帰郷
その手紙には、宛名がなかった。
郵便受けを開けたとき、そこに一通だけ入っていた。
白い封筒。
差出人の名前もない。
そして、蓮の名前も書かれていない。
ただ、表には住所だけが記されていた。
「……なんだ、これ」
富士川蓮は、郵便受けの中から封筒を取り出した。
自分の住所が書かれている。
番地も、部屋番号も間違っていない。
間違いなく、自分の住んでいる場所を知っている人間が、ここへ届けたものだった。
しかし、名前がない。
普通なら、宛名を書くはずだ。
差出人の名前も、宛名もない手紙など、蓮は見たことがなかった。
いたずらかもしれない。
そう思いながらも、なぜか捨てる気にはなれなかった。
封筒を裏返す。
糊付けされた部分は、すでに乾いている。
切手も貼られていなかった。
郵便で送られたものではない。
誰かが直接、蓮の住むアパートの郵便受けに入れたのだ。
蓮は周囲を見回した。
夕方の住宅街には、買い物帰りの人や、犬を連れて歩く人の姿がある。
けれど、こちらを見ている者はいなかった。
誰が、いつ、何のために。
疑問は浮かんだが、答えが出るはずもなかった。
蓮は封筒を持ったまま、部屋へ戻った。
玄関の鍵を閉め、靴を脱ぐ。
それでも、手紙を開く気にはなれなかった。
机の上に置いて、しばらく眺める。
白い封筒は、何の変哲もないものだった。
けれど、そこに書かれた自分の住所だけが、妙に生々しく見えた。
やがて蓮は、意を決して封を切った。
中に入っていたのは、一枚の紙だった。
便箋ですらない。
罫線も、飾りもない、薄い白紙。
そこには、短い文章だけが書かれていた。
――竹中悟が死んだ。
蓮の手が止まった。
「……悟?」
その名前を見た瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
竹中悟。
幼い頃からずっと一緒だった。
学校へ行くのも。
山で遊ぶのも。
海で泳ぐのも。
くだらないことで笑うのも。
いつも一緒だった。
悟は、蓮にとって友人という言葉だけでは足りない存在だった。
家族を失った蓮にとって、悟は兄弟のようなものだった。
何かあれば、最初に相談する相手だった。
怒られたときも、失敗したときも、嬉しいことがあったときも、悟が隣にいた。
少し無鉄砲で、調子がよくて、危ないことにも平気で首を突っ込む。
それでも、誰かが困っていれば必ず手を差し伸べる。
そんな男だった。
しかし――。
高校を卒業して以来、一度も会っていない。
蓮はもう一度、紙を見た。
そこには、悟が亡くなったことと、葬儀の日付、そして故郷の集落の名前だけが書かれていた。
それ以外には何もない。
死因も。
亡くなった場所も。
誰からの手紙なのかも。
なぜ自分に送られてきたのかも。
何一つ書かれていなかった。
蓮はしばらく手紙を握ったまま動かなかった。
指先が冷えていく。
悟が死んだ。
その事実が、頭の中で何度も繰り返される。
けれど、現実として受け止めることができない。
悟は、自殺などする人間ではなかった。
病気?あまりにも若すぎる。
それとも事故に巻き込まれた?
誰かのイタズラ?
考えても答えが出るものではなかった。
死んだと聞かされても、どこかで間違いだと思ってしまう。
同姓同名の別人ではないか。
誰かの冗談ではないか。
そう考えようとした。
しかし、紙に書かれた集落の名前が、蓮の逃げ道を塞いでいた。
あの集落に、竹中悟という名前の人間は一人しかいない。
蓮は椅子に座り、机の上に手紙を置いた。
窓の外は、すでに暗くなり始めていた。
部屋の中には、時計の音だけが響いている。
七年前。
高校を卒業した日。
蓮は故郷を出た。
それ以来、一度も帰っていない。
帰りたくなかったわけではない。
ただ、あの場所には戻れなかった。
高校三年の夏。
幼い頃からその島へ遊びに来ていた少女が、突然消えた。
少女は、幼い頃から何度も島を訪れていた。
蓮や悟とも、その頃から顔を合わせていた。
島の海で遊び、山道を歩き、集落の中を駆け回った。
高校二年の春、少女は島へ引っ越してきた。
引っ越してからは、島の高校へ転校し、蓮たちと同じ場所で日々を過ごしていた。
そして、高校三年の夏。
何の前触れもなく。
誰にも何も告げずに。
朝まで普通に話していた少女が、その日の夕方にはいなくなっていた。
家にも帰っていない。
学校にも来ていない。
集落のどこを探しても、姿は見つからなかった。
警察も捜索した。
集落の人々も山や海岸を探し回った。
けれど、手がかりは何一つ見つからなかった。
まるで、最初からこの世に存在していなかったかのように。
その日から、蓮の中には一つの疑問だけが残った。
――なぜ、彼女は消えたのか。
誰かに連れ去られたのか。
自分から姿を消したのか。
それとも、集落の人々が何かを隠しているのか。
蓮は何度も尋ねた。
育ての親である千鶴にも。
悟にも。
集落の大人たちにも。
けれど、誰もはっきりとは答えてくれなかった。
「もう忘れなさい」
「子どもの考えることじゃない」
「そのうち帰ってくる」
そんな言葉ばかりだった。
だが、少女は帰ってこなかった。
そして、蓮もまた、故郷に残ることができなくなった。
その答えを探すために、蓮は故郷を離れた。
現在は島根県内の高校で教師をしている。
二十五歳。
七年という時間が流れても、少女の行方は分からない。
調べても、聞き込みをしても、何も見つからなかった。
時間が経つほど、周囲の人々はその事件を忘れていった。
けれど、蓮だけは忘れられなかった。
忘れてはいけないと思っていた。
少女は、島根県内の高校に通っていたという。
その事実を知った蓮は、少女が転校する前の学校に何か手がかりが残っているのではないかと考えた。
そして、少女がかつて通っていた島根県内の高校へ赴任した。
転校前の学校を調べれば、何か手がかりが見つかるかもしれない。
そう考えた蓮は、その高校の教師となり、少女の在学中の記録や、当時の関係者について調べ続けた。
しかし、少女に関する記録は一切出てこなかった。
そして不可解なのが少女を探しに島根に来たはずが、少女の名前が思い出せない。
少女が自分にとって大切な存在だったその感覚だけが、蓮の中で強く離れない。
そして今度は、悟が死んだ。
蓮は机の上に置いた手紙を見つめた。
「……なんで」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
悟は死んだ。
それを知らせてきたのは、誰なのか。
なぜ、電話ではなく手紙なのか。
なぜ、郵便ではなく、直接郵便受けに入れられていたのか。
そして――。
なぜ、差出人を書かなかったのか。
このことを誰かに話すべきか、一瞬だけ考えた。
職場の同僚。
昔から付き合いのある友人。
あるいは、育ての親の千鶴。
けれど、なぜか口にする気にはなれなかった。
手紙の存在を知られることが、ひどく危険なことのように思えた。
理由は分からない。
ただ、差出人のない白い封筒と、そこに書かれた一文が、蓮の中に奇妙な警戒心を生んでいた。
誰にも話してはいけない。
そんな根拠のない感覚だけが、はっきりと残った。
蓮は手紙を机の引き出しにしまった。
鍵をかける。
それから、長い間、引き出しを見つめていた。
⸻
翌朝。
蓮は故郷へ向かう準備をしていた。
故郷は、瀬戸内海に浮かぶ島だった。
七年ぶり。
いや。
正確には、七年間、一度も帰っていない。
故郷の景色を見ることさえ、七年ぶりだった。
悟の葬儀に出るためだ。
それ以外の理由は、まだ考えないことにした。
少女のことも。
集落のことも。
今はただ、悟の死を確かめるために帰る。
そう自分に言い聞かせた。
車に荷物を積み込み、エンジンをかける。
出発する直前、蓮は一度だけ部屋を振り返った。
机の引き出しの中には、あの手紙が入っている。
持っていくべきか迷った。
置いていくことも考えた。
しかし、結局、封筒を鞄の内ポケットに入れた。
車を走らせながら、蓮は何度も手紙のことを考えていた。
あの住所を知っている人間は、そう多くない。
まして、故郷の人間で蓮の現在の住所を知っている者はいない。
高校を卒業してから、蓮は故郷の人々と一度も会話をしていなかった。
育ての親である千鶴とも、電話で話していない。
住所を教えた記憶もない。
考えれば考えるほど、不自然だった。
誰かが調べたのか。
それとも、ずっと前から知っていたのか。
そんな考えが浮かぶたび、蓮は首を振った。
考えすぎだ。
悟の死を知らせるために、誰かが手紙を送っただけだ。
そうでなければならない。
やがて、瀬戸内海を望む道に入る。
窓の外に広がる景色が、少しずつ記憶の中のものと重なっていく。
古い港。
曲がりくねった道。
山の斜面に並ぶ家々。
苔の生えた石垣。
かつて遊んだ海辺。
七年前と変わらない場所もあれば、なくなっている家もあった。
道路脇の商店は閉じられ、看板だけが残っている。
昔、悟と駄菓子を買った店も、今は空き家になっていた。
蓮は速度を落とした。
胸の奥に、忘れていたはずの記憶が次々と浮かんでくる。
夏の日。
蝉の声。
海の冷たい水。
悟の笑い声。
そして、少女の姿。
幼い頃から島へ遊びに来ていた少女。
高校二年で島へ引っ越してきた少女。
蓮はハンドルを強く握った。
思い出したくないわけではない。
けれど、思い出すたびに、あの日の空白が蘇る。
少女が消えた日。
何もできなかった自分。
やがて、集落の入口が見えた。
蓮は車を止めた。
しばらく、その先を見つめる。
ここから先に進めば、七年前に捨てたはずの故郷に戻ることになる。
もう二度と、この道を通ることはないと思っていた。
それなのに、悟の死を知らせる一通の手紙によって、蓮は再びここに立っている。
蓮は小さく息を吐いた。
「……帰ってきた」
その言葉が、自分の口から出たことに驚いた。
帰ってきた。
そう言ってしまえば、まるでここが今も自分の居場所であるかのようだった。
けれど、蓮には分かっていた。
この集落は、七年前から何も変わっていないように見えて、実際には何かが変わっている。
あるいは、変わったのは集落ではなく、自分の方なのかもしれない。
蓮は車を再び走らせた。
⸻
蓮には、両親がいない。
幼い頃に二人とも亡くなった。
その後、蓮を引き取って育てたのが、田中千鶴だった。
千鶴は、幼い蓮を自分の子どものように育ててくれた。
蓮にとっては、親そのものだった。
熱を出した夜も。
学校で問題を起こした日も。
両親のいないことをからかわれて、泣きながら帰った日も。
千鶴はいつも蓮のそばにいた。
高校を卒業して故郷を出るまで、ずっと一緒に暮らしていた。
けれど、故郷を出てからは一度も会っていない。
電話で話すことも、なかった。
高校を卒業してから、蓮は集落を出た。
それでも、千鶴が今もあの家で暮らしていることだけは知っていた。
蓮は集落の中をゆっくりと車で進み、見慣れた家の前で車を止めた。
家の前に立つ。
七年前と、ほとんど変わっていない。
古い木造の家。
軒下に吊るされた風鈴。
庭の隅にある、枯れかけた柿の木。
ただ、以前よりも家全体が小さく見えた。
あるいは、自分が大きくなっただけなのかもしれない。
蓮は玄関の前で立ち止まった。
ここに来るまで、何度も覚悟を決めたつもりだった。
しかし、いざ扉を前にすると、手が動かなかった。
千鶴は、自分を見て何と言うだろう。
なぜ帰ってきたのかと聞くだろうか。
悟の葬儀のためだと答えれば、それで済むだろうか。
それとも、七年間も帰らなかったことを責めるだろうか。
蓮はゆっくりと手を伸ばし、玄関の扉を開けた。
「……ただいま」
声が、思ったよりも小さく響いた。
返事はなかった。
家の中は静まり返っている。
誰もいないのかと思ったとき、奥から足音が聞こえた。
ゆっくりと、引きずるような足音。
蓮は玄関に立ったまま、息を止めた。
廊下の奥から、白髪の女性が姿を現した。
八十歳になった千鶴だった。
千鶴は、蓮の姿を見た瞬間、足を止めた。
目を見開く。
手にしていた杖が、かすかに震えた。
「……蓮?」
その声には、驚きだけではなかった。
信じられないものを見たような、戸惑いと恐れが混じっていた。
蓮は何も言えなかった。
千鶴も、すぐには近づいてこなかった。
七年ぶりの再会だった。
七年間、顔を合わせていない。
電話で話すこともなく、互いの生活を知らない。
それでも千鶴は、蓮が突然ここに現れるなど、考えたこともなかったのだろう。
「……どうして」
千鶴が、ようやく声を絞り出した。
「え?」
「どうして、帰ってきたんじゃ」
蓮は答えようとした。
悟の葬儀に来た。
そう言えばいい。
それだけで十分なはずだった。
しかし、千鶴の表情を見ていると、言葉が喉につかえた。
千鶴は、蓮が帰ってくることを喜んでいるようには見えなかった。
驚いている。
いや、それだけではない。
まるで、帰ってきてはいけない人間が戻ってきたかのように、怯えている。
「悟が……亡くなったから」
蓮は、ようやくそう答えた。
千鶴の顔から、血の気が引いた。
「悟が……」
「葬儀に出るために来た」
「そうか……悟が……」
千鶴は何度か小さく頷いた。
けれど、その視線は蓮ではなく、玄関の外へ向けられていた。
誰かが後ろにいないか確かめるように。
蓮はその様子を見て、胸の奥に違和感を覚えた。
「千鶴さん?」
「……いや」
千鶴は慌てたように視線を戻した。
「すまん。急に帰ってきたから、驚いただけじゃ」
「そんなに驚く?」
「七年も帰ってこなかったんじゃ。もう、帰ってこんのかと思っとった」
その言葉に、蓮は返事ができなかった。
千鶴の言う通りだった。
七年間、蓮は一度も帰らなかった。
連絡も取らなかった。
千鶴にとっては、蓮が故郷を捨てたように見えていたのかもしれない。
「……ごめん」
蓮がそう言うと、千鶴は首を横に振った。
「謝らんでええ。おまえには、おまえの事情があったんじゃろ」
その言い方が、蓮の胸に引っかかった。
千鶴は、何かを知っている。
そう思った。
けれど、すぐに尋ねることはできなかった。
千鶴は蓮の顔をじっと見ていた。
そして、震えるように息を吐いた。
「……大きくなったなぁ」
「もう二十五だよ」
「そうじゃったな」
千鶴は、かすかに笑った。
しかし、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。
二人はしばらく、玄関で向かい合っていた。
七年という時間が、二人の間に横たわっていた。
蓮は、千鶴の顔に刻まれた皺を見つめた。
自分がいなかった七年間。
千鶴は一人で、この家に暮らしていた。
その事実が、今になって重くのしかかってくる。
「中に入らんか」
千鶴が言った。
「うん」
蓮は靴を脱ぎ、家の中へ入った。
懐かしい匂いがした。
畳と古い木材、それから、千鶴がいつも使っていた薬の匂い。
居間には、昔と同じ場所に仏壇があった。
蓮の両親の写真も、変わらずそこに置かれている。
その隣には、見覚えのない写真が一枚あった。
蓮が視線を向けると、千鶴がすぐに写真を伏せた。
「……誰の写真?」
「なんでもない」
千鶴の返事は早すぎた。
蓮はそれ以上、聞かなかった。
けれど、胸の中にまた一つ、疑問が残った。
⸻
午後。
集落の小さな集会所には、悟の葬儀に集まった人々が集まっていた。
祭壇の中央には、悟の遺影が置かれている。
写真の中の悟は、笑っていた。
高校生の頃と変わらない、少し歯を見せた笑い方だった。
蓮はその写真をじっと見つめていた。
最後に会ったのは、七年前。
高校生だった頃だ。
それ以来、一度も会っていない。
悟がどんな仕事をしていたのか。
誰と暮らしていたのか。
どんな人生を送っていたのか。
蓮は何も知らなかった。
友人だったはずなのに、七年という時間は、二人の間に深い溝を作っていた。
「……悟」
声に出した瞬間、胸の奥が痛んだ。
遺影の中の悟は、何も答えない。
蓮は手を合わせた。
目を閉じると、昔の記憶が蘇った。
山の中を走る悟。
泥だらけになって笑う悟。
少女と並んで歩く悟。
蓮は目を開けた。
そのときだった。
背後から、誰かの声が聞こえた。
「蓮……なのか?」
振り返る。
集落の老人が立っていた。
老人は蓮の顔を見つめ、驚いたような表情を浮かべた。
「……七年ぶりか」
蓮は答えなかった。
集落を出てから、老人と会話をしたことは一度もない。
もちろん、ここにいる誰とも話していない。
「悟の葬式に来たんか」
老人が尋ねた。
蓮は短く頷いた。
老人はそれ以上何も言わなかった。
ただ、蓮の後ろ――。
集落の奥にある山を見た。
その視線を追うように、蓮も振り返る。
山の木々の向こう。
古い教会が見えていた。
胸の奥が、ざわついた。
子どもの頃から、近づいてはいけないと言われていた場所。
誰も入ってはいけない。
理由を聞いても、大人たちは答えてくれなかった。
あの少女が消えた日も、彼女は教会の近くで目撃されていた。
それを知っているのは、蓮と悟だけだった。
少なくとも、蓮はそう思っていた。
蓮は教会から目を逸らした。
そのとき。
ポケットの中の手紙が、指に触れた。
――竹中悟が死んだ。
差出人のない手紙。
誰にも話していない手紙。
なぜ、自分に送られてきたのか。
そして、なぜ悟の死を知らせる必要があったのか。
蓮は、集会所にいる人々を見回した。
誰も、手紙の存在を知らない。
千鶴も知らない。
悟の死を悼む人々も知らない。
それなのに、蓮だけが知っている。
その事実が、ひどく不気味だった。
手紙のことは、誰にも話さない。
蓮は、改めてそう決めた。
理由は分からない。
その答えを知ることになるのは、もう少し先だった。
そしてこのときの蓮は、まだ知らなかった。
悟の死が――。
幼い頃からのその島へ遊びに来ていた少女と、高校二年で島へ引っ越してくるまで島根県内の高校に通っていた彼女、そして自分が生まれ育った島にある集落に隠された秘密に、深く繋がっていることを。




