聖女の私。
両手から何か大きなものが抜け落ちていくのを実感していた。
ありがとうございます、ありがとうございますとひたすらに頭を下げて、喜びに沸く彼らは、私が何を犠牲にしてここに立っているのかを知らない。
足元に落ちた無数の花びらが、風に舞う意味を、彼らはきっと知ろうともしないのだろう。
事が済めば、私なんていてもいなくても同じなのだから。
ゆえに、大理石の床に写る私という「器」が、どれほどに脆いものなのかを知る者はいないのだ。
*
*
「聖女様」
この世界に落とされて、私が初めて耳にしたのはこの言葉だった。
知っている者のいない世界。
両親は初めから存在せず、友人はもちろんいなかった。
見慣れたはずのビル群は存在せず、少し淀んでいるはずの空は色を変え、海のように深い色をしたそこには二つの太陽が浮かんでいた。
じりじりと大地を焦がすそれが示すのは、ここがまさしく異世界であるということ。
そして、そこに住む人々は、私がいた世界の人たちと確かに同じ形をしていて、同じように言葉を喋るのに、何かが大きく違っていた。
それは眼差しかもしれないし、仕草かもしれないし、呼吸かもしれなかったけれど私にはその違いを見分けることはできなかった。
ただ、漠然と違うと、そう思った。
彼らは、突然、知らない世界に呼ばれて錯乱する私を同情的に見つめながら、だけど同時に、何か得体の知れないものを眺めているような遠い目をしていた。
怖かった。
ただ、ひたすらに怖かった。
怯えて膝をつく私に向けて繰り返される「大丈夫」という言葉は、遠い昔、法事で聞いたお経のように温度を持たない。見下ろす視線には一つの感情も乗っておらず、ただ表面上、仕方なく励ましているのだと分かる。
私は初め、ただひたすらに母を呼んだ。知らない人間に囲まれて、明らかに知っている世界ではないのに、それでもどこかに母がいるのではないかと信じていたのだ。
やがて、どれだけ呼んでも母は来ないと知り、今度は父を呼んだ。その次に弟や姉の名を叫び続けた。
喉がちぎれるほどに泣き喚き、ほとんど半狂乱だったはず。前後不覚であるというのに、あの日を忘れることができない。
ひとしきり叫んだ後は立ち上がって、走り回り、逃げ出そうとした。自分の家を探すために。
そこまでしても何が起こっているのか分からなかったし、最初の数日は、悪夢を見ているのだと本気で信じていたのだ。
そんな私が、現実を受け入れたのはいつだっただろうか。
ただ、ある日突然、思い立ったように理解した。
私は、この世界に拉致されてきたのだと。
「聖女様、またドレスを第二皇子殿下におねだりしたんですって」
神殿侍女が、眉間に皺を寄せてそんな話をしている。
通りかかった私に聞こえるように、声を潜めることもなく「恥知らずね」と罵った。
それを視界に映しながら自室に戻る私。
後ろを歩く護衛が珍しく「ちっ」と小さく舌打ちする。品がない。
真面目が形になって歩いているような彼にしては珍しいとは思ったが、あえて突っ込むようなことはしなかった。
長い長い神殿の廊下を辿って、振り返ることもなく自室の前にたどり着くと、彼は当たり前のように私がそうするよりも前に扉を開いた。
この世界に来た当初は、誰かに扉を開けさせることに慣れなかったのだけれど、聖女としての威厳を保つ為にも自らドアノブを掴むようなことはしないでくださいと言われれば、そうするより他にない。
私はこの世界では生まれたての赤ちゃんのような存在で、人に言われなければ呼吸することもままならなかった。
教えられたことを、教えられた通りにやるしかなかったのだ。
「先ほどの話は本当ですか」
部屋に入って扉を閉めた途端、護衛が責めるような口調で言う。いや、明らかに責めているのだろう。
狭くも無い部屋に、彼の通り良い声が妙に響く。
「そうね」と返すと、彼は面白いほどにしっかりと眉を顰めた。口角も下がっている。
「ドレスならたくさんあるでしょう。それこそ選べないほどに」
彼の声は、苛立ちと僅かな怒りをはらんでいた。
怒鳴ったりはしないところがさすが護衛騎士といったところか。主である私に威圧的な態度をとることはない。だから、護衛のお小言を聞き流しながら、頭に被せていたベールを脱いだ。
反動でバサリと肩から背中にかけて滑り落ちた髪。
ここに落とされてから過ごした日数分、長く、重く、伸びきっている。
聖女の髪はむやみやたらに人に見せるものではないらしい。自室から出るときは、聖女の為に用意されたベールを被ることが定められていた。
繊細な刺繍が施されたベールを床に落とすと、どこから現れたのか、私付きの「世話役」と呼ばれる女官がそれを拾う。
能面のような顔をしている彼女は、文句の一つも言わず、拾い上げたベールをどこかに持って行った。
唇を縫い付けているのか、吐息さえ聞こえない。
初めからそうだ。
神殿侍女とは違い、世話役の彼女たちは、私が何をしようと気にも留めない。
聖女の世話をするのは業務の一環であり、好意でやっているわけではないのだと知っている。まるで時間の無駄だといわんばかりに、無駄口一つ叩かず、まるでロボットのように淡々と仕事をこなしていく。
話しかけてみたこともあったけれど。
「聖女様」
ひきずるほどに長いベールを抱えてどこかへ消える侍女の背中を見送っていると、焦れた様子の護衛がとげの立った声で呼びかけてくる。
「なぁに?」
「話は終わっていませんよ」
「まだドレスのことを言っているの? いくらあっても困らないじゃない。私は聖女なんだから。お披露目する機会なら、それこそ数え切れないほどにあるでしょう」
天蓋付きのベッドに腰掛けながら言うと、護衛は「まだお昼ですよ」と苦言を呈す。
声にこそ出さないが、こんな時間なのに寝るのかと非難しているのだ。他にもすべきことがあるだろう、と。
「昔は、そんなものに興味も示さなかったではないですか。何が欲しいか聞いても困った顔をするくらいだったのに。いつからそんなに強欲になったのです」
言葉を選ばない、繊細さとは無縁の護衛に思わず苦笑が零れた。
どこまでも正直な男だ。
「酷い言い草ね。私はただ単に、知らない世界に慄いていただけで、無欲だったわけじゃないわ。ここに来てからも、ここに来る前も、欲しいものはたくさんあった。だけどいつだって遠慮してきたのよ」
私には姉と弟がいて、何となく、いつだって彼らに遠慮していた。
気の強い姉は、妹の私に張り合うような人だったし、末っ子の弟は甘え上手だった。
そんな二人に挟まれたものだから、私は、何をするにも角がたたないように自分を抑えていたのである。
「では、なぜ」と、秀麗な顔にはっきりと侮蔑の色を乗せて「今になって遠慮するのをやめてしまったんですか」と言い募る護衛。
相手はあくまでも真剣だったけれど、可笑しくて笑いだしそうだった。
「そんなことに何の意味もないって気づいたから。遠慮するなんて馬鹿らしいでしょ。だって、私は聖女なんだから。聖女は皆に大切にされて愛される存在なんでしょう?」
「だから、ドレスや宝石などを欲しがるのですか?」
「そうね、そうかもしれないわ」
大人五人が寝そべってもまだまだスペースがありそうな大きなベッドに上半身を投げ出した。
足はベッドから落ちている。
「しかし、そんなことをしていてはいつか必ず愛想つかされますよ」
女性の寝室だというのに当たり前のような顔をしている護衛の顔をぼんやりと眺める。神様はこの世界の人間をとても丁寧に、丹精に作り込んだらしい。美しい顔に、立派な体躯。
「聞いていますか? 聖女様」
彼は、私に助言を与えているつもりなのだろうか。
コバルトブルーの瞳に魅入っていると、彼は両目を眇めたまま見つめ返してくる。
「貴方は、私が変わってしまったと思ってるのね。そして、それを非難してる」
この世界に召還されたあの日から一体、どれくらいの時が経ったのだろう。
少なくとも数えられるほどの短い日数ではない。指一本を一年としても両手では足りないほどの月日が流れた。
元いた世界であれば、私はきっと成人式を迎えていただろうし、もしかしたら就職していただろう。
けれど、この世界と元の世界では時の流れる時間が違うらしいと聞かされて、日にちを数えることをやめてしまった。
「だけど、貴方だって変わったわよ」
「……どこがですか?」
扉の前で、背筋を伸ばして立っているこの護衛は、私がこの世界に落とされたその日からここにいる。
「口うるさくなった」
「っな、」
「怒りっぽくなったし、優しくなくなった」
「それは貴女が、」
「だけど嫌いじゃないわ」
そう、嫌いじゃない。
初めからそうだった。彼のことだけは嫌いじゃなかった。
今だって、多分、そう。
「ねぇ、人は変わるものでしょう?それは、誰にも止められないのよ。私にも、貴方にも」
取り替えたばかりのシーツが甘い匂いを放っている。
この世界にも柔軟剤らしきものがあるようだ。ふかふかと柔らかな感触が、元の世界の、シングルベッドを思い起こさせる。
指を滑らした感触は、呆れるほどに、こちらの世界のもののほうが素材が良い。
さらりとした感触が冷たくて心地良い。
「……百歩譲って、貴女が言う通り人は変わるものだとしても。私は、ここへ来た当時の聖女様のことを好ましく思っていましたよ。そして、貴女だけはきっと、変わらないだろうと思っていました」
ぽつりと落とされた言葉に思わず目を瞠る。
出会った頃の彼は、今よりもずっと無表情で何を考えているか分からない顔をしていた。眼差しは冷め切っていて、私を見る目に温度はない。
言葉は少なく、いつだって義務的に行動し、あくまでも職務として私を守った。
だからこそ、私は彼を、他の人よりも少しくらいは信頼しても良いと思えたのだ。仕方なく与えられる優しさなんていらなかった。
だけど、そうか。
彼が私のことを、ほんの少しでも好ましく思っていたのだとしたら話は違ってくる。
職務に忠実な彼だからこそ、有事の際も個人的な感情は排除して、きちんと役目を果たすだろうと思っていた。
でも。昔の私を好ましく思っていたのだとしたら。
その好意を失ったとき、彼はまだ私を護ってくれるのだろうか。
「怯えて、臆病で、怖がりで、誰かの言いなりで、いつだって故郷を恋しがって。―――――この世界を恐れていた私を好ましく思っていたのね」
ふんと鼻を鳴らし、嘲るように言って見せると、彼の青すぎる双眸が大きく揺らいだ。
この部屋で、長い時間を一緒に過ごした彼だからこそ、私がここへ来たときの様子を誰よりもよく知っている。
「いえ、そうではありません。貴女は謙虚で控えめで、努力家で寂しがりやだっただけです」
息をつくこともなくそう言い放った騎士は、少し泣き出しそうな顔をしていた。
「今は、変わった?」
ベッドに転がったまま尋ねる。体が鉛のように重い。
聖女の力を使うと、途端に体力を奪われる。
誰かを救った分、私は、神に報いを受けるのだ。
この世界の、神に。
「……少なくとも、昔の貴女は、ドレスを欲しがったりはしませんでした」
またその話か。
非難めいた口調の騎士に苦笑が漏れる。
「この国にはお金があるんでしょう? 私のおかげでお金が集まってくるじゃない。聖女のいる、神の加護がある国にあやかろうと、周辺国なんて頭も上がらない状況でしょう」
だったら、ドレスくらい何だって言うの。
それを欲しがる私を、誰が責められるというの。
「だからと言って、最近の貴女は目に余ります」
まだ不満があるらしい護衛が、静かだけれど、決して優しくはない声を向けてくる。
「ねえ、もう良いでしょう? 貴方が言いたいことは分かった。そろそろ出て行ってくれない? 私、眠りたいのよ」
目を閉じても尚感じる護衛の視線から逃れるように寝返りを打つ。そうすると、やっと口を閉じる気になったのか、その人は深く息を落とした。
ため息をつきたいのは、私のほうだ。本当は叫び出したくて、けれど、その声を呑み込んだ。
ねえ、知ってる?
私は、この世界に召還されたせいで全てを失ったのよ。
平凡な日常も、学校生活も、友人も、家族も。
それは、世界を滅ぼされてしまうのと、どれくらい違うのだろう。
家族を殺されるのと、どれくらい違うのだろう。
命を奪われるのと、どれくらい違うのだろう。
ドレスや宝石では到底埋められない、とんでもなく大きくて価値あるものを奪っておきながら、それを非難するのはやめてちょうだい。
私に、何一つ、返してくれる気はないくせに。
私から、全てを奪ったくせに。




