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準男爵家の二男だが、合理で戦場を支配したら公爵令嬢と侯爵令嬢に選ばれた件  作者: 慈架太子


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72話:再定義



朝は、そこに来ていた。


だが――世界は、残酷なほどに昨日のままだった。

視界を遮る瓦礫の山。大地に染み付いた、拭い去ることのできないどす黒い血の跡。魔力の暴走によって無惨に削り取られた地面。

そして、それらを背景にして漂う、生きている者たちの重く、澱んだ呼吸。


「……」


臨時拠点の外れ。

崩れ落ちた石壁が作る濃い影の中に、アンジェリカ・ラファ・ヴァルクレイアは立っていた。

昨日と同じ場所。同じ、一分子の乱れもないはずの直立の姿勢。


だが――中身は、決定的に違っていた。


「……」


何も、持っていない。

これまで彼女を突き動かしてきた傲慢なまでの判断力も、自らの血筋がもたらす揺るぎない確信も。

ただ、そこに「ある」だけの形。

彼女は今、自らという構造を支えるための新しい部品を一分子も持たぬまま、虚空に佇んでいた。


視線は、遠く、再編が進む戦線の方へと向けられている。

そこには、明確な「動き」があった。

人が走り、指示が飛び、昨日崩れかけた線が、アルトのタクトによって整然と編み直されていく。


「……」


自分がいなくても、世界は回る。

ヴァルクレイアという名が沈黙しても、合理という名の演算は、一分子の滞りもなく最適解を導き出し続ける。

それが、今の彼女が直面している、剥き出しの現実だった。


胸の奥が、わずかに痛む。

だが、昨夜のような、魂を磨り潰すような激痛ではない。

崩壊は終わった。

今はただ、そこに広大な、そして空虚な空白が広がっているだけだ。


その時、背後から静かな足音が近づいてきた。

迷いのない、地を踏みしめる重み。


「……」


アンジェリカは振り返らなかった。

その足音の主が、どのような「覚悟」を背負って戦場に立っているか、肌で分かったからだ。


「立っているだけか」


低く、無駄のない声。

エルディア・ヴァレンティナ・グラディウス。

王国の武門を支える侯爵家の女が、アンジェリカの隣に並び立った。


「……」


アンジェリカは答えない。

エルディアも、答えを求めてはいなかった。

二人の視線は、同じ方向――アルト・フェルディスが支配する、あの効率的な戦場へと向けられていた。


しばらくの間、風の音だけが二人を包む。


「何も決められないか」


確認だった。

憐れみも嘲笑も一分子も含まない、純粋な事実の提示。


「……」


アンジェリカの指先が、わずかに動く。

だが、声は出ない。沈黙することだけが、今の彼女に許された唯一の「正しさ」のように思えた。


「普通だ」


エルディアは、淡々と続けた。

「すべてが壊れた後は、そうなる。貴様の中の古い回路が、新しい現実を処理できずにショートしているだけだ」


「……そう。そうね」


ようやく絞り出した声は、羽毛のように軽く、儚かった。


「……」


再び、沈黙。

瓦礫の隙間を、冷たい風が通り抜けていく。


「誇りは捨てろ」


エルディアが、突如として断じた。

一切の猶予も与えぬ、断頭台の刃のような言葉。


「……!」


アンジェリカの呼吸が、物理的に止まった。

唯一残った「抜け殻」さえも、捨てろと言うのか。


「だが――“軸”は残せ」


低く、響く声。


「……どういう意味? 誇りを捨てて、何を残せと言うの」


問い。弱々しいが、そこには確かに「再生」への渇望が混じっていた。


「誇りを手段にするな」

エルディアの答えは即座だった。

「誇りは、結果に使え。戦う前の飾りにするな。すべてが終わった後、生き残った者たちの前で、最後に一度だけ掲げればいい」


「……」


アンジェリカの思考が、一瞬、停止した。


誇りは、今まで彼女にとって、前に出るための「理由」だった。

気高くあるために、戦う。

ヴァルクレイアであるために、選ぶ。

だから、彼女は切れなかった。

誇りを守ることが、人を救うことよりも上位のプログラムとして組み込まれていたからだ。


そして、それが結果として人を殺した。


胸の奥に、鉄のような重みを持つ沈黙が落ちる。


「……誇りは」


自分の言葉で、ゆっくりと、その概念をなぞる。

「……誇りは、使うものじゃない。それは、振りかざすための武器ではなかったのね」


エルディアは何も言わない。ただ、隣で静かに聞いている。


アンジェリカは自分の手を見つめた。

血に汚れ、泥にまみれ、それでもまだ震えている。


「……誇りは……」


言葉を探す。

古い自分を構成していた部品を一つずつ捨て、代わりに嵌め込むべき「何か」を。


そして、ようやく、その言葉が彼女の唇を割って出た。


「……責任」


その一言が落ちた瞬間、拠点の空気がわずかに震えた。


「……」


アンジェリカの瞳が、ゆっくりと持ち上がる。

戦場を見据える。

そこにいる、泥にまみれた兵たち。

空腹に耐える難民たち。

アルトの指示に縋って生き延びようとする、名もなき命たち。


彼らを守る。

それは、もはや誇りという名の「自分のため」の装飾ではない。


責任だ。

彼らを死なせないという、逃げ場のない、重い、重い、鋼のかせ


「……私は」


声が、先ほどまでとは違う密度を持って強くなる。


「……責任を、背負う。誇りではなく。高潔さという名の免罪符でもなく。……ただ、彼らの生という結果に対する責任を」


はっきりと、自分自身へ宣言した。


エルディアが、わずかに、本当にわずかに頷いた。

「……ならば、立て。軸ができたのなら、もう瓦礫の一部でいる必要はない」


「……ええ」


アンジェリカの背筋が、伸びた。

もう一度。

今度は、中身のある、しかし以前よりもずっと低い重心を持つ、新しい「形」。


空白は、まだ消えていない。

これから何をすべきか、具体的な戦術も一分子も見えてはこない。


だが――軸が、できた。

自分を否定し、誇りを捨て、代わりに「責任」という名の不合理な重荷を背負う。

それが、彼女の選んだ新しいプログラムだった。


アンジェリカは、一歩。

瓦礫の影から踏み出した。


まだ、指揮権は取り戻さない。

まだ、誰の運命も決めない。


だが。

止まらない。


「……私は。責任を背負う側になる。アルト・フェルディス……あなたの隣で、その重さに耐えてみせるわ」


それが。

気高き令嬢が、自らを再定義した瞬間。

合理の怪物の隣に並び立つために、彼女が選んだ、最高に「誇り高い」地獄への道。


風が、彼女の髪を激しく揺らした。

朝の光は、ようやく、新しく生まれたその「決意」を照らし始めていた。


第72話、再定義。

壊れた歯車は、責任という名の芯を得て、再び、静かに回り始めた。

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