最終話 友情相関図 -友達かどうかを決めるための明日-
午後三時ごろ、未央が教室に来た。
保健の先生と榊原が付き添っている。
長くは滞在しない、無理をしない、接客はしない。
その条件付きだった。
未央が教室に入ると、二年三組の空気が一瞬止まった。
昨日までなら、誰かが「未央!」と駆け寄っただろう。
理沙かもしれない。
咲良かもしれない。
瀬戸がいたら、きっと立ち上がっていた。
でも今日は、誰も一斉には動かなかった。
理沙だけが、ゆっくり近づく。
「座る?」
「うん」
未央は頷いた。
理沙は未央を窓際の席へ案内した。
そこには、凛が置いた芽衣の写真がある。
未央は、その写真に気づくと、足を止めた。
凛が言う。
「見せ物じゃないから」
「うん」
「でも、隠すのも違うと思った」
未央は、しばらく写真を見つめた。
そして、小さく言った。
「芽衣ちゃん、文化祭来られたかな」
凛はすぐには答えなかった。
理沙も、咲良も、田辺も、誰も言わない。
やがて凛は言った。
「わからない」
「うん」
「でも、来てほしかった」
未央の目に涙が浮かんだ。
「うん」
それだけだった。
謝罪ではない。
許しでもない。
回収でもない。
ただ、来てほしかったという言葉。
それが、今の二人に言える精一杯だった。
未央は、少しだけ星空ソーダを飲んだ。
咲良が「薄くない?」と心配し、田辺が「さっき作ったのは大丈夫」と確認する。
未央は小さく笑った。
「おいしい」
その一言で、咲良が泣きそうな顔になった。
「泣くほど?」
田辺が言う。
「泣いてない」
「泣きそう」
「麻衣、今日ちょっと厳しくない?」
「言っていいって言ったから」
「言ったけど!」
未央がそのやりとりを見て、静かに笑った。
その笑顔は、以前のような「みんなを安心させるための笑顔」ではなかった。
疲れていて、弱くて、それでも自然な笑顔だった。
瀬戸真琴は教室には来なかった。
桃井紗季も来なかった。
けれど、夕方近くに榊原が二枚のメモを持ってきた。
未央に直接渡すかどうか迷ったが、未央は受け取った。
一枚は瀬戸からだった。
短い文章だった。
> すみませんでした。
> 話せるようになったら、ちゃんと話したいです。
> でも、未央さんが嫌なら、話さなくてもいいです。
未央はそれを読み、ゆっくり折りたたんだ。
すぐに返事はしなかった。
もう一枚は桃井からだった。
> 記録するだけじゃなくて、止めることもできたはずでした。
> ごめんなさい。
> いつか、芽衣さんの写真を凛さんに渡したいです。
凛はそれを読んだ。
長い間、黙っていた。
そして言った。
「今じゃない」
未央が頷く。
「うん」
凛はメモを畳んだ。
「でも、捨てない」
それは、今の彼女にできる返事だった。
文化祭終了のチャイムが鳴った。
校内に、少し疲れた拍手と歓声が広がる。
二年三組の星空カフェは、売上だけで言えば大したことはなかった。
メニューも少なく、宣伝もしていない。
客数も他のクラスよりずっと少ない。
でも、流星クッキーは最後に売り切れた。
星空ソーダも、思ったより出た。
夜空のホットケーキは、最後まで幻のメニューのままだった。
片付けが始まる。
机を戻し、飾りを外し、紙コップをまとめる。
星形の飾りを外そうとしたとき、未央が言った。
「一つだけ、残してもいい?」
葛西が頷いた。
「いいと思う」
選ばれたのは、最初に未央が黒板に貼った黄色い星だった。
文化祭準備の日、咲良が青と黄色で迷い、未央が黄色を選んだ星。
事件の始まりからずっと、教室に残っていた星。
未央はそれを、黒板の隅にそっと貼った。
その下に、透真が書いた言葉がまだ残っている。
誰か一人を選ばないこと。
未央はそれを見て、透真を振り返った。
「雨宮くん」
「何」
「友達って、線じゃないのかもね」
透真は、少しだけ考えた。
以前なら、きっとすぐに冷たい言葉で返した。
線じゃないなら何だ。
曖昧なものに名前をつけるから壊れる。
友情なんて、結局は思い込みだ。
そう言えた。
でも今は、別の答えを選んだ。
「少なくとも、数字ではないな」
未央は、小さく笑った。
「それ、雨宮くんらしい」
「褒めてるのか」
「うん」
「誰にでも言ってるんだろ」
「いいと思ったら言うから」
「そうだったな」
透真は、黒板の文字を見た。
友情相関図。
そのタイトルは、もうどこにも書かれていない。
スマホにも表示されない。
黒板からも消えた。
けれど、完全になくなったわけではない。
人と人との間には、これからも線が生まれる。
近づいたり、離れたり、結び直したり、時には切れたりする。
そのたびに、誰かを傷つけるかもしれない。
誰かを救えるかもしれない。
何もしないことで、誰かを一人にするかもしれない。
でも、もう相関図に決めさせる必要はない。
線は、自分たちで見ればいい。
見えないなら、聞けばいい。
間違えたら、すぐに正解を出そうとしなくてもいい。
時間をかけて、引き直せばいい。
窓の外では、文化祭の終わりを告げる夕焼けが校舎を染めていた。
教室の中に、黄色い星が一つだけ残っている。
二年三組の生徒たちは、それぞれの片付けを続けていた。
理沙は未央の隣にいる。
でも、以前ほど近すぎない距離で。
凛は芽衣の写真を見つめる。
隠すのではなく、大事に持ち帰るために。
写真の中の芽衣は、相変わらず控えめに笑っていた。
もう、その笑顔の意味を確かめることはできない。
けれど凛は、その写真を「証拠」としてではなく、「友達」として鞄にしまった。
咲良と田辺は、最後の紙コップを片付けながら、何かを言い合っている。
田辺が少し怒り、咲良が少し困り、それでも二人とも離れない。
葛西は榊原と、今後の話をしている。
羽田は撮影許可を取ったうえで、黒板の黄色い星だけを写真に撮った。
黒川は「最後まで力仕事かよ」と言いながら、少し笑って机を運んでいる。
透真は、教室の端に立っていた。
まだ中心には行かない。
でも、完全な外側でもない。
その中途半端な場所から、彼は教室を見ていた。
見ているだけでは、足りないことを知ったうえで。
「雨宮くん」
未央が呼ぶ。
「その星、少し曲がってない?」
透真は黒板の隅を見る。
黄色い星は、確かに少し斜めになっていた。
「直せばいいだろ」
「届かない」
「黒川を呼べ」
「雨宮くんのほうが近い」
「面倒だな」
そう言いながら、透真は黒板へ歩いた。
黄色い星に手を伸ばす。
少しだけ角度を直す。
「これでいいか」
未央は頷いた。
「うん。いいと思う」
その言葉を聞いて、透真は手を下ろした。
誰にでも言う優しさ。
以前の透真なら、それを嫌った。
今も完全に好きになったわけではない。
けれど、その言葉を受け取ってもいい日が、たまにはあってもいい。
そう思った。
教室の窓から、夕方の風が入る。
黄色い星が、小さく揺れる。
それは、相関図に描かれた線ではなかった。
ただ、そこにある一つの星だった。
そして二年三組の教室には、もう誰か一人を中心にした線はなかった。
それぞれが、それぞれの距離で立っている。
近すぎず、遠すぎず。
まだ不器用で、まだ傷だらけで、まだ答えには遠いまま。
それでも、前よりは少しだけ、自分の足で立っている。
透真は、黒板の隅に残ったチョークの粉を指で払った。
友情相関図は――もうない。
けれど、友達かどうかを決めるための明日なら、まだ残っている。
文化祭の終わりを告げる放送が、校内に流れた。
二年三組の星空カフェは、静かに閉店した。
黄色い星だけを、教室に残して。
-了-




