アルバム
* * * * *
まるで古城の一部のような大学の正門を通り抜けると、芝生が青々と生茂る広場に出た。
その芝生を貫くように伸びた茶色の通路を、音楽を聞きながら歩いて行けば、広場の端の方に外部からの見学者がわらわらと集まっているのが見えた。
大学から派遣される専門の案内員が門などにあしらわれた彫刻の意味や、芝生には入らないようになどの注意点を長ったらしく彼らに述べている。一瞬垣間見た彼らの外見や聞こえてきた言語から察するに、見学者たちは外国からの観光旅行客のようだ。
ベンチに腰かけて語らう学生たちの前を通り過ぎ、あとで学部にも顔を出さなければとぼんやりと思い浮かべながらカレッジの中に足を踏み入れた。
夏のカレッジは独特の匂いがする。
今から約900年前に創立された、世間で言う『歴史ある大学』ということもあり、ここだけ見ていれば歴史の趣が感じられるものの、今では近代的な雰囲気の学部もそこら中に建っていた。これほどに重厚な雰囲気を出しているのは、大学の中心部であるカレッジと図書館、大学博物館と大聖堂くらいだろう。
カレッジ内を黙々と歩き続けてようやくある地点で足を止めた。
足元に下ろした重たい鞄からファイルを取り出し、今までの研究結果をまとめて考察まで下書きした資料たちを引き出して大雑把に流し読みをした。
資料には昨夜頭を抱えながらひねり出した言葉が並んでいるが、真剣に読み返すときっとまた訂正したくなるに違いなかったから、そこまでじっくり読むことはしなかった。
ページが抜けてないかを見てから、自分の学部とナンバー、名前が記入されているかを最後の最後に確認する。名前が見えるようにファイルに入れて、銀色のポストがずらりと並んだ中から教授の名を探して投函した。
あとからどんな指摘が来るだろうと考えると少し気が重くなる。何でもかんでもケチをつけてくるから困ったものだ。
卒業にも進級にも、学部とカレッジ両方からの評価が必要である点は、この大学の厳しいところだと思っている。
「……おいってば!」
同じように別の教授の名が記されたポストに投函したらしい青年が、こちらの肩をぐいと掴んできた。
驚いて顔をあげた先に、入学当初に良く話していた友人がいた。学年が進んで研究室に配属されてからは全く顔を合わせてなかったから久々の対面になる。
「何度も呼んだんだぞ」
そう言われて、イヤホンを外して相手に謝った。
「お前の愛称から本名まで全部言っちまった。アーティだろ、アートだろ、アーサーだろ、これ全部二回ずつ!」
先程から大声で叫んでいる奴がいるなとは思っていたが、まさか自分を呼んでいたとは。
「でかい音でかけてるんだろ。耳、悪くするぞ」
「お前もな」
相手の首にかけてある黒いヘッドフォンからロック調の音楽が微かに流れている。指摘された相手は「違いない」とケラケラと声をたてた。
「相変わらず元気そうだな」
おう、と手をあげて返事をする彼が自分の金髪を掻き揚げると、煙草の匂いがうっすら漂ってくる。学年が進むごとにストレスが溜まって飲酒喫煙が多くなると言うが、彼はその典型らしい。
「お互い電子での提出を許してくれないところが悲しい。面倒だっていったらありゃしない」
課題提出をメール添付やフォームへのアップロードでの提出を許可してくれれば楽なのに、という意味だ。
論文に関わるものだから、そういうものに関しては必ず手で触れる媒体で出してこいというのがお互い師事する教授と中央機関カレッジの言い分だった。
そのくせ、教授たちに関しては、メールで文句を言ってきたりするのだから理不尽だ。
「なんだ、その荷物。どこか行くのか?」
友人が示したのは、俺の足元にある黒い旅行用の鞄だ。
「ああ、このまま真っ直ぐ実家に帰るんだ」
長期休暇にマンチェスターの実家に帰ろうと前々から決めていた。世間では長期休暇でも、研究があるから実質1週間しか休みはないのだが。
「なるほど、帰省か。楽しんできてくれたまえ」
「父親と弟に会ってくるだけだよ」
「家族水入らずだろ、いいじゃねえか。俺なんて実験中の細胞の面倒を見なくちゃいけなくて、この夏も親に顔を見せず終い。細胞を育て、細胞と見つめ合う毎日……帰省できるお前が羨ましいってのに、お前は何でそんなに浮かない顔してるんだ」
長い台詞を噛まずにすらすらと並べ立てながら、彼は笑った。
「暑くて笑ってなんていられないだろ」
太陽の位置は時間が経つにつれてどんどん真上へと昇って行っている。それにつれて気温も瞬く間に上昇しているのは温度計を見ずとも分かった。
「それもそうだな。水分とりながら帰省しろよ。電車の中で倒れたら大変だ」
けらけらと笑う彼はリュックを背によいせと背負うと、くるりと俺に背を向けた。
「じゃ、また」
「ああ」
手をあげて別れの挨拶をすると、彼は出入り口の方へ向かっていく。扉の近くには女が一人待っており、彼の恋人なのだと思った。
並んで歩き出す二人を眺めてから、自分も鞄を肩にかけて反対方向へ歩き出した。カレッジの奥から出ていくのが一番の早道だと思いつき、来た道を戻らず真っ直ぐ突っ切っていく。
カレッジの奥には再び広場があり、正門すぐの広場より人が少ない。
向かいに見える馬鹿みたいに広い図書館を遠目に見ながら裏門へ進んで行くと、クライストチャーチ大聖堂が厳かに立っていた。大学内だけでなく、この州一帯の祈りの場である大聖堂へ、多くの老若男女が向かっていく。
ミサが始まるのだろう。今日は日曜日だ。
陽射しを手で遮る。暑さに小さく唸って目を閉じると、風がこれでもかと緩やかに感じた。
肌に触れ、じっとりとした汗を冷やして奥へと流れて消えて行く。瞼を下ろして瞳を覆えば、季節を忘れてしまいそうなくらいに涼やかに感じた。
夏も終わりなのだと、風を感じて思った。
大学のあるオックスフォードからマンチェスターまで、電車でおよそ3時間。駅まで移動時間や、駅から実家までの時間を考えると何だかんだ4時間かかる。
大学に入学してから実家に帰ることなど片手で数えられるほどあったかと首を捻ってしまう程なのだが、今回はどうしても確認したいことがあり、唯一とも言える連休を利用して帰省することに決めた。今回の帰省について父親には伝えているから、食糧は準備してくれているだろう。
オックスフォード・サーカス駅では自分と同じく故郷へ帰省しようとする学生らしき数人と擦れ違った。
乗換がなくて移動時間が長いものと、乗換があって移動時間が短いもので悩んだが、結局は値段が若干安く設定されている、移動時間が長い方を選んでチケットを購入した。
案外値段が高かったと、金がなくなった後の寂しい財布を見てため息をついてしまう。
服を2日分しか入れていない荷物は軽いはずなのだが、何せ研究の資料が9割を占めているせいで恐ろしいほどに重い。
電車に乗り込み、見つけた席の足元に置いた瞬間からもう二度と持ちたくはないと思ったが、少なくともあと3時間は担がなくていいと思うと少しは救われた。
電車の中で、最初は課題として出されていた論文を読んでいたのだが、結局は集中できず本を読むことに徹した。
アガサ・クリスティの『And Then There Were None(そして誰もいなくなった)』だ。大学入学当初に初めて読んで最後の結末に身を震わせたのを覚えている。
昼にオックスフォードを出て、実家の前に降り立ったのは17時を回っていた。懐かしいと思えるのはしばらく帰っていなかったからだろうか。
亡き母が世話をしていた夕暮れの庭は、声をかければ母が顔を出しそうなくらいに変わっていない。季節によって咲く花を変えるその小さな庭には青い花が咲いている。
あの花の名は何と言っただろう。幼かった頃に母に聞いたはずなのに思い出せなかった。
庭を横目に、玄関のドアの前に立った。
実家を出た時に鍵は没収されてしまったので、チャイムを鳴らすしか家に入る術は無い。
電子音が軽快に響くと、少しあってから扉がゆっくりと開き出し、その時点で父だと直感した。弟なら、外側にいる人間になど構わず勢いよく開ける。
「ただいま」
4時間ぶりに発した声は掠れてしまっていた。
エジプト人の父を持つ、イギリス人の父がのっそりと現れる。白髪が増えたと、姿を見て真っ先に思った。
「おかえり、アーサー」
略称ではない本名で呼ばれて、何だか背筋の伸びる思いがした。眼鏡の奥にある温かな瞳に俺が映っている。
「早く中に入りなさい。夕方は冷える」
無口ながら、一言一言に温かみがある。
入ってドアを閉めると、父は奥のリビングへと向かって行った。
「リックは?」
尋ねた時、父はすでにソファに腰をかけていた。テーブルに広がった新聞を手に取り、眼鏡をかけ直して広げて読み始める。
「18時を過ぎた頃に帰ってくるよ」
高校生の弟はいないようだった。
弟のお気に入りであるテニスラケットがいつもの場所にないからクラブか何かで学校に行っているのだろう。そもそも弟がいたら、無言な空間など許さないくらい賑やかになるはずだ。
リビングに荷物を持っていくと、きちんと片付いた部屋が現れる。懐かしい匂いが立ち込める。綺麗好きで几帳面な父は週末にも関わらず掃除をしているのだ。
「夕飯は昨日リックが作ったものが残っているから、温めて食べなさい」
父と弟が交互に炊事をしていると聞いていたが、昨日は弟の番だったらしい。
「父さんはもう食べた?」
「いいや」
新聞を読み終えていたことを思い出したのか、本に持ち替えて読み始める父は相変わらず無愛想だ。
「ならリックが帰って来たら一緒に食べよう」
父からは返事は無かった。それを肯定と受け取る。
弟から、父が寂しがり屋になったと話は聞いていた。どうせ一緒に食べたいに違いないのだ。素直ではないのは年をとっても変わらないらしい。
サイドボード上の置き時計に視線を移すと、時計の隣にあった母の写真が自然と目に入った。埃ひとつない写真からは、父が毎日掃除をして大事にしていることが窺える。
母が亡くなったのは8年前のことだ。
母の死後も黙々と働き続け、息子二人の学費と自分への投資のためのある程度金を稼ぐと仕事もやめて、第二の人生といいつつ、自分の趣味にいそしむようになったのが父だ。
要請があれば仕事を受けるが、もう自分は現役を退いたのだと言って滅多に仕事を受けることは無かった。そういうところは頑固者だ。
母が単体で写っている大きめの写真の隣に、懐かしい家族写真が並んでいた。咄嗟に手に取って、写真に写る人々を順に見ていった。
優しかった祖母、そして祖父。その二人が結婚した当初のもの、父の幼いころのもの、両親が結婚したときのもの、幼い自分とベビーチェアに座った弟が並んだもの、両親と息子二人が並んだもの。
その更に奥には祖父母の出逢った頃の写真がある。遺跡を背景に記念撮影をしているようだ。祖父は少々汚れた格好ではにかみ、対する祖母は日傘を差し、どこかの令嬢であるかのような服装でにっこり笑顔を向けている。
祖父母の結婚は早かったと聞く。白黒写真の中で額に汗を滲ませつつ微笑む祖父は、おそらく自分と同じ年頃だろう。
祖父は、エジプトで祖母と出逢い、祖母の家に婿養子としてやってきた。
写真の中の若かりし頃の祖父を見て、自分は祖父に似ているのだと昔よりはっきり思った。祖父の実子である父より、孫である自分の方が似ている。時が経ち、年を重ねるほどに自分は祖父に似ていっている。
何故自分が父よりも祖父に似ているのか、何故父よりも肌が褐色なのかと尋ねた際に、これは隔世遺伝なのだと親戚に言われたことがあった。隔世遺伝と言えば先祖がえりとも言われるが、数世代を飛び越えてそっくりな顔が出来上がると言うのだから、遺伝とは凄いものだ。
俺と祖父の顔で違う所はいくつかあるのだが、はっきり違うと言えるのは目の色だ。この瞳の色は、純イギリス人の母から受け継いだものだった。
「大学は忙しいのか」
父が何の前触れもなくそんなことを聞いてきた。
「まあね。研究室配属になってから忙しいかな。何をやっても足りないって感じだ」
やればやるほど分からないことが出て来て調べてまた実験して、また分からなくなって調べて、担当教授に相談したら疑問を疑問で返され、図書館に引きこもって文献をあさり、実験をして……その繰り返し。
「そんなものだ。父さんもお前の年の頃は同じだった」
実際忙しい。弟の大学受験もあるし、勉強を見てやれればとも思うのだが、自分のことで精一杯であまりかまってやれていない。
「大学を出たらどうするか、決めたのか」
「フィールドワークに出たいと思ってる」
昔から今日まで未だに人類の脅威になり続ける病原体について現場で直接研究していきたい──研究室の教授にはそう伝えてある。
離れていては分からない。直接見て触れることで分かることもあるはずだと思える点でフィールドワークという調査技法はとてつもなく魅力的だ。
知り合いの研究機関に声をかけてくれると言う教授の言葉に期待しているところだった。
「そうか」
国を出て海外で研究をしていきたいという俺の意見に、父は良いとも悪いとも言わなかった。将来への見通しが立っているかが気がかりだったのだろうか。
「父さん、アルバムって上にしまってあったっけ?」
帰省の目的を思い返し、父に尋ねた。
「いつの頃のだ」
「俺が7、8歳の頃の。ほら、母さんが色々と飾ってくれてたやつ」
「それなら上の書斎にある。探してみなさい」
2階の父の書斎だ。父が仕事をしていた頃は大事な本と資料でごった返しているから入ってはいけないと言われていたが、今では物置となり、父が溜めに溜めた本が積み重なっている。
置いていた荷物を担いで階段を登った。2階には弟と自分の部屋、父の書斎がある。まず、自分の部屋だったところのドアを開けると、弟の荷物置き場と化していて唖然とした。物を捨てられないところは父似のようだ。
こんな物置と化してしまった場所に自分の荷物を置く気にはなれず、結局弟の部屋のドアを開けてすぐのところに置いた。
ぶつくさ文句を言うだろうが、俺の部屋を物置にしている弟が悪いのだからこれくらい許されるべきだろう。
ようやく重たい荷物を置いたところで、父の書斎の方へ足を向けた。
最も奥にあるドア、その先にあるのが言われた書斎だ。あまり開けることがなかったのだろう、ドアを開ける際に軋む音がした。
入ると、埃っぽい匂いがしたが、アルバムがある場所は一目で分かった。
部屋の両側に並ぶダークブラウンの本棚の最も奥の部分に、パステルカラーのアルバムが虹の配色で7冊並べられている。母が亡くなるまでに、まとめてくれていた自分たちの成長の記録だ。
1冊目の淡いピンク色のアルバムが自分が生まれた頃のもので、始めのページに母の筆跡で「Arthur Muhammad Winner」と自分の名がフルネームで綴られている。ミドルであるムハンマドは父方のエジプト人だった祖父から貰った名だ。
この色のアルバムを先頭に、ここからは時系列で並んでいた。
順に辿り着く3冊目の黄色のアルバム。この1ページ目でようやく弟の本名「Eric Cyrus Winner」が登場する。弟のミドルであるサイラスは母方の祖父からとったものだ。ページをめくると幼い自分と生まれたばかりの弟がいた。
目的の写真があるのはいつの頃だろう。
順に一冊一冊を見て行ってようやく、5冊目の青色で見つけた。家族でエジプトへ旅行した時の写真。ついこの前まで忘れていた記憶だ。
旅行写真の始まる冒頭に、母の字で『アーサー8歳、エリック3歳』と書いてある。小さなメモは黄色の花形だ。
ある写真には『エリック泣き止まない、アーサー楽しそう』と添えられており、母に抱かれた弟は何があったのか、くしゃくしゃにした猿のような顔で泣いていた。癇癪を起しているようだ。
写真と一緒に挟まっているパンフレットを見れば分かるのだろうが、昔の自分たちがどこの、何の遺跡の前に立っているのかさっぱりだった。エジプトの知識はこれでもかというほどにない。
次のページをめくろうとした時、下の階から威勢の良い声が聞こえてきた。
「え、兄さん帰って来てるの?マジで!?」
弟の帰還らしい。
そう悟るや否や、弟が軽快な足取りで階段を駆け上がり、真っ先にドアが開いていた書斎に顔をのぞかせてきた。
くるりとした目が廊下の電気を背にこちらを見ている。
「うわ、ほんとに兄さんだ」
「お帰り」
あまりの元気の良さに苦笑してしまう。断然母親似で、限りなくイギリス人に近い容姿を持っている弟は愉快そうに笑っていた。
「ちょっと老けたんでない?」
「大人びたって言え。会って早々に老けたは無いだろう」
悪戯好きな顔を向けて、弟は書斎を物珍し気に見回した。どうやら弟も入るのは久々らしい。
「だって老けて見えたんだから仕方ない。それより兄さんが帰ってくるなんてホント珍しいなあ。何年ぶり?」
「2年ぶり」
「なら明日はきっと雪だ」
声をたてて笑う弟は、俺の傍に寄って手元を覗いて来た。
背も伸びた。顔立ちも大人びた。あれだけ小さかった弟ももう16だ。老けたのはお互い様ではないか。
「どうしたちゃったの。アルバムなんて何年も見てなかったじゃないか。どんな心変わりだよ」
「ちょっとな」
「うわ、なにこれ、俺ちっさ!」
弟は俺から取り上げたアルバムに顔を近づけた。
「父さんも一緒に見ようよ!!やばいよこれ!俺ってばかわいい!」
そのまま書斎を飛び出し、階段を駆け下りる弟の後を俺はアルバム数冊を本棚から引き抜いて追いかけた。
「父さんも一緒に見よう、ほら!本なんてあとでも読めるだろ!」
父の前のテーブルにアルバムを広げ、読書を嗜んでいた父の本を取り上げた。
怒られるのではと思ったが、そんなことはなく、小さなため息をつく父の表情は若干笑んでいる。本をソファに置き、どれどれとアルバムの方に身を乗り出した。
本を取り上げるなどしたら、昔は間違いなく怒っていたというのに随分丸くなったものだ。
「母さんが生きてたころだ。母さんがいる」
不意に出た弟の声はどこか懐かしそうだ。
ほとんど父がカメラを構えていたらしく、母と息子二人の写真が多い。写真の中の母が記憶の母よりもいくらか若かった。数枚写っている父に関しては疑うほどに若々しい。
懐かしい。ただ、それ以前に写真に写る風景ひとつひとつに何か胸が騒ぐような心地がした。見たかったのはこれだ。これを探しに来たのだ。でもこれを見て、自分はどうしたいのか、分からなかった。
「母さんに抱っこされているのが俺でしょ?かわいいなあ。兄さんより断然可愛い」
「猿みたいに泣いてるのに?」
先程の泣きじゃくる写真を指さして茶化す。
「どこが猿だ、兄さんの目は節穴か」
「これはサッカラでの写真だな。お前たちは覚えていないだろうが、ピラミッドがそこら中にあってな、凄かったんだぞ」
サッカラ。エジプトのどの部分にあるのかさっぱりだ。
遺跡の前に建つ自分の身長を思えば、そこの遺跡がかなり大きいものであることだけは分かる。そもそもピラミッドとはそんなにあるものだったのかと驚いた。精々3つくらいかと思っていた。
エジプトの地名にさっぱりなのは弟も同様のようだが、それほど興味は示さず、次の写真へと目を向けていた。
「それにしても、父さん荷物大きすぎ。何これ、何が入ってたの?」
弟が指さした、少しばかり若い父が背負う黒い縦長のリュックはこれでもかと大きい。水分かと思えば、水分は手持ちの鞄に入っているようだし、一体何が入っているのか指摘されて俺も気になった。
「それはエリック、お前のオムツだ。なかなか外れなくて、結局オムツをリュックに詰め込んで旅行に行くしかなかった」
思わず噴き出した。
「それって大変だな。言われてみれば、リックはなかなかトイレに行けなかったって母さんから聞いたことがある」
俺の感想に父は深く頷いた。父と兄の反応に、弟はあからさまに口を尖らせる。
「仕方ないだろ。甘えっ子だったんだ。まだか弱い3歳児を飛行機に乗せて旅行ってどうなの」
「母さんが行きたいって言って聞かなくてな。アーサーはそれほど手のかかる子じゃなかったから、行くことにしたんだ。今思えば、ほとんど勢いだな」
「俺、泣かなかった?ほら、飛行機って気圧で耳もおかしくなるし、俺だったら耐えられないな」
「お前は図太かったから、飛行機では爆睡だった」
幼い弟はか弱くもなんともなかったらしい。バツの悪そうな顔をした弟を横目に、父は弟に笑い掛け、そのままアルバムの中の写真に視線を戻した。
「アーサーはいい笑顔だ。8歳だったお前は、本当にエジプトが気に入ったようだった」
確かに写真の自分は満面の笑みでその頬を紅潮させ、母の手を握って砂漠の上にいる。これほど楽しそうにしているのに、何故つい最近まで忘れていたのだろう。
そもそも母は身体が弱かったから、滅多に大がかりな旅行はしなかった。こんな遠出の家族旅行はこれが最初で最後だったのではないだろうか。
「何で母さん、そんなに行きたがったのかな」
ぼんやりとした調子で弟が尋ねた。当時3歳だった弟に至っては、ほとんど覚えていないだろう。
「母さんはエジプトが好きだった。歴史が好きだったんだな。博物館になら何時間でもいられるってよく言っていた」
遠方の旅行は無くとも、ロンドンの大英博物館になら家族で何度も行っていた。
母に色々と教わりながら歩いたことは今でも覚えている。ただ何を教わったかと聞かれると曖昧なものしか出てこなかった。
「確か、この旅行の時も博物館で見失って、リックを抱いて探し回ったら、カイロ博物館の奥の奥に、アーサーといたんだ。じっとそのあたりの展示品を見ていたよ」
「奥の奥?」
そうだと頷き、父はアルバムの赤褐色の建物を指さした──Egyptian Museum。
エジプト考古学博物館、通称カイロ博物館とも呼ばれる、エジプト最大の国立考古博物館だ。
「この博物館のぐるぐる回ってようやく最後に行きつく場所がある。それが入口から最も遠い展示室だ」
母と一緒に自分がいたという場所。博物館の一室。全く、思い出せない。
「どこにいっても興奮していたお前が、珍しく静かに食い入るように見ていたから妙に覚えてる。目を爛々とさせて、瞬きもせずに見ていたなあ」
「そこには何が展示されてたの?兄さんと母さんは何を見てたの?」
弟の質問に、父は眉間に皺を寄せて首を傾げた。
「……何だったかな」
自分と母が見入っていたという展示室に興味が湧き、近くにあったパソコンを起動させて、検索をかけてみる。
ヒットした中に答えがあった。昔も今も、奥の奥にあるその展示室はある一人の王のためだけに用意された場所だった。
──約3300年前の古代エジプトの少年王、ツタンカーメン。
この王のためだけに。
夜更けにリビングに設置してあるパソコンで論文を開き、その内容をまとめつつ、自分の考えやこうなるであろうという考察、実験方法等を書き込んでいく。
二人が寝静まった家に響くのは時計の秒針と自分のキーボードを叩く音だけだ。
ふと集中力が切れ、視線を上げる。テーブルにあるアルバムに目が引かれるように移った。紅茶を一口含んでから、休憩がてらにまだ片付けずにあった母の残したアルバムに手を伸ばし、徐に開いてみた。
並々と続く昼の淡い茶色に染まった砂漠。聳えるピラミッド。ピラミッド付近で出会ったラクダ。
濁った青のナイル川。真っ赤な夕陽。夕陽に照らされ、黄金に光る砂漠の大地。
幼き日の自分の後ろに映る背景は皆ここにいては目に出来ないものたちだ。
目を閉じれば、夢の中の光景がこれでもかと瞼の裏に鮮やかに甦り流れて行く。人の顔ばかりは曖昧なのに、美しいほどの風景が俺を呑み込む。
アルバムを一人で見返しながら、夢の中の光景は写真のこのあたりなのではないかと思った。
父から聞いた話によると、この写真はルクソールという観光地での遺跡群で撮ったものらしい。
夢の中で、少年の姿をした自分はここを走っていた。でも写真に写っているようにこんなにも色のない場所だっただろうか。色鮮やかで何色にも輝いていたような気がするのに、その面影はあまり写真からは見て取れない。
そこまで考えて自分の思考を引き戻した。
夢に出て来た物を確かめようして、久々に帰ってきた。だがそうして一体どうしようと言うのだ。自分が見たものは夢なのだから、現実のものと違いがあって当然だ。何を写真に求めていたというのだろう。
ならばこの胸騒ぎは何だ。何故口から手が出るほどに、この写真の向こうの光景が欲しいと思えるのだろう。見たいと思えるのだろう。もう一度足を踏み入れたいと、何故こんなにも焦がれるのか。
夢に出て来た場所が本当に存在する根拠などどこにもない。むしろ無いというのが普通だ。でも、そこに何かがある気がしてならない。何がと言われるとはっきりとは言えないが、何かをどこかに、置いて来てしまったままのような、探しに行かなければならないような──。
自分の中で得体の知れないものが暴走するような感覚に、思わず自分の額を抑えた。
「頭、痛いの?」
唐突に声がして顔を上げると、弟が扉の傍に立っていた。
「……なんだ、起きたのか」
「兄さんがいると眠れないんだ。どうしてくれるんだよ」
Tシャツに手を突っ込んでぼりぼりと腹をかきながら弟は冷蔵庫の方へ向かっていく。冷蔵庫を開けてそこから牛乳を取り出した。
「冗談。喉が渇いてさ」
適当にコップを手に取って牛乳を並々と注いだ。
「頭痛薬あるよ。飲む?」
「いや、必要ない」
「あっそ」
せっかく気遣ってあげたのに、と口をすぼめて文句を言う弟は一気に牛乳を飲みほした。
「で、兄さんはどうして帰ってきたの」
軽く濯いだコップをシンクに置き、弟は俺の向かいにあったソファに仰向けに横たわった。
「アルバムを見るためじゃないでしょ」
大きな欠伸と共にそんな言葉が投げかけられる。
「一体どうしたの」
ゆっくりとこちらに相手の視線が向く。この調子では誤魔化しても尋ね続けてくるのだろう。そう思ったら、パソコンの打ちかけていた文章から目を逸らして、天井を仰いだ。
「……毎日、妙な夢を見る」
弟も同様に天井を仰いで目を閉じた。言葉を紡ぐ声色はとても穏やかだった。眠たいのもあるのだろう。
「夢ってどんな?」
穏やかな真夜中の空気に包まれ、まるでほとんど眠っているかのような弟が静かに耳を澄ませている。
単なる夢の話だ。うんうん悩まず、このひょうきんで気の知れた弟に話してしまえば少しは楽になるのではないかと、笑い話をするかのように大まかに夢の内容を語って聞かせた。
夢の中ではいつでも自分は少年で、兄と姉がいる末っ子。どうやら王族のようだが、何やらややこしい事情がある国に生まれた王子らしい。
舞台はおそらくエジプト。風景からすると、時代は古代なのだと推測している。
父は民から異端と呼ばれているが、自分は尊敬を捨てられない。その父が死に、次の王となった兄も死に、今度は自分が王として立たねばならない。
誰の顔も思い出せない。夢ではしっかり見ているはずなのに、夢に出てくる人物の中で顔を覚えている者は誰一人いない。唯一分かるのは、夢で自分である少年の顔はまさしく幼いころの自分であるということだけだ。
最近になって、唐突に家族旅行でエジプトに行ったことを思い出し、その写真をこの目で確認したくて今回は意を決して帰ってきたのだ。
「それはそれは、大層な変な夢だ」
そう言いながら弟は笑うことはしなかった。
「兄さんが王子だなんて、とてもじゃないけれど似合わない。でも、とても不思議だね」
不思議。そう言ってしまえばそれで終わりなのだが、気になって仕方がない。この感情は一体どこからくるものなのだろう。
「俺、その辺りの歴史は好きだよ。授業でちょっとだけかじった。何千年も昔の人たちが作ったものが今もこの時代にあるって凄いなあって思う」
そう言って弟はむくりと身体を起こした。
「エジプトか……じいちゃんの生まれ故郷だ。行ってみるのも、いいんじゃないかな」
あの国へ。幼いころ家族で行ったはずの記憶に薄れてしまった砂漠の地へこの足を踏み入れる──、一瞬でも魅力的に思えたが、自分の置かれた立場と所持金を考えたら鼻で笑ってしまった。学生は常に金が無い。
「簡単に言う」
「でも言うのはタダだ」
真面目に聞いてくれていた弟はそこで初めて悪戯っぽく笑った。ソファから立ち上がってテーブルにあったチョコを手に取って包装をとると素早く口に投げ込んだ。
「あまり思い詰めないことだね。何事もいいところで気を抜いて行かなくちゃ、人生やってられないよ」
「偉そうに」
「偉いからね」
弟の言い草に思わず笑ってしまった。
「あとはあれだ、ガールフレンドは?」
「は?」
「あの美人さんだよ。ほら、俺が去年オックスフォードに行って家に泊めてもらった時に会ったじゃん。慰めてもらえば?」
ああ、と1年前の記憶を引きずり出す。
弟が大学のあるオックスフォードに観光に来て、その際に偶然会って紹介したことがあったのだ。
「彼女とは別れたよ」
「あれれ、そうだったの。初耳だ」
相手は少々目を丸くする。
「研究で忙しいし、今はそれどころじゃない」
「ふったんだ?あれだけ兄さんにぞっこんだったのに」
「言い出したのは俺だけれど、あっちも別れるつもりだったと思う。全然相手できなかった」
「兄さんの悪い所はそこだ。なんにでも自分のことで没頭する。女は相手をしてあげないと離れて行くよ。俺みたいに適度に構ってあげないとね」
2個目のチョコを頬張って、やれやれと弟は肩を落とした。
今はやりたいことがある。やらなければならないことも。
多分自分は彼女とは合わなかったのだ。別れを切り出した際の相手の表情を思い出すと申し訳ない部分もあるが、これでよかったのだと別れてすっきりしてしまった気持ちもある。あのままの関係をずるずる続けていてもきっと、お互い良いことなど一つも無かっただろうから。
「もういい年なんだからさ、目星くらい付けときなよ。社会人になってから相手見つけるって大変だっていうし。婚期逃しちゃう」
高校生とは思えない台詞を冗談気味に言ってみせてくる。
「結婚なんてもっと後でもいい。言っただろ、それどころじゃない」
「父さんに早く孫の顔見せてやろうと思わないわけ?何気に楽しみにしてるよ」
角が取れてすっかり丸くなった父が、次は孫の顔を、と望んでいるのも頷けるが、いくら何でも早すぎやしないだろうか。
「あと10年は待って欲しいな」
自分のこの性格を受け入れてくれる人がいればの話だが。
「ただでさえ兄さんは飛び級しまくって貴重な友達との時間が短いんだから、相手を今の内から探しておかないと。こんなんだから長続きしないんだ」
「はいはい、分かった分かった。ご忠告をどうも」
「全然分かってないでしょ」
口角をあげて見せると、弟はぐっと背伸びをして立ち上がった。
「よし、兄さんへの説教はここまでにして、俺は寝るよ」
「おやすみ」
弟はまたぼりぼりと腹をかきながら、ドアの方へ向かっていく。
「もし出来るなら、美人で優しい義姉さんがいいなあ」
そんな独り言ともいえない独り言を大きめに呟いた弟は「そこそこにして寝なよ」と俺に声をかけて寝室がある2階へあがって行った。
弟はよく学校でテニスをしていて日中を一緒に過ごすことはなかった。人懐っこい弟は大勢の友人がいるようだ。
対する俺は、父が庭の手入れをするのを手伝い、父と何気ない会話をして、帰省の目的だったアルバムを適度に眺め、次の研究の準備をしつつ、論文に目を通し、当番に加えられてしまった日には夕飯を作って弟に「おいしくない」と文句を散々言われ、地元の友人に連絡を取り、久々に会いに行って一晩飲み明かしている内に、呆気なく帰る日がやってきた。
帰る日にも関わらず、運悪くまた当番が回ってきた朝食で、あまり失敗しないフレンチトーストを作って弟の前に出したのだが、リスのように頬いっぱいにしながら、ぺろりと食べ終えた弟は首を傾げた。
「まあまあだったかな。でももう少しじっくり卵に浸した方がいいと思う。兄さんはせっかちだからさらっと浸して焼いたんでしょ」
図星なのが癪だ。父はそんな兄弟の様子を軽く笑いつつ、新聞を読んでいる。
「ご忠告をどうも。精進しよう」
確かに、知っているフレンチトーストの味としては自分からしてもいまいちだったのだ。次作る時は完璧なものを作って出してやると、胸の内で誓った。
「じゃ、兄さん、元気でね」
テニスラケットを脇に抱えた弟は、今から外に行こうとしている様子だ。おそらく夕方にならないと帰ってこないだろうから、昼過ぎにはここを発つ俺にとって、相手の言葉通り今が別れの時になるのだろう。
「今度いつ会えるか分からないってのに、お前の別れはあっさりしてるよな」
「俺は過去を振り返らない男なんだ」
こちらが笑うと、弟は唐突に何かを思い出したかのように飛びあがった。
「あ、そうそう。ちょっと待ってて」
階段を駆け登り、あっという間に何かの資料を持って降りて来て、それを俺に差し出した。
「昨日の夜、ツタンカーメンについて簡単に調べてみたんだ」
ネットで拾ったらしい、ツタンカーメンの簡単な経歴がプリントされていた。
「ツタンカーメン?……ああ、俺が母さんと一緒に見てたっていう……」
自分が母と共に食い入るように見ていたという王の名だ。
疎らにしかない知識によれば、イギリスの考古学者ハワード・カーターによって発見された少年王。ミイラと共に発見された黄金のマスクは世界でも有名な美術品として取り上げられる。
「何気なく調べてみただけだったんだけど、これまたびっくり。兄さんの夢の話にそっくりだ」
渡された資料に簡単に目を通しながら相手の話に耳を傾ける。
「ツタンカーメンの父親は異端王と呼ばれてるイクナートン、別名アメンホテプ4世。アクエンアテンとも呼ばれるかな。叔父か兄だかにスメンクカーラーって言う人が傍にいたみたい。姉はあとから結婚するアンケセナーメンだ。宗教改革をした革命真っ只中、随分国は混乱してた時代を生きた王らしいよ」
置かれた立場が、似ている。夢の中の人物が実在するとは思えず、呆気にとられて資料を見つめた。
「ね?面白いでしょ」
すると、突然ズボンのポケットに突っ込んでいた携帯が鳴った。
「なになに、誰から」
弟が覗き込む自分の携帯のディスプレイに映しだされていたのは、師事している大学の教授の名だった。




