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猫が隠した星 〜楽園に行く前に、片付けることがある人たち〜  作者: Junbi
本編

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19/33

第十四幕 まずは家に帰ってください

 僕が三匹の猫についての情報を散らかしたあと、扉をくぐれるはずだった人々のなかに、妙に元気になる者が出た。


 もともと彼らは、世界の裏側にいる大きな敵について、かなりまえから知っていたことになっていた。


 名前は一定しない。宇宙人、支配者階級、記録管理層、奥の席に座っている連中、宇宙人の手下、宇宙人の後ろにいるなにか。


 細かいところは人によって違ったし、たいていは違いすぎた。


 会合場所は地下だったり、月の裏側だったり、古い庁舎の四階だったりした。暗号は住民票の欄外にあることもあれば、病院の受付番号にあることもあった。


 僕が公開した情報と符号していたのは、ほんの一部だった。


 けれど、そのほんの一部がよくなかった。


 怒る者もいた。黙り込む者もいた。資料を読み込む者もいた。


 彼らは、急に正しくなったわけではない。けれど、全部間違いだと言い切られる立場でもなくなった。


 その中途半端な勝利が、この手合いをいちばん勢いづかせた。


 ある日から、公民館のチラシラックに、見慣れない紙が増えはじめた。


 健康体操のお知らせ、包丁研ぎの日程、古い防火標語の横に、それは差し込まれていた。


『受付に注意してください』


 太い字で、そう書いてある。その下には、すこし小さな字で、いくつかの注意が並んでいた。


『任意提出は断れます』


『共同管理という言葉に注意してください』


『持ち帰ったものを預けないでください』


『説明会のまえに、この紙を読んでください』


『まず家に帰ってください』


 カヂルグミは、それを一枚抜いて読んだ。


 一部の紙はラミネートされていた。屋外用らしい。角は丸く切ってあり、濡れても平気なように穴まで開いている。穴には紐が通してあった。


 持ち帰るなという紙が、持ち帰れるように加工されていた。


 横の長机では、女が次の紙束をそろえていた。その手つきは、とても正確だった。


 ラミネーターが低い音を立て、熱を持った紙をゆっくり吐き出している。


 ラミネートされていないものは、クリアファイルに入っていたり、差し込み式のケースにまとめられていたりした。たぶん、女のなかでは屋外用と屋内用で分かれている。


「こちらの職員の方ですか」


 カヂルグミはたずねた。


「違います」


 女は顔を上げずに答えた。


「ここでなにを?」


「設置しています」


「設置?」


「はい」


「この注意書きを設置しているんですか?」


「はい」


 女は、ラミネートされた紙の束を持ち上げた。


「設置許可はありますか?」


「ありません」


「では、未許可設置者ですね」


「許可を取ると、名前を書くことになります」


「名前を書くことが問題ですか?」


「名前を書けば、説明を聞いて、番号をもらうことになります」


「受付ですね」


「受付です。だから取らないんです」


 女は、紙束の角をそろえながら言った。


 カヂルグミは、受付という言葉の範囲をすこし広げた。


 救済が来るまえから、女は似たような紙を作っていた。


 そのころの見出しは、『受付に注意してください』ではなかった。『受付を信用しないでください』だった。


 役場では奥の椅子へ案内された。家族には病院を勧められた。病院では、静かな部屋へ通された。ネットでは、また始まった、と言われた。


 女は、そのすべてを資料にした。


 奥の椅子へ案内された日は、日付を残した。勧められた病院の名前も残した。削除された投稿は、削除されるまえに印刷していた。受付で受け取った番号札は、写真に撮ってから返した。


 どれも、支配者階級に直接つながる証拠ではなかった。ただ、女にとっては、全部同じ棚に入るものだった。


 人を座らせる椅子。名前を書かせる紙。待たせる番号。任意という言葉。説明する側の机。


 そういうものが、女にはずっと危うかった。


 その資料作りは、救済後に終わるどころか、すこし大きくなった。


 宇宙人はいた。支配する側もいた。記録は管理されていた。恐怖体験記録は支配に使われていた。


 女が言っていたことが全部正しかったわけではない。むしろ、細かい部分はかなり間違っていた。


 けれど、全部間違いだと言われるほどでもなくなった。


「インターネットに広告を載せたほうがいいのでは」


 カヂルグミは、資料を見ながら言った。


 女は、顔を上げなかった。


「最初に済ませたに決まってるでしょう。バカだと思ってるんですか」


「確認です。対応言語は」


「百八十七です」


「多いですね」


「足りません」


「足りませんか」


「方言があります。あと、共同管理という言葉は、言語ごとに別の顔をします」


 カヂルグミは、紙に書かれた『共同管理』という字を見た。


 こういう話は、だいたい面倒だった。面倒なうえに、完全なでたらめではないところが、さらに面倒だった。


 女は、救済を疑っているわけではなかった。


 扉の向こうが罠だとも思っていない。人間が蔵のなかで整えられ、いずれ地球へ戻ってくることについても、異論はなかった。


 だからこそ、怖かった。


 地球は一度、空になる。けれど、空になった地球へ、人は順番に戻ってくる。


 先に戻った者たちは、あとから戻る者のためになにかを用意しようとするかもしれない。


 案内板を置く。説明会を開く。受付を作る。任意の様式を配る。善意の顔で、持ち帰ったものを預かりますと言う。


 そうして、せっかくほどけた世界が、また名前と番号と机で結び直される。


 彼女が疑っているのは、扉の向こうではない。空になった地球へ戻ってくる人間たちの手つきだった。


「特にいちばん危ないのが、任意の様式です」


 女は、ラミネートの角を切りながら言った。


「危ない?」


「はい」


「任意なら断れます」


「断れる任意は、わざわざ様式にはなりません」


 カヂルグミは、反論用の言葉を探したが、すぐには見つからなかった。


「この『共同管理』は危険な言葉ですか?」


「危険です。共同の部分はだいたい本当ですが、管理の部分がうそです」


「『説明会のまえに、この紙を読んでください』というのは」


「説明会に入ってからでは遅いので」


 女は、そう言って新しい紙をラックに差した。


「途方もない活動のように思えます。協力者はいるんですか」


「いました」


「過去形ですね」


「ポルトガル語班は昨日行きました。中国語班は先週。ドイツ語班は、最後に『もう十分だと思う』と言っていました」


「十分では?」


「十分だと思える人から、向こうへ行くんです」


「つまり、十分ではない?」


「十分じゃないから残ってるんです」


 女は、束ねた紙を箱に入れた。


「広告班も行きました。自動配信を設定してから。紙資料班は、蔵のほうが印刷品質がいいと知って、いつの間にかいなくなっていました」


「あなたは行かないのですか」


「行きません。まだ、こちら側の備えが十分ではありません」


「戻ってきた人は、現時点では確認されていません」


「だから今のうちです」


 女は、カヂルグミを見た。


「帰ってきてからでは遅いでしょう」


 その言い方も、完全に間違ってはいなかった。


「啓発資料は、扉の奥で配布すればよいのでは」


 カヂルグミが言った。


 女の手が止まった。


 ラミネートした紙の角を切る刃が、半分だけ入ったところで止まっている。


「本気で言ってます?」


「はい」


「危ないと思えない場所で、危ないって紙を配ってどうするんですか?」


 カヂルグミは黙った。


「扉の奥では、危機感が軽くなるでしょう?」


「ええ。苦痛の軽減です」


「知っています。それが問題です。だから、今やってるんです」


 女は、刃を最後まで入れた。


 紙の角が丸く落ちた。


「向こうで読んだら、これはたぶん親切な資料になります」


「親切な資料ではないのですか」


「ちゃんと読んでください」


 女は、積まれた紙束を指で叩いた。


「これは、嫌な紙です。受付のまえで、ちょっと嫌な気分になるための紙です」


「扉の奥で配ることは可能です」


「だから」


 女は、紙束をそろえ直した。


「可能でも、遅いんです。向こうで幸せになってから、こんな紙を真面目に読みますか?」


 カヂルグミは、女のまえに積まれた紙束を見た。


『受付に注意してください』


『任意提出は断れます』


『共同管理という言葉に注意してください』


『まず家に帰ってください』


 女の言うとおり、幸せになってからは読まないかもしれない。


 しかし幸せじゃないから読む、とも思えなかった。


「人はいずれ、地球へ戻ってくるんでしょう?」


「はい。準備が整った方から、順次」


「戻りはじめたときがいちばん危ないんです。最初の人たちは、たぶん親切のつもりで机を置く。あとから戻る人のために、説明用の紙を作る。名前を書く欄を作る。持ち帰ったものを確認します、預かります、共同で管理しますと言う」


 女は、新しい紙をラックに差した。


「それで受付ができます。善良な顔で。楽土を作るまえに、受付を作るんです」


「再発確率は、低いと予測されます」


「ゼロ?」


「ゼロではありません」


「つまり必要ということです」


 この女は、業務対象者のなかでは、かなり筋がよかった。完全には否定できないことばかり言うので、扱いに困った。


 本人のなかでは、世界を守るための作業なのだろう。


「なにか、お手伝いできることはありますか」


 カヂルグミはたずねた。


「あります」


「内容は」


「駅です」


「駅」


「各駅に配ります」


「移動手段は」


「トラックです」


「電車ではないのですか」


「まず駅まで紙を運びます」


「なるほど」


 女は、紙束をまとめて外へ出た。


 公民館の外には、十トントラックが停まっていた。


 荷台には、紙束、古いチラシラック、折りたたみ机、三角コーン、養生テープ、ガムテープ、ホワイトボード、拡声器、腕章、スタンプ台、ファイルケース、小型発電機が積まれている。


「トラックの運転資格は」


「あります」


「あるんですか」


「当たり前でしょう。自殺志願者に見えますか?」


「確認です」


 女は当然のように運転席へ上がった。


 カヂルグミは助手席に座った。


 座席が高かった。


 彼は楽しそうだった。


 いちばん手前の箱には、英語、韓国語、ポルトガル語、スペイン語、アラビア語、ヒンディー語、そのほかたくさんの言語で、同じような紙が入っていた。


『受付に注意してください』


『まず家に帰ってください』


 どの言語でも、だいたいそのようなことが書いてあるらしかった。


 トラックは、公民館のまえをゆっくり離れた。


 荷台のなかで、紙束とチラシラックがかすかに鳴った。


「広告だけでは駄目です」


 女はハンドルを握ったまま言った。


「広告は消えます。検索順位は動きます。帰ってきた人が端末を持っているとは限りません。最初に見るのが、駅の掲示板か、役場のチラシラックか、病院の会計横かもしれない」


「会計横ですか」


「机と紙がある場所は危ないんです」


「資料を置く場所も、机と紙に近いです」


「だから先に置きます」


 最初の駅は、商店街の端にあった。


 女は駅前にトラックを停め、荷台から紙束とチラシラックを下ろした。カヂルグミも箱をひとつ持った。


「どこに置きますか」


「改札横です」


「改札が閉じています」


 女は改札横に紙を差した。観光案内の棚、忘れ物案内の近く、券売機の横にも差した。


 貼れる場所には貼った。貼れない場所には、持参したラックを置いた。


 ラックを置く場所がない駅には、ラックを置く場所についての注意書きを置いた。


 次の駅へ向かう車内で、カヂルグミが言った。


「電車で移動したほうが効率的ではありませんか」


「電車が動いているなら、そうですね」


「電車の運転免許はお持ちですか?」


「あるように見えますか?」


「可能性は感じています」


「ありません」


「そうですか」


「あなたは?」


「ありません」


「運転はできますか?」


「地球の鉄道運行には、資格と運行管理が必要です」


「資格なんて、もう意味ないでしょう」


「意味は低下しています」


「できるんですか。できないんですか」


 カヂルグミは黙った。


「運転自体は、可能です」


「では、各駅停車でお願いします」


「私は運転するとは言っていません」


「いま可能と言いました」


「可能と実施は別です」


「そういう言葉で、人は窓口に並ぶんです」


 カヂルグミは、嫌な顔をした。


 女はそれを見て、勝った顔をしなかった。そんな暇はない、という顔だった。


 それから、本当に各駅停車で回ることになった。


 だれが止めるべきだったのかは分からない。たぶん、もうだれも深く気にしていなかった。


 カヂルグミは運転席に座り、確認して、普通に電車を動かした。


 女は駅ごとに降り、チラシラック、改札横、観光案内の棚、忘れ物案内の近くに紙を差した。


 ひとまず、その路線の終点まで行った。


「次はどこですか」


 カヂルグミが聞いた。


「駅です」


「すべての駅で停車しました」


 女は、紙束を抱えたままカヂルグミを見た。


「すべての駅って、どの線の話ですか?」


「現在乗車中の路線です」


「鉄道会社が一社だけだと思ってるんですか?」


「思っていません」


「じゃあ、怠けようとしましたね」


「作業量の圧縮を試みました」


「怠けようとしましたね」


「はい」


 女は、紙束を荷台に積み直した。


 不思議なことに、カヂルグミは途中から楽しくなった。


 停車位置は正確だった。ドアの開閉も、たぶん必要以上にていねいだった。発車ベルの音も気に入っていた。


 女が資料を差しに行っているあいだ、カヂルグミは運転席で次の作業を調べている。


 あらかたの駅を回り終えるころには、紙の冊子を読んでいた。


「なにを見ているんですか」


「航空機の操作方法を確認しています」


 女の顔に、期待が出た。


「……飛ばせますか?」


「当たり前でしょう。救済の使者ですよ?」


 女は初めてうれしそうな顔をしたが、その表紙に『基礎』という言葉を見つけて黙った。


「基礎段階で人を乗せるつもりですか?」


「九十六パーセントの確率で、目的地までお連れできます」


「百パーセントまで待ちます」


「では、空港への移動は延期ですね」


「また駅です」


「また駅ですか」


「また駅です」


 このころのカヂルグミは、地球のことをだいぶ理解していた。そのぶん、怠けることも、楽しむことも覚えていた。


 初期の彼なら、電車を運転するまえに、もっと長い確認をしたはずである。


 女は、そんなカヂルグミに容赦がなかった。


「次は病院です」


「すでに四百十七か所の医療機関に設置済みです」


「駅の近くにあったところだけでしょう」


「はい」


「医療施設が四百十七個しかないと思ってるんですか?」


「思っていません」


「では、言わないでください」


「はい」


 女は、通過できる状態にあった。扉は出ているし、本人も向こうを疑っていない。


 資料も十トントラックも、手荷物として扱おうと思えば扱えた。


 引っかかっているのは荷物の量ではなく、終わらない作業のほうだった。


「あなたの扉は、すでに形成されています」


「知っています」


「通過できます」


「まだ病院も終わっていません」


「医療機関はかなり回りました」


「かなり、では足りません」


「広告は世界中に配信済みです」


「広告は消えます。紙は残ります」


「現時点で戻ってきた人は確認されていません」


「確認されてからでは遅いんです」


 女は、荷台の端に立って、最後の箱を押し込んだ。


「配布対象が広すぎます」


「帰ってくる場所が広すぎるんです」


「終わりません」


「終わらないものを、始めない理由にするのは管理側の論法です」


 カヂルグミは考えた。


 また、完全には否定できない言い方だった。


 女は荷台を閉めた。


「出発します」


「どこへ」


「病院です」


「また病院ですか」


「まだ病院です」


 カヂルグミは、反論しなかった。


 女は運転席へ回った。


 ドアが閉まる。


 エンジンがかかった。


 公民館のチラシラックには、また一枚、紙が増えていた。


『受付に注意してください』


 その下には、小さくこう書かれていた。


『まず家に帰ってください』


 まだだれも帰ってきていなかった。

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