王となれ
* * * * *
馬を降りて、陽も暮れた都を眺めた。砂を乗せた風が自分の横を通り過ぎて行く。
嘶き、顔を寄せて来た馬の鼻筋を撫でてやった。兄の馬だ。兄に遺され、寂しそうにいるところを選び、手綱以外の装飾を何もつけずに連れてきた。久々の王宮外だからだろうか、少し嬉しそうに見えた。
馬の手綱を陰にある木に結び付けながら、自分が来た方向を振り返ってみる。誰も来ない。誰もいない。民たちは夕暮れを眺めながら自分たちの日干し煉瓦の家へと帰っていったのだ。
いつもならセテムが付いて来ていたはずが、こういう時ばかりは何故か上手くまいていたりするのが不思議だ。楽しい時は色々と思考を巡らしながらセテムをまいていたからかもしれない。セテムは俺の考えをこれでもかと読んでくるのだ。今のようなからっぽの状態では考えというものがない。先読みするものがないセテムたちは誰も俺の行く手を予想出来ない。見失ったら終わり。
今頃、慌ててさがしている彼らを何となく思い浮かべていたら、出て来る際には感じなかった申し訳なさがじわりと滲んだ。
「お前はここで待っていろ」
馬に囁きかけ、地平線の都を歩き出した。数歩行ったところで、馬が俺を止めるように鳴いたが、一度振り返ることだけして歩を進めた。
壁土の家々が立ち並ぶ。太陽のない夜道を行く人はほとんどいない。月明かりだけが行く道を照らし、砂漠の砂の匂いをどこからともなく風が運び、俺を追い抜かして消えて行く。
どこへ行くのか。自分に問うてみるが、答えは出てこない。外に出たかった。あれだけ恐れて一時期は出ることも拒んでいた外に、今では誰も付けずに、馬にも乗らずに出て来て歩いている。
途方もなく歩いていた。何がどうとか、あまり関心が無い。すべてのことに関心が無かった。
不思議なものだ。空っぽだと、恐怖も何もない。虚しさだけがあった。どうにでもなれという諦めの方が強い。
見に付けた黄金も歩いている内に重たく感じ、腕輪を始め、歩きながら全部脱ぎ捨てて道端に転がした。こんなものが欲しいのではない。自分が真に望んでいたものは何であったのか。
「母さん、母さん」
不意に子供の声がした。つい先ほど通り過ぎた家からだった。
「腹が減ったよ」
「はいはい、急がないの。たんとお上がり」
子供の声に返されたのは、何とも暖かい女の声だった。交わされる声を辿るように、すぐ近くの家の前に歩み寄った。
家は小さい。宮殿の自分の部屋の半分の広さもない、土の匂いのする小さな民家。四角にくり抜かれた窓と入口には仕切りの布と板が掛けられている。仕切りの隙間からは、温かな灯りが漏れていた。
俺は逸らすこともできずその灯りをじっと見つめた。微かな灯りであるはずなのに、宮殿の自分の寝室で灯る灯りなどよりもずっと暖かく、何とも尊いものに見えた。
「ああ、そんな慌てて食べるんじゃない。喉に詰まらせたらどうする」
今度は低い声。慈愛に満ちた低くも深い声音は、死んだ父の声を彷彿させる。
「だって、腹へってたんだ、俺」
また、子供の声。他の子供の笑う声が重なっていく。
昔を思い出す。父の帰りを待ち、一緒に夕食を取っていた数年前。あまりの空腹に食事を口に書き込んでいたら、同じことを父が言った。兄も姉も笑って、案の定咳き込んだ俺の背中を兄が擦ってくれた。
「父さん、今度ナイルまで釣りに連れて行ってよ」
「そうだな。明日にでも一緒に行くか」
まるで、この仕切りの向こうに、父がいるのではないかと思った。昔の父と、兄妹たちが。この幼い声は自分。父や兄たちにあれがしたい、これがしたい、と我儘を言っていた昔の自分。
涙が出そうになった。
父上。兄上。何も知らずにいられた無邪気な頃の自分がこの向こうにいる。
いてもたってもいられなくなり、震える手を、しきりに伸ばした。厚めの布を少しだけめくり、外の壁に身体を寄せて、中を覗き込んだ。
父がいて、母がいて、子供がふたり。その四人が身体を寄せ合い、細やかな夕餉を取り囲む。分かっていたが、自分の父や兄がいなかったことに落胆した。同時に、幸せそうにしている彼らが切なく、妬ましくも思えた。なんて下賤なことをしているのかと、自分に嫌悪がしたが、やめられなかった。知らず知らずの内に涙が出た。拭うことも忘れ、温かな灯りを見ていた。
「父さん」
子供の声ではっと我に返った。子供と目が合った。
「誰かこっちを見てる」
家族が俺を見ていた。思わず窓から離れて後ずさると、大人の手で仕切りが大きく開かれ、窓からこれでもかと灯りが俺に降り注いできた。怖いほどに、眩しかった。
「坊主、どうした」
灯りを手に、窓から父親が身を乗り出してきた。
「まあ、どうしたの?」
母親が父親に尋ねると、父親は灯りを持って外へ出て来た。
「坊主、迷子か?日暮れにどうした。もう暗いぞ?」
「ここらで見ない顔ねえ。どこの子かしら」
母親も家の中から俺を覗いて頭を傾げる。土で作られた壁に身体を寄せたためか、いつもなら真っ白であるはずの自分の衣は汚れていた。
「すぐにお帰り。父ちゃん母ちゃんが探してるぞ」
何も答えず俯いている俺を見兼ねてか、父親が俺の近くに歩み寄る。母親がいる窓から、今度は二人の子供たちが不思議な生き物を見るかのように、身を乗り出して俺を見下ろしていた。
「一人で帰れるか?家は近くか?」
戻っても両親などいない。けれどそう叫ぶ訳にも言わなくて、頷いて歩き出す。気を付けろよ、と背中に声が飛んできて、消えて行った。
しばらく進むと、夜の闇は次第に深まって行った。先程の家族のことを考えては、昔の幸せだった頃を思い出し、それから打ち消すように首を横に振って、サンダルの先を見据えて歩いていた。
「おい」
行く手を塞ぐ状態で三人ほどの少年が道の真ん中にいることに気付いた。自分より年上だろう。体格は自分の二回りほど大きい。長い木の棒を持っているのは武器代わりか。何故、こんな夜更けに外に出ているのだろうとぼんやりと考える。
「おい、小僧」
自分が呼ばれていると知るまでに、時間がかかった。少年たちの目は俺に向けられていた。
「金目の物、全部置いていけ」
相手が近づいて来て、月光の中に見えた姿に、彼らは孤児なのだと思った。子供と呼べる年でもなさそうだが、彼らが身に纏っているのは継ぎ接ぎだらけの衣。四肢は土に汚れ、痩せ細っている。年齢相応の、十分な食事を得られていない身体つきだ。
「そんな汚れてても俺には分かるぞ。お前のその衣、相当いいもんだ。そのサンダルもな。どこかの坊ちゃんが家を出て来たんだろ」
三人は行く手を阻み、上から見下ろしてくる。
「おい、何だよ、その目は」
俺の目が気に入らなかったのか、彼らの表情は険しいものになった。酷く、悲しげな顔だ。よくよく目を凝らして周りを見渡せば同じような者たちが夜の影の中で蠢いて、こちらの様子を窺っている。こうして浮浪しているのは、今自分が相手にしている者たちだけではないのだ。
「そんな目でまじまじと……俺たちを馬鹿にしてるのか?小僧、え?」
馬鹿になどしていない。皆、同じように夜を徘徊して金目のものを求めているのだとしたら、その存在そのものに驚いたのだ。皆平等であれと唱えた父の政治は、ひとつも実を成さなかったということになる。このような浮浪者など、ましてや成人もしていない子供の浮浪者など、昔の都にはいなかった。父の政治が生んだのだ。彼らもセテムと同様に、父の革命の犠牲者だろう。
またひとつ、またひとつ、こうしてこの国の綻びを見つけてしまう。このまま先導者を失い、今の状態であり続けるのならば、この国はきっと駄目になる。
「畜生!」
返答をしないままの俺に、相手の一人が痺れを切らして飛びかかってきた。反応に遅れた俺は、そのまま地面に叩きつけられ下敷きになる。呻いて反射的に反撃に出るものの、抑え込まれて間髪入れずに頬を勢いで殴られた。口の中が切れて血の味がした。
「お前のような坊ちゃんには腹が立つ!!俺たちは何もかもを失ったってのにこうしていいものに身を包むお前たちが!殴りたくなって仕方がねえ」
襟元を捕まれ、大きく揺すられた。
「そもそも悪いのは王家だ!先代も!先々代も!!全部が悪い!!!何でお前のようなやつがこんな夜にこんなところをほっつき歩いてるのかは知らねえが、お前もそいつらを恨むんだな」
父と兄を穢された──そうと知るや否や、俺は足で覆い被さる相手の腹を勢いよく蹴り上げていた。衝撃に苦しみ、俺の上から転げ落ちた相手は大きく咳をした。他の二人が慌てて駆け寄り、俺を睨みつける。
「てめえ、小僧」
あの優しかった父の顔の、国を憂いて死んでいった兄の何を、こいつらは知っているのか。どれだけ苦しみ、考え抜き、悔やみながら死んでいったか。兄の無念の何が分かると言うのか──!
三人は立ち上がり、こちらに向かって棒をかざし、地を蹴った。近づく棒の先端のひとつが近くまで来ると、右手で掴みあげ、そのまま相手の手から引き抜き、大きく振り回す。棒を取られた一人は地面に腰を打ち、一人はこちらが振り回した棒が顔面にあたり、後ろから来ていた一人は、蹴り上げた俺の右足で腹を打って倒れた。兄から教わった技だった。
予想だにしなかったこちらの動きに、彼らはあんぐりとした顔で俺を眼に映している。
「私は……」
悍ましいほどの憎しみが自分の声に宿っているのを知った。彼らは俺の顔に怯えていた。一体、どんな顔で、表情で、俺は彼らを睨んでいるのだろう。
「私は王家の王子ぞ!これ以上王家を愚弄する者は許さぬ!」
一斉に怯んだ彼らをおいて、棒切れを投げ捨てた俺は地を蹴って走り出した。
悔しかったが憎めなかった。どうして憎むことができただろう。国を変えてしまったのは王家だ。あの者たちにそうせざるを得なくさせたのは自分たちだ。この国を建て直すと言って、何一つ成し遂げられていない。
悲しかった。悔しかった。父や兄の愛した、自分の愛した国がこれほどまでに変わってしまったのだ。自分が敬愛していた父がこうしてしまった。
しばらく走っていたが、ついには足が動かなくなり、そのまま屈み込み、地面に額をつけて泣いた。悔しかった。どうしたらいいか分からなかった。
兄が言っていたように、もう無邪気な子供ではいられない。自分はこういった星のもとに生まれた身なのだ。分かっていた。心の底でずっと。
しかしそれが重すぎて、辛くて、父や兄が生きてさえいてくれたならと願い、それが憎しみに変わったこともある。どうして自分だけを残して死んでいったのかと、父や兄をも憎んでしまう自分が、また死んでしまいたいほどに嫌だった。
茫然と歩を進めていると、ある丘に出た。それなりに夜の町並みが見渡せるほどの高さがある。ぜいぜいと荒い呼吸音と、早く打つ胸の音を聞く。汗が額から頬へ、そして顎先へと伝って落ちて行った。
そこからの光景を眺めている内に、宮殿の高さから見た都の町並みは、夕陽のせいで燃えているようにも見えるのを思い出した。この夜でも、その光景は瞼を閉じればこれでもかと鮮明に浮かび上がる。まるで、燃えているような、あの色。炎に燃え尽くされた、息を呑むような恐ろしさと美しさを併せ持つ赤。
──燃えてしまえば良い。
都を睨み、口元から滲んだ血を手の甲で拭いながらそう思った。今の自分の顔はきっと、獣のようにおぞましいものになっているに違いない。
全てなくなってしまえ。消えてしまえ。何もかも。
このまま自分が背負わねばならないものがすべて燃えてしまえばどれほど楽になるか。
だが、本当に燃えてしまっても嬉しいわけではないのだ。自分が何をしたいのか分からなかった。
俺にとって、王は父と兄だけだった。だというのに、周りは俺に王となれという。この国を護るため、この国の民を守るために。家族を失った俺に、赤の他人である他の家族らを守れと言う。父を非難し、暴動を起こしてきた、この民たちのために。理不尽にもほどがある。そんな考えに至る自分が嫌で、頭を地面に打ち付けたくなった。
「王子……?」
地面を睨んでいたら、聞き覚えのある声が背中に弾けた。
「王子!」
セテムが血相を変えて俺の下へ走ってきた。腕には落としてきた黄金がある。拾って来たのか。よくもまあ、宛も無く歩いて来た自分を見つけられたものだ。
「ずっとお探ししていたのです。このような所になど何故……賊に襲われでもしていたらと皆心配していたのです」
その背後から、馬に跨ったカーメスと、俺が乗ってきた馬を引いた兵たちが現れた。姿を認めるなり、カーメスは馬から飛び降り、俺の近くに走り寄って両肩を掴んで揺さぶった。
「このような所にお一人でなど、何をお考えです!」
カーメスが青ざめた顔で俺を覗き込んだ。いつものふざけた雰囲気がない。兄といた時もそうだったが、真面目な時は至って真面目なのだ。それがカーメスという男だ。
「衣もこのように汚して、頬にも痣が……血も出ているではありませぬか。何と一体殴り合ったのです。兄君が知ったら、お叱りになられますよ」
何も答えない俺に、カーメスは悲しそうな表情をした。お前の言う叱る兄はどこにもいないのだと、その表情に向かって言うことは出来なかった。
「カーメス!王子に気安く触れることは許されません!お放し下さい」
カーメスが感情に任せて俺に触れていることをセテムが咎めると、ようやくカーメスの表情に綻びが見えた。こちらの肩を離すと、悲しそうに相手は微笑む。
「姉君がひどくご心配しておられました」
姉が。兄を亡くした後も、この国のために立ち続ける俺のたった一人の家族。
──ああ、怒っているだろうな。
王宮で待っているだろう姉の姿を思い浮かべて、ようやく生きた人間らしい感情が湧きたった。
「どこへ行っていたの」
姉は怒った顔で、戻ってきた俺を見下ろした。
「自分が王子であることを忘れたの」
声を低めた姉の声には凄味がある。正し過ぎる言い分を並べる姉の顔を真っ直ぐ見ることが出来ず、自分の足先を見ていた。
俯いたままでいると、姉はやがて息をついて俺の前に膝を着く。今度は王家の人間としてではなく、姉として俺と向き合っていた。
「あなたは王子だということを分かっていない。あなたは普通の子とは違う。使命がある。これを忘れてはいけない」
使命。兄からも言われた、王家に生れ落ちた者としての、俺の使命。
口を開こうとしない俺から目を逸らし、姉はカーメスとセテムに礼を言った。二人の心配でならないと言わんばかりの表情が、目にしなくても想像できる。
姉は傍にいたナルメルと二人に去るよう命じると、次にネチェルと侍女たちを呼び、俺の着替えを命じた。泥だらけの自分は、王子にはとてもではない状態だった。
「おお、王子よ」
まずは湯浴みをしなければとネチェルが俺を促した時に、やけに明るい老人の声がした。嫌に身震いする響きだと思った。
「どこに行かれていたのか、心配しましたぞ」
俺の前に大げさに両手を広げやってきたのはアイだ。姉がナルメルと共にいなくなったのを見計らって来たのだ。
「お前には関係ないことだ」
父に取り入り、今の地位を確立したこの男には自然と嫌悪が湧き立ち、低い声で言い放つ。
「兄君が亡くなられ、次の世を担っていくのはあなた様です」
脇目にそのまま過ぎようとするのを相手は許さない。付いてくる。
「亡き父君よりあなた様の後見を仰せつかったのは私であることを、お忘れになりまするな」
そう言い切って、アイはようやく付いてくることをやめた。ネチェルは隣に俺の寄り添い、「気になさりますな」と静かに囁いて肩を撫でてくれた。
あの男は、父の時と同じように俺に取り入ろうとしているのだ。父から命ぜられた後見として、王家である俺の上に立とうとしている。王位を狙っている。
そこまで考えて、唐突に歩みが止まった。
あの男の他にもいるのではないだろうか。唯一の王子であり、唯一の正統なる王位継承者である自分が幼いことを利用し、王権を乱用しようとする者が。今の自分は、父と兄の死に悲しい辛いと嘆き、王家や国などという大きなものを背負う決意が出来ぬままここまでずるずると過ごして来た。だが、周りはそれを待ってはくれていないだろう。
アイが姿を消した方を咄嗟に振り返る。夜の闇に染まった廊下に、いくつもの白い眼玉がこちらを窺っているように見ている気がした。ぞっとするような感覚だ。
ぐっと拳を握り込む。焦燥が背筋を舐めて行き、冷や汗が身体から滲み出て行く。
──この国を、他の者には渡したくない。渡してはならない。
初めて強く、そう思った。他の者に王権を渡したくないのなら、一刻も早く自分が王とならなければならない。アイや王家を狙う者たちに取り入る隙を与えない強い人間にならねばならない。だが自分にそういう強さがあるとは思えない。父や兄のような不屈の精神が自分にはない。ただでさえ、自分は民に嫉妬し、憎しみを抱いたのだから。
そう考えている内に結局は眠れなくなり、寝所を出て、庭へと繋がる部屋の縁に腰を下ろして夜空を見上げていた。
「アンク」
呼ばれて振り返ると姉がいた。
「まだ、起きていたの」
自分もよくもまあこんなにも夜目が効くものだと思った。姉の表情も何もかもがしっかりと見て取れた。姉の表情はどこか、兄に似ている。一瞬、兄が来てくれたのではないかとさえ思えた。
「隣に座ってもいい?」
俺は幼子のようにこくりと頷くだけの返事をした。
「傷は痛まない?」
こちらの顔を見ることなく、姉は言った。
「そんなに酷くはない」
「そう」
口の中の傷は少々痛むが、それほどではない。
そのまま、二人でしばらく星を仰いでいた。姉は星を読んでいるようだった。
「何を考えているの?」
まるで、こちらの心情を読んだかのように姉は優しく俺の髪を撫でて問い掛けてくる。昔と変わらない手つきだ。よしよしとまるであやすように優しい。
「……姉上は、俺が王になれると思うか」
ぼそりと零れた言葉に姉の手はゆったりと止まる。
「父上も兄上も治めきれなかったものを、俺が治められると思うか?」
父と兄の見た夢を見れば、二人の翳す太陽を仰げば、その二人のようになれると一つ一つ真似していたのが自分なのだ。兄さえ成せなかったことを、どうして自分が出来ると言うのか。
「俺は王に相応しいと言われた兄上ではないのだ。俺は民に嫉妬する。父と兄を非難する民を憎いと思うこともある。燃えてしまえ、消えてしまえ、無くなってしまえば良いとさえ思う……このまま王となり、この国を父や兄が望んだ方向に導くことが出来るとは到底思えぬ」
不安で、おかしくなりそうだ。
認めたくはないが、自分は怖いのだ。この国が。王となることが。
自分が下す決断により、この国は栄えもするが、滅びもする。判断を間違えれば戦を招き、多くの民が血を流し、命を落とすことになる。自分はその頂点に立とうとしている。王座につくとはそういうことだ。
「俺は、兄ではない」
また泣きそうになり、涙が流れないように目を大きく見開きながら、隣の姉を見つめた。
見開いても無駄だった。姉の柔らかな表情を目にした途端に訳が分からないほどに涙が出た。王家である者として容易く涙を流してはならぬと、兄に教わったはずだというのに、止まらない。
「王になれる気がしない。この国を、滅ぼしてしまうかもしれない……俺は強くはないのだ」
泣き伏したくなるような声で、喉の奥にあったものを吐き出した。
「あなたにはそう思える心がある」
姉は俺の頬を撫でて涙を拭った。静かに唱えられる姉の声は胸に沁みた。
「あなたは強い子よ。嫉妬をしても、憎んでも、それでも手を差し伸べられるでしょう。セテムの時のように。それが強さ以外の何であると言うの」
やんわりと頭を抱き寄せられ、姉の香油の香りで世界が一色になる。
「人の気持ちや幸せを考えられて始めて、民の先頭に立つことが出来る。あなたにはその素質がある。……滅ぼしてしまうかもしれないと不安になるあなたは、民のことを考えられる優しい子」
兄が父から贈られた言葉を思い出す。王家が国のために第一に考えることは、民が飢えないようにすること、国を外敵から守ること、それだけを必死に考えること。そして、曲がらぬ強い意志を持ち続けること。
「お父様や兄様が私たちに引き継いでくれたものを、あなたは忘れてはいない。大丈夫、私たちの手の中に必ずあるのよ。いつだってね」
姉はそう言って、俺の手を握った。
父や兄が教えてくれたものを、忘れることなど出来ない。あれらこそが、自分自身なのだから。
「私がいる」
そう諭す姉の声は芯が通っていた。男らしいと言われる由縁はこういうところなのだろう。時折男である自分よりも彼女は勇ましいことを言う。
「私があなたの行く先を隣でずっと見届ける。私があなたの手となり、足となろう」
唯一の家族。こうして支えてくれる人がいてくれるのなら、俺は立ち続けることが出来るだろうか。この国の頂点に。
「たった二人しか残っていないけれど、それでも一人じゃない。これはとても心強いことよ」
ぐっと目を閉じた。姉の声が幼い日に聞いた子守唄のように心地良い。
「あなたは、この国の王たる唯一の人間。私の弟、神の申し子、生き姿……トゥト・アンク・アテン」
夜空にはソティスが輝いていた。ナイルの氾濫が近い。それを境に14になる自分と18の姉が民の前に王家として立つ。まだ子供とも言ってもいい年齢のまま、大きなものを背負うことになる姉弟で、小さく身を寄せ合っていた。
次のナイルの氾濫が起きた時。それが自分が王となる式典の日と決まった。
一度でも、燃えてしまえと思った、夕暮れの都を見下ろしていた。今でもこれらが無くなってしまえばと思うことはある。
ただ、本当に望んでいるのはそんなことではないというのも、ようやく分かったことだ。この国が無くなり、背負う必要が無くなったとしても自分の胸が晴れることは決してない。楽になるのと引き換えに、自分は必ず何かを失う。今まで兄たちが守ってきた誇り。自分が抱いてきた大きな仮想の夢。生まれてこの方大事にしてきたものを失うこと以上に苦しいことがどこにあるというのだろうか。この国という存在こそが王家として生まれた自分の分身。この国がなくなれば、自分も無くなるだろう。
ならば。自分は真実、何を望んでいる。
王がいない国は弱い。その例を、歴史でどれだけ学んできたことか。この目で見て来たことか。それを分からせるために、兄は俺に話し、学ばせてくれたのだろうか。そう思うと兄の偉大さが死してなおようやく身に染みて思い知る。
この国に王が立たねば、あの家族も滅びることがあるかもしれない。あの少年たちが命を落とすことがあるかもしれない。
大きく息を吸った。
神を変えてしまった父は、確かに異端の王だろう。その息子である兄も俺もまた、異端王の子らなのだ。たとえそうであっても、ここから見える全ての家の、全ての民の幸せを、祈れるくらいに強い心を、俺は持ちたい。
強くありたい。人として。王家として。国を治める者として。
自分以外に誰が、王となると言うのか。父と兄の背を見て、彼らから伝えられたものを持っているのは、自分以外に一体誰が。
兄の教えを無駄にはしまい。兄の意志を継ぐことが、今の自分の何よりの使命なのだ。ただひとつの、遺された道標。
目の前に道が開けた気がした。太陽が大地に金波の道を作っている。茜に染まった風が下から上へとすべてを巻き上げ、誘われるように空を仰ぎ、目を開けた。
私は、王だ──。
兄と父が被ってきたメネスはかぶってみると案外違和感があり、2本の王権の象徴は胸の前で交差させてみると想像以上の重みがあった。今までの王たちがこれを握り、自分と同じように胸に当てて来たのだと思うと、何とも誇らしい気分になる。
「新しき我らの王よ」
宰相の声に視線を上げると、禿鷹の王冠を被る姉はナルメルたちを従えて俺に頭を垂れた。ナルメルの後ろにはセテムやカーメス、他の将軍や隊長たち、そして女官たちが並び、皆が姉を先頭にこちらに膝を折り、敬意を示している。
私は、王となる。
父と兄の跡を継ぐ、ただ一人の正統なる王位継承者。
自分の向かうはずの後ろから歓声が聞こえた。この民の声たちを初めて耳にして身を大きく震わせ興奮したあの時からこの日まで、どれほどの月日が流れたか。
あの頃の自分と比べて、どれだけ成長できたかは分からない。ただ、ここからが始まりなのだ。
振り向くな。立ち止まるな。前を向いて、進み続けろ。たとえ、この先に何があろうとも。
「姉上」
少しの照れくささと、少しの緊張と思い重圧に、姉を呼んだ声は掠れていた。喉が乾燥して砂漠のようだ。
姉は頭を上げると、立ち上がって微笑んだ。
「私もう、姉ではない。あなたに王位継承を与える、ただ一人の王女」
そうだな、と苦笑する。父も兄もいなくなった。残されたのは自分と二度夫を失った姉の二人だけ。
「アンケセナーメン」
彼女の名を呼ぶ。とても清々しい気持ちだった。
「私の隣にいて欲しい。父と兄がかなえられなかった意志を私が引き継ぐのを、この先を、見届けて欲しい」
「その代りに、あなたは私に何をくれる?」
相手は冗談気味にそう問う。
「私が守る」
「え?」
「アンケナーメン、お前をこの生涯にかけて守ろう」
きょとんとした彼女は、やがて男らしく笑う。
自分より一回りも背が小さい弟に言われては頼りない言葉だと思う。それでも、父にも兄に先立たれ、悲しい思いをしてきた姉の力になりたい。幸せにしてやらなければと強く思う。
「あなたはやっぱり優しい子ね」
彼女の微笑は美しかった。
「約束だ」
姉弟の約束。
互いに支えてこの国を治めて行こう。
「さあ、行こう」
隣の彼女は強く頷いた。
「共にこの国を治めるために」
──立て直すために。
姉を隣に、民の声を浴びながら空を仰いだ。
光り輝くラーは眩しい。目を細めると、儚げに笑む兄の横顔が瞼の裏に浮かんだ。
兄よ。
この世で生を全うした兄よ、汝は死して冥界の王となれ。
私は、王となろう。
この世を生きて、この世の王に。
父と兄の歩んだ道の先に立つ、この国唯一無二の、雄々しきファラオに。
志半ばで息絶えた二人の意志を継いで。ただひとつ、自分と彼らの理想のために。