりにも真剣だったからだ。
呼び止めたくせに、稲倉くんは何も喋らない。ただ、手首を掴む力が緩められる。手首の皮膚の上を稲倉くんの指先が滑って、離れていく。壊れ物を置くように、そっと。不器用な触れ方だった。
完全にお互いの手が離れてから、稲倉くんはようやく口を開いた。
「好きです」
頭の片隅が、麻痺した。
「だ、だれが?」
そう言うのが精一杯だ。
稲倉くんも緊張しているみたいで、あちこちに視線をはしらせて、きょどきょどしている。だからなおさらどうしたらいいのかわからなくて、私は黙って俯いた。
「雛子さんが」
頭上から裏返った声が降ってくる。
「だれを?」
「あ、雛子さんを」
「私が私を……?」
「いや、あの、違います」
顔をあげたら、稲倉くんと目があった。興奮しているのか、少しうるんでいる。
「俺が、雛子さんのこと、好きなんです」
稲倉くんの顔は、真冬だというのに、さっきまで全力疾走してきたかのように真っ赤だ。私にまでその赤がうつりそうで、慌ててまた俯く。けれど、自分までそんな反応をしてしまうのが癪で、少し経ってからまた顔を上げた。稲倉くんはまだ私を見つめていた。
胸の鼓動がやたらに大きく聞こえて、自分の呼吸のタイミングさえうまく掴めない。
稲倉くんの吐く息も細かく震えていた。
「穴が全部ふさがったら、もう一回、ちゃんと告白させてください」
それじゃあ、と稲倉くんが踵を返す。手馴れた様子でSuicaを取り出して、駆け出す。
逃げ出すように去っていったその背中は相変わらず丸まっていて――なぜだか急に、温かい気持ちがこみ上げた。
不器用に私の手首を離した指先の温度も、好きだと言ったときのうるんだ瞳も、真っ赤な頬も。「あ」の形に口を開くと見えるピアスも、あのとき見た宝石のような青いへそのピアスも。全部が愛おしいと、唐突にそう感じた。
きっと今までにもその気持ちは抱いていた。ただ、私が気付かなかっただけで。
この気持ちに名前をつけるとしたら、何がいいだろうと考えた。恋とは少し違うだろう。けれど、愛でも友情でもないと思った。
稲倉くんがホームに消えてから、私は勢いをつけて階段を駆け下りた。
名前のわからないこの気持ちの温かさが冬の寒さに消えてしまわないよう、そっと胸に抱えて。
それから知代と沙也加とちゃんと会って話した。
実は、全部誤解だったのだ。
沙也加が和樹をクリスマスのデートに誘ったのが金曜日、和樹は私が断らないと思っていたから「雛子と過ごす」と言ってその誘いを断った。しかし、土曜日に私が和樹からの誘いを断った。そこでズレが起きてしまったのだ。
私の言い分を聞きもせず、決めつけたのは沙也加が悪い。
けれど、誤解の一点張りで事情を説明しようとしなかった私も悪い。
売り言葉に買い言葉でひどい言葉を投げつけたのは、お互い悪い。
私たちは仲直りした。
そうそう、春村くんと知代は結局付き合うことになったみたいだ。知代から聞くよりも先に稲倉くんから聞いた。学校は違うけれど、毎日電話したり休日にはデートに出かけたり、仲良くやっているらしい。
沙也加はというと、クリスマスに三人の女の子と約束がブッキングした和樹の女たらしぶりにドン引きし、今は川田くんのことがちょっぴり気になっているらしい。両思いなんだから、二人のペースでうまくやっていけばいいと思う。
私たち?
私たちは、相変わらずだ。
毎日くだらないLINEをして、駅のフードコートでときどきおしゃべり。たまにそれを嗅ぎつけた日向が乱入して引っ掻き回していくこともある。日向の受験が終わったら、焼肉のときのあの六人でどこかに遊びに行こうって約束もしている。
そしたらね、稲倉くんのことを和樹にちゃんと紹介するんだ。
きっとその頃には、稲倉くんのブラックホールもふさがっているだろうから。
(「ブラックホールをふさいだ日、」完)
ようやく完結です。
ここまでありがとうございました。
2017/08/20 少し気になった箇所を修正しました。内容の変更はありません。