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名前を忘れた私ですが、たぶん異世界で石鹸屋をはじめます。〜いい人しかいないんですが、罠ですか?〜  作者: まの月


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53話 それぞれにできること

 シュル、シュル、シュル――。


 工房の中に、ろくろの回る音が静かに響いていた。


 親方の太い指に押され、濡れた土が少しずつ形を変えていく。膨らみ、細くなり、再び丸みを帯びる。


 周囲では、弟子たちが土を練る重い音や、削った器を台へ置く小さな音が重なっていた。


「親方」


 工房の入口から声をかけられ、親方がちらりと顔を上げる。


「おう、ライネル。来たか」

「ええ。試作品ができたと聞きましたので」

「悪いが、もう少しそこで待っとれ。こいつを仕上げてからだ」

「分かりました。急がなくて結構ですよ」


 工房へ入ってきたのは、シリルの兄であるライネルだった。


 もともと頻繁に顔を出すわけではなかったが、シャボンノアで使う容器の話が始まってからは、週に一度ほど様子を見に来るようになっている。


 親方は再び手元へ視線を戻した。


 ろくろの速度をわずかに落とし、器の口を慎重に整えていく。最後に濡らした指で縁をなぞると、満足したように小さくうなずいた。


「よし」


 糸を使って器を台から切り離し、近くの弟子へ声をかける。


「こいつを頼む」

「はい、親方」


 作業を引き継いだ弟子を見届けると、親方は水桶の前へ移動した。腕についた土を洗い流し、布で手を拭く。


「待たせたな」

「いえ。親方の仕事を見る機会は、なかなかありませんから」

「見世物じゃないぞ」

「分かっていますよ」


 親方は鼻を鳴らすと、工房の奥にある棚へ向かった。


 そこから布に包まれた容器を取り出し、作業台の上へ置く。


「これが試作品だ」


 布を外すと、淡い白色の陶器で作られた容器が現れた。


 丸みのある縦長の形で、上部には中身を入れるための蓋があり、下には液体を出すための小さな口と、それを操作する部品がついている。


 ライネルは容器を手に取り、さまざまな角度から眺めた。


「素晴らしいですね」

「まだ完成じゃないぞ」

「それでも、ノアさんから聞いていたものが、きちんと形になっています」


 ライネルは蓋を開けて内側を確認し、次に下部の部品をゆっくり押し上げた。


 カチッ、と小さな音がする。


「ここを動かすと、中身が出てくるのですね」

「ああ。中に入れる液体の粘りによっては、口の太さを変える必要があるがな」

「一つは、もうノアさんへ?」

「昨日、渡してきた。まずは嬢ちゃん自身に使ってもらっとる」

「では、こちらは?」

「予備だ。何か問題があった時に、すぐ作り直せるようにな」


 ライネルは感心したように容器を見つめる。


「これを、我が家でも試しに使ってみたいのですが」

「別に構わんぞ」

「ありがとうございます。ただ、容器だけあっても仕方がありませんね」


 少し考えてから、蓋を閉じる。


「中へ入れるものは、ノアさんから分けてもらわなければ」

「ああ。それなんだがな」


 親方の声が、わずかに低くなった。


「嬢ちゃんのところは、今ちょっと大変でな」

「大変?」


 ライネルが容器から顔を上げる。


「何かあったのですか?」

「商業ギルドからは、何も聞いとらんのか?」

「私のところには何も」

「そうか」


 親方は腕を組み、昨日の出来事を話し始めた。


 シャボンノアの石鹸を使ったという女性が、赤くなった手を見せながら店へやって来たこと。


 詳しく話を聞くと、その石鹸はシャボンノアでもひだまり亭でもなく、東側の市場に出ていた露店で買ったものだったこと。


 持ち込まれた石鹸は、本物とは色も匂いも形も違い、包装や売り方まで異なっていたこと。


 そして商業ギルドへ報告し、石鹸の中身を調べてもらうよう依頼したこと。


 話を聞き終えたライネルは、険しい表情を浮かべた。


「シャボンノアの名を使い、別の商品を売っていたということですか」

「ああ。まだ詳しいことは分からんがな」

「被害に遭われた方の手は?」

「赤い斑点が出て、ひどくかゆがっていた。嬢ちゃんがすぐに水で洗わせて、治療院へ行くよう勧めとったよ」

「そうですか……」


 ライネルは静かに息を吐いた。


「ノアさんは、大丈夫だったのですか?」

「平気な顔をしとった」


 親方はそう答えたあと、少しだけ目を細める。


「だが、客が帰ったあとには手が震えとったよ」


 ライネルの表情が曇った。


「それでも、あの場では見事なもんだった」


 親方の声には、隠しきれない感心がにじんでいる。


「相手がどれだけ怒鳴っても、嬢ちゃんは言い返さんかった。まず何があったのかを聞いて、一つずつ確認しとった」

「一つずつ?」

「ああ。いつ買ったのか、どこで買ったのか、いつ使ったのか、いつから症状が出たのか。相手に断って、全部紙へ書き留めながらな」


 親方は昨日の様子を思い出すように続けた。


「自分の店の商品じゃない可能性が高いと分かっても、関係ないとは言わんかった。シャボンノアの名を信じて買った以上、きちんと受け止めるとな」

「……ノアさんらしいですね」

「若いのに、しっかりした店主だ」


 親方は力強く言い切った。


「客の手を見ても、自分では治療の判断はできんとはっきり言っとった。できることと、できんことを分けて話していた。あれは簡単なようで、なかなかできるもんじゃない」


 言葉を重ねる親方を見て、ライネルの口元がわずかに緩む。


「ずいぶん褒めますね」

「事実を言っとるだけだ」

「それだけノアさんのことを気に入っているということでしょう」

「嬢ちゃんはよう頑張っとるからな」


 親方は少し照れたように視線をそらし、近くの棚へ向かった。


 そこには、ろくろで作られたばかりの小さな陶器がいくつか並んでいる。


 ライネルは、その中の一つへ目を留めた。


「ところで親方。先ほど作っていたものは何ですか?」

「あれか」

「液体石鹸を入れる容器とは、形が違いましたね」

「あれは嬢ちゃんへの、ちょっとした贈り物だ」

「親方が贈り物ですか。珍しいですね」

「気に入れば、続けてまとめて買ってもらえるかもしれんだろうが。試作品みたいなもんだ」


 親方はぶっきらぼうに答えた。


 ライネルが楽しそうに親方を見る。


「さては親方、ノアさんのことが好きですね」

「馬鹿野郎」


 親方が即座に言い返す。


「わしはかみさん一筋じゃ」

「それは失礼しました」


 ライネルは笑いをこらえながら頭を下げた。


 親方は不満そうに鼻を鳴らし、並べられた陶器の位置を直す。


 しばらくして、ライネルが再び真剣な表情へ戻った。


「その露店について、東側の市場では見つからなかったのですね?」

「ああ。嬢ちゃんと見に行ったが、その日は石鹸を売る店自体なかった」

「毎日同じ場所にいるとは限りませんからね」

「ギルドの方でも確認するそうだ」

「ただ、シャボンノアについての詳しい話を、私が商業ギルドから聞くことは難しいでしょう」

「まあ、そうだろうな。嬢ちゃんの店の話だからな」

「ですが、こちらにはこちらの伝手があります」


 ライネルは少し考えるように目を伏せた。


「市場で最近どのような商品が出回っているのか、シャボンノアの名を使って商売をしている者がほかにもいないか、私の方でも調べてみましょう」

「できるのか?」

「商いをしていれば、あちこちに知り合いができますから」

「頼めるか」

「ええ。容器の試作にはこちらも費用を出していますし、今後一緒に商品を作っていく相手です。無関係ではありません」


 ライネルは試作品の容器を、丁寧に作業台へ戻した。


「ノアさんには、まだ伝えない方がいいでしょう。確かな情報が何もないうちに、余計な負担を増やしたくありませんから」

「ああ。その方がいい」

「何か分かりましたら、まず親方へお知らせします」

「分かった」


 ライネルは親方へ一礼し、工房の出口へ向かった。


「では、私は私にできることをしてきます」

「ああ」


 扉の前で、ライネルが振り返る。


「親方は?」


 親方は、先ほどまで回していたろくろの前へ戻った。


 腰を下ろし、新しい土の塊を台の中央へ置く。


「わしか?」


 足でろくろを回す。


 シュル、シュル、シュル――。


 再び、静かな回転音が工房に響き始めた。


「わしは、嬢ちゃんのために作れるもんを作るだけだ」


 ライネルは小さくうなずき、工房をあとにした。


 親方の指の下で、土がゆっくりと新しい形へ変わっていく。


 今はまだ、それが何になるのか分からない。


 けれど、ノアを支えようとする者たちは、それぞれの場所で静かに動き始めていた。

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