魔族の神たる魔王の城にて
「――――いくら何でも帰りが遅すぎる。」
中央大陸――大陸とは言ってもそこは島。魔王の城と、その城下にいくらかの草原と海岸線が面しただけの、小さな陸だ。
魔族の神たる魔王の力の気配の濃さに時空が歪み、その時は他大陸の幾倍もの遅さで進む。
そんな中央大陸を魔王の息子が旅立ってから、3日が経っていた。
「……陛下、ちょっと神経質すぎるんじゃねぇの。坊だって世界中を見て回るつって出てったんだ。のんびり待とうぜ。」
そう気楽に告げたのは海守のキース。
「海の上は、俺やこの人が守ってるんだ。そう心配すんなよ。」
気安い態度に傍らに立つアレクシアはこら、と彼を諌める。
「キース。魔王さまに対する口調を、」
「はいはい、分かってるって。」
もう何年も続くやり取りを、魔王は眼を細めて見守った。
――――この中央大陸に住まう者は、全て魔王が招いた者たちだ。魔王が選んで、魔王が喚んだ。なぜなら、この大陸だけは、他の大陸と『違う』から。
おいそれと、誰でも迎え入れる訳にはいかない。
「――――そういえば、お前たちにはこの世界を作った時の話をしていなかったな。」
おもむろに口を開く魔王をキースとアレクシアは振り返る。
「この世界を作った時の話ってぇと、」
「お前たちの知る話では、この世界は俺が産み俺が作り俺が管理している。そうだろう?」
「――――違うのですか?」
美しい声で歌うように尋ねるアレクシアにキースは一瞬でれっとしたが、すぐに首を振って正気に戻った。魔王が呆れた顔で見ているのに気がつくと、胸を張って言う。
「俺ぁ、今この人と居られる事の方が世界の成り立ちよりよっぽど重要で「こら、キース。」……分かったよ。」
しっかり尻に敷かれているなと魔王は少しだけ笑って、「良い、良い。」と手を振ってアレクシアを宥めた。
「お前がそんなだから、俺はお前たちを喚んだんだよ。」
「――――――って言うと?」
魔王は微笑んで、水鏡の上に手をかざした。するとそこにはどこか遠くの景色が朧気に映る。
ゆらりゆらりとゆらめく水面に映るのは、一人の女性。
その身体はふわふわと空中に漂い、眼は閉じられている。
「――――――この方は、どなたですか?」
「俺の妻だ。」
「妻!?」
「そうだ。俺の妻にしてこの世界の創造主。白銀竜の右目。灰色の魔女。呼ばれ方は色々有るが――――名をキリカトゥール・トワエル・イスカトゥルスという。」
「……キリカトゥール様。」
「……この世界の創造主?」
魔王が名を口にした途端、水鏡に映る女の眼がゆっくりと開く。その右目は青にも緑にも不思議に輝き、口は緩慢な動きで言葉を紡いだ。
『…………アークライト。』
頼りなく揺らめく水面に、魔王は語りかける。
「まだあいつは帰ってこない。もう少し頑張れるか?」
ゆっくりと頷くキリカトゥールのその瞳の輝きがまして、不思議な力で空間が満たされた。
恐ろしいような、懐かしいような。そんな気配に、アレクシアの羽がぶるりと震える。
――――――途端に、『世界の記憶』の渦に飲み込まれた。
『あ なた に あ えない せか
い な ら』
渦の中で、女の声がこだまする。
『あ ぁ 、 アー ク ライ ト』
渦は視界全部を声で満たして、波が引くかのような穏やかさで消えて行った。
「――――一体、今のは何だってんだよ。」
「陛下、先ほどの現象は一体、」
言いながらふらりと傾ぐアレクシアの身体をキースは最大限に注意を払って受け止めて、自身の頭がひどく痛むのを頭を振って誤魔化した。
「……旧世界の記録だ。」
そんな2人を魔王は冷静に見守って、静かに告げる。
「旧世界?」
「この世界が創られる前に、存在した世界のことだ。この世界は、灰色の魔女が創り、灰色の預言者が管理している。」
「はいいろの、」
うわごとのようにつぶやくアレクシアの脳裏には、先ほどの記憶がハッキリと焼き付いている。
魔王の言う旧世界。
この世界が創られる前に存在した世界。
魔王と魔女の、生まれた世界だ。
『あなたにあえないせかいなら、』
灰色の魔女は、世界の管理者に恋をした。けれども彼女は魔女で、彼を愛する資格も手段も無かったから。
『あなたにあえないせかいなら、いらない。』
だから、彼女は、世界を『壊した』のだ。
『あなたに逢えない世界なら、いらない。』
『あなたが手に入らない世界なんて、いらない。』
『――――――あなたの側に居られる世界を、創らなくては。』
何もなくなった世界の端っこで、魔女は涙を流して決意を決めた。
『―――あぁ、アークライト。』
そうして魂をたくさんに割って、ばら撒いたのだ。
「――――――わたしたちは、」
つぶやくアレクシアに、魔王は微笑む。
「この世界に生きる者には全て、キリカトゥールの魂の欠片が分け与えられている。お前たちは生まれながらにして彼女に守られているんだよ。」
天も地も、キリカトゥールはこの世界の全てを創り出した。そうしてそこに生きるものに魂の欠片を与えて、世界の楔に。創りたての世界が、バラバラになって壊れてしまわないように。
アークライトとの世界を、繋ぎ止めるために。
「世界ってさ、何で出来てると思う?」
魔王はキースとアレクシアに問いかける。
「【ものがたり】だよ。この世界に生きるお前たちが生み出す【ものがたり】で、世界は出来てる。」
『おとぎ話のアレクシア』を見る魔王の目はひどく優しい。
「この世界に有る全てのものに起きる全てのことが、この世界を構成する【ものがたり】になるんだ。」
特別強い【ものがたり】を自らの元で管理しながら、彼は彼女の目覚めを待つ。
この世界が本当に安定しきった時、かの魔女は原始の海から解放されるのだから。