表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
準男爵家の二男だが、合理で戦場を支配したら公爵令嬢と侯爵令嬢に選ばれた件  作者: 慈架太子


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

71/100

71話:空白

朝が来ていた。


だが、差し込む光は弱く、冬の名残のような冷たさを帯びている。戦場の外れ、瓦礫を避けて設営された臨時拠点。急ごしらえの天幕が幾重にも並び、慌ただしく立ち働く兵士たちや、物資を運ぶ荷馬車の車輪の音が、乾いた地面を叩いている。


人はいる。

確かに動いている。

だが――そこには、昨日までの熱に浮かされたような殺気はない。

どこか静かだ。

人々の声は低く抑えられ、勝利を祝う笑いも、敗北を嘆く絶叫もない。ただ、淡々と「事後」という名の工程が処理されていく、無機質な静寂だけが支配していた。


「……」


中央に据えられた、一段と大きな指揮幕。その入口に、一人の女性が立っていた。


アンジェリカ・ラファ・ヴァルクレイア。

公爵家の誇り、王国が誇る美しき将。

その姿勢は、いつも通りだった。背筋は定規を当てたように真っ直ぐに伸び、埃ひとつ許さぬはずの軍服も、最低限の矜持で整えられている。


だが――。

そこにある「芯」が、昨日までとは決定的に違っていた。


「……」


ゆっくりと、中に入る。

卓の上には、昨夜から置かれたままの広域地図。その上を、最新の損害状況を記した報告書が覆っている。

配置。状況。敵の残滓。

昨日まで、彼女が誰よりも、自分自身さえも信じて疑わなかった「盤面」がそこにある。


「……」


だが。

その地図に、彼女の手が伸びることはなかった。


いつもなら。

幕に入った瞬間に、彼女は状況を掌握していた。

優先順位を瞬時に弾き出し、配置を、補給を、予備兵力の投入を、一分子の迷いもなく下していた。それが彼女の誇りであり、ヴァルクレイアの血が命ずる役割だった。


今は。

何も、決められない。


「……」


視線が、地図の上を力なくさまよう。

戦況を示す青い線を見る。

部隊の位置を示す赤い点を見る。

退却と進撃を示す矢印を見る。


意味は、分かる。

論理も、理解している。

何が起きていて、何が不足しているのか。アルトに叩き込まれたあの冷徹な「演算」の残滓が、彼女の脳内に情報の断片を提示してくる。


だが。

指が、震えて動かない。

どこを切り、どこを残すべきか。

誰を使い、誰を見捨てるべきか。

その「振り分け」という行為の重みに、彼女の魂が押し潰されていた。


誇りを折り、自らの「正しさ」が敗北したことを認めた今。

彼女の指先には、一人の兵士の進退を決めるだけの重みが、もう残っていなかった。


「……公爵令嬢様」


不意に、背後から声がかかった。

定時の報告に来た、部下の兵士だ。

「本日の再編案、および物資の配分について……ご指示を……」


そこで、兵士の言葉が止まった。

振り返ったアンジェリカの顔。

その瞳に宿る、底知れぬ「虚無」を見てしまったからだ。


「……」


いつもなら、即座に返ってくるはずの、気高い叱咤も鋭い指示もない。

アンジェリカは、兵士の目を見つめたまま、答えない。

答えられない。


数秒。

永遠にも思えるような沈黙が、天幕の中を冷たく支配する。


「……アルトに。……アルト・フェルディスに聞きなさい」


ようやく絞り出した言葉は、羽毛のように軽く、頼りなかった。


「……」


兵士が、一瞬だけ、驚愕に目を見開く。

王国でも指折りの才媛と呼ばれた彼女が、指揮権を、判断を、他者に委ねた。

だが。

その顔に浮かぶ、一分子の嘘もない「崩壊」を見て、兵士は何も言わずに深く頷いた。


「……承知いたしました。……失礼いたします」


そのまま、逃げるように兵士が出ていく。

揺れる天幕の布。

わずかに入り込む外の冷気。

それだけが、彼女に残された現実だった。


「……」


アンジェリカは、立ったまま。

指先ひとつ動かせない。


自分で、判断しなかった。

十九年の人生で初めて。完全に。

それがどういう意味を持つのか、彼女は嫌というほど理解していた。


彼女は、指揮官としての魂を、自らの手で放り出したのだ。


「……っ」


椅子に、ゆっくりと座る。

力が抜けたわけではない。ただ、自分の体を支えるだけの理由が見つからなかった。


目を閉じる。

一瞬。

暗闇。

かつてはそこに「勝利の形」が見えていた。誇り高い、美しい、理想の戦場。

今は、何も浮かばない。

砂嵐のような雑音と、冷たい数字の残像だけ。


空白。

ただ、果てしない空白だけが、彼女の胸を支配している。


「……」


天幕の外では、依然として世界の動きが続いている。

兵が歩く。物資が積み下ろされる。上官の指示が飛び、兵士が応える。

最高にハッピーな、アルト・フェルディスのタクト。


回っている。

自分がいなくても。

ヴァルクレイアの誇りなどなくても。

合理という名の旋律は、一分子の淀みもなく、この荒野に新しい秩序を刻み込んでいる。


「……あ……」


胸の奥が、焼けるように痛む。

嫉妬ではない。怒りでもない。

ただ、自分がもはやこの「最適化された世界」の構成員でさえないという、残酷なまでの理解。


その時、入口の布が揺れた。


「……」


振り返る。

そこに立っていたのは、神官の白い衣に身を包んだ少女――リュミエラだった。


目が合う。

しばらく、二人の間に言葉はなかった。

かつて、アルトのやり方に反発し、共に「正しさ」を追い求めたはずの二人。

一人は心が折れ、一人は誇りが折れた。


リュミエラは、ゆっくりと中に入ってきた。

足音は驚くほど小さく、遠慮深い。彼女もまた、この戦場で何かを決定的に失い、そして何かを拾い上げたのだろう。


アンジェリカの数歩前で、リュミエラは止まった。


「……」


沈黙。


リュミエラの瞳が、わずかに揺れている。

彼女もまた、完全に戻ったわけではない。あの南東ラインで消えていった命の残滓が、その肩に重くのしかかっているはずだ。


それでも。

彼女は、アンジェリカを「憐れむ」ような目はしていなかった。


「……痛いですよね」


小さく、掠れた声。


「……!」


アンジェリカの呼吸が、物理的に止まった。


否定したかった。

公爵令嬢として、弱みを見せるなと、ヴァルクレイアの矜持が喉元までせり上がる。


だが。

今の彼女に、その嘘を支えるだけの壁は、一分子も残っていなかった。


痛い。

確かに。

誇りを、理想を、自分を定義していたすべてを粉々に粉砕され、その破片が心臓の奥深くに突き刺さっている。

息を吸うだけで血が滲むような、そんな鋭い痛み。


言葉には、できなかった。

声にすれば、そのまま涙となって溢れ出してしまう気がしたから。


アンジェリカは、リュミエラを見つめた。

そして。

ゆっくりと。

誰にも見えないほど、微かに。

頷いた。


それだけ。

誇り高き令嬢が、その弱さを認めた唯一の瞬間。


「……」


それ以上、リュミエラは言葉を重ねなかった。

同情も、慰めも、今はただの「ノイズ」でしかない。

彼女はただ、そこにいて、アンジェリカの痛みを「分かっている」と示すだけで、十分だった。


空白は、まだ埋まらない。

地図は白いままで。

明日の指示も、未来の形も、一分子も見えてこない。


それでも。

彼女の胸の中には。

自分自身を、そしてこの残酷な現実を認めざるを得なかった敗北の記憶――「痛み」だけが、確かな重みを持って、そこに存在し続けていた。


「あはは、おはよう! 二人とも、朝から景気よくお喋りかい? 素晴らしいね!」


天幕の外から、アルトの、いつものように陽気で気さくな声が近づいてくる。


その声を聞いて、アンジェリカの指先が、ほんのわずかに動いた。

まだ。

まだ、折れたままでも。

彼女の「再生」という名のパズルは、その一分子の痛みから、静かに始まろうとしていた。


第71話、空白。

すべてを失った後に残る沈黙の中で、令嬢は、自分という名の新しい「構造」の産声を待っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ