11.再会と、生者からの願い
構内に満ちていたメイン照明が消えた。非常灯も息絶えた。
駅全体が、一斉に深い眠りへと落ちる。
半地下のホームに突如として広がった、底のない闇。
「キャアッ!」
突然の停電に、沙織が悲鳴を上げた。肩をびくり、と跳ね、身を縮こませる。
「高橋さんっ!」
落ち着かせようと肩を抱いた招代と、多田津が動いたのは、ほぼ同時。
腰から下げたカンテラを手に取り、高々と掲げる。白色の力強い光が、重い闇を円く切り取る。
「ホーム内に異常なし。高橋さん、大丈夫ですよ」
安心感をたっぷりと含んだ、野太い声。
「にしても、変だな」
助役の空いた手が、自分のあごを撫でた。
「予備の電源が動いてない。どうなってんだ?」
冷静に分析する現場の鬼に、招代は感嘆の念を抱く。
この不可解な暗闇の中でも、眉ひとつ動かない。踏んだ場数の差を、痛烈に感じてしまう。
「これって……遥のしわざですか?」
「……いや。違う、と思います」
おびえる沙織からの、すがるような視線に、招代は戸惑いながら否定した。
彼女が起こしたものとは考えられない。
「この神宿駅には、複数の予備電源があります」
多田津も別の見地から、首を横に振る。
「非常時には自動的に切り替わります。すぐに回復するハズです」
だが。身を寄せて待っていても、一向に、照明が息を吹き返す様子はない。
鳥肌を立てる、招代の息が白い。寒気とは違う、生命を拒絶する温度。
もうすぐ夏がくるというのに。じょじょに下がっていく体温に、こごえてしまいそうになる。
――と。
ペタリ、ペタリ。
ベンチの方角から、ゆっくりと。水気を含んだ足音が聞こえてくる。
「なんだ?」
多田津が、音のした先にカンテラをかざす。
光のふちに、黒くかすんだ影をとらえた。すぐさま、濃い闇の奥へと身を隠す。
「遥?」
沙織が、胸に抱いた花束を強く握りしめ、身を乗り出す。
いや。
彼女だったら。光の届かない場所で、ぴちゃぴちゃと音を立てやしない。
もっとおぞましく、重苦しく。現世の常識から完全に外れた、なにか。
「オヤっさんっ。あの場所を照らしてくださいっ!」
自分の耳と勘を頼りに、意思を持ってうごめく漆黒を指さす。
オウ、と応じた助役がカンテラを向けた。強烈な白色光は、招代の示した場所を明るく照らし出す。
「きゃあぁっ!」
沙織の口から、引きつった悲鳴が這い上がった。ヒザから力が抜け、その場にへたりこむ。
彼女の目に、遥の姿は映っていない。
だが。光の先にわだかまる死の冷気を、イヤでも感じ取っていた。
「なんだぁ、あ……、あの黒いモヤっ!?」
多田津も、ごくり、と唾を飲み込んだ。
カンテラの光を飲み込む、濃密な黒色の気体を前に、思わず後じさる。
招代の全身の血が凍りつきそうになる。
ふたりとも、黒いモヤしか見えていないだろう。だが、招代の目にはハッキリと視えていた。
白い軌跡の先で立ちつくす、早瀬遥の姿が。
細く白い腕を、だらり、と垂らし。普段も虚ろな両眼を、白く濁らせ。
背後で、黒い穴から這い出すような、どろりとした塊を背負いながら。
「あ……、あっ…………」
もぞもぞ、と。妖しくうごめく、無数の小さな手。
いやらしい動きで白い輪郭にふれるたび、びくん、と小さく痙攣した。
(助けなきゃ……!)
招代は気絶した沙織を背でかばいながら、恐怖ですくみ上がる自分自身に問いかける。
今まで。見て見ぬふりをして逃げ回ってきた。やり過ごすことだけが、正解だと思っていた。
だけど。
「オヤっさん」
「なっ、なんだ?」
「高橋さんを、頼みます」
多田津に沙織を預けると、黒い悪意に向かって駆け出した。
怖いし、無謀だと分かっている。この行動が正しいかも分からない。
それでも。
今、動かないと後悔しそうだから。
「うわああぁぁっ!」
なけなしの勇気を振り絞って、悲鳴に似た絶叫を上げた。
遥の背にへばりつく、無数の手に向かって殴りかかる。
だが。
「うわぁっ!」
激突した瞬間、強烈な冷気と物理的な反発力が招代の全身を襲った。
ぶ厚い氷の壁に全力でぶつかったように、招代は無残にも弾き返された。
鈍い音を立て、ホームの床に背中から叩きつけられる。
「御厨っ!」
見えない何かに、部下が倒された。眼の前で起こった事態の異常性に、多田津が叫ぶ。
「モヤが来るぞっ!気をつけろ――」
忠告は、遅かった。
立ち上がろうとした矢先。招代の前に実体のない、真っ黒な無数の手が立ちはだかる。
意識のない遥を操りながら。新しい獲物を、暗闇に引きずり込もうと。
腰が砕け、動けない招代に黒い腕が伸びる。
「くたばれぇ」
耳元で、声がした。
突き飛ばされた時に聞いた声が、ねっとり、と。鼓膜の裏側を侵食する。
「なにもかも、きえてなくなれぇ」
べっとり、と。どろどろ、と。
人間の、醜い部分から吐き出された、不満を塗り固めたかのような、呪いの声。
(や、やられる……)
恐怖で、動きを止めてしまった。本能で、おしまいを悟る。
もうだめだ。助からない。
両目を強く閉じた、瞬間。
突然――招代は胸元に、激しい熱を感じた。
シャツの内側から。下着で隠したペンダントから。
先端に飾られた、小さい輝石が光る。
(な……に……?)
握りしめたわけでも、意識したわけでもない。
招代の命の危機に呼応するかのように。シャツの生地を貫いて、まばゆい閃光が放たれる。
無機質な白色光ではない。
血のように赤く、生命の熱を帯びた、深い輝き。
「うわ……あぁ…………」
闇の塊がゆらり、と渦を巻き、揺らいだ。
黒い手がのたうち、ぼろぼろと灰のように崩れ落ちていく。
招代が床に手をつき、姿勢を立て直した。
ずい、と。踏み込んだ足に呼応して、赤い脈動が激しさを増し、色濃い闇を切り裂く。
「やめ……ろぉ…………」
いやしい黒腕の群れが、激しく身をよじらせた。光に焼かれたヘドロの表面が、ぶくぶくと泡立つ。
「うぅ……っ…………」
遥の背後に張りついた漆黒の群体が、重苦しい雑音を放った。
淡い輪郭から手を離し、暗闇の奥へ。怨嗟の呻きを床の下に響かせ、退散する。
「早瀬さん!」
前のめりに倒れる彼女の細い肢体へ、招代は手を伸ばした。
透き通った、華奢な身体が床に倒れふす直前で、どうにか受け止める。
重さは、まったく感じなかった。
集中しなければ、腕からすり抜けてしまいそうなほど。
ひどく頼りない、冷たい空気の存在。
白い手袋を通して伝わる幻影の感触に、招代は息をするのも忘れてしまった。
照明が落ちた時と同じく、唐突に。構内は白い光を取り戻した。
全身をなめ回す、重苦しく不快な冷気は遠のいた。
今は、生ぬるい沈黙が黄色い線の内側に落ちる。
招代は、腕の中で輪郭を薄くする遥と、自分の胸元へ視線を落とした。
ペンダントは、もう光っていない。
だが。汗でべっとりと濡れたシャツの下から、わずかに温度を感じた。
(なんで……光ったんだ?)
ずっと、肌身離さずに持っていたペンダント。
実家を飛び出した時に持ち出した、小さな輝石を埋め込んだ首飾り。
「高橋さんっ、大丈夫ですかっ!」
多田津の大声に、招代も気絶した沙織の存在を思い出す。
はっ、と我に返り、視線を移す。助役は大きな体を丸め、ホーム上に倒れた女性を必死に介抱していた。
「大丈夫……です。少し、ビックリしただけ……」
弱々しいが、ハッキリと。呼びかけに応じた沙織は、気丈に上体を起こす。
とはいえ、極度の緊張で足に力が入らない。ベンチへ腰を下ろすのにも、多田津の支えが必要だった。
「それより、遥は……」
「無事ですよ」
力なく周囲を見回す沙織に、招代は静かに告げた。
「あの黒い影に、襲われていましたが……。今は退散しました」
喉だけではなく、全身の筋肉が緊張している。声帯は小刻みに震えた。
それでも。沙織を不安にさせないよう、穏やかな声色を作る。
「彼女はここにいます。ただ、ひどく消耗して、眠っているようです」
招代は、形のない魂を大切に抱きかかえ、腕の形を丸めてうなずく。
「そこに……遥が…………」
沙織はよろよろと、ヒザを震わせながら立ち上がった。
今にも倒れそうな、もつれた足取りで。
床に落とした花束をまたぎ、招代の、早瀬遥のすぐそばまで歩み寄る。
「遥……聞こえる?」
コンクリート製の床にヒザをつき、少し震えた声で。
「あの日、先に帰って……ごめんね」
沙織の手が遥の頬を、何もない透明な空白を、そっと触れた。
「まさか……あんなことになるなんて……。思っても、なかったから……」
大粒の涙が、淑女の瞳からこぼれた。コンクリートの床に濃いシミを作っていく。
「あの時…………、一緒に、いてあげていたら。ひょっとしたら……」
「高橋さん。それは、違います」
多田津が後ろから声を絞り出す。
「どんな状況であろうと。お客さまの命を守るのが、我々の職務です」
神宿駅の事務室で現場を指揮する彼とは明らかに違った。
思うところがあるのだろう。過去の事件に、無念を顔中に滲ませる。
「早瀬さんを守れなかった責任は、我々にあります」
謝罪の言葉を吐き出す多田津に、沙織は労わるようにほほ笑んだ。再び、招代の腕の中で眠る遥と向き合う。
「私ね。娘の名前に、遥ってつけたの」
見えないはずの親友の冷たい手を、自身の両手で包み込む。悲しいかな、無常にも空を切った。
「あなたを忘れないように。あなたの分まで、長生きできますように、って」
震える吐息が、深夜のホームに溶けていく。
「私。あなたが居なくなってから、いろんなことがあったの」
沙織は笑顔を貼りつかせた。
嗚咽をこらえるように。わななきかけた口元を、無理やり引き上げる。
「辛いことが、たくさん。同じ分だけ、幸せなことも」
懐かしむように。友を失ってからの二十数年の重みを、途切れがちな言葉に乗せていく。
「そのどれも。遥、あなたがくれたの」
力のこもった、沙織の独白。
「あなたが叱ってくれたから。励ましてくれたから。私は頑張れた」
しとどに濡れた頬をぬぐいもせず、姿の見えない友人に思いを語り続ける。
招代は息を潜め、ただ静かに聞き入った。
鉄道員として、ホームでいくつもの別れを見送ってきた。だが、これほどまでに悲しく、さみしく、温かい再会を知らない。
「ありがとう。私、ぜったい、忘れないから」
涙の雫が冷たい足元へ落ちた。声にならない感謝の言葉が、ホームに響く。
その時。
「んっ…………」
今まで動かなかった遥の口から、呪縛が取れたような、か細い寝息が漏れた。まぶたが痙攣し、ゆっくりと瞳を開く。
「ここ……は?」
目を覚ました遥はゆっくりと頭を上げ――――眼の前で泣き笑いする婦人に視線を固定した。
「さ……沙織?」
沙織は、遥に近況を伝え始めた。
就職したこと、結婚のこと。子供が、いつ生まれ、どう成長したか。とめどなく言葉を紡ぐ。
でも。一方的に語りかける彼女には、友人の声も、表情すら届かない。
だから、招代がふたりの間を取り持った。
親友の口からあふれ出る、思い出話の反応を、沙織に伝える。
友人より少しだけ年を召した彼女は、さらに大粒の涙をこぼして微笑んだ。
奇妙で、不思議で、温かい会話。
ただ。遥の両親について話が変わると、様子が一変した。
彼女が亡くなった数年後。どちらも愛娘を喪った心労で、倒れたらしい。
そして、そのまま――。
「そう……なんだ…………」
おだやかだった青白い表情が、深く沈み込んだ。
涙の流せない目を伏せ、自分の中にわき始めた罪悪感を受け止める。
それでも。「自慢の娘だ」と最後まで語っていた、と聞いた時は、少しうれしそうだった。
どのくらい、死者と生者の間で言葉を交わしただろうか。
「高橋さん」
険しい顔で。沙織の背後から多田津が声をかける。
気づけば、時計の長針がひと回りしていた。これ以上、長居をされると、翌日の業務に影響が出てしまう。
沙織も名残惜しそうに唇を噛むも、理解を示してくれた。
ゆっくりと立ち上がり、透明な親友へと語りかける。
「遥」
招代が視線を向ける、何もない空間へ。優しく微笑みかける。
「また、来るから。待っててくれる?」
遥は泣き出しそうな顔で、何度も首を縦に振った。
「待ってる。と、言っています」
招代が告げると、沙織は「ありがとう」と呟き、今日一番の美しい笑顔を咲かせた。
「では。今日は、ここで失礼します」
三人はベンチに白い花束を置くと、招代は遥に敬礼した。
のこりのふたりも別れの挨拶の言葉を告げ、生者の世界へ靴音を鳴らす。
沙織は何度も振り返った。
そのたびに。透き通った手を小さく振りながら、じっと見つめる遥が見送っていた。
もと来た道を戻り、駅前まで出る間、誰も言葉を発しなかった。
三人が三人とも、それぞれが不安と思惑を抱え、駅舎の外へ出る。
夜が深く街を覆っているものの、確実に生者の息づく世界が出迎えてくれた。
「本日は、どうもありがとうございました」
別れる直前、沙織は深々と頭を下げた。
「お疲れ様でした」
多田津が敬礼で返す。
「また何かありましたら、この御厨に言ってやってください。
できる限り、お手伝いをさせていただきます」
助役の社交辞令に、思い詰めたように沙織は押し黙った。自分の腕を抱え、視線を落とす。
再び顔を上げるのに、少し時間がかかった。
「御厨さん」
心細そうな、憂いを帯びた瞳が、招代を真っ直ぐに射抜く。
「お願いがあります」
「なんでしょうか?」
「遥を——あの子を、安全な場所へ連れ出してもらえますか?」
突然の突拍子もない願いに、招代は驚き固まってしまう。
「それは……」
横で話を聞いていた多田津も、顎に手を当て唸る。
亡者を、駅のホームから連れ出す。
運ぶのは招代たち運輸業の職分であるが、死者である彼女を、生者の乗り物で運んでよいのか?
初めてと言っても良い疑問に、招代も多田津も、その答えを持ち合わせていない。
「どうして、ですか?」
理由を尋ねると、沙織は自身の腕を強く抱きしめ、身震いした。
「遥に、また……。今夜みたいなことがあったら……」
か細い声の震えが、三人の間に波紋を広げていく。
「次は……。もっと、ひどい目に合うんじゃないかと思うと…………」
痛々しいほど血の気の引いた顔が、街灯の下でこわばっていた。
「高橋さん……」
弱々しく、どちらが呟いたのだろうか。
彼女の言い分は、分かる。確かに、駅構内なら安全だ、とは言い切れない。
今夜は、たまたま運が良かっただけ。ちょうど、三人がホームに居合わせたから、あのバケモノを追い払えた。
これが、もし。誰もいない時に、起こったならば。
「御厨さん」
助役に助けを請おう、と視線を横に送る寸前。もう一度、沙織が呼んだ。
「遥を、ちゃんとした場所へ送り届けてあげてください。お願いします」
深々と頭を下げる。切実な懇願だった。
招代は、ペンダントの輝石を指先でそっと触れる。
まだ、少し温かい。
(これがあれば。彼女を守り抜くことが……、あるいは……)
「……分かりました」
胸の内でくすぶる熱に背中を押され、招代は静かに首を縦に振った。
「行った、な」
会社で手配したタクシーに乗り込む沙織を見送った後、多田津は大きく息を吐いた。
その横顔は、明らかにシワの数が増えた。髪も、いつもより白く見える。
数年分の寿命をすり減らしたかのような、色濃い疲弊の顔だった。
「御厨」
多田津は制帽を外しながら、名前を呼んだ。
「アレは一体、なんだったんだ?」
絞り出すように、低く掠れた声で。ホームで見た、得体の知れないバケモノについて尋ねる。
答えのない問いだと分かっていながらも、問わずにはいられなかったのだろう。
「分かりません」
招代は嘘いつわりない本音で、静かに首を横に振る。
「ですが。良くないものだ、というのは分かります」
「会社にとって、か?」
「会社にも、彼女にとっても、です」
確信を込めて。夜に残った喧騒に、不安の入り混じった風が巻く。
「そうか……」
多田津はしばらく、押し黙った。
深く、何かを探るように。じっと夜空を見上げ、やがて重い溜め息とともに視線を落とす。
「御厨。今から帰るのは、しんどいだろう?」
助役の質問に、招代は素直に頷く。
張り詰めていた糸はすでに切れていた。いつ崩れ落ちても不思議ではない疲労が、全身に重くのしかかる。
「空いてる仮眠室で、今日は休め。オレが許可する」
「……ありがとうございます」
「それと。明日、起きてからでいい。時間を作れ」
指示を飛ばした多田津の目に、ギラリと力がこもる。
「それって、どういう……」
「あんなモン、見せられたら、な。動かなきゃなんねぇ」
問い返す招代の言葉を遮るように、多田津は頭を押さえながらボヤいた。
「だが、対策するにしても妙案が思いつかん」
鋭い視線が、招代の顔を真っ直ぐに射抜いた。
「だから、オマエにも手伝ってもらうぞ」
絶対的な、異常事態下での特別命令。
招代は一瞬だけためらうが、最後は力強く首肯した。
この小説は、執筆にAIを利用しています。




