10.動き出した時間
自分の手を見つめたまま、時間を止めた遥。
季節はずれの寒気が、静まり返ったホームに忍びこむ。自身を彩る影を揺らし、青白い光をほのかに放つ。
それは。己の死という重い真実を、静かに受け入れていく儀式のようで。
招代は何も言わず、彼女を見守り続けた。
「ワガママ……言ってもイイですか?」
やがて。遥の口から、透き通った声がこぼれ落ちた。
「なんでしょうか?」
「お父さんと、お母さんに……。会えますかね?」
父と母。
暗い過去を呼び起こす、遠い日のしこり。招代の顔がふっ、と陰る。
「……どう、でしょうか?」
彼の不自然な沈黙に、遥は白い小首をかしげて視線を落とす。
「ハ、ハイ。大丈夫です」
正気に戻った招代は、慌てて首を横に振った。
「約束します。ご家族の現在を、自分が探しますので」
「……ありがとう、ございます」
お礼を言う遥の目に、はかない光の筋がこぼれる。
招代は一瞬、涙かと思った。が、どうも違ったらしい。
あれは。彼女が長い間、探していたもの。
思い出せなかった空白を埋める、記憶のしずく。
それが。自分の死を受け入れた今、ようやく形となってあふれ出した。
彼女の時間は、少しだけ前に進んだのだ。
「お父さんに、言いたいことがあったんです」
遥は、静かに続けた。
「就職活動のこと、ずっと心配かけてばかりで」
少し悔しそうに。抱えたベージュのコートを、透き通った指先で握りしめる。
「だから、早く良い知らせを届けて、安心させてあげたくて」
「……なるほど」
「それが……ずっと、引っかかっていたのかもしれません」
遥は小さく笑った。
生身の人間のようでいて、どこか違う。
古ぼけた写真にも見える、淡く滲んだ微笑み。
「もうひとつ、いいですか?」
「なんでしょう」
「友人に——、沙織に会いたいです」
招代の鼓動が、ドクン、と、胸板を突き上げる。
「沙織さんのこと……覚えていますか」
招代は胸の動悸を悟られないよう、冷静を装いながら尋ねる。
遥は小さく首肯した。
「名前だけは。顔は……まだぼんやりしているんですけど」
記憶の糸を、たぐり寄せるように。彼女は冷たい指先を、そっと重ね合わせる。
「いつも一緒に、企業説明会を回っていた気がします。緊張すると、いつも笑わせてくれた子で」
「……会えますよ」
招代は答えた。
「彼女も、会いたがっています。アナタのことを、一度も忘れたことがない人です」
信じられない、とでも言いたげに。
遥の、生気のない瞳にはっきりと。驚きと歓喜の色が浮かび上がる。
「本当……ですか?」
「はい……。実は先日、沙織さんから連絡をくれたんです」
震える声での質問に、力強く胸を張る。
「今、自分の友人が、沙織さんとの間を取り持っています。必ず、近いうちに会わせます」
招代の言葉を受け取った遥は、手にしたベージュのコートを抱きしめ、深く頭を下げる。
「……ありがとうございます」
どこかほっとしたような仕草に、暖かな色味がさす。
もう不気味な亡霊などではない。
誰かの大切な人であり、かけがえのない友人なのだ。
「自分こそ」
招代は、照れ隠しに制帽のひさしに指をやる。
逃げてばかりだったオレが、踏みとどまれたのは。
「あなたが……ここにいてくれたから」
過去の忌まわしい記憶に縛られたのは。暗闇の底でさ迷っていたのは。
なにも、彼女だけではないのだ。
「だから、ありがとうございます」
招代から発した感謝の言葉。静かなホームに、確かな熱を持って響く。
遥は少し不思議そうな顔をして、笑った。
「私、なにもしてませんよ?」
確かに、そうだ。
今、目の前で戸惑う彼女は、なにもしていない。
生きてもなく、成仏もできず。
止まった時間の中で、途方に暮れていただけ、なのだから。
でも。
彼女のひと言が、悲しくもあり、どこかおかしくもあって。
気づけば。招代の強張っていた顔筋も、自然と綻んでいた。
翌朝。仮眠室で二時間だけ眠った招代は、健人へ電話を入れる。
『なんだよ、朝っぱらから』
健人の、アクビが混じった不機嫌なぼやき。まだ、夢の中に片足を突っ込んでいるらしい。
「高橋さんに、伝えて欲しい。会いたいって話、受けるって。遥さんに真実を伝えた」
挨拶や前置きをいっさい省き、いきなり本題から入る。
「それでさ。今週中にセッティング、できる?」
『そうか……、言ったんだな』
スピーカー越しの息づかいが変わった。一瞬で眠気が消え去ったのだろう。
『……にしても、今週中か。えらく急だな』
「急いだほうがいい、と思って」
『分かった。すぐに沙織さんに連絡して、どうにかするよ。任せとけ』
頼もしい返答を残して、通話は切れた。
「よしっ」
招代はスマホの電源を切り、業務用カバンの底へしまう。
もう一度、姿見で服装をチェックすると、確かな足取りで、始業点呼へと向かう。
遥との約束は、ひとまず横におこう。
これからは、仕事の時間だ。業務に集中しなければ。
健人からの返信に気づいたのは、朝のラッシュアワーを乗り切った、つかの間の休憩時間。
詰め所でスマホを確認すると、すでに短いメッセージが入っていた。
いつでも行きます、だってさ。
送信時間から、お客さまセンターが営業する前に、対応してくれたのが分かる。
そして、遥の友人――高橋沙織も、即決したのだろう。
(もしかして)
遥の友人は、ずっと待っていたのだろうか。
二十数年間前。突然いなくなってしまった友人を。
招代は数秒の間、メッセージを無言で眺めた。
と、意を決した顔でスマホをカバンに戻す。
そのまま、足を大きくスライドさせ、事務室へ。
目当ての人物――多田津助役は、自分の席で書類とにらめっこしていた。
「オヤっさん」
「助役だ」
「有給休暇を、申請したいのですが」
有給、という言葉に、眉毛の端っこがピクリ、と動く。
「権利だからな。仕方あんめぇ」
「あと。折り入って相談があります」
ようやっと、多田津は書類から目を離した。
怪訝な顔で招代の顔を一瞥し、無言で向かいの椅子を顎でしゃくる。
座れ、という合図。素直に従い、空席に浅く腰掛ける。
「で、なんの用だ?」
「二十数年前に、神宿駅で起きた殺傷事件……。ご存知ですか」
多田津の眉が、わずかに動く。
「知ってる。オレがまだ若い頃だ」
低い声は、記憶の埃を払うような慎重さを持っていた。
「その事件で被害にあったかたの……知人に縁がありまして。連絡を受けたんです」
亡霊の存在は胸の奥にしまい込んだ。
死者の無念ではなく、生者の要望だけを前面に出す。
「知人は、一度だけ閉鎖後のホームへ入りたい。と、言っています」
「理由は?」
「あの場所で、お別れをしたいそうで」
多田津は背もたれに体重を預け、太い腕を組んだ。
「……いつだ?」
「今週中の、業務終了後を希望しています」
「何人だ?」
「一名です」
招代に、思いつく限りの質問を投げかけた後。
多田津は組んだ腕をほどき、テーブルの一点を指でトントンと叩いた。
しばらくの間、一定のリズムを刻む。
招代に出来ることは、オヤっさんの熟考を邪魔しないこと。
固唾を呑んで見守るしかない。
「……わかった」
やがて、オヤっさんの固く結ばれた口が、ゆっくりと開く。
「その立ち会い、オレも同席する」
予想もしていなかった、上司からの宣言。招代は目を見開く。
「いいんですか?」
「営業後のホームに一般人を入れるなら、管理者の同行は当然だ」
助役は椅子をきしませて身を乗り出し、有無を言わさぬ迫力で言い放つ。
「それが、規則ってもんだろ」
ギロリ、と睨む目の奥に隠れた、冷静な判断。
私情と職務の間に、明確な線を引く。安全を預かる管理者の、譲れない鉄則だろう。
だが、多田津はそこで止めなかった。
「……それに」
立ち上がり、窓の外のホームへ視線を移す。
「あの事件は……、オレにも因縁があるからな」
「オヤっさんも?」
「助役だって、言ってんだろ」
いつものように声を荒げた後、多田津は少し気まずそうに、荒々しく咳ばらいをした。
柄にもなく私情を覗かせたことへの、彼なりの照れ隠しなのだろう。
「とにかく、だ」
首を引っ込める招代に考えるスキを与えず、有無を言わさぬ圧で畳み掛ける。
「オレも同席するのが、許可を出す条件だ。ソレが呑めなきゃ、あきらめろ」
「……分かりました」
日取りが、決まった。
沙織と待ち合わせは、駅の近くの喫茶店で行うことにした。
有給を活用した招代は、約束の時間より前に着いた。窓辺の席に座り、遥の友人を待つ。
(しまったな……)
冷めきったコーヒーを片手に、招代は早く来たことを後悔した。
浮き足立った頭の中は、余計な考えばかりが巡る。
なにより。入り口のドアが開く、カランという鈴の音が鳴るたび、視線を送ってしまう。
待ち人にとって、時間の経過は遅すぎた。
約束の五分前。
店内を見回す人影に気づき、招代の方から軽く会釈をする。
落ち着いた色のワンピースに、薄手のカーディガン。
手に小さなカバンを下げた、小柄な女性だった。
「高橋沙織です」
丁寧にお辞儀する婦人は、思っていたより落ち着いていた。
初対面だからか、緊張しているのは見て取れる。
だが。まっすぐ見つめる視線に、怯えや戸惑いは感じられない。
ホームで出会った彼女の友人より、二十数年分の年輪を刻んだ、腹を据えた人間の顔。
「御厨さん、でしたよね」
静かに席につくやいなや、開口一番。会話は沙織から始まる。
「遥のこと、探してくれていたんですか」
「探していた、というより……」
招代は言葉の選択に困りながらも、正直に言葉をくりだした。
「出会ってしまいました。それが始まりです」
沙織の、カップを持つ手が止まる。
「……出会って、ですか?」
「はい」
言葉の意味を、瞬時に悟ったのだろう。沙織は小さく目を閉じる。
店内に流れる、ゆったりとしたBGM。
その調べに乗って、懐かしい青春の時代を思い出しているのだろう。
やがて、噛みしめるように。沙織は招代の顔を見つめた。
「御厨さんは、天凰鉄道の車掌さんでしたね」
「ええ」
「遥に……あの子がもう亡くなっていること、伝えてくれましたか?」
凛と張りつめた、婦人の問いかけ。招代は黙って頷く。
「彼女……どうしてました? 泣いて、いませんでしたか?」
「早瀬さんは……。アナタに会いたい、と」
「そうですか……」
短い呟きの中に、いくつもの感情が折り重なっていた。
安堵とも、悲嘆とも、どちらとも取れない。
婦人の視線が、ゆっくりとコーヒーカップに注ぎ込まれる。
「あの子、一人でいるのが苦手だったんです」
紡ぎ出されたのは、遠い昔の思い出。
「いつも、誰かのそばにいたげで。でも、どこか不器用で」
沙織の視線が、遠い過去の景色へと向かう。
「最初は、ちょっと変わった子だなって思ってました。真面目すぎるっていうか」
少し、口元がほぐれた。
記憶の明るい部分に触れた時の、自然な表情。
「企業研究のノート、いつもたくさん持ち歩いて。合同説明会でも、最前列で熱心にメモしてました」
招代は相槌も打たず、黙って聞き入る。
うかつに言葉を挟んだら。眼の前で思い出話を紡ぐ婦人に、悪い気がしたから。
「彼女、面接に落ちるたび、ひとりで泣いてたんですよ。私には絶対、泣いてるとこ見せなくて」
婦人も、よほど語りたかったのだろう。
だんだんと。話が進むにつれ、語り口が熱を帯びてゆく。
「ある日、ちょっと早く来た時に、ロッカーの陰で背中が震えてるのを見てしまったんです。
声をかけたら、『なんでもない』って笑ってました。真っ赤に、目をはらしたまま」
沙織の指が、カップの縁をなぞった。
「だから私、彼女にこう言ってしまったんですよ。もう、やめよう、って」
口元にあった自嘲的な笑みが、冷めたコーヒーの横に落ちる。
「当時の私も、内定をなかなか貰えなくて。少し、投げやりになってたんだと思います」
ふと、昔語りが途切れる。
沙織は一度、深く息を吸いこんだ。
「そしたら遥に、めちゃくちゃ怒られました」
声のトーンが、わずかに変わった。
「そんな言い方しないでよ、って。これだけ頑張ってきたのに、って」
楽しそうに、でも、悲しげに。こぼれる言の葉が湿りだす。
「私が言いたいことを、私の代わりに全部言ってくれた。怒りながら、泣いて」
「遥さんが、泣いていた?」
声にした後、招代は、しまった、と慌てて口をつぐむ。
つい。自分に課したタブーを破ってしまった。
「はい。あんなに泣いてるとこ、初めて見ました」
沙織は少し笑った。泣きそうな顔のまま、笑った。
「それで、私も泣いてしまって。ふたりでしばらく、ロッカーの前で泣いてました」
目元を指先でそっと押さえ、沙織は静かに顔を上げる。
「あの子が諦めなかったから、私も耐えられました」
声が、少しだけ掠れた。
テーブルの上に置かれた手が、かすかに震える。
「私が今、仕事を続けていられるのは……遥のおかげなんです」
沙織は唇を噛み、視線を窓の外へ。
「だから、ずっと……ずっと、遥に、お礼を……言いたかった」
もう、止まらなかった。
両手で顔を覆い、肩を震わせた。指の隙間から、声にならない嗚咽が漏れる。
招代はハンカチを差し出すことすら控えた。
そうするべきだ、と肌で感じ取った。
高橋沙織が、早瀬遥を思い出すことで。彼女に対する弔いになるのだ、と思ったから。
これは、ふたりの友情が時代を越えて息を吹き返す、大切な時間なのだ。
「御厨さん」
沙織が会話に戻るまで、三曲のメロディが流れていた。
赤く腫らした目を隠さず、招代へ向き直る。
「私も、遥に合いたい」
涙の跡が残る、婦人の顔。揺るぎのない決意で、瞳に強い光を瞬かせる。
「会わせてください。お願いします」
深々と、頭を下げた。
切実な、魂からの願いだった。
「…………分かりました」
招代は姿勢を正した。彼女の覚悟を、真正面から受け止める。
「管理者の方も同行します。それと、遥さんは見えません。
でも、あなたの声は届きます」
「見えなくていいです」
即答だった。
「声が届くなら、それで十分です」
沙織とはいったん別れた。招代は受け入れ準備のため、駅舎へと走る。
再び駅前で待ち合わせたのは、日付が変わった深夜のこと。
草木も眠りにつく時間帯。
「お待たせしました」
制服に着替えた招代は、沙織へ静かに一礼する。
彼女は、花束を手にしていた。
「……ご無沙汰、しております」
隣に立つ多田津助役が、制帽を脱いで深々と会釈した。
「どこかで、お会いしましたか?」
沙織の記憶を探るような問いかけに、多田津は小さくうなずく。
「事件の追悼式典で。当時、少しだけお話させていただきました」
「そうでしたか……。その節は、お世話になりました」
「いえ……」
過去を噛み殺すように、多田津は制帽を深く被り直す。
「私がもっとしっかりしていれば、ご友人を救えたかもしれません」
悔恨の言葉を口にする多田津。現場の鬼と恐れられる男が、招代の目に弱々しく映った。
見えない十字架の重みで、ひと回り小さくなってしまったかのように。
「あ、あのっ」
招代はたまらず、黙り込むふたりの間に割って入った。できる限りの、明るい声を出す。
「ここで立ち話もなんですし、行きましょう」
誰の口からも、異論は出なかった。
「こちらへ」
多田津の先導で、乗務員用の入口からホームに入る。
耳が痛くなるほど静寂に満たされた、遥が何かを探していた場所。
だが。今日は、どこか違う。
湿気の中に、冷たい何かが混じっている。
過去と現在が、生者と死者が。
複雑にこすれ合い、絡み合って。イヤな感触が招代の肌を刺す。
いや、気のせいだ。軽く身震いし、不安を追い払う。
「早瀬さんは……あのベンチの近くにいます」
中央にあるベンチの手前で足を止め、ゆっくりと指を差す。
「あそこに……遥が…………」
小さくこぼれた声は、震えていた。
見えない親友の姿を探すように。
沙織の瞳が、何もない空間を食い入るように見つめる。
その腕に抱かれた花束が、かすかに揺れた。
「高橋さん」
多田津が沙織の背中を優しく押し、親友の再会を促す。
婦人はゆっくりと、足を一歩、進める。
――その時。
ホームの照明が、一斉に消えた。
この小説は、執筆にAIを利用しています。




