9.真実の告知
警察の事情聴取と病院での検査を終え、事務所に戻る。
出迎えたのは、眉をしかめた多田津助役。
「御厨、オマエもか」
叱られる、と思った。
線路に落ち、電車を遅らせた。プロにとって、あるまじき失態。
だが。招代にだって言い分はある。
何者かに突き落とされたのだ。もちろん、警察には状況を事細かに説明もした。
しかし、駅の監視カメラを再生してみたら。
残された映像に映るのは、彼ひとりだけ。
勝手によろめき、線路へ落ちていくようにしか見えなかった。
コレでは、言い逃れなど出来ない。
「……監視カメラの映像を見たぞ。何もないところで、フラつき倒れやがったな」
なのに、オヤっさんからカミナリが落とされる気配すらなかった。
困ったような、渋い顔を浮かべ、太い首をかしげている。
直立不動の姿勢を取っていた、招代にとっては意外な反応だ。
「信号の誤作動が、先週だけで3件。ホーム転落が5件」
隣で資料を読み上げた田澤主任が、手元のファイルをパタンと閉じた。
「まぁ。普通に考えて、異状ですよね」
「だよなぁ……」
主任の重苦しい同意に、オヤっさんは腕を組み、天井を仰ぐ。
「本社の連中も、設備の一斉点検をするとか言い出した。もちろん、それも必要だが」
「……設備の問題では、ないと?」
招代が尋ねると、多田津は首をひねり、しばらく間を置いてから答えた。
「長く現場にいると、な。理屈で説明のつかないモンがあるってのは、分かる」
それ以上は言わない。
ただ、招代に向けた視線だけが、何かを問いかけていた。
「御厨……」
自分の頭をさすりながら、多田津は言葉をつなげる。
「……今日は上がれ」
「そんな!」
前と同じ、屈辱的な宣告と招代は受け取った。
再び職務を取り上げられる恐怖が、彼を前のめりにさせる。
「自分は、大丈夫です!まだ業務できます!」
「バカ言え」
必死の抗議も、助役の反応は冷たい。
「あんな何もないところで倒れるヤツが、業務できるワケねぇだろ。完全に過労だ」
揺るぎない事実の重み に、喉の奥が引きつった。
「大体、最近のオマエはおかしいぞ」
反抗の機会を失った招代に、多田津は容赦なく畳み掛ける。
「ナニが目的かは知らねぇが、裏でコソコソ動いてるらしいじゃねぇか」
「それは……」
「この間も。許可した資料を閲覧したら、真っ青な顔になった、と田澤から聞いてるぞ」
ギロリ、と助役の鋭い眼光が招代を射抜いた。
重圧を伴う視線が、招代の心の奥底まで探りを入れてくる。
「一体、ナニを隠しているんだ」
助役の疑念に、招代は答えられない。
ホームに出る幽霊の正体を調べるため。正直に言っても、信じてもらえるハズもない。
だが、ヘタにウソをついたとしても。長年、現場を統括してきた助役に通用すると思えない。
どっちに転んでも、現場から干される。車掌の資格を失うかもしれない。
招代が次の言葉に迷っていると、多田津は大きく肩を落とした。
「もういい。少し休んで、アタマを冷やせ」
非常なる最後通牒。顔を蒼く染める招代の肩に、誰かが手を置く。
振り返ると、田澤主任の顔があった。静かに、呆れと憐れみをたたえて。
「助役も、ああ言っているコトだし。法的義務の有給、消化しようか」
そう言って微笑む主任の目は、笑っていなかった。
どう帰ったか、招代自身も覚えていない。
気付くと、ベッドの上で寝転んでいた。
部屋の中は真っ暗。カーテンも閉めてない窓から、夜の気配が這いずり込んだ。
井戸の底にでもいるような、息の詰まる閉塞感に襲われる。
招代は、起きて何かする気力も起きない。
ショックだった。
良かれ、と思って行動したことが、裏目に出ている。
そんな気がする。
「…………あの時」
あの亡霊を、早瀬遥を。
見捨てるべきだった、だろうか。
過去に体験した、生家の神社で出会った亡者たちと同じように。
見て見ぬフリをして、通り過ぎるべきだったのだろうか。
「…………いや」
そんなコトをしても、何も変わらない。
仮に逃げたとしても、結局は。
最悪、最終電車の業務ができなくなる可能性もある。
そうなれば、車掌として。鉄道社員としては、致命的。
今の地位を、自ら捨てなければならない。
「ハァ……」
大きな後悔を吐き出すと同時に、枕元に置いたスマホが震えた。
手に取ると、画面には「佐々木健人」の名前。
ハンズフリーに切り替える。いつもと違う声が、夜に染まった青黒い部屋を駆けめぐる。
「どうした」
『どうした、も、こうしたもねぇよ』
軽口がない。明らかに、戸惑っている。
『いいか、聞いて驚け』
「なにが?」
『……こっちが連絡する前に、向こうから来たんだよ』
「向こうから?」
『沙織さんからの、連絡』
「なんだって?」
招代は一気に目が覚めた。驚きを隠せないまま、健人の話を黙って聞く。
健人は、SNSと卒業アルバムから、接触の糸口を探していたらしい。
だが。
準備段階に入った途端、天凰電鉄のお客様センターに問い合わせが入ったという。
「神宿駅の、二十数年前の事件について調べていた方はいませんか」
受付から健人のところへ回ってきたとき、最初は何のことか分からなかった。
折り返すと、名乗ったのは「高瀬沙織」という女性。
結婚して苗字が変わっていたが、健人が調べていた「木下沙織」と同一人物だった。
彼女いわく。
『遥のことを探している人がいると、誰かから聞いた気がして、連絡しました——そう言うんだよ』
少し怯えるような、健人の困惑しきった吐息。生々しい響きが、ひやりと招代の首筋をなでる。
「それって……誰から聞いたの?」
『「覚えていない」って。夢の中で聞いたのかもしれない、って』
招代の背筋に、じわりと。目に見えない波紋が広がった。
怨霊の冷気ではない。もっと静かな。でも、もっと確かな何か。
(早瀬さんの……、しわざか……?)
ひょっとしたら。いや、おそらく。
二十数年間ホームに留まり続けた遥が、動いたのかもしれない。
自分の力の及ぶ範囲で、やっとひとつだけ。
『招代。俺、少し怖くなってきたんだが』
健人の声が、珍しく素直だった。冗談の混じらない、正直なひと言。
「……そうか」
『そうか、じゃないだろ。なんか言えよ』
「……会ってもらえるか。高瀬さんに」
絶句でもしたのだろうか。
しばらく沈黙が続いた。スピーカーからこぼれた深い溜め息が、不器用に夜をかき乱す。
『はぁ……。お前は本当に、そういうやつだよ』
呆れている。でも、断らない。
中学の頃から知っている。健人が溜め息をついた後は、必ず動く。
『分かった。段取りをつけてみる。ただ——』
「ただ?」
『――お前、本当に大丈夫か?なんか声が変だぞ』
わずかな変化を感じ取ったのだろうか。
おもいがけない指摘に、招代は退避スペースのことを思い出す。
迫ってきた電車の正面。全身を揺さぶる重低音。
「大丈夫、平気だよ」
答えてから、続けた。
「……今は、まだ」
沈黙が落ちた。
互いが抱え込んだ、それぞれの不安。電波を通じ、見えない糸で絡み合う。
健人は、その先には踏み込まなかった。
ただ「また連絡する」と言って、静かに通話を切る。
部屋にひとりきりの、冷たい無音の世界が戻った。
招代は眼の前にある暗闇を見つめ、しばらく動かない。
(自分も、動かないと……)
さっき胸の中で決めた言葉が、はっきりと輪郭を結び始めていた。
謹慎(ではないが、招代はそう思っている)が明けて早々、招代は狂ったように働き始めた。
安全確認の面談を終えると、毎日、昼から翌日の昼まで。非番も返上し、空いた代走の枠を片っ端から埋め続ける。
何もしていないと、不安と罪悪感に押し潰されそうだったから。
だからか。自然と終電業務に割り当てられる機会も増えることとなる。
それは。早瀬遥と出会うことになるのと、同義のこと。
「こんばんは」
最終業務後のホームで、招代は亡霊に挨拶する。
「こんばんは」
亡霊も薄い輪郭を揺らし、たおやかな会釈を返す。
怨霊の気配が強い夜は、遥の輪郭が薄く、逆に凪いだ夜ははっきりしていた。
その波は気まぐれで、読むことはできない。
この日は、霊的な濃霧が晴れ渡ったらしい。
彼女の輪郭は、はっきりと世界に定着している。
「今日は、少しゴキゲンですね」
「えへへ。わかりますか?」
嬉しそうに。遥は青白い目尻を柔らかく下げた。
「実は、夢の中で友達に会ったんです」
「友達?」
招代が返すと、遥はコクリ、とうなずく。
「私を探す声が聞こえて。気付いたら、その子の家にお邪魔して……」
亡霊は、屈託のない笑顔を見せた。
「なんだか、すっかりオバちゃんになってて、ビックリしました」
あどけなく透過する横顔に、招代は氷の塊で胃袋を内側から抉られた気分になる。
「…………そうでしたか」
静かに答えるので、精一杯。
彼女は、違和感を感じなかったのだろうか?
自分が齢を取ってないというのに、友人は年輪を重ねている。
大きな矛盾に。
「どうしました?」
遥が招代の顔を覗き込む。
どうやら、いつの間にかうつむいてしまったらしい。
「いや」
とっさに、顔を背けた。
恥ずかしかったのか、それとも別の感情からか。自分でも、よく分からない。
でも、タイミングが悪すぎた。
会話が途切れてしまった。半地下のホームに、冷え切った隙間風が流れる。
「何か……あったんですよね」
息苦しい静寂を破ったのは、遥の透き通った声。
核心をつく、無垢な疑問だった。
秘密のベールをあざやかに剥ぎ取るような、死者の直感。
「あなたの顔を見ていると……そう感じます。何かを、知っているような顔をしている」
「そうですか?」
招代は答えず、とぼけてみせる。
ただ、目だけは逸らさなかった。
泊まり勤務後の午後。心地よい疲労が広がる、梅雨空のけだるい時間。
細く長い雨足が、しとしと、と。窓ガラスを濡らし続けている。
健人からの連絡を受けたのは、白く煙った光彩が薄暗い部屋に忍び込む、まどろみの中だった。
「もしもし」
『招代か。今、いいか』
「ああ」
スピーカーから流れた声は、前回の電話より落ち着いていた。
戸惑いは消えていないが、決意のこもった人間の声。
『沙織さんと、改めて話した』
「どうだった」
『招代に会いたいって言ってる。それと——』
一瞬、言いよどむ。
『遥ちゃんと会う前に、ひとつだけ確認したいことがある、って』
「なにを」
『遥ちゃんが今、自分の状況を理解しているかどうかを。死んでいることを、自分で知っているのかどうかを——ってさ』
招代は黙って聞いた。
『沙織さんの言い分はこうだ』
もし遥が自分の状況を分かっていないなら、私が会いに行くことで混乱させてしまうかもしれない。
だから、事前に誰かが伝えてあげてほしい。
『沙織さん、かなり覚悟してるよ』
健人の声に、珍しい真剣さがあった。
『何十年間もずっと抱えてきた人間の、ちゃんとした覚悟だった』
言葉の端々から滲み出る、ごまかしのきかない現実からのプレッシャー。
中学の頃から知っている悪友が、かつてないほど言葉を選んでいた。
それだけ、真摯に向き合っている、ということ。
『オレ、話してみて……なんか、ちゃんとしないといけないな、って思ったよ』
招代は強くスマホを握りしめ、小さく、だが力強く頷いた。
誰にも見えない声なき孤独に、自分だけは応えなければならないと。
「分かった」
通話を切った後、スマホを膝に置いたまま、しばらく窓の外を見ていた。
沙織の覚悟と、遥の「何か……あったんですね」という言葉が、頭の中で静かに重なる。
(次の勤務で。本当のことを告げよう)
招代は雨の降りしきる、重い空を見上げる。
迷う必要は、どこにもなかった。
「お疲れ様でした。気をつけて」
正規の仕舞い作業を二人で終え、足早に立ち去る佐藤運転士を見送る。
乗務員室に戻り、鏡の前に立った。
制服の乱れを確認する。ネクタイの結び目を一度ほどき、また丁寧に結び直した。制帽を被り直す。
(ナニやってるんだ、オレ)
鏡の中の自分が、少し笑った。
幽霊と会うだけなのに。身だしなみを整えて、どうするのか。
でも、やめなかった。
相手が誰であれ、大事なことを伝えるなら、それくらいはするべきだ。
最終チェックを終え、ホームへ降り立つ。
雨上がりの夜気が、ひんやりと顔に当たった。コンクリートはまだ湿っていて、足音が普段より低く響く。
幸いにして。怨霊の気配は、遠い。
嵐の前の凪のような静けさ。それが逆に、招代の心臓を速くさせた。
中央のベンチが見えてくる。
遥は、先に現れていた。
ベージュのコートに、古めかしいリクルートスーツ。
この夜は、輪郭がはっきりしていた。服のシワまで見て取れる。
「こんばんは」
「こんばんは」
挨拶すると、遥は静かに返してくれた。
そして、生気のない瞳の奥で、かすかに戸惑いの色を揺らす。
いつもと違う招代の、張り詰めた空気を察したのか。少しだけ小首をかしげてみせる。
「今日は……何かありました?」
遥の問い掛けに。
「少し、ありました。でも大丈夫です」
招代は遥の目を見て答える。
生気のない、でも確かに何かを見ている目。今夜は、こちらをまっすぐに見ている。
(怖くないか)
怖いに決まっている。
でも。逃げないと、決めた。
「早瀬さん」
「はい」
「少し……お話があります」
緊張ぎみの招代を、遥は静かに見つめる。
「今日まで、あなたのことを調べてきました。過去の記録も、報告書も、見ました」
「……はい」
少し、身をこわばらせながら。彼女が発した弱々しい声音が、湿った夜風に溶け込む。
うなずいたのを見て、招代は言葉を続けた。
「二十数年前のある日の午後。あなたはこの駅のホームに、いました」
遥の表情が、わずかに変わった。
「たぶん…………面接に行ったんだ、と思います」
面接。
招代の視線は、自然と彼女の身なりへ落ちる。
古めかしい、リクルートスタイルのスーツ姿。手に抱えた、季節外れのベージュ色のコート。
胸の中で、理不尽な過去に対する、やりきれなさが渦を巻く。
「……うまくいかなかったんですか?」
「ええ……。うまくいかなかった、そんな気がします。帰り道に、落ち込んでいて……それは、覚えています」
亡霊は、寂しそうに目を伏せた。
「うまくいかなかった、そんな気がします。帰り道に、落ち込んでいて……それは、覚えています」
遥の声が、少し低くなった。記憶を手繰るような、慎重な声。
「その後のことは……やっぱり、思い出せないんですけど」
「…………早瀬さん」
記憶の迷路をさ迷う、遥の独白。
無言で受け取った招代は、拳を強く握った。
迷わない。迷えば、言えなくなる。
「その日。この駅のホームで、事件がありました」
重すぎる言葉を、ゆっくりと。一言ごとに区切って。
少しためらいながら話す間、遥は何も言わずに耳をかたむけてくれた。
「あなたは、その事件に……巻き込まれました」
ホームの外で、風が強く鳴った。
一陣の、悲鳴にも似た風切り音が、半地下の空間を揺らす。
招代は遥の顔を見続けた。視線を逸らさず、全身の勇気をふり絞って。
「早瀬さん。アナタは——あの日、亡くなっています」
言い切った。
もう、後戻りはできない。招代は正面に立ち、亡者からの反応を待つ。
遥は、動かなかった。
血色の悪い唇を閉ざし、突きつけられた言葉の重さを、ゆっくりと咀嚼する。
やがて。
見開かれた、瞳孔のないふたつの瞳から、ゆっくりと光が失われる。
はっきりと定着していたはずの彼女の輪郭が、ふわりと。心もとなく揺らぐ。
「……そう、ですか」
ついに。遥は誰に宛てるでもなく、呟いた。
運命を呪うような、絶叫ではなかった。
自分の存在が、最初からなかったような。ひどく冷たい響きで。
「だから、皆さんに声が届かなかったんですね」
「ええ」
「だから……。ポケベルも、鳴らなかったんですね」
遥は、抱えていたベージュのコートをきゅっ、と片手で握りしめた。
空いた手は、ゆっくりと宙へと伸ばす。
白く透き通った、小さい手。
でも、他人のものを見るように。虚空へとかざす。
「私……ずっとおかしいなと思っていました。でも、理由が分からなくて」
「……はい」
「怖かった、です」
ぽつり、と。足元へ落とされた。
何気なく放った、純粋な本音なのだろう。
だが、招代の胸に深く刺さった。
二十数年間、理由も分からないまま。
取り残された時代の中で、どれほどの不安を抱え込んでいたのだろう。
「私……。もう、ここに、いないんだ…………」
遥は自分の手を見つめる。
招代は何も言わず、待った。急かさなかった。
どのくらい、時は止まっていたのだろうか。
やがて、遥が静かに顔を上げた。
「……何があったんですか。私は、どうして」
事件の詳細を知ろうとする問い。当然の問いだった。
「ホームで、事件がありました。アナタはその日、巻き込まれました」
それだけ言った。
それ以上は、言わなかった。
犯人のことは告げない。今はまだ、その必要がない。
彼女が受け止めるべき事実は、今夜はこれだけで十分だ。
「…………」
遥は少しの間、黙っていた。何かを待つように。
やがて。招代が続きを話さないことに気づいた。
「……そうですか」
短い同意をこぼした彼女は、それ以上、なにも問い返さない。
責めも、しなかった。
ただ、もう一度だけ自分の手を見てから、改めて招代をみつめ直す。
悲しそうに細められた瞳には、不思議と怒りの色はなかった。
この小説は、執筆にAIを利用しています。




