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猫が隠した星 〜楽園に行く前に、片付けることがある人たち〜  作者: Junbi
本編

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第十二幕 怒ったまま移動するための道具


 男は、バイクをいじっていた。それは、もうだいぶ古いバイクだった。


 タンクには小さなへこみがあり、右のミラーだけが新しく、左のウインカーはテープで雑に留めてあった。きちんと手を入れて乗りつづけているのか、壊れるたびにその場しのぎで間に合わせているだけなのか、見ただけではよく分からなかった。


 たぶん、両方だった。


 男はしゃがみこみ、工具を片手に、前輪のあたりをのぞき込んでいた。口にはなにもくわえていないのに、ずっとなにかを噛み潰しているような顔をしていた。


 工具箱のなかは思ったより整っていて、使った工具は一度、地面に置いてから、また同じ場所へ戻していた。


 その後ろに、扉が出ていた。


 立派な扉ではなかった。白い引き戸で、古い車庫の壁にでもついていそうな戸だった。道端の空き地に一枚だけ立っていて、そこだけ妙に風の通りがよかった。


 男は、それを一度も見なかった。


「通過準備は完了しています」


 カヂルグミが言った。


 男は工具を回したまま、答えなかった。


「扉は、あちらです」


「見りゃ分かるわ」


「見ていないようでしたので」


「見とるわ」


 男は見ていなかった。


 カヂルグミは、男の手もとをしばらく観察した。バイク、工具、油、曲がったナンバープレート、切れかけた結束バンド。


 人間がなにかを通過しないとき、その理由は本人よりも周辺物に出ることがある。カヂルグミはそういうことを、地上業務のなかですこしずつ学んでいた。


 学んではいたが、いつも間違えた。


「向こうでも、バイクを違法に改造できますよ」


 男の手が止まった。


「うるさい」


「違法性の再現は、希望に応じて調整できます。近隣苦情も発生しません。発生させることもできます」


「いらんわ」


「速度超過の体験も、事故を伴わずに可能です」


「黙れ」


 男は工具を地面に投げず、ちゃんと工具箱に戻した。そこだけ妙にていねいだった。


 それからヘルメットを拾い、バイクにまたがった。


 エンジンがかかった。


 古い音だった。きれいではない。うるさいし、すこし遅れて唸る。壊れかけているのか、もともとそういう音なのか、知らない者には分からない音だった。


 けれど、男の顔にはよく合っていた。


「通過は保留ですか」


「知るか」


 そう言って、男は走り去った。


 カヂルグミは空き地に残り、白い引き戸と、地面に落ちていた小さなナットを見比べた。


 ナットは扉に引っかかっていなかったので、拾って工具箱の上に置いた。


 バイクは不機嫌な唸りをあげて、道を走っていた。


 男はヘルメットのなかで、まだなにかを噛み潰すような顔をしていた。


 ヘルメットの内側はすこし臭く、グローブの縫い目が右手の親指に当たり、アクセルを開けるたびに古いエンジンがすこし遅れて唸った。


 道は空いていたが、気分がよくなるほどではなかった。信号は残っているし、段差はあるし、風は思ったより冷たい。


 赤信号で止まると、男は片足をつき、前のめりになって待った。アイドリングの振動だけが腹の下に残っている。


 何年もまえの顔や、言われた言葉や、笑い方や、金のことや、寒かった部屋のことが、止まっているあいだだけ近くなった。


 青になると、男はすぐにアクセルを開けた。


 別に、どこかへ行きたいわけではなかった。戻りたい場所があるわけでもなかった。どこへ行ってもよかったが、どこに行けばいいのか分からなかった。


 男は、なにかを選んだ記憶があまりない。


 家には、いつもすこしずつなにかが足りなかった。米、灯油、小銭、替えの靴下、明日まで乾いている靴。


 どれも、人に言えば小さいことにされるものだった。けれど、小さいものが毎日足りないと、だんだん腹の置き場がなくなっていく。


 学校には行っていた。机に座り、黒板を写し、帰りに買ってこいと言われたものを思い出した。


 進路の話は、だれかが大きな声で決めたわけではなかった。ただ、遠くへ行く金はなく、近くへ行く成績もなく、働けば家の空気がすこしだけましになった。


 男は、働くことになった。


 だれかに命令されたわけではなかった。そこが、腹立たしかった。


 命令されたなら、命令したやつを恨めた。けれど、そういう名前はなかった。


 足りないものが足りないまま積もって、残った方へ歩いたら仕事場だった。


 朝、呼ばれたところへ行く。壊れたものを運ぶ。汚れたものを拭く。謝らなくていいときに頭を下げる。


 だれかが怒鳴り、だれかが笑い、だれかが「お前はこっちじゃろ」と言う。男も笑う。笑ったことに腹が立つ。


 気づいたときには、怒るのだけがうまくなっていた。


 町には、もう人がすくなかった。


 すくないというより、いない場所の方が多かった。


 コンビニの自動ドアはまだ開いたし、駅前の電光掲示板は遅れている列車を律儀に表示していたし、ショッピングモールの立体駐車場には、だれも取りに来ない車が何台か残っていた。


 世界が終わったというより、世界の用事だけが先に終わって、人間の方が置いていかれたようだった。


 男は、モールの搬入口からバイクで入った。


 だれにも止められなかった。


 食品売り場のまえを抜け、閉じた携帯ショップの横を通り、フードコートの床にタイヤの跡をつけた。


 椅子はきれいに机の下へ収まっていた。だれかが最後に片づけたのか、もともとそういう状態だったのかは分からない。


 男は寝具売り場まで走り、展示用のベッドの横にバイクを停めた。


 値札には、ふざけた金額が書いてあった。男はしばらくそれを見てから、ベッドの上に寝袋を広げた。


 買うつもりもないものの上で寝ることに、ざまあみろという気持ちがすこしだけあった。けれど、寝心地は悪くなかった。


 悪くなかったことに、すこし腹が立った。


 朝になると、カヂルグミがいた。


 寝具売り場の通路に折りたたみ椅子を置き、コーヒーを淹れていた。横には携帯灰皿が置かれていたが、タバコは吸っていなかった。


 湯気だけが、だれもいない売り場で妙に生活のような顔をしていた。


「なんでおるんじゃ」


「あとから来ました」


「それは見りゃ分かる。なんで来れたんじゃ」


「担当対象の位置は、おおよそ分かります」


「おおよそで来んな」


 カヂルグミは紙コップを差し出した。


「コーヒーです」


「見りゃ分かる」


「嫌いですか」


「嫌いじゃない」


「では、どうぞ」


 男はしばらく紙コップを見ていたが、受け取った。礼は言わなかった。カヂルグミも、それを要求しなかった。


 コーヒーは、悪くなかった。


 ベッドの上には、薄い冊子が置かれていた。わざとらしく開かれていて、男の目線に入る位置にある。ページの中央には黄色いマーカーで線が引いてあった。


 怒りは六秒待ちましょう。


 男はそれを見て、コーヒーを飲んだ。


「七秒まえからブチギレとるわ」


 カヂルグミはなにか言いかけたが、やめた。


 男は冊子を閉じ、枕もとの値札の上に置いた。値札の金額と冊子の標語が並ぶと、どちらも同じくらい信用できなかった。


 その次の日、男は高級ホテルのロビーで寝た。


 入り口の自動ドアは開かなかったので、非常口の方から入った。バイクはロビーの奥まで押していった。


 革張りのソファは柔らかすぎたので、男は結局、床に寝袋を敷いた。天井の高い場所で寝るのは落ち着かなかった。寝返りを打つたびに、自分が場違いなものとしてロビーの床に転がっている感じがした。


 転がりながら、暖房の効かない部屋を思い出した。


 窓の下に敷いた布団。朝になると内側まで冷たくなっている靴下。台所に置かれた小銭の皿。だれかが飲み残したペットボトル。


 そういうものは、どれも大した不幸ではなかった。大した不幸ではない顔をして、男のなかにずっと残っていた。


 朝になると、カヂルグミがフロントカウンターのなかでコーヒーを淹れていた。隅には、ホテルの喫煙室から持ってきたらしい灰皿が置かれていた。


 横には、ストレスボールがあった。


「握るものです」


「ぶん投げてええんか」


「握るものです」


「いらん」


 男は紙コップだけ受け取った。


 次の日は、健康ランドの休憩室だった。


 だれも座っていないリクライニングチェアが、同じ角度で並んでいた。大きなテレビだけが点いていて、だれも見ていないのに、通販番組がずっと包丁を売っていた。


 切れ味のいい包丁が、肉も魚も野菜もまとめてきれいに切っていく。男はその音を聞きながら眠り、朝になると、やはりカヂルグミがいた。


 小さな丸いクッションが置かれていた。


「殴打用です」


「だれを」


「対象代理物です」


「いらん」


 男は紙コップだけ受け取った。


 何日か、そんなことを繰り返した。


 男は走った。泊まった。起きるとカヂルグミがいた。カヂルグミはタバコを吸っているときもあれば、吸っていないときもあった。


 コーヒーだけは、だいたい淹れていた。


 怒りを鎮める冊子。握るボール。殴るクッション。呼吸の手順を書いた紙。気分を記録するための小さな表。


 そういうものがひとつずつ出てきて、ひとつずつ役に立たなかった。


 男は毎回、腹を立てた。


 けれど、コーヒーは飲んだ。


 男は、どこで寝てもあまり眠れなかった。


 寝具売り場のベッドは柔らかすぎた。ホテルの床は広すぎた。健康ランドの休憩室は、だれもいないのに人のにおいが残っていた。


 広い場所には広い場所の、柔らかいものには柔らかいものの、使われなくなった部屋には使われなくなった部屋の、いちいち気に入らないところがあった。


 ある朝、カヂルグミはなにも用意していなかった。


 コーヒーだけを淹れて、バイクを見ていた。


 場所は、高速道路のサービスエリアだった。売店は閉まっていて、空の土産物棚に、やけに派手な饅頭の箱だけが何個か残っていた。


 駐車場は広く、遠くのトラック用の枠だけが、使われないまま白く残っていた。


「今日は、なんもないんか」


「はい」


「やっと学んだんか」


「すこし」


「すこしかよ」


「はい」


 男は紙コップを受け取った。


 カヂルグミは、男のバイクを見ていた。右のミラーだけが新しい。左のミラーは古く、縁が錆びている。


 タンクの傷は、倒したときのものか、倒されたときのものか、見ただけでは分からない。分からない傷は、そのまま男の持ち物としてそこにあった。


「あなたは、落ち着くためにバイクに乗っているわけではありませんね」


 男はコーヒーを飲んだ。


「知らん」


「気分を晴らすためでも、忘れるためでもない」


「勝手に分かった顔すんな」


「分かってはいません。分類を変更しています」


「余計腹立つわ」


 男はそう言ったが、その日は走り去らなかった。


 サービスエリアの駐車場は広かった。白線のなかに車はほとんどなく、トラック用の枠だけが妙に大きく空いていた。


 男は紙コップを両手で持ったまま、しばらくその空白を見ていた。


 男は紙コップの縁を親指で潰した。紙が柔らかくへこみ、コーヒーがすこし揺れた。


「扉をくぐったら幸せになるんは分かった」


 カヂルグミは、なにも言わなかった。


「じゃあ、俺が今まで腹立てとったぶんは、どこへ行くんじゃ」


 コーヒーの湯気は、もうほとんどなかった。


「怒りは、いずれ同じ形では残らなくなります」


「なくなるんじゃろ」


「はい」


「よう分からんけど、なくなるんなら嫌じゃ。ムカつくんじゃ」


 男はコーヒーを飲み切り、紙コップを地面に置いた。礼は言わなかった。カヂルグミも、やはり要求しなかった。


 その次の朝、カヂルグミはまたコーヒーを淹れていた。


 場所は、最初の空き地に近い道端だった。白い引き戸は、すこし離れた草地の端に出ていた。


 まえに出ていた場所と同じではなかったが、同じ戸に見えた。戸が追ってきたのか、男がそこへ戻ってきたのか、どちらでもあった。


 男は、それを見た。


 見て、すぐ目をそらした。


「提案があります」


「ろくでもないやつじゃろ」


「可能性はあります」


「認めるな」


「あなたは、扉の先でも怒っていたいのですね」


 男はバイクを見た。


「知らん」


「怒ったまま移動したい」


 男は黙った。


 カヂルグミは、バイクの方を向いた。


「バイクに乗ったまま蔵のなかへ進入してみる、というのはどうですか?」


「は?」


「怒りは、いずれ同じ形では残らなくなります。ただし、通過直後にどの程度保持されるかは、個人差があります。数秒か、数分か、数時間かは分かりません」


「分からんのか」


「はい」


「分からんくせに言うな」


「分からない範囲を含めて、提示しています」


 男は鼻で笑った。笑いにはならなかった。


「バイクで行けば、ちょっとは怒ったままでおれるかもしれん、いうことか」


「はい」


「俺の怒りは、バイクでちょっと長持ちするくらいのもんか」


「そういう意味ではありません」


「ほいでも、そう聞こえるんよ」


 カヂルグミは黙った。


 男は立ち上がった。紙コップを地面に置き、グローブをはめた。


 グローブの革は薄くなっていて、指のあたりに油が染みていた。油が染みたところだけ、手になじんでいる気がした。


 彼はヘルメットをかぶり、あご紐を留めた。留め具がすこし引っかかったが、何度か指で探って、ようやくはまった。


「試すだけじゃ」


「はい」


「行くとは言うとらん」


「はい」


「お前の言うとおりにするわけでもない」


「はい」


「はいはい言うな」


「はい」


 男はバイクにまたがった。


 扉は、草地の端に立っていた。古い引き戸だった。白く、静かで、見ようと思えばずっとまえからそこにあったようにも見える。


 扉というより、だれかが閉め忘れた戸だった。閉め忘れたものの向こうに、もうひとつの道がある。


 男はエンジンをかけた。


 古い音がした。


 カヂルグミは道の脇に立っていた。成功したような顔はしていなかった。けれど、失敗すると決めている顔でもなかった。


 たぶん本当に、確認していた。


 扉の奥には、道が見えた。


 ただの道だった。広く、乾いていて、信号がなく、料金所もなく、だれかに呼び戻される気配もなかった。


 そこを走れば、どこまでも行けそうだった。


 男はアクセルをすこし開けた。


 バイクがまえへ出る。


 このまま行ける気がした。


 その瞬間、男はすこしだけ疲れた。


 怒るのに疲れた、というだけだった。


 けれど、その一瞬、向こうで自分がだれかと笑っているところが浮かんだ。気に入らない連中と、腹も立てずにしゃべっている。悪い気分でもない。


 握手をしているかもしれない。肩を叩いているかもしれない。昔のことを、そんなこともあったと笑っているかもしれない。


 その顔が、どうにも気に入らなかった。


 男は扉の直前で、ハンドルを切った。


 曲がりきれなかった。


 バイクが横へ倒れ、砂利を削った。男の体が投げ出され、肩から地面に落ちた。


 ヘルメットが草にぶつかり、視界が一瞬だけ白くなった。息が詰まり、口のなかに土の味がした。


 バイクは倒れたまま、勢いだけで滑った。


 そのまま、白い引き戸の向こうへ突っ込んだ。


 音はしなかった。


 壊れる音も、ぶつかる音も、エンジンが止まる音もなかった。バイクは戸の向こうに消えた。


 あれだけうるさかったものが、最初からなかったみたいに消えた。


 男だけが、こちら側に残った。


 しばらく、どちらも動かなかった。


 カヂルグミが男のそばに来た。


「移動補助具のみ、先行通過しました」


「ふざけんな」


「ふざけてはいません」


「じゃけえ、それがムカつくんじゃ!」


 男はゆっくり起き上がった。肩を回し、膝についた砂を払った。大きな怪我はなさそうだった。


 痛みはあったが、痛みがあることにはすこし安堵した。痛みは、まだこちら側のものだった。


 地面には、左のミラーが落ちていた。根もとから外れ、鏡面に細いひびが入っている。


 男はそれを拾った。


 ひびのなかに、自分の顔がすこしだけ映った。


 男はそれを地面に叩きつけた。


 一度では割れなかった。男はもう一度拾い、今度は砂利の上の大きな石に向かって振り下ろした。


 鏡面が砕け、細かい破片が草のなかへ散った。


 カヂルグミは、それを止めなかった。


 扉はまだ開いていた。


 道は残っている。


 男のための戸も、まだ閉じていない。


 それでも、男は行かなかった。


 男は、壊れたミラーの根もとだけを握り、怒ったように扉へ背を向けた。歩き方は乱暴だった。足もとの砂利が、いちいち跳ねた。


「どこへ?」


「知るか!」


 男は振り返らなかった。


「全部がムカつくんじゃ!」


 カヂルグミは、返事をしなかった。


「死ね! 全員死ね!」


 男はそのまま、扉に背を向けて歩いていった。

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