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名前を忘れた私ですが、たぶん異世界で石鹸屋をはじめます。〜いい人しかいないんですが、罠ですか?〜  作者: まの月


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55話 思いがけない人

 角を曲がったところで、私は壁に背中をつけた。


「はっ……はっ……」


 思ったより息が切れている。


 もう結構離れたはずだし、あの男が追ってきている様子もない。


 なのに、心臓が全然落ち着かない。


 私は買い物かごから手帳とペンを取り出した。


 今のうちに書いておかないと。


 男の特徴。露店の場所。並んでいた商品。聞いたこと。


 あとで思い出そうとしても、細かいところを忘れるかもしれない。


 手帳を開き、ペンを握る。


「えっと……」


 最初の一文字を書こうとした。


 でも、線が大きく曲がった。


「あれ……」


 もう一度書こうとしても、指にうまく力が入らない。ペン先が紙の上を滑って、変な線だけが残った。


「だめ……」


 握り直す。


 それでも震える。


 さっきまで普通に歩いて、普通に話して、石鹸まで買ってきたのに。


 今になって、急に怖くなってきた。


 ペンが指の間から滑り落ちた。


 からん、と道の端へ転がる。


「あ……」


 しゃがんで手を伸ばしたけれど、うまくつかめない。


「ノアさん?」


「っ!」


 突然名前を呼ばれて、肩が大きく跳ねた。


 誰かが近づいていたことにも気づかなかった。


 ゆっくり顔を上げる。


「シリルさん……?」


 そこにいたのは、護衛の仕事で街を離れていたはずのシリルさんだった。


 なんでここに。


 いつ帰ってきたの。


 聞きたいことは浮かんだのに、口から何も出てこなかった。


 ただ、シリルさんの顔を見た瞬間。


 ぽろっと涙が落ちた。


「えっ」


 シリルさんの顔色が変わる。


「ノアさん? どうしたんですか?」

「シリルさん……」

「何があったんです? どこか痛いんですか?」

「ご、ごめんなさい……」

「え?」


 自分でも、なんで謝ったのか分からない。


 でも、一度出た涙が止まらなくなった。


「ちょっと待ってください。誰かに何かされたんですか?」


 答えようとしても、うまく声が出ない。


 シリルさんは私から目を離し、さっと周囲を見回した。


 さっき曲がってきた角。


 通りの先。


 建物の陰。


 その動きが思ったより鋭くて、こんな時なのに、ああ冒険者なんだと思った。


「とりあえず、ここには誰も来ていません。大丈夫です」

「はい……」

「少しずつでいいので、息してください」


 言われて、何度か息をする。


 うまくできているのか分からないけれど、さっきよりは少しマシになった。


 シリルさんが足元へ目を落とす。


「あ、これ」


 転がっていたペンを拾ってくれた。


「ノアさんのですよね?」

「はい……ありがとうございます」

「何か書こうとしていたんですか?」

「忘れないうちに書こうと思って……でも、手が震えて……」


 自分の手を見る。


 まだ普通に震えていた。


 なんか、情けない。


 さっきまであの男の前では普通にしてたのに。


「ここで立っているのもしんどいでしょう。どこか座れるところへ行きませんか?」

「はい」

「歩けます?」

「たぶん」


 壁から離れて一歩進んだ。


 ぐらっと足元が揺れる。


「危ない」


 すぐにシリルさんが腕を伸ばして支えてくれた。


「すみません」

「謝らなくていいです」


 立ち直ろうとしたけれど、膝に力が入りにくい。


 シリルさんは少し迷ってから、手を差し出した。


「手、つないでもいいですか?」

「……はい」


 その手を取る。


 思ったより大きい。


 ぎゅっと握られるわけではなくて、私がふらつかない程度に支えてくれている。


 そのまま、人の多い通りを避けながら歩いた。


 シリルさんは時々周囲を見ている。


 私が何も気づかなかっただけで、さっきからずっとこんな感じで警戒してくれているんだろうか。


 しばらく歩くと、建物の裏に小さな広場があった。


 木の下に古いベンチが一つある。


「ここで少し休みましょう」

「はい」


 座った途端、足から力が抜けた。


「はぁ……」


 やっと普通に息ができた気がする。


 シリルさんは少しだけ間を空けて隣に座った。


「誰かに追われていたんですか?」

「分かりません。たぶん、追われてはいないです。でも……」


 買い物かごへ目を向ける。


 中には、さっき買った石鹸が入っている。


 それを見ただけで、あの声が頭の中に戻ってきた。


 シャボンノアの石鹸だよ。


 ここでしか買えない。


 当たり前みたいに嘘をついていた。


「話せそうですか?」

「はい。でも、その前に書いておきたくて……」


 手帳を開こうとしたけれど、まだ指がうまく動かない。


 シリルさんが私の手とペンを見比べた。


「僕が書きましょうか?」

「え?」

「ノアさんが話してくれたことを、僕が書きます」

「いいんですか?」

「もちろんです」


 少し迷ってから、手帳とペンを渡した。


「ありがとうございます」

「順番は気にしなくていいですよ。思い出したことから話してください」


 シリルさんが手帳を開く。


「まず、何があったんですか?」

「今日、市場で買い物してたんです。そしたら……シャボンノアの石鹸を売ってる声が聞こえて」

「シャボンノアの?」


 ペンが止まった。


「はい」


 買い物かごから石鹸を取り出して見せる。


「これです」


 シリルさんの表情が変わった。


「これを、ノアさんが買ったんですか?」

「はい」

「その店で?」

「はい。普通のお客さんのふりをして」

「……一人で話しかけたんですか?」


 さっきまでより、少しだけ声が低い。


 私は目をそらした。


「商業ギルドから、一人で声をかけないようにって言われてました」

「それなのに?」

「……はい」

「ノアさん」

「すみません。でも、見つけたらどうしても気になって……」


 シリルさんは黙った。


 怒られる。


 これはさすがに怒られる。


 そう思っていたら、しばらくして小さく息を吐く音がした。


「それはあとで話します」

「はい……」

「今は、聞いたことを教えてください」


 とりあえず今すぐ怒られるのは回避したらしい。


「売ってた人は、この石鹸を自分で作ったんじゃないって言ってました。売る方専門で、作るのは別の人だって」

「仕入れ先は?」

「そこまでは教えてくれませんでした。聞いたら、ちょっと怪しまれた感じがして」

「ほかには?」

「この市場だけじゃなくて、別の市場にも行くみたいです。隣町へ行くこともあるって」

「男の特徴、覚えていますか?」

「中年くらいで、つばの広い帽子を深くかぶってました。丸い眼鏡と、無精ひげ」

「露店には?」

「石鹸以外にも、櫛とか布とか、小さい食器とか……あと、香油みたいな瓶もありました。雑貨がいっぱい」

「場所はどこです?」

「東側の市場です。前に親方と探した時はいなかった場所で……」


 そのあとは、思い出せることを順番も気にせず話した。


 露店の場所。


 男が何度も周りを見ていたこと。


 石鹸は薄い紙に包んで、何の印もない袋へ入れていたこと。


 本当のシャボンノアより少しだけ安く売っていたこと。


 シリルさんは途中で何度か聞き返しながら、全部書いてくれた。


「たぶん、これで全部です」

「分かりました」


 手帳を閉じて返してくれる。


「よくそこまで覚えていましたね」

「必死だったので」


 自分でも、よく覚えていたと思う。


 シリルさんが、買ってきた石鹸を見る。


「怖かったでしょう」


 その言葉に、また少しだけ鼻の奥が痛くなった。


「……はい」


 怖かった。


 やっと自分でも認めた気がした。


「でも、言われたこと破っちゃいました」

「それは後で叱ります」

「やっぱり叱るんですか?」

「叱ります」


 真顔だ。


 思わず、少し笑った。


「そんなにはっきり言わなくても」

「危ないことをしたので」

「はい……」


 シリルさんも少しだけ笑った。


「でも、今は無事でよかったです」

「……はい」

「商業ギルドへ行くつもりだったんですよね?」

「はい。見つけた場所とか、男の特徴とか、全部伝えないと」

「僕も行きます」

「でも、シリルさん、いつ戻ってきたんですか?」

「今日です」

「今日!?」


 思わず声が大きくなった。


「じゃあ、帰ってきたばっかりじゃないですか」

「そうですね」

「疲れてません?」

「大丈夫です」

「でも――」

「ノアさん」


 ぴたりと止められる。


「一緒に行きます」

「……はい」


 これは断っても無駄そうだ。


 シリルさんが立ち上がり、手を差し出した。


「立てますか?」

「今度は大丈夫だと思います」


 そう言いながら、その手を取る。


 立ってみると、まだ少し足に力が入りにくい。


 やっぱり全然大丈夫じゃなかった。


 何も言っていないのに、シリルさんは歩く速さを私に合わせてくれた。


 さっきまでは、一人でどうにかしないといけないと思っていた。


 でも今は、隣にシリルさんがいる。


 それだけで、かなり違った。

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