33話:エルディアの立場
教会の石床に落ちる夕闇は、刻一刻と深さを増していた。
アンジェリカ・ラファ・ヴァルクレイアとリュミエラ。二人の間に横たわるのは、埋めようのない価値観の断絶だ。一方は「高潔な選別」を語り、一方は「全員救済」を叫ぶ。そのどちらもが、救えなかった命という現実の重みに押し潰されそうになりながら、自らの正義を盾にして立っていた。
張り詰めた沈黙。教会の高い天井が、二人の荒い呼吸音だけを反響させる。
その静寂を、無造作な軍靴の音が踏み荒らした。
「……くだらない」
低く、地這うような声音。
入り口に立っていたのは、エルディアだ。彼女はいつからそこにいたのか、影のように音もなく、だが圧倒的な強者の気配を纏ってそこにいた。
彼女は、アンジェリカの公爵令嬢としての威圧感も、リュミエラの悲壮な覚悟も、一分子たりとも考慮に入れていない。ただ、戦場という名の「処理場」を生き抜いてきた獣の目で、二人を等しく見下ろした。
エルディアは迷いなく歩を進め、対峙する二人のちょうど中央に割って入る。
「どっちも間違いだ」
断定。
アンジェリカの眉が跳ね、リュミエラの瞳が驚愕に揺れる。
「……何ですって? 私の論理を、間違いだと?」
アンジェリカの声には、支配階級としてのプライドが滲む。
だが、エルディアは鼻で笑った。
「理屈も、理想も。……腹の足しにもなりゃしない」
エルディアの視線は、二人を通り越し、教会の外――今も魔物の死臭が漂う戦場へと向けられていた。
「正解は一つだ。“勝つこと”。それ以外に価値はない」
一言。
あまりに単純で、あまりに剥き出しの真実。
「勝つ……?」
リュミエラが、呆然と呟く。
エルディアは、その少女の瞳を覗き込んだ。そこにはかつての「救いたい」という純粋な祈りではなく、アルトに突きつけられた「現実」に焼かれた跡がある。
「救うか、切るか――そんな贅沢な悩みは、勝った後の連中がやる仕事だ」
エルディアは一歩、踏み出す。
「勝てば、救える。敵を根絶やしにし、反撃の芽を摘み、圧倒的な武力で場を制圧すれば、結果として誰も死なずに済む。……だが、負ければどうなる?」
エルディアの視線が、再びアンジェリカへと戻る。
「負ければ、お前が選んだ一割も、お前が救おうとした十割も、等しく魔物の糞になるだけだ。選別も救済も、敗北の前には無意味な独り言に過ぎない。……だから、勝つ。それだけを考えろ」
逃げ場のない、生存の本質。
リュミエラの手が、わずかに震える。
(勝つために、救う。救うために、勝つ……)
これまで彼女の中にあった「慈愛」という軸に、「勝利」という冷徹な骨組みが加わろうとしていた。
アンジェリカは静かに息を吐き、視線を落とさなかった。
(……結果としての勝利。否定はできない。だが、その過程にこそ高潔さが宿るはず……)
彼女は完全には認めない。だが、エルディアの放つ「実力の質量」を、無視することもできなかった。
少し離れた壁際。
アルト・フェルディスは、腕を組み、その三者の図を静かに網膜に焼き付けていた。
(……救済のリュミエラ。誇りのアンジェリカ。勝利のエルディア。……異なる演算思想が、一つの戦場に揃った)
どれも単独では欠陥を抱えている。
救済だけではリソースが枯渇する。
誇りだけでは硬直を招く。
勝利だけでは組織が摩耗する。
だが。
(……この三つの軸を、俺の合理で統合すれば、システムの出力は最大化される)
アルトの脳内では、すでに彼女たちを「部品」としてではなく、高度な「自律型サブルーチン」として組み込んだ新しい戦術図面が完成していた。
エルディアは背を向け、議論を打ち切るように歩き出す。
「やることは一つだ」
振り返らず、短く言い放つ。
「勝て。それ以外は、生き残った後にいくらでも喋らせてやる」
エルディアの言葉は、教会の空気を決定的に変えた。
リュミエラは、自分の血に汚れた手を見つめ、新しい力を求めて顔を上げる。
アンジェリカは、ドレスの裾を整え、己の指揮がもたらすべき「絶対的な勝利」へと意識を向ける。
アルトは目を細めた。
それぞれが違う方向を向き、互いに認め合ってはいない。
だが、彼女たちは今、同じ地平に立っている。
「……次だ。エルディア、お前の言う通り『勝つ』ための準備を始める。リュミエラ、アンジェリカ。……機能しろ。一分子の無駄も許さない」
アルトの声が、三人の背中を冷たく、だが確実に押し出した。
三者三様。
価値観は交わらない。
だが、辺境の村という実験場において、彼女たちは「アルト・フェルディス」という唯一の合理の下、最強の機構へと姿を変えようとしていた。
第33話、エルディアの立場。
不協和音は、勝利という一つの旋律に向かって、激しく鳴り響き始めた。




